アジア太平洋戦争開戦へ


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アジア太平洋戦争開戦へ

日独伊ソ四国同盟と日ソ中立同盟

おはようございます。それでは授業を始めます。
1940(昭和15)年7月に成立した第二次近衛内閣は、9月、二つの重要な決断をしました。・・・日独伊三国同盟の締結と、北部仏印への進駐でした。
これをみたアメリカが「日本は、ドイツと結び東南アジアへの進出する道、アメリカ・イギリスと対立する道を選んだのだ」と理解し経済制裁に踏み切ったことはすでに見たとおりです。

帝国書院「図説日本史通覧」P279

松岡洋右外務大臣(国際連盟脱退のときの外務大臣)は、三国同盟にソ連を参加させること、つまり「三国同盟を四国同盟に発展させる」ことでアメリカをけん制しようと考え、松岡はドイツに向かいました。ところがヒトラーは冷たい態度です。
モスクワに向かった松岡をスターリンは歓迎、日ソ中立同盟を締結する事としました。
松岡はこれで心おきなく南進を進めることができると考えました。意気揚々と帰国した彼を待っていたのは、またしてもヒトラーの態度急変でした。

独ソ戦の開始と「関特演」

6月、ドイツ軍は、突如ソ連への侵攻を開始しました。いわゆる独ソ戦です。不意を突かれたソ連軍は各地で敗れ、ドイツ軍は快進撃を進めます。ソ連第二の都市レニングラード(現在のペテルブルク)を包囲、モスクワ近郊へも迫っていきます。

ドイツ軍のソ連領侵攻(1941)年 12月にはモスクワ近郊に達していることが分かる。(Wikipedia「独ソ戦」より

独ソ戦開始をうけ、日本はどのような方針をとるか、調整が必要になります。7月「御前会議天皇が出席する最高意志決定会議)」が開催されます。「ドイツと結んで、すぐソ連に攻め込むべきだ」と強硬策を主張したのは日ソ中立条約を結んできたばかりの松岡でした。

こんな意見が交わされたといいます。「ドイツがソ連に勝つのは確実だから焦る必要はない。ドイツが勝利してからその成果を頂けばいい」。

そして結論がでました。「予定通り南進政策を強化すすめる。資源を確保して『自存自衛』体制をつくるためにはアメリカやイギリスとの戦争への準備をすすめ、戦争も辞さない。ソ連との戦いの準備もすすめ、必要により軍事力を行使する(戦争を行う)
米英戦争が日程にあげられ、さらにはソ連との戦争すら検討されるようになります

思い出して下さい。中国とのドロ沼のような戦争の真っ最中のことですからね。
この決定にしたがって、陸軍は85万人という日本陸軍始まって以来の大軍を秘かにソ連との国境に集めました。これを関東軍特種演習(関特演)と称しますが、戦争準備以外の何者でもありませんでした。
そして、年内にドイツがソ連を屈服させることが不可能とわかると、ソ連との戦いをいったん断念します。

スパイ・ゾルゲの暗躍

ソ連は恐ろしかったでしょうね。
日本がソ連に攻め込んでいたら、世界の歴史は変わったかもしれません。
日本はシベリアに攻め込むのか、脅しにすぎないのか?
ここで一人のドイツ人が暗躍します。新聞記者のゾルゲでした。実はソ連のスパイです。彼の同志の一人が、西安事件の時に話した尾崎秀実です。近衛のブレインの一人であった尾崎は、近衛から御前会議の結論を聞き出します。
日本軍がすぐソ連を攻撃することはない分かったものの、やはり陸軍の動きが心配です。
もう一人の同志、画家の宮城与徳の登場です。かれは南満州鉄道の沿線で絵を描きつづけています。何をしていたのか分かりますか?調べていたのは列車に乗っているのは陸軍の兵士たちの様子です。その兵士の移動先、服装を探ったのです。南に向かう列車に夏服の兵士が乗るようになってきます。「北進はない、南進だ!」ゾルゲはソ連に連絡しました。
これを知ったスターリンは胸をなで下ろしたでしょう。
スターリンは思ったでしょうね。「ノモンハンでコテンパンにやっつけた効果が出た」と。ゾルゲらの情報は世界を変えました。そのことはあとで話しましょう。

南部仏印への進駐

7月の御前会議のもう一つのポイントは、南進政策をいっそう進めるということでした。

ベトナムの位置この方針に従って、陸軍は南部仏領インドシナ(ベトナム南部)へ進駐します。地図の赤い色が現在のベトナムの場所で、南部仏印はその南部、現在のホーチミン市(当時はサイゴンとよびました)を中心とした地域です。まっすぐ東に向かうとアメリカ領フィリピン、西南に向かうとイギリス領マレー半島、南に向かうとオランダ領東インド諸島(インドネシア)です。

帝国書院「図説日本史通覧」P279

まさに、東南アジアのど真ん中、どこでも戦闘機でいける位置です。ここにフランスから頼まれたという形式で軍隊を送ったのです。当時のニュース映像を見てみましょう。
こんなことをすれば何が起こるのか、冷静な判断をする人もいなくなっていました。「アメリカに日本と戦争をするような根性はない、大丈夫、大丈夫」。こんな全くの根拠のない希望的観測がまかり通っていました。

石油禁輸政策の実行

南部仏印への進駐をみてアメリカは思いました。「もう限界だ」と。そして、最後の、最大の切り札を切ることにします。石油の全面的な輸出禁止(石油禁輸)です。さらに日本人の在米資産の凍結も行います。

石油が切れるとどうなりますか?飛行機は飛ばず、戦車は動かず、海軍の基本である船もただの箱に変わります
当時、日本の石油約8割をアメリカから輸入していました。その石油の輸出が全面禁止にされたのです。対米英蘭戦争の開戦は俄然、リアルなものになってきました。

山川出版社「詳説日本史図録」P274

たしかに日本は、原油を溜められるだけ溜めてきました。しかし、それは1年分にすぎません。「対米英戦争止むなし」とかいいながら、心の底ではそんなことはあり得ないとでも思っていたのでしょう。しかし、それが現実のものになってくると軍部や政府はオタオタし、リアルに戦争を考えざるを得なくなってきました。
石油の供給が止まったということは、貯蔵されている石油がどんどん減っていくことです。決意が遅れれば遅れるだけ石油は減る、いわば、戦争へのカウントダウンがはじまったようなものです
アメリカと妥協し石油を再び売って貰うか、アメリカ以外から石油を手に入れるために戦争をはじめるか。決断を迫られるようになったのです
それもできるだけ早く、残っている石油と相談しながら・・・。

日米交渉の開始

とりあえず、日本はアメリカとの間で石油禁輸の解除をもとめて日米交渉を本格化しました。
アメリカとしても、戦争という腹をくくってこの措置をとった以上おいそれとは引っ込めない。交渉は難航しました。
しかし、アメリカにも弱点がありました。戦争準備が整っていないのです。アメリカは、軍需工業をフル回転させる一方、時間稼ぎとして日米交渉を利用します。そのため、日本側の要求をもとに交渉するなど日本側に期待を抱かせるような手段もとりました。だからといって、安易な妥協はしません。南北仏印からの撤退は当然のこと、中国からの撤退も求めたのです。その背景には、中国・国民政府からの強い働きかけもありました
アメリカとしては当然のことでしょうが、日本としては日中戦争自体を無にすることはなかなか受け入れがたい内容でした。こうして交渉は難航します。

「ABCD包囲網」という主張

日本国内ではアメリカに対する反発が強まっていきます。軍部や右翼たちは、日本が進めている「正義」の行動に対して、アメリカ・イギリス(ブリテン)・中国(「チャイナ」)・オランダ(「ダッチ」)の4カ国が共同して日本へ迫害を加えているという「ABCD包囲網」といういい方が声高に叫ばれます。

山川出版社「詳説日本史図録」P276

 まったく、身勝手ないい分以外の何物でもないと思いますが!
今でも、太平洋戦争(「大東亜戦争」)は、このような4カ国が正義の戦いを進める日本に非道な手段をとった防衛戦争であるという人がいます。
なぜこういった行動をアメリカなどがとったのか、侵略を受けた中国に非はあったのかなど。そもそも「石油を売ってくれないから戦争だ」といういい方、まるで子どもが「自分の言うことを聞いてくれない」といって騒いだり暴れたりするみたい。この時期の日本指導層、軍部や政府首脳、彼らの幼児性は驚くばかりです。いまだに真に受ける人も含めて。
ちなみに日本が一番必要としていた石油などの天然資源、蘭印(現インドネシア)の宗主国であるオランダ亡命政府は1940年の段階で、日本側からの提供の要請の大部分を認めています。
本当は石油がなくなるからどうしようもなかったということもフィクションでなかったかという疑惑すらあります。
ABCD包囲網の「D(オランダ)」が日本を包囲する強硬論者であったというのは「濡れ衣」です。オランダ当局は何としても日本の侵攻を避けようとしていたのです。

9月6日の御前会議

石油貯蔵量が少しずつ減っていくなか、陸軍は「本気で戦争をするのか」と迫るようになってきました。それなら、それで準備が必要だというのです。

こうして開催されたのが9月6日の御前会議です。天皇が出席する最高意志決定会議ですよ。そこでいろいろと話合いがあったのち、結論が出されます。
10月上旬を目標に、対アメリカ・イギリス・オランダとの戦争を辞さないという覚悟で、戦争準備を完成する。その一方で、外交交渉もつづけ要求実現をはかる」という内容です。
交渉を進めるなら、どこまで妥協するかが重要なのですが、その余地は「仏印からの撤退」だけとされていました。やる気がないとしか言えない内容です。そして戦争準備は着々と進んでいきます。
事態はチキンレース状態になってきました。
日本側はそんなつもりだったかもしれません。しかし、アメリカ大統領のF・ローズヴェルトは最初から参戦を覚悟していたので、チキンレースはなりたたないものでした。

開戦をめぐる陸軍と海軍

ではこの段階で対米英戦争の回避は可能だったのでしょうか。
陸軍は交渉成立の見通しがない以上開戦止むなしでまとまりつつありましたが、海軍は中国からの全面撤退を認めれば交渉成立が可能だ感じていました。
▲呉海軍工廠の造船船渠で建造中の「赤城」。同艦は当初、巡洋戦艦として... 模型が楽しくなるホ

呉海軍工廠の造船船渠で建造中の空母「赤城」

しかし海軍はそれを口に出せません。
なぜかわかりますか?これまで、海軍は何と云っていましたか?「アメリカと戦えるだけの装備が欲しい」と騒ぎ続け、無理を言って太平洋で最強の大艦隊を作り上げたのです。今さら「アメリカには勝てません」とはプライド上言えないのです。
だから「近衛さん、分かってください、がんばってください」というのです。
そんな問題か!と突っ込みたくなりますが、こんな情けない理由で戦争のブレーキをかけられなかったのです。
いつもは悪役の陸軍を少し弁護しましょう。
陸軍からすると、「あくまでも自分たちの第一の敵はソ連で、つぎは中国ということで準備してきた(北進論)。アメリカやイギリスとの戦い(南進論)を声高に叫んでいたのは海軍ではないか。それを口実に膨大な予算をぶんどったではないか。」自分たちは海軍に引っ張られて、準備不十分のまま対米英戦に引っ張られた。こういう感覚がありました。

吉田裕・森茂樹「アジア・太平洋戦争」P63(2007)

ですから、開戦後も、陸軍の中では、米英戦争は海軍の仕事陸軍の仕事は中国戦線とソ連戦の準備という意識を持っていたといいます。実際の兵力においても、陸軍の主力は中国におかれたままでした。このような弱みがあったからこそ、海軍も強く言えなかったのです。

帝国書院「図説日本史通覧」P279

ただ、陸軍も、海軍も、政府も、天皇や側近も、ほぼ全員が共通して分かっていたことは、アメリカに完全に勝つことはでありえないということでした。アメリカ本土侵攻作戦などは計画にもありません。

だったらどこで手を打つか、戦争をやめ方をあらかじめ決めておく必要があると思うのですが、それもできていない。
戦争の辞め方を知らなかった為に中国で苦しんでいる現状にまったく学んでいない連中でした。

近衛内閣の崩壊

10月になります。近衛はそろそろ悟ります。「チキンレースはもうおしまいだ」と
気がつくと、本気で戦争モードになりつつある。ヤバい。中国撤兵も受け入れざるを得ない。このままでは破滅だと。そこで、近衛はいいます。「私は戦争に自信がない。自信がある人間がやって欲しい」と。それならもっと早く言え!
案の定、陸軍大臣の東条英機がいいます。「それを論じる時期は終わったのはないか」と。東条は中国即時撤兵に反対、近衛内閣は総辞職することになります。
近衛内閣は、7月には「対英米戦争は辞せず」と決定し、9月には「10月上旬に開戦を決意する」などといった景気のよいたんかを切りながら、結局は最終段階で責任を回避したのです。
ここで泥をかぶってでも踏みとどまって戦争を回避する道はまだ残されていました。同様に、海軍も先に見たとおり、アメリカに勝つ自信がなく反対論が強いにもかかわらず、公式に戦争反対はいわなかった。しかし近衛が強く出れば賛成する思いはあった。
しかし戦争を回避する「中国からの即時無条件撤兵」という絶対条件を責任を取って受け入れるという覚悟を誰もしなかった。この道を選択した時の混乱の方を恐れたのです。戦争による破滅よりも、責任を問われることを避ける選択をしたのです
こうして、当時の日本の指導者たちは、方向転換による非難を浴びない為に、より危険な「火遊び」、誰一人として勝利の目算のない戦争へと踏み切り、日本を破滅に追い込んでいったのです。

東条英機内閣の成立

近衛内閣総辞職をうけて、次の総理大臣の人選が、天皇側近の木戸幸一を中心に検討されました。
これまで総理大臣を推薦してきた西園寺は既に死亡していました。東条は皇族の東久邇宮稔彦を推薦します。
「もしこれまでの決定を覆すなら皇族の力以外では抑えきれない」考えたからです。ある意味、納得のいく理由です。
しかし、これをつぶしたのは昭和天皇と木戸でした。
理由、わかりますか?・・・
もし皇族(天皇の親戚です)が総理となったにもかかわらず戦争を始めてしまえば、責任が皇室に及ぶ考えたのです。
そして、木戸が推薦したのは東条でした。天皇や木戸は、強硬でわがままな陸軍を抑えきれるのは陸軍で開戦派の東条であると考えました。この案を天皇に伝えたところ、天皇は「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」といったといいます。戦争回避を東条に託したということでしょう。たしかに、東条は、「開戦について再検討せよ」という天皇の意思に従って戦争回避の策を一応検討はしました。また開戦に消極的な東郷茂徳を外相につけもしました。しかし「中国からの即時全面撤退」という条件を認めない以上、結論は9月の会議と変わることはありませんでした。
開戦派の東条が総理大臣になったということは天皇が開戦を認めた」と、国民も、アメリカもそのように考えました。
東条英機内閣成立のニュースを見てみましょう。
11月5日の御前会議は「12月1日までに対米交渉が成功しなければ、12月初頭に開戦する、それを見越した準備をする」ことを決定、この日程にしたがって、陸軍も海軍も動き始めました。海軍は機動艦隊を千島・単冠湾に集結、26日秘かに出航していきますし、陸軍各部隊に攻略準備命令がだされています。この会議が、戦争開始へのスイッチを押したと考えられます。
この御前会議で不思議な問答がありました。天皇が「戦争の大義名分は何か?」を聞いたところ、東条は「目下検討中!であります」と答えたというのです。
戦争にとって必要なものは「正義」である、という軍事評論家の話を何度もしてきました。東条には、当時の日本にはそれがなかったのです。対米英蘭戦争においても、開戦ありきで「正義」は後付けでしかありませんでした
「正義」のないまま始めた「日中戦争」、それがあらたな「正義」のない戦争へと国民を追い立てていったのです。
しかも「ここまできた以上仕方がない」という無責任な判断で、勝つ見込みもないのに。
「大義のために死す」というのならカッコいいのですが、その大義すらもない、指導者である自分たちが責任を取りたくない、自分だけがリスクを取りたくないという各種のエゴの結果でした。

ハル=ノート

最後の頼みの綱は日米交渉でした。11月段階で、日本は甲乙の二つの案をアメリカに提示しました。

山川出版社「詳説日本史図録」P276

11月26日、アメリカの国務長官ハルは日本側提案に対する回答書、いわゆるハルノートを日本に手渡しました。
その内容は中国からの無条件撤退のみならず、満州事変以来の状態への復帰、つまり「満州国」を否定する事すら求めていると読めるものでした。日本側は、中国からの撤兵までは想定したものの、それ以上の厳しさであったことに衝撃を受けます。そしてこれが最終通牒、アメリカのファイナルアンサーであると考えました。そして思います。予定通り戦争をするしかないと
多くの研究者はアメリカが日本を戦争に踏み切らせようとしたものであると考えてきました。ところが、この文書自体、最終通牒ではなく、作業中の不十分な文書がはずみで日本側に渡ってしまったという研究も出てきました。アメリカはより柔軟な回答を用意したところ、中国側の強い反対もあり、検討案のつもりで日本側に提示したというのです。
ともあれ、ハルノートを受け取った日本側は、12月1日、御前会議を開催、対米英蘭戦争の開戦を正式の決定、そのことを作戦準備中の部隊に連絡します。北太平洋上には連合艦隊がハワイに向かって進んでおり、マレー半島とフィリピン上陸作戦のため陸軍部隊が待機していました。

アジア太平洋戦争の開始

1941(昭和16)年12月8日、まず動き出したのはマレー半島上陸をめざした陸軍部隊です。中立国タイの領土であるマレー半島コタバルに上陸、その後、南下してイギリス領マレーに侵入、イギリスの拠点シンガポールをめざしました。

真珠湾攻撃 山川出版社「詳説日本史」P362

また太平洋上の空母から飛び立った艦上機が日本時間午前3時(ハワイ時間7日午前8時)ハワイ真珠湾にいたアメリカ艦船を奇襲、大きな被害を与えました。
満州事変に始まった十五年戦争はついに世界最強のアメリカ・イギリス、さらにオランダとの間の戦争へと発展していきました。当時の政府は大東亜戦争と称しました。戦後、アメリカの指示もあり太平洋戦争といういい方が定着しました。しかし、戦場が東南アジアに広がっていたを考慮して、アジア太平洋戦争と呼ぶべきという意見がふえています。
日本が戦争をはじめ、攻撃を受けたアメリカも参戦し、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦を布告したことで、ヨーロッパで戦われていた戦争は名実ともに世界大戦となりました。

 こうして日本は、世界を相手とする戦争に踏み切りました。日中戦争における泥沼状態を解決できないにもかかわらず、より巨大な敵との戦いをもはじめたのです。何度もいってきたように、対米英蘭戦争に成算を持っていた人は誰一人いません。こんな無謀な戦争を始めてしまったのです
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