アジア太平洋戦争(2) ~「大東亜共栄圏」建設と諸民族の動き~

浜島書店「新詳日本史図説」P285

Contents

アジア太平洋戦争(2)
~「大東亜共栄圏」建設と諸民族の動き~

「血債の塔」~中国系住民の虐殺

前回見たように、日本軍は1941~42年前半、東南アジアに進出してこの地域のほぼ全域を占領、軍政を始めました。
War Memorial Park 5, Singapore, Aug 06.JPG

シンガポール・日本占領時期死難人民記念碑(血債の塔1942年2月から1945年8月の日本軍占領時期の市民戦没者追悼のため建設された。

現在でもそうですが、この地には多くの中国系住民(「華僑(かきょう)」)が移り住み、現地の経済や社会で大きな力をもっています。とくにシンガポールは中国人が多く住む所です。その地を日本軍が占領したのです。
祖国を蹂躙(じゅうりん)している日本に対し、反感を持つ中国系住民も多く、マレー半島やシンガポールなどでは抵抗運動にも参加しました。これにたいし、日本軍は「敵に通じたものや反日行動をしているものを「検証」する」として、中国系住民を連行、裁判なしで殺害しました。シンガポール占領直後には約5000人、最終的には5万人が殺害されたといわれています。シンガポールでは、65メートルもの巨大な「血債の塔(日本占領時期死難人民記念碑)」が立てられ、島内各地から集められた遺骨を収容しています。

追記:

’17年2月25日、ネット上のニュース配信のHuffpostに”うにうに”という署名で、「太平洋戦争時の日本占領名”昭南”を戦争博物館名に拒否したシンガポール国民」という記事が出ました。’17年2月これまでの博物館を「昭南ギャラリー」という名の戦争博物館にしようと発表したら、強い反対がおこり、別の名称に変更したということです。記事に引用されていたシンガポール首相のコメントを掲げておきます。

旧フォード工場の展示について、最近、多くのシンガポール人が率直に発言しています。
我々は「昭南ギャラリー: 戦争とその遺産」と当初は呼んでいました。その名前「昭南」は、シンガポールの歴史における暗黒でトラウマになっている時を呼び起こすことを意図したものです。
しかし、少なくない人々が、名前自身がこのように使われ苦痛を呼び起こすと感じました。多くのシンガポール人の全民族は、日本統治時代に恐怖の残虐行為を受け、それを経験した家族がいます。
私の同僚と私は、この根強い感情を尊重し敬意を払います。痛ましい記憶への目撃者に耐える展示に、名前を変えることにしました。
意見を共有した全ての人に感謝します。そのような会話は我々を一層団結させるものです。
シンガポール人が展示を見に行くことを私は希望しています。我々の人生に深く影響を与え、社会を形作った出来事を、我々は決して忘れてはいけません。
リー・シェンロン

一般的には親日的であり、戦争のことはもう忘れてしまっているように思われがちなシンガポールでも、決して戦争のことは忘れていません。被害を受けた人たちのことを、いまだに丁寧に気にかけているのです。
「戦争はもう終わったことだから」という人がいますが、そのような考え方は日本の傲慢だと感じさせる内容でした。
(’17,5,11)

 

「大東亜共栄圏建設」と「ロウムシャ」

日本が獲得しようとした南方資源(浜島書店「新詳日本史」P283)

戦争目的として日本が主張したのは「欧米列強の帝国主義的植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とする新しい国際秩序(「大東亜共栄圏」)を作る」ということでした。そのため東南アジアに進出したというのです。

しかし、東南アジア進出には別の目的もありました。・・・この地に進出して、石油など天然資源を手に入れることです東南アジアにおける天然資源、とくに石油獲得だったのです。これが軍部や政府が主張する「自存自衛体制の確立」の中身でした。「大東亜の理想」よりもこちらが優先事項だったでしょう。
資源を手に入れるためには労働力が必要です。日本軍は現地の人びとを徴用し、資源開発などをすすめました
かつて、東南アジアの人たちのもっとも知っていた日本語のひとつが「ロウムシャ」ということば、漢字で書くと「労務者」です。このことが、東南アジアにおける日本軍政をよく示しているのでしょう。

山川出版社「詳説日本史図録」P278

現地の人たちを鉱山労働や工事に動員し、賃金として「軍票」という「紙幣」を渡しました。しかし、「軍票」はまったく流通しませんでした。こんな紙切れと引き替えに厳しい労働を強要されたのです。さらに、作業がのろいといって「ビンタ」をされました。ビンタは現地の人にとって人間扱いしないことでした。このような実態が明らかになり「ロウムシャ」に応募する人はいなくなりました。

「軍政下」の東南アジア

こうした事態を受け、強制連行もはじまりました。人口の多いインドネシア・ジャワ島からは15~30万人もの人が強制的に徴用されて、厳しい労働に従事させられました。その90%は帰ってきませんでした。

実教出版「高校日本史A」P221

日本軍にとって重要と考えた天然資源獲得や米作りが強制され、不要とみなした産業や農耕から労働力がまわされ、農業に利用されました。日本軍に都合よく利用しようとしたのです。これまでの本国や周辺地域から輸・移入してきた物もストップ、日本からの物資は来ない。結論的には、日本に必要なものだけ作らせて、奪い取るという形になりました。
「自存自衛体制の確立」、「戦争遂行」という目的から見れば、必要な措置だったのでしょう。「お前たちを解放するために必要なのだ」と説得しようとしても、実際には中国人をはじめとする人びとを殺し、使い物にならない紙切れを渡して強制労働に従事させ、できたものを取り上げる。・・・実態はこのようなものでした。
輸送などが不十分であったので、食糧不足となり、「徴発」という名の掠奪をおこなった舞台もありました。強姦なども発生、女性を誘拐し慰安婦にすることもありました。こうした事態を重く見た軍当局は「戦時強姦罪」を新設します。しかし、そんなことで強姦事件は減りませんでしたが・・・。

日本による東南アジア統治

日本は欧米列強帝国主義の植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とする新しい国際秩序(「大東亜共栄圏」)を作ることが目的と主張しました。

浜島書店「新詳日本史図説」P285

その際、「植民地支配からの解放」と「日本を中心とする」、どちらにニュアンスを置くかによって、その内容は大きく変わります。軍部は後者です。
しかし、実際に東南アジアの人びとと接している人たちのなかには現地の協力がなければ統治は不可能であるとして「独立」実現をすすめるべきという人もいました。
こうした主張もあって、アメリカから独立が約束されていたフィリピンとビルマの独立は認めることにしました。大東亜共栄圏内部、しかも日本軍の支配下という条件で・・。
他の地域では軍政を維持し続けます。

浜島書店「アカデミア世界史」P277

軍政下におかれた地域では、公用語として日本語を強要され、日本のやり方がそのまま持ち込まれました
欧米帝国主義から解放されたはずの東南アジアで、植民地・朝鮮などと同様の「皇民化教育」が実施されました。日本語教育が強要され、日本風の神社がつくられ、皇居遙拝や神社参拝、さらにはラジオ体操までが行わました。
解放といいながら、実際には朝鮮や台湾、あるいは「満州国」で行われていた植民地支配が東南アジアに広げられたのでした

協力と抵抗~「大東亜共栄圏」下の諸民族

日本軍の進出に対して、現地の人びとの反応は多様でした。

ビルマ独立運動の父といわれているアウンサン将軍(現在のミャンマーの最高実力者アウンサンスーチーのお父さん)は「敵の敵は味方」と考え日本軍に協力しました。しかししだいに、

日本軍のやり方に疑問を持つようになり、反ファシスト人民解放連盟を結成して日本軍と戦うようになりました。

オランダの植民地支配への反発から親日路線をとりつづけたのがインドネシアの指導者スカルノです。テレビでよく見かけるデビィ夫人の夫でした!)しかし、彼は日本軍への抵抗運動をつづける仲間と連絡をも忘れませんでした。
他方、フィリピンでは当初から抵抗運動がつづきます。占領直後、数百人のマニラ市民が公開処刑されたこともあって、反日ゲリラ=「抗日人民軍(フクバラハップ)が力を伸ばし、日本の支配を揺るがす勢力にまで成長しました。中国系住民の虐殺などがあったマレー半島でも反日ゲリラの活動が活発でした。
ベトナムでは、共産主義者ホーチミンがベトナム独立同盟(ベトミン)を結成、日仏双方に対する激しいゲリラ戦を続けています。

大東亜共栄圏の実態
山川出版社「詳説日本史図録」P278

よく「日本のおかげで東南アジア諸国が独立できた」という人がいます。たしかに、日本はこの地域の欧米列強の植民地支配を打ち倒しました。しかし、かわって行われた日本統治は軍隊の力を背景とし資源獲得を目的とした強権的な統治であり、この地域に住む人々の生活を脅かすものでした。
こうして、多くの地域で抗日ゲリラが生まれました。

東南アジアの独立と日本占領

すこし、先回りをして話します。
日本の東南アジア統治は1945年8月15日、日本の敗戦で突如終わり、日本軍は無力化します。その結果、いくつかの地域では、真空地帯ともいうべき状態が生まれました。この間をねらって、インドネシアではスカルノが、ベトナムではホーチミンが、それぞれ独立を宣言します。

独立宣言を行うスカルノ(1945年8月18日)

しかし、日本との戦いで力をつけたこの地域の人びとの前に、植民地支配を復活させようとする欧米の旧宗主国が戻ってきました。インドネシアのスカルノは日本軍への協力で手にした軍事力を背景にオランダからの独立戦争を進めます。

ホーチミンはフランスとの激しいインドシナ戦争を、つづいてアメリカとのベトナム戦争を戦うことになります。ビルマのアウンサン将軍は独立を達成したもののテロに倒れました。日本との戦いで自信をつけた諸民族は、植民地の復活を許しませんでした。

山川出版社「詳説日本史図録」P284

他方、フィリピンでは少し違った動きをします。フィリピンのゲリラ組織フクバラハップは、上陸してきたアメリカと協力して日本軍と戦いました。ところが、途中からアメリカの態度が変わります。彼らを弾圧し始めたのです。「共産主義の影響が強い」といって。そして、アメリカは、地主勢力を中心とした形での独立を認めました。以後、フィリピンでは大地主と小作という貧富の差が維持され、長く続くゲリラ戦の背景となりました。

東南アジアの独立も、さまざまな経過をたどって、独立を達成します。

「大東亜会議」とインパール作戦

浜島書店「新詳日本史図説」P285

「アジアの解放」という名目が日本軍の愚策を始めさせます。大東亜会議にある大物がオブザーバー参加していました。写真の右端に写っている人物、ガンディーやネルーと並ぶインド独立運動の中心人物チャンドラ=ボーズです。かれは日本と結ぶことでインドの独立を図ろうと考え、日本軍と接触し、インド侵攻を働きかけました。

Mutaguchi Renya.jpg

牟田口廉也 第十五軍司令官としてインパール作戦を強行した。

これを受けて、ビルマにいた一人の軍人が妄想を抱きます。牟田口廉也(むたぐち・れんや)、ビルマにおかれた第15軍の司令官です。盧溝橋事件時の司令官でもあったかれは、インド侵攻で戦争を終わらせると妄想しました。すでに日本軍の敗勢が明らかになっている時期です。実際の戦闘に当たる司令官は全員が反対しているにもかかわらず、強引に事をすすめ、ついに作戦を認めさせます。そして始められたのが、インパール作戦です。ヒマラヤ山脈からつづく熱帯のジャングルの山岳地帯を、わずかな食糧のみで越えていくのです。兵士たちは食糧もなく、熱病に冒されながら、インド領に攻め入り、インパールを包囲します。ところが、包囲されているはずのイギリス軍の方が食糧などに恵まれ、包囲している日本軍のほうが飢えで苦しみました。イギリス軍は飛行機で物資を空輸していたのです。
小田敦己氏HP「一兵士の戦争体験・ビルマ最前線~白骨街道生死の境」より
日本兵はいよいろ食糧が尽き、飢えに苦しみます。援助を要請する現地軍に対し、ビルマにいる牟田口はいいます。「記念日までにインパールを陥落させよ」。
現地司令官は決断します。「こんなやつの命令は聞けない。食糧の得られるところまで撤退する」。撤退の過程で兵士たちは次々と飢えと熱病に倒れていきます。退却路には、兵士たちの死骸が散乱、「白骨街道」あるいは「靖国街道」とよばれます。戦死者となって靖国神社へいく道だというのです。参加兵力の90%が死傷、戦・病死者あわせて53000人に達しました。証言を聞いてみましょう
戦略的に無意味で、作戦的にも無謀な作戦、飢えと熱病の地獄に兵士たちを送り込んだのです。牟田口は降格させられますが、死ぬまで「インパールは勝てる戦いだった。指揮官が無能だったから失敗したのだ」といい続けます。絶望的な気分になります。
しかし銃殺を覚悟で兵を引く決意をした現地司令官もいました。彼は軍法会議にかけられ銃殺にされてもよいと考えていました。それ以上に、この作戦の愚かさを知らせたいと望んでいたのです。しかし責任追及を恐れた上層部は、例によって隠蔽します。陸軍の無責任体質は止まりません。

中国戦線~泥沼化した戦場

中国戦線では、日中戦争がつづいています。正式には、1941年に宣戦布告がなされたことによって、「事変」という名目から正式な「戦争」となります。陸軍は、太平洋地域や東南アジアへも兵力を送りましたが、その主力は長く中国戦線(+東北部=「満州国」)におかれつづけます
様子を、かいつまんで見ていきましょう。華北(中国北部)では、共産党軍によるゲリラ戦がいっそう激しくなり、日本軍の小部隊全滅といった自体も増加、それと比例する形で、三光作戦といわれる残虐なゲリラ掃討戦がつづきます。その背景には、中国の中部や南部の作戦が活発化、太平洋戦線にも兵士が送られたりして、日本軍が手薄になったからです。兵士の士気が落ち、兵士が上官に反抗するといった事件も増加しました。
中国人を日本に連れて行って鉱山労働などに従事させる強制連行も本格化しました。

開戦直後、日本本土が米空母をとびたった爆撃機による空襲をうけた話をしました。その爆撃機が向かったのが中国中南部の飛行場でした。そこで、軍部は考えます。「中国が本土空襲の拠点となる。そうさせないためには、中国内の飛行場を破壊しなければならない。」こうして本土空襲が可能な地域の飛行場を破壊する作戦を開始しました。そのやり方は徹底的で、周辺の中国人を連れてきて飛行場を徹底的に破壊、周辺の村々や家屋もすべて破壊しました。
その後、同じ目的でさらに大規模な作戦もはじめます。サイパン島がアメリカの手に落ち、この作戦が無意味となっても作戦は続行されます。中国でも泥沼の戦いが続いていました。

植民地での兵士・軍属の募集と強制連行

国内経済が疲弊し、兵力不足とその質の低下がすすむなか、朝鮮半島や台湾という植民地、さらに「満州国」の後方基地としての役割が増しました
1943(昭和18)年には朝鮮で、翌1944年には台湾で、ついに徴兵が導入されます。
なぜ遅れたのか、それは植民地の人びとに銃をもたしたら、どちらに向けて発砲するか分からないという不安でした。もうひとつの 論点は、徴兵という「義務」に対応する「権利」の問題でした。選挙権です。徴兵を始めると、朝鮮や台湾にも選挙権を与えなければならない、すると国会での朝鮮人の発言権が認められ、内地(日本本土)と同様の待遇を求められるようになるのではないかという…。
しかし、兵力不足は否めません。ついに徴兵制度と引き替えに、衆議院議員の選挙権を認めました。ただし、一度も選挙は行われませんでした。・・・日本が負けてしまったからです。
軍属という形で戦争に参加した朝鮮人もいました。上からの割り当てがあったり「徴兵で行くよりまし」と考えて応募した人もいました。そうした人たちの中心的な働き場所が「捕虜収容所」でした。

戦争の傷跡はアジア各地に残され、個人レベルではいまだに解決され廷内という声も多い。 東京書籍「新選日本史B」P277

日本軍は、捕虜に対して食糧を十分には準備せず、さらに国際法で禁じられている強制労働に従事させました。とくにタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道では多くの捕虜が動員、強制労働に従事させました。作業を急ぐ余り、病人まで働かせ、多くの死者も出ました。こうした捕虜の扱いへの怒りは直接、捕虜に接する看守である軍属たちに向けられました。食糧を得るため、山野からゴボウをとってきて捕虜に与えたことが、「木の根を食べさせる虐待だ」とされた看守もいました。戦後、捕虜収容所の軍属たちは、元捕虜たちから戦争犯罪人(「BC級戦犯」)として捕らえられ、何人かは死刑となりました。朝鮮半島出身者もいました。命令したものはさっさと帰国し、最も弱い立場の人々に責任が押しつけられました。死刑執行の前日、獄舎から「アリランの歌」などが聞こえたといいます。
朝鮮では「国民徴用令」前後から、朝鮮人を本土などに連れて行き、過酷な鉱山労働などに従事させる朝鮮人強制連行」が開始されていました。その数は半島外に連れ出されたものが80~90万人、半島内で従事したものが約320万人、合計400万人をこえる人間が従事させられています。
女性たちがさまざまな方法で朝鮮半島などから連れ出され、戦場におくられて慰安婦に従事させられたことは既に話したとおりです。

 (余談)朝鮮人に投票権はあったのか?
話の中で、「朝鮮」での選挙権といい、「朝鮮人」の選挙権とはいっていません。

浜島書店「新詳日本史」P285

実は、朝鮮人にも選挙権はありました。内地、つまり日本列島において。さらに朴春琴という人物は2回も当選して、衆議院議員になっています。投票ではハングル文字による投票も可能でした。1940(昭和15)年の創氏改名(日本名の強要)以後も、民族名で立候補しています。ですから、上の説明は、朝鮮半島や台湾という場所(「外地」といいました)での話で、朝鮮人はもとより、この地に居住する「日本人(内地人)」にも投票権がなかったということです。

皇民化政策と韓国軍

朝鮮人に兵役を課し、あるいは徴用して働かせる。このためには選挙権も与える。こうした諸政策は支配者である日本側にとっては、非常にリスキーでした。

皇民化政策の内容 浜島書店「新詳日本史」P285

 こうした中でとられたのが「皇民化」政策、植民地民衆の「日本人」化政策です。
創氏改名」という日本語風の名前をつけることも強要され、日本語教育が徹底されます。ことあるごとに「皇国臣民の誓詞」というものが暗唱させられ、神社参拝も強要されます。
魂ごと日本人にしようとしたのです。しかし憲法をはじめとする法律の多くは植民地の適用されなかったことは選挙権で見たとおりです。
「国民徴用令は日本人にとっての義務なので、当時「日本人」であった彼らがそれに従うのは当然、「強制連行」といういい方はあたらない」という人がいます。では憲法はもとより、統治上都合の悪い法律が「外地」=朝鮮・台湾で通用していない事実はどう説明するのでしょうか?「外地人」はあくまでも「植民地人」、妥協しても「二級日本人」の地位に置かれていたことはあきらかです。「権利」を認めず、「義務」を負わせるのはご都合主義です。
他方、日本と結んで有利な立場につこうという人もいました。「満州国」軍の士官学校(軍官学校)は朝鮮系の生徒も入学できたため、朝鮮人も入学者してきました。かれらは、戦後になっても強い同窓意識を保ち、韓国(大韓民国)軍の中心となります。その中から、のちの韓国大統領、朴正煕や全斗煥・盧泰愚など軍部独裁を進めた人物が現れます。日本軍部のDNA(がん細胞?)は軍部独裁の時期の韓国軍部に伝わったのかもしれません。

国民生活の窮乏

国内での人びとの生活はいっそう厳しくなっていました。軍の要求で輸送船を軍事目的にふりあてたこと、輸送船の護衛も軽視されたこと、こうした理由から、輸送船は次々と沈められ、海上輸送力は激減しました。船員の死亡者も多数に及びました。

東京書籍「新選日本史B」P233

こうして海外からの物資は入ってこず、国内生産も軍需優先となったため、食糧や生活物資は極端に減少しました。配給に出まわるものの量は少なく、粗悪品、さらには代用品へと代わっていきました。いきおい人びとは、どこからか流れてくる「闇」物資に頼らざるを得ませんでした。「世の中は星に碇(いかり)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」このような歌が秘かに流行していたといいます。「星」「碇」、なんのことでしょうか?「碇」は船で使いますね。とすると船に関係のある・・「海軍」。とすると「星」は・・・「陸軍」。「闇」はさっきの闇物資、「顔」は顔役。自分の地位を利用して「よろしく頼むわ」で物資を回してもらえる人たち。こうした連中が、食糧や生活物資を優先的に手に入れ、そうした手段をもたない哀しい「馬鹿者」=庶民だけが配給の行列に並んでいるというのです。
その配給でも分配に当たる町会長たちが町内会での「貢献度」に応じて量を左右しました。「聖戦」といいながら、「結局は金持ちや権力をもつものが楽をしている。不平等ではないか」という感情が生まれてきました。このような庶民の感情が戦後の民主主義思想の背景にもなっていきます。

学徒出陣

戦争は、人間の命を次々と呑み込んでいきます。戦争がない時は、徴兵検査を受けた者の二〇%程度しか兵役についていません。健康で「運の悪い」人だけが兵役についていたのです。
ところが日中戦争がはじまると状況は一変、徴兵検査によって兵役につく人の割合は八〇%程度に跳ね上がりました。病弱な人、知的障害がある人なども召集されます。三〇代の「老兵」や体格の劣る兵なども増えていきました
指揮官である将校(職業軍人で「○将」とか、「○佐」「○尉」といった階級がつく人たち)も同様です。多くの将校が戦死、老齢の退役将校らも復帰させられます。
こうしたなか、軍が目をつけたのが、一般大学に通う学生たちでした。学力や知的能力では問題がありません。さらに大正期、仕事をなくした将校のリストラ策として中・高等教育で軍事教練をはじめていたため、基礎的な軍事教育も受けています。「大量消費」される将校の補充にちょうどよいと考えたのです。
これまで、学生は学業で社会に貢献せよという趣旨で徴兵が猶予されていましたが、非常時ということで彼らも徴兵されました。文学部や経済学部など文系学部の学生が対象となります

帝国書院「図説日本史通覧」P282

こうして、徴兵年齢の文系の学生たちは一斉に徴兵され、簡単な訓練ののち将校に任命されることになります。これを学徒出陣といいます。
その壮行会のようす、いつも出てくるシーンですが、一応見ておきましょう
ちなみに、この場所は神宮外苑競技場、のちの国立競技場です。ここで流されている行進曲は、明治期に作曲された抜刀隊の歌をもとにしたもので、ルルーというフランス人の作曲です。ちなみに、とっくに過去の曲だと思っていたのですが、現在でも、自衛隊や警視庁などで用いられているそうです。抜刀隊というのは西南戦争に投入された警官部隊で、戊辰戦争の旧幕府側の出身の巡査などが復讐の思いも秘めながら多く参加、白兵戦で激しく鹿児島側と戦いました。彼らを讃えるこの曲は警察の曲であるというのでしょう。

学徒兵と召集兵

こうして、大学生たちは将校の道を歩みます。しかし、あくまでも中心は正式の士官学校や兵学校出身者です。たいした訓練も受けずに将校となったことへの反発などもあり、執拗ないじめを受けた人たちも多くいました。将校となっても消耗品扱いされます
特攻隊員のなかには学徒出身者が多くいました。ついでにいうと低い地位のものは少年航空兵出身です。二十歳以下の割合は陸軍23%、海軍で43%に及びます一部ですが、植民地出身者も特攻に参加しました
学徒出陣で戦場に行ったものは、生還したものも戦死したものも自らのことを語る力を持っていました。自分の本心を暗号のような方法を用い、家族や知人に伝えた学徒兵もいました。自分の置かれた状況もある程度理解していました。こうした人たちの手記が、戦後、「聞けわだつみの声」などの形で出版されました。
他方、召集で兵士となった庶民たちの多くは、隊内の理不尽な虐待をうけ、自分がどこにいるのかも、どのような作戦なのかも知らされないまま、命令のままに戦闘し、傷つき、死んでいきました。掠奪や暴行、虐殺の舞台にも参加させられ、捕虜になることも禁じられ、飢え、病にかかり、効果のない突撃で命を奪われたのです。
実は、現在の戦争を描いたもので、庶民出身の兵士みずからが語った作品は少ないのです。兵士のことを取り上げた作品の多くも、兵士のなかにいた高学歴の人によるものが多いということも知っておいてください。学徒出陣だけが、特攻だけが、悲劇だったのではありません。

サイパン島の陥落と東条内閣崩壊

1944年7月7日、絶対国防圏として死守すべきとしていたマリアナ諸島のサイパン島が陥落します。さらに援護に向かった海軍もマリアナ沖海戦で大敗北を喫し、艦船も飛行機の多くを失います。
予想以上の進撃の早さと、被害の大きさに、日本側は衝撃を受けます。軍内部でも勝利は困難という観測が示され、天皇側近も戦争終結の方法を考え始めます。こうしたなか、居座りを図る総理大臣東条英機への批判が強まり、東条内閣は総辞職、かわってやはり陸軍の小磯国昭を総理に内閣が成立しました。しかし小磯は積極的には戦争終結に向けて動きませんでした。
この時期から、戦争での死者が急激に増加します。軍人軍属の半数以上、民間人の大部分がこの時期の死者なのです

本土空襲の開始と東京大空襲

サイパンの陥落は、戦争の姿を変える意味を持っていました。

帝国書院「図説日本史通覧」P283

サイパン島を含むマリアナ諸島からはアメリカの爆撃機で日本本土まで往復できるのです。この時期、アメリカは国家プロジェクトとして巨大爆撃機B29の開発と大量生産をすすめていました。B29は一万メートルという上空を飛び、5トン以上の爆弾を積んで、北海道を除く日本本土まで往復できたのです
こうして本土空襲が開始されました。
アメリカ軍は当初精密爆撃として、軍需工場など軍の施設をねらう爆撃を行っていました。しかし、気流の影響で目的地を外すことも多く、目標を確認するため低空を飛ぶことで高射砲の被害もうけました。しかしアメリカの司令官は、上からの圧力に逆らいながら精密爆撃をつづけました。「非戦闘員への攻撃を禁止する」国際法を守ろうとしたのでしょう。
ところが、司令官が後任のルメイ少将にかわると本格的な無差別爆撃がはじまります。最初のターゲットが東京でした。こうして1945年3月10日、東京大空襲が行われます。

帝国書院「図説日本史通覧」P283

木造住宅が建ち並ぶ人口密集地に、火災を目的とした焼夷弾やガソリンをゼリー状にしたナパーム弾を投下、周辺部を火の海にして逃げ道をなくしてから中央部を爆撃するという非人道的な方法を用います。翌日が国民学校の卒業式であるということで、疎開にいっていた子どもたちも久しぶりの帰宅をしていたため、被害はいっそう広がりました。死者は一夜で8万人を越え、焼失戸数26万戸、罹災者は90万人に迫る状況となりました。

帝国書院「図説日本史通覧」P283

このころになると、戦争に勝つことが不可能なのは、軍部も、政府も、天皇も、側近も、みんなわかっていました。ところが、敵に打撃を与えて有利な条件で講和しようと考えたり、通用するはずもない条件を出してきたり、足を引っ張り合ったりして、ぐずぐずと時間を浪費します。こうして、戦争は続き、兵士も、国民も、連合軍の兵士も、アジアの人びとも、戦争にかかわる多くの人たちの命が奪われていきました。

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