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アジア太平洋戦争(2)
~「大東亜共栄圏」建設と諸民族の動き~
「血債の塔」~中国系住民の虐殺
祖国を蹂躙(じゅうりん)している日本に対し、反感を持つ中国系住民も多く、マレー半島やシンガポールなどでは抵抗運動にも参加しました。これにたいし、日本軍は「敵に通じたものや反日行動をしているものを「検証」する」として、中国系住民を連行、裁判なしで殺害しました。シンガポール占領直後には約5000人、最終的には5万人が殺害されたといわれています。シンガポールでは、65メートルもの巨大な「血債の塔(日本占領時期死難人民記念碑)」が立てられ、島内各地から集められた遺骨を収容しています。
追記:
’17年2月25日、ネット上のニュース配信のHuffpostに”うにうに”という署名で、「太平洋戦争時の日本占領名”昭南”を戦争博物館名に拒否したシンガポール国民」という記事が出ました。’17年2月これまでの博物館を「昭南ギャラリー」という名の戦争博物館にしようと発表したら、強い反対がおこり、別の名称に変更したということです。記事に引用されていたシンガポール首相のコメントを掲げておきます。
旧フォード工場の展示について、最近、多くのシンガポール人が率直に発言しています。
我々は「昭南ギャラリー: 戦争とその遺産」と当初は呼んでいました。その名前「昭南」は、シンガポールの歴史における暗黒でトラウマになっている時を呼び起こすことを意図したものです。
しかし、少なくない人々が、名前自身がこのように使われ苦痛を呼び起こすと感じました。多くのシンガポール人の全民族は、日本統治時代に恐怖の残虐行為を受け、それを経験した家族がいます。
私の同僚と私は、この根強い感情を尊重し敬意を払います。痛ましい記憶への目撃者に耐える展示に、名前を変えることにしました。
意見を共有した全ての人に感謝します。そのような会話は我々を一層団結させるものです。
シンガポール人が展示を見に行くことを私は希望しています。我々の人生に深く影響を与え、社会を形作った出来事を、我々は決して忘れてはいけません。
リー・シェンロン
一般的には親日的であり、戦争のことはもう忘れてしまっているように思われがちなシンガポールでも、決して戦争のことは忘れていません。被害を受けた人たちのことを、いまだに丁寧に気にかけているのです。
「戦争はもう終わったことだから」という人がいますが、そのような考え方は日本の傲慢だと感じさせる内容でした。
(’17,5,11)
「大東亜共栄圏建設」と「ロウムシャ」
戦争目的として日本が主張したのは「欧米列強の帝国主義的植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とする新しい国際秩序(「大東亜共栄圏」)を作る」ということでした。そのため東南アジアに進出したというのです。
しかし、東南アジア進出には別の目的もありました。・・・この地に進出して、石油など天然資源を手に入れることです。東南アジアにおける天然資源、とくに石油獲得だったのです。これが軍部や政府が主張する「自存自衛体制の確立」の中身でした。「大東亜の理想」よりもこちらが優先事項だったでしょう。
資源を手に入れるためには労働力が必要です。日本軍は現地の人びとを徴用し、資源開発などをすすめました。
かつて、東南アジアの人たちのもっとも知っていた日本語のひとつが「ロウムシャ」ということば、漢字で書くと「労務者」です。このことが、東南アジアにおける日本軍政をよく示しているのでしょう。
現地の人たちを鉱山労働や工事に動員し、賃金として「軍票」という「紙幣」を渡しました。しかし、「軍票」はまったく流通しませんでした。こんな紙切れと引き替えに厳しい労働を強要されたのです。さらに、作業がのろいといって「ビンタ」をされました。ビンタは現地の人にとって人間扱いしないことでした。このような実態が明らかになり「ロウムシャ」に応募する人はいなくなりました。
「軍政下」の東南アジア
日本軍にとって重要と考えた天然資源獲得や米作りが強制され、不要とみなした産業や農耕から労働力がまわされ、農業に利用されました。日本軍に都合よく利用しようとしたのです。これまでの本国や周辺地域から輸・移入してきた物もストップ、日本からの物資は来ない。結論的には、日本に必要なものだけ作らせて、奪い取るという形になりました。
「自存自衛体制の確立」、「戦争遂行」という目的から見れば、必要な措置だったのでしょう。「お前たちを解放するために必要なのだ」と説得しようとしても、実際には中国人をはじめとする人びとを殺し、使い物にならない紙切れを渡して強制労働に従事させ、できたものを取り上げる。・・・実態はこのようなものでした。
輸送などが不十分であったので、食糧不足となり、「徴発」という名の掠奪をおこなった舞台もありました。強姦なども発生、女性を誘拐し慰安婦にすることもありました。こうした事態を重く見た軍当局は「戦時強姦罪」を新設します。しかし、そんなことで強姦事件は減りませんでしたが・・・。
日本による東南アジア統治
こうした主張もあって、アメリカから独立が約束されていたフィリピンとビルマの独立は認めることにしました。大東亜共栄圏内部、しかも日本軍の支配下という条件で・・。
他の地域では軍政を維持し続けます。
欧米帝国主義から解放されたはずの東南アジアで、植民地・朝鮮などと同様の「皇民化教育」が実施されました。日本語教育が強要され、日本風の神社がつくられ、皇居遙拝や神社参拝、さらにはラジオ体操までが行わました。
協力と抵抗~「大東亜共栄圏」下の諸民族
ビルマ独立運動の父といわれているアウンサン将軍(現在のミャンマーの最高実力者アウンサンスーチーのお父さん)は「敵の敵は味方」と考え日本軍に協力しました。しかししだいに、
日本軍のやり方に疑問を持つようになり、反ファシスト人民解放連盟を結成して日本軍と戦うようになりました。
他方、フィリピンでは当初から抵抗運動がつづきます。占領直後、数百人のマニラ市民が公開処刑されたこともあって、反日ゲリラ=「抗日人民軍」(フクバラハップ)が力を伸ばし、日本の支配を揺るがす勢力にまで成長しました。中国系住民の虐殺などがあったマレー半島でも反日ゲリラの活動が活発でした。
よく「日本のおかげで東南アジア諸国が独立できた」という人がいます。たしかに、日本はこの地域の欧米列強の植民地支配を打ち倒しました。しかし、かわって行われた日本統治は軍隊の力を背景とし資源獲得を目的とした強権的な統治であり、この地域に住む人々の生活を脅かすものでした。
こうして、多くの地域で抗日ゲリラが生まれました。
東南アジアの独立と日本占領
日本の東南アジア統治は1945年8月15日、日本の敗戦で突如終わり、日本軍は無力化します。その結果、いくつかの地域では、真空地帯ともいうべき状態が生まれました。この間をねらって、インドネシアではスカルノが、ベトナムではホーチミンが、それぞれ独立を宣言します。
しかし、日本との戦いで力をつけたこの地域の人びとの前に、植民地支配を復活させようとする欧米の旧宗主国が戻ってきました。インドネシアのスカルノは日本軍への協力で手にした軍事力を背景にオランダからの独立戦争を進めます。
ホーチミンはフランスとの激しいインドシナ戦争を、つづいてアメリカとのベトナム戦争を戦うことになります。ビルマのアウンサン将軍は独立を達成したもののテロに倒れました。日本との戦いで自信をつけた諸民族は、植民地の復活を許しませんでした。
他方、フィリピンでは少し違った動きをします。フィリピンのゲリラ組織フクバラハップは、上陸してきたアメリカと協力して日本軍と戦いました。ところが、途中からアメリカの態度が変わります。彼らを弾圧し始めたのです。「共産主義の影響が強い」といって。そして、アメリカは、地主勢力を中心とした形での独立を認めました。以後、フィリピンでは大地主と小作という貧富の差が維持され、長く続くゲリラ戦の背景となりました。
東南アジアの独立も、さまざまな経過をたどって、独立を達成します。
「大東亜会議」とインパール作戦
「アジアの解放」という名目が日本軍の愚策を始めさせます。大東亜会議にある大物がオブザーバー参加していました。写真の右端に写っている人物、ガンディーやネルーと並ぶインド独立運動の中心人物チャンドラ=ボーズです。かれは日本と結ぶことでインドの独立を図ろうと考え、日本軍と接触し、インド侵攻を働きかけました。
現地司令官は決断します。「こんなやつの命令は聞けない。食糧の得られるところまで撤退する」。撤退の過程で兵士たちは次々と飢えと熱病に倒れていきます。退却路には、兵士たちの死骸が散乱、「白骨街道」あるいは「靖国街道」とよばれます。戦死者となって靖国神社へいく道だというのです。参加兵力の90%が死傷、戦・病死者あわせて53000人に達しました。証言を聞いてみましょう。
しかし銃殺を覚悟で兵を引く決意をした現地司令官もいました。彼は軍法会議にかけられ銃殺にされてもよいと考えていました。それ以上に、この作戦の愚かさを知らせたいと望んでいたのです。しかし責任追及を恐れた上層部は、例によって隠蔽します。陸軍の無責任体質は止まりません。
中国戦線~泥沼化した戦場
様子を、かいつまんで見ていきましょう。華北(中国北部)では、共産党軍によるゲリラ戦がいっそう激しくなり、日本軍の小部隊全滅といった自体も増加、それと比例する形で、三光作戦といわれる残虐なゲリラ掃討戦がつづきます。その背景には、中国の中部や南部の作戦が活発化、太平洋戦線にも兵士が送られたりして、日本軍が手薄になったからです。兵士の士気が落ち、兵士が上官に反抗するといった事件も増加しました。
中国人を日本に連れて行って鉱山労働などに従事させる強制連行も本格化しました。
開戦直後、日本本土が米空母をとびたった爆撃機による空襲をうけた話をしました。その爆撃機が向かったのが中国中南部の飛行場でした。そこで、軍部は考えます。「中国が本土空襲の拠点となる。そうさせないためには、中国内の飛行場を破壊しなければならない。」こうして本土空襲が可能な地域の飛行場を破壊する作戦を開始しました。そのやり方は徹底的で、周辺の中国人を連れてきて飛行場を徹底的に破壊、周辺の村々や家屋もすべて破壊しました。
その後、同じ目的でさらに大規模な作戦もはじめます。サイパン島がアメリカの手に落ち、この作戦が無意味となっても作戦は続行されます。中国でも泥沼の戦いが続いていました。
植民地での兵士・軍属の募集と強制連行
1943(昭和18)年には朝鮮で、翌1944年には台湾で、ついに徴兵が導入されます。
なぜ遅れたのか、それは植民地の人びとに銃をもたしたら、どちらに向けて発砲するか分からないという不安でした。もうひとつの 論点は、徴兵という「義務」に対応する「権利」の問題でした。選挙権です。徴兵を始めると、朝鮮や台湾にも選挙権を与えなければならない、すると国会での朝鮮人の発言権が認められ、内地(日本本土)と同様の待遇を求められるようになるのではないかという…。
しかし、兵力不足は否めません。ついに徴兵制度と引き替えに、衆議院議員の選挙権を認めました。ただし、一度も選挙は行われませんでした。・・・日本が負けてしまったからです。
軍属という形で戦争に参加した朝鮮人もいました。上からの割り当てがあったり「徴兵で行くよりまし」と考えて応募した人もいました。そうした人たちの中心的な働き場所が「捕虜収容所」でした。
日本軍は、捕虜に対して食糧を十分には準備せず、さらに国際法で禁じられている強制労働に従事させました。とくにタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道では多くの捕虜が動員、強制労働に従事させました。作業を急ぐ余り、病人まで働かせ、多くの死者も出ました。こうした捕虜の扱いへの怒りは直接、捕虜に接する看守である軍属たちに向けられました。食糧を得るため、山野からゴボウをとってきて捕虜に与えたことが、「木の根を食べさせる虐待だ」とされた看守もいました。戦後、捕虜収容所の軍属たちは、元捕虜たちから戦争犯罪人(「BC級戦犯」)として捕らえられ、何人かは死刑となりました。朝鮮半島出身者もいました。命令したものはさっさと帰国し、最も弱い立場の人々に責任が押しつけられました。死刑執行の前日、獄舎から「アリランの歌」などが聞こえたといいます。
朝鮮では「国民徴用令」前後から、朝鮮人を本土などに連れて行き、過酷な鉱山労働などに従事させる「朝鮮人強制連行」が開始されていました。その数は半島外に連れ出されたものが80~90万人、半島内で従事したものが約320万人、合計400万人をこえる人間が従事させられています。
女性たちがさまざまな方法で朝鮮半島などから連れ出され、戦場におくられて慰安婦に従事させられたことは既に話したとおりです。
話の中で、「朝鮮」での選挙権といい、「朝鮮人」の選挙権とはいっていません。
皇民化政策と韓国軍
「創氏改名」という日本語風の名前をつけることも強要され、日本語教育が徹底されます。ことあるごとに「皇国臣民の誓詞」というものが暗唱させられ、神社参拝も強要されます。
魂ごと日本人にしようとしたのです。しかし憲法をはじめとする法律の多くは植民地の適用されなかったことは選挙権で見たとおりです。
他方、日本と結んで有利な立場につこうという人もいました。「満州国」軍の士官学校(軍官学校)は朝鮮系の生徒も入学できたため、朝鮮人も入学者してきました。かれらは、戦後になっても強い同窓意識を保ち、韓国(大韓民国)軍の中心となります。その中から、のちの韓国大統領、朴正煕や全斗煥・盧泰愚など軍部独裁を進めた人物が現れます。日本軍部のDNA(がん細胞?)は軍部独裁の時期の韓国軍部に伝わったのかもしれません。
国民生活の窮乏
その配給でも分配に当たる町会長たちが町内会での「貢献度」に応じて量を左右しました。「聖戦」といいながら、「結局は金持ちや権力をもつものが楽をしている。不平等ではないか」という感情が生まれてきました。このような庶民の感情が戦後の民主主義思想の背景にもなっていきます。
学徒出陣
ところが日中戦争がはじまると状況は一変、徴兵検査によって兵役につく人の割合は八〇%程度に跳ね上がりました。病弱な人、知的障害がある人なども召集されます。三〇代の「老兵」や体格の劣る兵なども増えていきました。
指揮官である将校(職業軍人で「○将」とか、「○佐」「○尉」といった階級がつく人たち)も同様です。多くの将校が戦死、老齢の退役将校らも復帰させられます。
こうしたなか、軍が目をつけたのが、一般大学に通う学生たちでした。学力や知的能力では問題がありません。さらに大正期、仕事をなくした将校のリストラ策として中・高等教育で軍事教練をはじめていたため、基礎的な軍事教育も受けています。「大量消費」される将校の補充にちょうどよいと考えたのです。
これまで、学生は学業で社会に貢献せよという趣旨で徴兵が猶予されていましたが、非常時ということで彼らも徴兵されました。文学部や経済学部など文系学部の学生が対象となります。
その壮行会のようす、いつも出てくるシーンですが、一応見ておきましょう。
ちなみに、この場所は神宮外苑競技場、のちの国立競技場です。ここで流されている行進曲は、明治期に作曲された抜刀隊の歌をもとにしたもので、ルルーというフランス人の作曲です。ちなみに、とっくに過去の曲だと思っていたのですが、現在でも、自衛隊や警視庁などで用いられているそうです。抜刀隊というのは西南戦争に投入された警官部隊で、戊辰戦争の旧幕府側の出身の巡査などが復讐の思いも秘めながら多く参加、白兵戦で激しく鹿児島側と戦いました。彼らを讃えるこの曲は警察の曲であるというのでしょう。
学徒兵と召集兵
実は、現在の戦争を描いたもので、庶民出身の兵士みずからが語った作品は少ないのです。兵士のことを取り上げた作品の多くも、兵士のなかにいた高学歴の人によるものが多いということも知っておいてください。学徒出陣だけが、特攻だけが、悲劇だったのではありません。
サイパン島の陥落と東条内閣崩壊
この時期から、戦争での死者が急激に増加します。軍人軍属の半数以上、民間人の大部分がこの時期の死者なのです。
本土空襲の開始と東京大空襲
このころになると、戦争に勝つことが不可能なのは、軍部も、政府も、天皇も、側近も、みんなわかっていました。ところが、敵に打撃を与えて有利な条件で講和しようと考えたり、通用するはずもない条件を出してきたり、足を引っ張り合ったりして、ぐずぐずと時間を浪費します。こうして、戦争は続き、兵士も、国民も、連合軍の兵士も、アジアの人びとも、戦争にかかわる多くの人たちの命が奪われていきました。