アジア太平洋戦争(1)

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アジア太平洋戦争(1)
~ずさんな戦争計画と「玉砕」「餓死」「海没死」~

アジア太平洋戦争の開始

1941(昭和16)年12月8日、陸軍のコタバル上陸と海軍のハワイ真珠湾攻撃をきっかけにアジア太平洋戦争が開始されました。

山川出版社「詳説日本史」P362

日本はアメリカ、イギリス、オランダに宣戦を布告、三国同盟にもとづきドイツとイタリアもアメリカに宣戦を布告、アジアの戦争はヨーロッパでの戦争と結合し、第二次世界大戦は名実ともに世界大戦となりました
こうして戦争は日本・ドイツ・イタリアなどの7カ国の枢軸国と、中国・アメリカ・イギリス・ソ連、およびフランス・オランダ・ポーランドなどの亡命政府などによる連合国の間の戦争となり、連合国は最終的に50カ国に上りました。
12月8日7時、ラジオの臨時ニュースが対米英戦争開始を報道、正午には宣戦の詔勅が発表されました。満州事変に始まった戦争は世界を相手とする戦争へと発展しました。

開戦の理由~政府の説明を聞いてみましょう

戦争を始めた理由について、政府の説明はいかなるものだったのでしょうか?開戦当日、東条英機総理大臣が、国民に対して行った説明を聞いてください

 ただ今、宣戦の御詔勅が渙発(かんぱつ)せられました。精鋭なる帝国陸海軍は、今や決死の戦いを行いつつあります。東亜全局の平和はこれを念願する帝国のあらゆる努力にもかかわらず、遂に決裂のやむなきに至ったのであります。
過般来、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力してまいりましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英蘭比と連合し、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました。
これに対し帝国は、あくまで平和的妥結の努力を続けてまいりましたが、米国はなんら反省の色を示さず、今日に至りました。もし帝国にして彼らの強要に屈従せんと、帝国の権威を失墜、支那事変の完遂を切り得たるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆(きたい)に陥らしむる結果となるのであります。
事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります
東条らにとって、中国戦線からの無条件全面撤退こそが譲れない一線であったことがわかります。「米英蘭と戦わねば、日中戦争がつづけられず、日本の存立の基盤もゆるがす」と。無責任に始めた日中戦争を解決できなかったことが、アジア太平洋戦争を引き起こした主要な原因でした。

開戦をめぐる国民感情

国民の多くの反応は「ついにやったか」という意識だったといいます。
中国との「大義名分」のない対ゲリラ中心の泥沼のような戦い、戦争ですらない軍事行動=「事変」のはずなのに、大量の死傷者が出、戦争経済は生活苦をもたらし、帰還兵からは戦場のおぞましい様子がきこえてくる。口には出さないものの、嫌けを感じている人びとも多くいました。
新たに起こる戦いはこうした「軍事行動」と違うものでした。国家対国家、正規軍と正規軍の戦い、強い敵に対する挑戦、「アジア解放のための聖戦」、わかりやすい戦争の開始奇襲作戦の成功は感動をもって迎えられたといいます。
長い間アメリカに留学していた母方の祖父は、開戦後も「あんな国に勝てるわけない」とつねづね話し、幼なかった母たちが「なんてこというの」とたしなめていたそうです。「あほなことを」と苦々しい思いで開戦のニュースを聞いた人も多かったのです。

開戦時の海軍の戦力差と、生産力の差

軍部が、ひょっとしたらやれるのではないかと考えていた背景には、海軍力の増強があります。

吉田裕・森茂樹「アジア・太平洋戦争」(吉川弘文館)2007

 表のように、開戦時の海軍力において、戦艦はアメリカに劣るものの、空母の数でアメリカをしのぎ、巡洋艦でも互角という戦力で、海軍首脳は天皇に「米軍10に対し日本は7.5、アメリカの4割は大西洋にあるので、十分に戦える」と説明していました。太平洋地域だけで見ると、日本はアメリカの4倍もの航空機をもっていました。緒戦でアメリカに大きな打撃を与えて差を拡大できれば十分戦えると考えたのです。

しかし、よくかんがえてみましょう。この日米の戦力差は日本が国家予算の半分以上をつぎ込んでやっと到達した最高の数字です。他方、アメリカは本格的な軍備拡張をやっと始めた段階での数字です。海軍はそれがわかっていたからこそ戦闘力で勝負できそうな時期は今しかないと考えた面もあります。

吉田・森前掲書P62

したがって、海軍は緒戦でアメリカを叩けば勝負になると考えていました。しかし、1941年段階の国力では右図のようになり、GNPで約12倍もの開きがあります。この時期、航空機の数でみれば差がなかったにもかかわらず、航空機生産能力では5倍強の開きがあり、本気をだせば、一瞬で日本の航空機を量において凌駕できることがわかります。他の書籍によると、アメリカの主要物資生産高のトータルは、日本の76倍にも達していると記されています。7.6倍ではありませんよ。
半年前になってやっと本格化したつつあったアメリカの軍需生産は、開戦と同時にフル回転しはじめます。アメリカの巨大な工業力、経済力が、一挙に戦争目的で動き出すことの怖さ、恐ろしさを、日本の指導者たちはどれだけ理解していたのでしょうか。さらに、アメリカは必要な原材料をほぼ自由に調達できるのに対し、日本はその多くを戦闘の隙を縫って、消耗していく輸送船で運びこまねばならないのです。
真珠湾攻撃はアメリカの「本気」に火をつけました。日本が回復を2年と読んでいたのに、アメリカ軍は瞬時にダメージから立ち直り、強大な物量とともに油断していた日本軍の前に姿を現します。

12月8日、終わりの始まり

 
1941年12月8日、ヨーロッパ戦線でも大きな変化がありました
少し話を戻しましょう。6月独ソ戦が始まると、ドイツ軍は破竹の勢いでソ連領を侵攻します。ところが、モスクワまで十数キロと迫ったところで早い寒波が到来、ドイツ軍はぬかるみに足を奪われ、前進困難となりました。そこに強力な部隊が登場しました。極寒に強いソ連極東軍です。

日本軍に備えていた軍隊が突如、ドイツ軍の前に現れたのです。スパイ・ゾルゲからの情報もうけ、日本の攻撃がないと判断したのでしょう。ドイツ軍は苦戦に陥ります。
12月、ついに零下30度にもなる本格的な寒波が到来、ドイツの現地司令官は首都攻略を断念、撤退を命じました。それが1941年12月8日、真珠湾攻撃などで日本が戦争を始めた、まさにその日でした
ドイツの攻勢が止まって欧州戦線の流れが変わった日、ドイツ敗戦への歯車が動き始めた日、「終わりの始まりの日」、それが12月8日でした。
ふと考えてみます。もし、日本の開戦予定日があと一週間あとだったら、日本は戦争をはじめたでしょうか。日本の戦争計画はドイツの勝利を前提としたものでした。もしドイツが敗勢に転じたというニュースが伝われば、開戦を選択できたのか、興味のあるところです。
日本はこのニュースを知る前に、戦争を始めてしまいます。歴史に「何らかの意図」が働いたような気すらしてしまいます。

ヒトラーにとりついた貧乏神=日本

ヒトラーは日本の参戦を聞いて「日本は有史以来負けたことのない国だ。それが我が方についたのだから、我が方は負けることはない」という神がかった発言をしたと伝えられています。しかしドイツにとって日本は「貧乏神」でした。
理由その1、独ソ戦が始まると、日本がソ連を十分けん制しなかったことでソ連極東軍の対ドイツ戦線投入を許したこと

理由その2、世界最強国・アメリカを参戦させたこと。 ローズヴェルトは、対ドイツ参戦をめざしていましたが参戦反対の声も強く、機会を見いだせなかったからです。ところが、日本の真珠湾攻撃が発生したことで、ローズヴェルトは圧倒的な支持を得て参戦できたのです。
ヒトラーにとって三国同盟はアメリカの参戦をけん制するのが目的でした。それが逆効果になったのです。

リメンバー=パールハーバー~遅れた宣戦布告

日本は、日清戦争以来の伝統的な奇襲作戦をとりました。日本からすれば国力や軍事力に大きな差があるアメリカに大きな打撃を与える為には、油断をしているアメリカ軍を攻撃をした方がよいに決まっています。
奇襲作戦ですから、宣戦の通知はできるだけ遅く、攻撃の直前になる方がいいのです。したがって、日本側の電文は、普通電報で、ぎりぎりの時間に送り、真珠湾攻撃の三十分前に手渡す予定でした。ところが、ワシントンの大使館では帰国する大使館員の送別会があり、電報に気づいて翻訳を始めたのですが、時間がかかりハル国務長官に手渡したのは真珠湾攻撃開始を1時間以上すぎていました。それも交渉打ち切りの通知であり、宣戦布告書ではありませんでした。ハルは大使らに椅子もすすめもせず、言い放ちます。
このような卑劣な文書は、生まれてこの方、見た事もない

こうした経緯は大々的に宣伝されます。「日本人はだまし討ちを行う卑劣な国民である!」と。
アメリカは一挙に戦争モードに突入します。その合い言葉が「リメンバーパールハーバー(真珠湾を忘れるな)」でした。
国際法違反の可能性が高い原爆投下や無差別本土空爆も「リメンバーパールハーバー」のひとことで正当化されます。現在ですらある程度通用します。2016年末、安倍首相がハワイを訪問したのはこの歴史への配慮でした。

ローズヴェルトは、日本がいずれどこかを奇襲するだろう事は考えていたと思いますよ。日清戦争でも日露戦争でも、日本は宣戦布告前の奇襲(「闇討ち」?!)を繰り返してきた国際法違反の常習犯だったのですから。ただ真珠湾に来たのは驚いたかもしれません。なお、イギリスに対しては何らの文書も手渡さない完全な「闇討ち」でした。

アメリカ兵は平和ぼけした「弱兵ぞろい」?

日本は、アメリカという国について矢張り余り知らなさすぎたと思います。当時の陸軍にとってアメリカは「自由とか人権とか権利ばかり主張するまとまりのないわがままな人間ばかり。だからアメリカ兵は戦争などというきつい環境には耐えられない弱兵だ」というような印象をもっていました。だから、中国と同様、がつんとやれば怖がって戦う気力を失うだろう本気で思っていました。こういった思い込みが、日中戦争の泥沼を引き起こしたにもかかわらず・・・。
仮にそうだとしても、真珠湾攻撃は明らかに逆効果でした。アメリカが海外から攻撃を受けたのは、ナポレオン戦争が波及した米英戦争以来で、約130年間、攻撃を受けたことがないことを誇りにしていました。その誇りを傷つけられたのです。闇討ちで!アメリカに復讐心と強烈なナショナリズムを呼び起こしました。戦争反対の声は一瞬で吹っ飛び、人びとは兵士へ、軍需工場へと殺到しました。アメリカ人の闘争心に火をつけたのです。

ちなみに、この次にアメリカ領が攻撃されたのはいつか分かりますか?60年後、9・11のニューヨーク貿易センタービルへのハイジャック攻撃でした。あのときの異常な興奮は、真珠湾攻撃と同様にアメリカのプライドを傷つけるものだったからです。

真珠湾攻撃~戦術的には成功したが戦略的には?~

真珠湾攻撃の計画を立てたのは海軍の山本五十六でした。しかしアメリカ経験が長い山本が見落としたのはアメリカ人のプライドや復讐心でした。
山本は、海軍が暴れまわりアメリカ軍を攪乱することでアメリカ側のやる気をなくすことができると考えていました。そうした意味では、真珠湾攻撃はあきらかに逆効果であり、逆に戦争反対の声を沈黙させました。山本は戦術で勝って、戦略では負けたと言えるのかもしれません

真珠湾攻撃 山川出版社「詳説日本史」P362

 ローズヴェルトは真珠湾作戦を知っていたのかのではないかといううわさが昔からあります
たしかに、この時期、日本の暗号はほぼ解読されていましたといわれます。だから日本の開戦も知りえたというのです。 状況証拠もあります。奇襲が大成功だったというものの山本は最大の目的を達成できていませんエンタープライズなど真珠湾を母港とするアメリカ空母を逃したのです。空母だけが演習で航海に出ていました。空母をたたいて制空権で優位に立つの日本側のもくろみは失敗に終わりました。日本軍はこれらの空母と艦載機に苦戦します。このアメリカ空母を叩く目的で起こしたミッドウェイの戦いで大敗し、戦局が一変することになるのです。

ローズヴェルト大統領自身、日本との戦争は避けられないと認識していたといわれています。しかし反戦論も根強く参戦熱は高まりません。ここまではほぼ一致しています。ここからが、陰謀説です。

参戦をめざすローズヴェルトは、暗号解読で真珠湾攻撃を知った。国民には一切秘密にしたまま、沈められては困る空母を出航させ、戦艦などを人身御供にした。予定通り日本軍が奇襲をした。しかも国交断絶の書類は奇襲後に遅れて届けられ、傷つけられたプライドと「卑劣な」日本への怒りは戦争反対の声を押しつぶし、一挙に戦争モードに入った。もちろんより重要と考えていたドイツとの戦争も開始できた。
たしかに面白い説であり、かなり説得的です。
しかし、自国の軍隊や市民を犠牲にできたのだろうか、十分な証拠もない、暗号解読の精度もそんなに高くなかった、先に見たようにまだ戦力が整っていないということで、否定的な声の方が強いようです

日本の戦争計画

開戦当初、日本はどのような作戦計画をとっていたのでしょうか。
11月15日に出された「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」が開戦時唯一の戦争計画といわれています。
その方針は次のようなものです。
速に極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。」
むつかしい言葉でわかりにくいかもしれません。ツッコミをいれながら内容をまとめると、次のようになります。
1、アメリカ・イギリス・オランダの東アジアでの拠点を占領し、「自存自衛体制」をつくるとしています。自存自衛とは「重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」と書いてあるように、石油などの資源とその輸送路を確保し、戦時体制を確立するということです。

東京書籍「日本史A」P135

2、蒋介石の国民政府を屈服させるとしています。これまで泥沼化した戦争をそんなに簡単に屈服できると考えたのでしょうか。簡単に言うと、米英との戦いで援助を断ち切れば中国は屈服するという事です。中国への過小評価がつづいています。
3、ドイツ・イタリアとの提携でイギリスを屈服させるとしています。日本はアジアの拠点を叩けば、ドイツがイギリスを屈服させてくれるだろうと期待しています。しかし、ドイツは航空戦で大きな被害を被り、イギリス上陸作戦を中止しています。わかっていたのでしょうか?
4、アメリカの継戦意志を喪失させるとしています。簡単に言うと、イギリスも降伏し、中国も降伏したら、アメリカはやる気を失うだろうという安易な展望です。

あとに書かれている内容を見ても、これといった方策は書かれていません。「対米通商破壊戦の徹底」とか「中国及び南洋資源の対米流出を禁絶」とか、「対米宣伝謀略を強化による米国世論の厭戦誘発」とか、「米濠関係の離隔」といった内容と、ドイツ・イタリアによる「海上攻勢の強化」といった内容で、アメリカを破るといった景気のいい内容すら書けません。

 これが開戦時の日本の計画です。簡単に言うと
ドイツがイギリスを破ってくれるだろう。援助がなくなれば中国も屈服する。友達のいなくなったアメリカでは厭戦意識が高まってやる気を失うだろうという、小学生低学年レベルの計画です。
それでもアメリカには勝てるとは最初から思っていないことがわかります。「自存自衛」といいながら,資源の開発や輸送をどうするのかという計画もありません。すべて自分に都合のよい希望的観測、願望ばかりです。軍部をはじめとする日本指導層の幼児的性格が現れています。こんな連中に、日本人やアジア、さらには世界の人びとがつきあわされたのです。

大東亜共栄圏建設

さて前回、天皇に戦争の「大義」はと聞かれ「目下検討中であります」と答えた東条です。やっと「大義」を考えつきました。「大東亜共栄圏の建設」がそれです。

浜島書店「新詳日本史図説」P285

「東亜新秩序」を発展させ、欧米列強の植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とした「共存共栄」のブロック=「大東亜共栄圏」をつくるという考えです。それに合わせて、戦争の呼び方も「大東亜戦争」と命名しました。

このいい方を真に受けて、今でも「この戦争はアジア解放の為の戦争であった。その証拠に、戦後になってこの地域で多くの民族が独立を実現した」と主張する人たちがいます。
戦争の出発点(「ホンネ」)としての「自存自衛」のための資源獲得、あとづけの「大東亜共栄圏建設」という「大義」(「タテマエ」)、両者をともに満足させることは難しいものでした。このは次の時間に見てみることにしましょう。

日本の快進撃とミッドウェー海戦

すこし、戦争の様子を見ていくことにします。
戦争の開始とともに、日本は、空軍力を生かしアメリカ・イギリスの海軍に打撃を与えながら、一挙に南方に進出して、マレー半島・フィリピン・オランダ領東インド(インドネシア)・ビルマ(現ミャンマー)などを次々と占領、また南太平洋のソロモン諸島やニューギニア北部へも進出していきます。

帝国書院「図説日本史通覧」P280

快進撃を進める日本に衝撃を与えたのは、アメリカ爆撃機による本土空襲でした。1942(昭和17)年)4月、アメリカ空母から出撃した爆撃機16機が日本上空に飛来、主要都市を爆撃し、中国大陸へ悠然と飛び去っていきます。国民も軍部も大きな衝動を受けました。

ミッドウェー海戦 攻撃され炎上する空母飛龍このため、連合艦隊司令官の山本は、多くの反対を押し切り、真珠湾で逃したアメリカ空母へ打撃を与えるため中部太平洋のミッドウェー島攻撃をめざしました。しかし、日本艦隊の動きは察知されていました。その結果、4隻の空母をはじめとする多くの艦船を失い大敗を喫します。艦船だけでなく、高い技術をもったパイロットと飛行機をも一緒に失うことでした

空母から飛び立つこと自体高い技術が必要ですが、さらに困難なのは帰艦。大海原に浮かぶマッチ箱のような空母を見つけ、狭い甲板に降り立つのは奇蹟に近いような技術で、長時間の訓練のたまものです。こうした高い技術をもったパイロットたちが大量に戦死したのです。
出撃したのはいいけれど、帰ってきたら自分の戻るべき空母は沈没!その絶望感はいかなるものだったのでしょうか・・・。
ミッドウェーの敗戦をきっかけに戦況は日本の攻勢から守勢へと変わっていきます。
なおこの海戦は国内では大勝利として報じられ、実態は隠されつづけました。いわゆる「大本営発表」です。

ガダルカナル攻略戦

戦争の最大の転換点が南太平洋ソロモン諸島・ガダルカナル島攻略戦です。南太平洋に進出した日本軍はアメリカとオーストラリアの分断を目的にこの地に上陸、飛行場を建設を開始しました。

東京書籍日本史AP144

これに注目したのがアメリカです。アメリカは日本の想像を超える1万人という大軍を一挙に上陸させ、日本守備隊を蹴散らし、飛行場を占領しました。日本はアメリカがまだ真珠湾の被害から立ち直れていないと多寡をくくっていました。
日本軍は飛行場を取り戻そうと次々と陸軍部隊を上陸させ、何度も攻撃をかけます。海軍も援護に駆けつけ、米艦隊との海戦を繰り返しました。
しかしすきを縫っての上陸であったため、戦車など重火器や食料品などはもちこめず軽武装のみでの上陸でした。銃をもっての突撃で白兵戦に持ち込むのが日露戦争以来の日本陸軍のやり方です。第一次世界大戦での機関銃の大量使用という戦術によってとっくに否定されたやりかたです。陸軍は、このやり方に固執しました。人命軽視の日本軍の本性が見えます。
最初の部隊は、正面突破による飛行場奪回をめざしたが、機銃の十字掃射をうけて壊滅します。タコツボとよばれる穴に潜んだ生き残りの兵士の前に現れたのはアメリカの巨大な戦車、歩兵銃の弾丸や手榴弾ではびくともしない。それが兵士の潜むタコツボをキャタピラーで一つ一つを踏みつぶしていく・・・こうして最初の部隊は全滅しました。何一つとしての戦果のない戦いでした。
これに懲りた後続部隊はジャングルを迂回して攻撃しようとしました。しかしジャングルの中で食料が尽き、多くの兵士が餓死、飢島」と呼ばれることになります。突撃した部隊も機銃掃射の餌食となりました。年末になって日本軍は撤退を決意、生き残りの兵士は翌年になって撤退しました。
この島に上陸した日本兵は約3万1千人、死者は66%、約2万1千人、うち戦死者は5~6000人、残りは餓死とマラリアなどが原因でした。さらに海戦と空中戦で24隻の艦艇と1000機弱の航空機が失われました。本来なら石油などの資源を輸送するための輸送船も軍に徴用され沈没、日本の輸送力は一挙に減少しました。

軽視される兵士の生命~「玉砕」と餓死、水没死

ガダルカナル島攻略戦を境に、戦局は敗勢へとかわります。
アメリカは、ソロモン諸島からニューギニア北岸を経て進むコースと、中部太平洋を横切る二つのルートを飛び石のように進みます。

帝国書院「図説日本史通覧」P280

アメリカ軍が上陸した島では圧倒的な米軍の前に守備隊が次々と全滅します。大本営は、全滅を「玉砕」(玉のように輝いて砕け散ったという意味)と言い換え、軍人の鏡とほめ称えました。実際は「捕虜になることは恥」と教え込まれていたため、勝敗が決しているのもかかわらず行われる「バンザイ突撃」による戦死であり、兵士を無駄死にさせるものでしかありませんでした。
なお、戦局がより困難になると、降伏はもちろん自決もバンザイ突撃も許されず、最後の一兵まで戦うことが求められ、絶望的な戦いが繰り広げられました。平成の天皇は、こうした悲惨な状況が耳に入っていたのでしょう。2015年、高齢と不十分な受け入れ態勢を承知でパラオ諸島を訪問しました。NHKはこの島での戦いを狂気の戦場」というドキュメンタリーで描いています。
バンザイ突撃も許さない戦いは、硫黄島で、沖縄で、より巨大な規模で繰り返されます。
他方、多くの島の守備隊は放置されます。援軍がくるわけでも輸送船が来るわけでもないまま取り残されたまま、多くの餓死者や戦病死者が出ました。とくに悲惨だったのはニューギニア島とその周辺です。話すこともはばかられる事態が生じてしまいました。
アジア太平洋戦争において、広い意味の餓死者(栄養失調や使用失調から来る戦病死者をふくむ)は140万人、軍人の戦没者の60%強にのぼっています。


これまでの戦いで日本軍は多くの艦船と航空機を失い、制海権も制空権も失ないます。船も、飛行機もびくびくしながら、こそこそと行動せざるを得なくなります
。こうして輸送船など船舶は、次々とアメリカ潜水艦などの餌食となります。その危険な海を、兵士や看護婦などの軍属、さらに慰安婦などを載せる船が航行していたのです。多くの船が沈められ、海に投げ出され、溺死したりサメの餌食になりました。ニューギニア沖で海にうかぶ日本兵にオーストラリア戦闘機が機銃掃射を浴びせかけた出来事も起こります。オーストラリアでは、この行為が正しかったのか、いまだに論争になっています。

海没死した兵士は戦没した兵士の20%弱 40万人に上ると考えられています。
アジア太平洋戦争における兵士の死の大部分は広義の餓死と海没死が占め、一般に戦死としてイメージされる戦闘死は戦没した軍人・軍属230万人の3割70万人前後です。戦闘死といっても、自殺の強要とも言える「バンザイ突撃」で命を失ったもの多かったのですが。

またもや軽視された「補給計画」

この話、南京攻略戦の話とつながっています。日本兵は食糧をもたず戦争をすすめたため「徴発」という名の掠奪が発生、それが引き金のひとつとなって残虐行為が起こったのでした。

吉田・森 前掲書P170

太平洋の戦場でも同様でした。食糧などの物資調達が軽視され、兵士のみが送り込まれ、精神力だけで戦えといわれたのです。輸送軽視は日本軍の特徴でした。
さらに戦争を始めたきっかけは、南洋の資源の確保だったはずなのですが、その資源を運ぶはずの船は次々に軍隊に徴発され、ガダルカナル沖などに沈んでいきました。本来の資源運搬に使われた船も海軍による援護を受けられず、次々と沈められていきました。
戦争を始める時は「天然資源の不足」といいながら、いったん戦争が始まるとそんなことは一切無視されてしまうのです
今日は、このあたりまでにしておきましょう。
<次の時間:アジア太平洋戦争(2)
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