シベリア出兵と大戦景気、大衆文化の広がり

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シベリア出兵と大戦景気、大衆文化の広がり

 

ロシア革命とシベリア出兵

なぜ「クリスマスまでに帰れる」と思ったのか

第一次世界大戦の話をしたとき、多くの国では戦争はすぐに終わる。ちょっと危険なスポーツのようなもの、クリスマスには帰れると思っていたという話をしました。
植民地での戦争を除き、ヨーロッパで戦われた大きな戦争、イギリスは1850年代のクリミア戦争、ドイツやフランスは1871年の普仏戦争が最後。それ以降、短くても40年以上、イギリスでは60年以上も前のこと。
時間がたつと辛い思い出は忘れ去られ、格好のいい話や「やむを得ない決断だった」なんていう「物わかりのいい」話とされてしまいます。戦場での殺し殺されるという行為、戦場の臭いと光景、家族や恋人など大切な人やものが奪われるむごさ、食べ物に困り、高い物価に悩まされ、自由にものが言えないような雰囲気、こういった皮膚感覚的なものは忘れ去られてしまいました。

さらに、人々は知りませんでした。この間に工業や技術、とりわけ重化学工業がおそるべき勢いで発展し、19世紀の「牧歌的だった時代」の戦争とはまったく別物となっていたこと。だから、みんな「クリスマスには帰れる」などというお気楽な気持ちで、志願して戦場に行ったのです。

革命前のロシア

ところがすでに近代戦争を体験した国がありました。
一つは日本。
日本は日露戦争という史上初の近代戦争で戦争の恐ろしさを強く感じていました。しかし、戦場が日本ではなかったし、勝利をしたことで、つらいこと苦しいことは「いかに勇敢に戦ったか」という神話に変えられつつありました。最初の時間に紹介した「冬の夜」の歌詞のように、いろりの端で縄をないながら「手柄を語る」という神話に。
そして史上初の近代戦争を体験したもう一カ国がロシアです。
ロシアは日本との厳しい戦いのなかで、物価の高騰などに苦しめられ、反戦運動が高まり、ロシア第一革命も発生しました。
そして日本とは違い、戦争には敗れ、海軍は全滅しました。
そのロシアが、またも戦争をするというのです
今度の相手は、日本のような格下ではなく、ドイツという強国です。当然のことながら反対の声があふれました。
これをおしきって戦争を始めたものの、東部戦線のタンネンベルクの戦いで大敗を喫し、ドイツ軍に領内深くまで攻め込まれます。ただ、戦線が広がりすぎることをおそれたドイツが侵攻をストップしたため命拾いしましたが。
どこの国でも、戦争が始まったときは「がんばれ、ロシア!!!」とばかり、ナショナリズムがあふれるますが、ロシアはそうではありませんでした。「いい加減にしてな!」というしらけた感じ。
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レーニン  ロシア革命の指導者で、ソビエト共産党を結成した。

社会主義者レーニンは「この戦争は大国が領土を取り合うために起こした何一つとして正義のない帝国主義戦争」であるとして「このような戦争をしたロシア政府を倒すべきだ」「帝国主義戦争を内乱に」と主張し、「戦争は負けるべきだ」と敗戦論を主張します
兵士は、十分な装備や食料も与えられないまま戦闘を強いられ、「やってられるか」とばかり、厭戦論が高まりました。
銃後の国民も、窮乏生活を余儀なくされます。とくに女性たちは生活への負担を肌身で感じます。
レーニンらの言葉がロシアの人々の間に浸透していきます。
ロシア中に戦争をすぐにやめて欲しい」という声があふれました。

ロシア革命

1917年3月、政府に抗議した女性を中心としたデモ。このデモが引き金となってロシア革命が発生する。

1917(大正6)年3月、ロシアの首都サンクトペテルブルクで女性たちが「パンをください」とデモをしました。これを鎮圧すべく軍隊が出動します。ところが、デモに向けて銃口を向けていたはずの兵士たちが銃口を逆に向けたのです
兵士たちが参加したことをきっかけに革命が本格化、ソビエトという革命実行委員会ともいえる組織がそこら中で生まれます。「これははまずい」と考えた議会は、皇帝に退位と皇太子への譲位を求めました
これに対し、皇帝ニコライ2世はある条件をつけて退位を決断します。「自分の息子である皇太子は血が止まらなくなる血友病という病気なので、かれを即位させることだけは許して欲しい」という条件です。ニコライは、優しい父親でもあったのです。
こうしてニコライ2世は退位しますが、次の皇帝に推薦された人物は即位を拒否、長い歴史のあるロシア帝国はあっさりと滅びます。歴史が変わるときというのはこんなものです。
これを三月革命といいます。ロシアは旧暦を用いていたので二月革命と呼ぶときもあります。
議会を中心とする臨時政府は戦争を終わらせようしますが、イギリスやフランスからすれば「自分たちを戦争に引き込んだのはロシアじゃないか、そんな勝手なことがあるか。ちゃんと戦え」といわれ、あっさりとあきらめます。
いつの時代も戦争を始めるのは簡単ですが、終わらせるの方がはるかに大変なのです。
こうした臨時政府の姿勢を激しく攻撃したのが、のちにソビエト共産党と名乗ることになるレーニンらボリシェビキというグループです。
かれらは、戦争をやめようとしない臨時政府への反発を背景に武装蜂起を行い、革命実行委員会ソビエトの連合体に権力を集める社会主義革命革命を行いました。これが十一月革命です。
こうしてソヴィエト=社会主義政権が成立します。
三月革命と十一月革命を合わせてロシア革命、ロシア帝国が滅びて、社会主義国家ソビエト連邦が成立した革命とまとめておけばよいでしょう。
ソビエトというのは国名にも用いられるので地名のように思われがちですが、そうではありません。

ソビエト政権と革命干渉戦争

戦争をやめることを公約として権力を奪ったレーニンたちです。世界に向けて「無併合・無割譲・民族自決の三つの原則に従って戦争をやめよう」と提案します。
そして、秘密外交反対という立場から、これまでロシア政府が結んできた秘密条約をすべて暴露します。日本「満州やモンゴル、そして中国を日露で山分けしようぜ!」なんていうヤバい秘密文書(「日露協約」)もばらされてしまいます。もっともヤバいのは「アラブの連中には独立させるといっているけど、中東は英仏露の三国で山分けしよう!」(サイクスピコ協定)というものでした。

サイクスピコ協定 英仏露三国による中東分割秘密協定 青・青紫がフランス、赤・赤紫がイギリス、紫は共同統治、ロシアは黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域を手に入れることになっていた。

冷静に考えると、この提案しか、このとき戦争をやめ、世界を平和にする道はなかったのかもしれません。しかし、頭に血が上っている各国は「何を夢物語を言ってるのだ」とばかり相手にしません。しかもヤバい約束をばらされたのもあって、腹を立てています。
また、あんな提案と暴露をされれば「世界を山分けする」という作戦にも影響します
他方、ドイツは「辞めるというのは、お前が負けたいうことやな。それやったら領土をもらうで!」といった姿勢をとりました。
イギリスやフランス、新たに参戦したアメリカからすれば、ロシアが戦争から離れれば、「ロシアとの戦いのために配置されていたドイツ軍がフランスの西部戦線に投入され、ドイツが優勢になる、だからやめることは許さない」という姿勢をとりました。
さらに、社会主義というものは、資本主義を否定する立場であり、そうした勢力が国家を形成することは、自分の国内の社会主義勢力の力を強めるし、世界を山分けするという帝国主義的な利害にも影響を与え、許せない存在であると考えました。
そのころ、ロシア国内では、皇帝を支持していた勢力や臨時政府を支持した勢力、さらには領土の一部をドイツに譲るとしたことに反対した勢力が束になってソビエト政権と戦っていました。こうした勢力がイギリスやフランス、アメリカ、日本へと援助を求めていました。
シベリア出兵 兵士たちは国民の冷たい視線を浴び、出動していった。 東京書籍「日本史A」p101

シベリア出兵 兵士たちは国民の冷たい視線を浴び、出動していった。
東京書籍「日本史A」p101

新たに成立したソビエト政権を倒そうとして、日米英仏の帝国主義列強を中心とする国々がロシア内部の反革命勢力と結びついて軍事介入したのがロシア革命干渉戦争です。
ロシアに貸していたお金が返ってこないことを嫌った側面もあります。
第一次大戦自体は1918年11月に終わりますが、干渉戦争はつづきます。日本もアメリカからの誘いを受け、1918年に軍隊をシベリアに派遣します。しかし、アメリカから求められた数倍、一時は7万人を超えるという大軍で・・・。ちなみにアメリカは8000人程度の軍隊です。
これをシベリア出兵といいます。

シベリア出兵

出兵はしたものの、革命軍は強く、1920年段階でアメリカも、ヨーロッパ側に出兵していたイギリスやフランスも引き上げていきます。
帝国書院「図説日本史通覧」P249

帝国書院「図説日本史通覧」P249

ところが日本軍はシベリア奥地まで進出、傀儡政権樹立を計画するなどの行動に至ったため、世界から「シベリアや北部「満州」を奪おうとしているのではないか」などとぼろくそに言われるようになります。実際、陸軍を中心にそういった声もでてきました。しかし、各地で革命軍とパルチザンとよばれる民兵たちの前に押し返され、ニコラエフスクという港では革命派に多くの日本人が殺されるという尼港事件も発生するなか、1922年日本軍はすごすごと撤退します。事実上、負けたといってもいい結果です。しかも未練たらしく、北樺太には軍隊を残して。
もちろん国民にはうまくごまかしたが、加藤高明が「何一つ成果がない戦いだった」といったように失敗は明らかでした。しかし、軍隊も政府も責任逃れでその責任については触れず、さらに「まずいことは忘れよう」という困った国民性のためか、この出来事は忘れられがちになります。
しかし、恥をかいた陸軍は「リベンジを果たす」として北進論が今後の目標となります。「ソビエト軍・共産主義と戦い、シベリアに進出する」これが北進論です。

 

スタルヒン投手 日本プロ野球初の300勝を達成した。

亡命ロシア人と「従軍慰安婦」
二つほど余談をしておきます。この戦いは外国軍と革命軍・ソビエト勢力との戦いでしたが、他方では革命賛成派と反対派の内戦でもありました。革命軍が赤軍と呼ばれていたのに対し、反革命軍は白軍と呼ばれました。
戦争の結果、白軍の関係者たちはロシアから国外に逃れ、中国東北部(「満州」)や北海道などにも移り住むようになりました。
プロ野球初の300勝投手であったスタルヒンはこうした人であり、不世出の横綱とされる大鵬のお母さんもこうした人でした。
もう一つはいやな話なんですが、シベリア出兵のなかで、兵士の間に困った病気が広がりました。性感染症、性病です。かなりの感染率だったと見えて、陸軍としても頭を悩ませました。この経験が、日中戦争以降、おぞましい制度をたちあげる背景となります。男性である兵士たちの「性」を処理する女性たちを軍隊に同行させる制度、従軍慰安婦の制度です。この制度立ち上げの背景にあったのが、シベリア出兵の経験でした。

「大戦景気」と日本社会の変容

「大戦景気」

第一次世界大戦で日本はぼろもうけをしました。
どんなふうに?
戦争が始まると?・・ヨーロッパが武器や弾薬などを日本から買う・・。
そうですね。いろいろ軍需物資や・・船、これがよく売れる。
「ヨーロッパに軍需物資や船を売る」これが一つ目です。
貿易額の推移 帝国書院「図説日本史通覧」P250

貿易額の推移   帝国書院「図説日本史通覧」P250

二つ目、戦争はアジアの国々を困らせました。なぜ?

戦争している国がまず必要なのは・・軍需物資。外国からも買いますが、基本は自国で生産しますよね。でもそんなに工場は増やせないし、働く人も兵隊さんに連れて行かれ不足する。とすると、イギリスやフランスの工場や労働者は軍需目的が中心になり、平和的な産業は後回しになります。
ということで、 イギリスなどがアジアなどに輸出していた綿糸や綿織物などはごめんなさい。輸出できる余裕がありません。自分たちで何とかしてくださいとね。
ヨーロッパの製品が来なくなったアジア諸国、とくにインドや中国では民族資本と呼ばれ資本家も生まれてきました
しかし、それでは足りません。ヨーロッパ以外からということで、日本に綿糸や綿織物の大量発注が来るようになります。
綿糸や綿織物をアジア(中国など)へ輸出」これが二つ目です。

「在華紡」の形成

ついでにいうと、工業製品を売るだけでなく、日本の紡績会社が中国に工場を作るようにもなりました。こうした紡績業を在華紡といいます。
戦後、中国が改革開放政策をとったとき、日本式の工場は、品質管理の仕方や合理的で効率的な作業手順「改善」の方法など、中国側が現代的な経営を知る機会になると歓迎されました。
しかし、考えてください。第一次大戦の頃、日本の紡績工場での働き方はどのようなものでしたか。年若い女工さんを雇い、長時間・無権利の低賃金労働。奴隷のように働かせ、時には暴力も用いる。こうしたインド以下的低賃金モデルの「日本的経営」を中国にも持ち込んだのです。しかも、日本の労働者の半分の賃金で。
こうしたやり方で作った製品は、中国人企業が作った製品よりはるかに安い製品も供給され、太刀打ちできない状況となります。
こうしたやり方が中国の人たち、とくに労働者や民族資本家たちにどのように受け止めたか、そしてどのような事態が起こるのか。「日貨排斥」という日本製品のボイコットは、在華紡の進出にともなう経済的な摩擦とその手法も背景にあったのです。

中国や韓国の人の頭をポカッとやるのはNG!!
そうそう、余談ですが、日本人はよく人の頭をポカって叩きますね。芸人なんかでは日常茶飯事ですし、友達同士でもじゃれ合う感じでポカポカやります。

ところが、中国では人の頭には魂が宿っていると考えるので、その頭を、たとえ冗談や親愛の情であったとしても叩くことはタブーです。韓国でもそうです
以前、ダウンタウンの浜田に、何の気なしにポカッとやられた中国人のタレントが泣き出し、おたおたしていたのを見たことがあります。日本でどうってことのないことが世界では大問題になります
こうした文化的違いもあって、のちに激しい反日運動につながっていきます。

アメリカの好景気がもたらした繁栄

話を戻します。
日本も戦争で大もうけしましたが、もっともうけた国がありました。わかりますか。・・・アメリカです。
アメリカは新兵器を次々とヨーロッパに売り込み「連合国の兵器庫」と呼ばれるようになります。多額の金を貸しつけたことは前回話しました
大もうけすると、ぜいたくもしたくなる。調子に乗った金持ちはどんなことを考えます?ファッションに金をかけます。今と同じですね。自分だけでなく、自分以上に嫁さんや彼女にも。「絹の靴下」とかシルクのスーツとかいうような贅沢(ぜいたく)品がどんどん売れました。
当時、最高級の絹・シルクを作っていたのは・・・日本。だからアメリカから日本へ絹の注文がどんどん押し寄せてきました。日本最大の貿易品である生糸と絹織物も絶好調になったのです。
生糸や絹織物を主にアメリカに輸出」これが日本が「ボロものけ」した理由の三つ目です。

「船成金」

こうして貿易が活発化します。すると輸送手段が必要になります。何で運びますか。・・・。こうして船関係の仕事が大もうけします船を作る造船業。軍艦だけでなく商船もつくります。ヨーロッパでは「景気よく」船を沈め合っています!さらに船でものを運ぶ海運業。こうした業界はとくに羽振りがよくて、船成金などといわれました。

「成金(なりきん)」とは

成金の風刺漫画(和田邦坊画)当時の実話を元にしたといわれる。 東京書籍「日本史A」P104

成金の風刺漫画(和田邦坊画)当時の実話を元にしたといわれる。
東京書籍「日本史A」P104

「成金(なりきん)」ってわかりますか?将棋では前にしか進めない「歩」などの駒が相手側の陣地に入るとポコッと裏返って「金」という駒と同じ動きができるようになります。これを「成金」といいます。どこにでもある「歩」の駒程度の存在てしかなかった人が大化けして「金」の駒のような「大物」になる。「金」には「カネ」という意味もあります。このように急に金持ちになった人を、嘲(あざけ)りと嫉(ねた)みもかねて「成金」といいました。現在でも使うことがあるけど、聞いたことありますか?
教科書に当時の漫画(右の漫画)が載っています。「成金」が料亭で芸者さんを揚げて大騒ぎしたあと、靴を穿くための明かりがないということで、100円札に火をつけて明かりにしたという話。実話らしいけど、ほんまかいな。

カオナシと日本人
なんか、「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」みたいな感じですね。

「カオナシ」 「千と千尋の神隠し」HPより

ぼくは、あの「カオナシ」を日本人そのもののように感じて仕方がないんだけど、気のせいかな。
「カオナシ」はかなりの人気キャラらしいけど、なんか身につまされるところがあるのでしょうか。
まったくの個人的な感想と余計な話でした。

 化学工業発展と電化


ドイツと戦争をして困った事がおこりました。日本はドイツから化学肥料とか化学染料(糸を染める薬品)といった化学、「ばけがく」の化学だよ、なんかはドイツから輸入してきました。こうした化学工業は、ドイツの得意技でした。ところが、ドイツとの戦争になり、敵国から輸入するわけにもいきません。仕方がないと日本でも作ろうという動きがすすみます。化学工業が生まれてきました。

帝国書院「図説日本史通覧」P250

帝国書院「図説日本史通覧」P250

電気に対する需要も高まります。福島県の猪苗代湖に水力発電所が作られ、えんえんと東京まで送電線が引かれます。
東京の、つづいて全国の明かりがガス灯から電灯へと代わっていきます。
さらに、工場のエネルギー源も蒸気から電力へと変わっていきました。

この時代から、福島県は東京の電力供給地でした。

農村中心の社会から都市中心の社会に

調子に乗った資本家は、次々と工場を作り、会社をおこし、新たな事業に手を広げていきます。

好景気・バブル経済の落とし穴
新しく事業を拡大するのはいいんですが、この好景気が戦争による一時的なものであるということを考えず拡大するから問題です。ちょっと考えればすぐ分かるのにね。人間、ちょっと調子がよいと、後先を考えず、この好景気が永遠に続くと思って、自分の背丈以上の無茶をしてしまうのです。そして80年後、まったく同じように好景気に浮かれて、同じような結果を招いてしまいます。

そうそう、戦争が終わってから10年間のアメリカも同じことしてますね。そして世界をガタガタにしてしまうことになりますが。
80年後のバブル経済の後始末に10年以上かかったように、大戦後の日本も、大恐慌後のアメリカも、浮かれ経済のあとしまつ、経済の立て直しにとんでもない苦労をすることになります。

先回りして余計なことをいいました。

農業国から工業国へ
とりあえずとんでもない好景気です。
輸出がどんどん伸び、これまでの輸入超過は一挙に輸出超過となり、国内に資金が流入してきます。これまでたまりに貯まった国の借金もいっぺんに支払うことができ、日本は借金国(これを「債務国」といいます)から金貸し国(「債権国」)へと姿を変えます。

第一次世界大戦によるこの好景気を「大戦景気」といいます。
これによって日本社会も大きく姿を変えていきます。どんな風に変わった?
日本経済を支えるのが、農業など第一次産業から、工業を中心とする第二次産業へと移行したんだから、「農業国から工業国へ」とまとめらます。
地域としてとらえると、「農村中心の社会から都市中心の社会へ」という風にもまとめられそうですね。

都市化・工業化の衝撃

工場が盛んになったから労働者も倍増します
帝国書院「図説日本史通覧」P250

帝国書院「図説日本史通覧」P250

労働者も、製糸や紡績の女工さんに加えて、男性の工場労働者が急増します
女工さんたちが出稼ぎ型だったり家計補充型だったりしたのにたいし、家の大黒柱として家族を養わなければならないという重責を担わなければならないひとたちです。給料が安ければ生活が成り立たなくなる。だから給料の問題は切実になってきます。
会社が発展してきた結果、会社も大きくなり事務や営業といった部門で働くサラリーマン(俸給生活者)も増えてきました。こうした人を、新中間層と呼んだりします。
東京書籍「日本史A」P119

東京書籍「日本史A」P119

家と職場が離れたので、通勤ということが問題となり、家に帰るまでにちょっと寄り道ということで、いろいろな店も増えてきて、サービス業も盛んになります。

都市化にともなっていろいろな問題も起こってきます。農村だったら食料はかなりの部分、自給できたけど都会だったら大部分の物を買わなければなりません。とくに野菜や果物はそうですね。
ぼくの家は郊外にあったので、庭にイチジクや柿の木があって、もいで食べることになれていました。だからこういった果物は買って食べるということにものすごく抵抗感があります。なんでイチジクが450円もするのか・・という思いで手が伸びないのです。

都市化が進むということは、基本的にはなんでもかんでも買わねばならないということでもあるのです。

この時代の人々はどのくらい、どんな米を食べたのか? 
そして何といっても主食である米の問題です。この時代はみんなものすごく米をたべていました。米しか食べなかったといってもいいくらい。
宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩がありますね。あれで一日に食べる米、どれだけと書いてあったか知っている人いますか?「玄米四合を食べ」と書いてあるんですよ。
一合が180立方センチだから、720立方センチ。一合でお茶碗に大盛りで2杯ですから8杯。普通盛りなら10杯というところです。「どんだけ~」といいたくなるほど、米を食べていたんです。
でも農村では米だけを食べることはめったにない。米以外のものも作っているからそれを混ぜたり、そばや小麦などでつくったものも食べていたんです。しかし都会ではなかなかそうはいかず、結局は米を買う。家に懐具合、実際は働き口によって食べる米のランクには大きな差があったらしい。外国産か国産か。痛んだものが多いか、白米か、玄米か、など。
物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

物価の急騰と賃金の上昇
帝国書院「図説日本史通覧」P250

このようにして、都市化の進展にともなって、米不足が深刻化し、物価が上がり、人々の生活も厳しくなっていきます。

 

実質賃金ということ
賃金もあがるけれど、物価の値上がりには追いつかない事態が生じます。給料が上がったにもかかわらず、そのお金で買えるものは減ってしまうという現象もおこりました。消費ベースでいえば給料が下がったのと同じ事になります。こういったことを実質賃金が下がるといういい方をします。この考え方はぼくたちの今の生活のことを考える上で重要ですので、是非知っておいてくださいね。
こんな風に好景気にともなって、物価上昇、つまりインフレーションがどんどん進んでいったのがこの時期でした。

 

日本経済の分岐点?!
ふと、妄想してみるんですけど、この時期に資本家たちが、工場や会社を増やすだけでなく、もっと働く人の給料を上げて人々の生活を豊かにするという方法を採っていたら、のちの日本はどうなったのでしょうね。
米の値段が上がっていたから、小作料も下げられたはずです
人々の生活が豊かになれば、国内の需要が高まり、国内市場が広がり、もっとハッピーな社会になるチャンスがあったんです。その絶好のチャンスだったのかもしれません。人々の生活を豊かにし、日本を豊かにして国内市場を拡大するという視点があれば、はるかにましな日本になっていっただろうな、などと思ってしまいます。
しかし、こうした道をとらず、安い賃金こそが安い商品を作り、輸出を拡大できる。小作人に豊かな暮らしは必要ない、それよりももっと小作地を広げようといった考えが、国民一人一人の生活が苦しいままに放置し、日本を戦争の方向にひっぱっていったんです。そして破滅します。
ちなみにこの時期、小作地率が最大になっています
余談でした。

大正~昭和初期の人々の生活

都市化と洋風化、「職業婦人」の登場

このような「大戦景気」をきっかけに、大正から昭和の初期にかけての人々の生活がどのように変わっていったかを見ていきたいと思います。
ラジオ放送は1924年に始まり、またたくまに全国に普及した。 帝国書院「図説日本史通覧」p258

ラジオ放送 1925年に始まり、ラジオ受信機はまたたくまに全国に普及した。
帝国書院「図説日本史通覧」p258

基本は都市化の進展と生活の洋風化です。さらに新中間層と呼ばれるサラリーマンや官僚といったホワイトカラーも増加し、女性の社会進出も進みました。大衆文化といわれるものも生まれてきます。

 

「職業婦人」の登場 
女性の社会進出ということですが、女の人はどんな仕事に進出したのでしょうか・・?

東京書籍「日本史A」p120

東京書籍「日本史A」p120

明治以来の女性の仕事であった先生や看護婦なんかに加え、バスの車掌さんや電話交換手、タイピスト、あるいはデパートの店員などが花形の仕事で、「職業婦人」などとよばれました。

他方で都市化にともなって核家族化が進み、専業主婦が増えたのもこの時代です。

働く女性たちの多くは、冷たく好奇な目で見られました。多くは安い賃金で働かされ、男尊女卑の職場におかれ、教師を除き結婚と同時に退職することを求められました。通勤途上の痴漢も多かったのです。しかし、女性たちは収入を得ることで自立する力を持っていきました。そして結婚、そして離婚の自由を獲得するようになっていき、強固な家制度の基盤を掘り崩していきました。

洋装と「電髪」

この時代の社会の変化を衣食住で見てみたいと思います。
ショートカットに洋装で歩くおしゃれな女性たちはモダンガール(モガ)と呼ばれた。 山川出版社「詳説日本史」P334

ショートカットに洋装で歩くおしゃれな女性たちはモダンガール(モガ)と呼ばれた。
山川出版社「詳説日本史」P334

「衣」、衣服でいうとなんといっても洋装の普及です。

男性では洋装がふつうになり、女性も洋装が増えてきます。洋装に合わせ女の人の髪型も変わってきました。これまでは和服に合わせて髷という日本髪中心だったのが、ショートカットが広がり、おしゃれな人はパーマをかけるようになっていきます。昭和の初めころ、パーマは電髪なんて呼ばれていました。

「大正の三大洋食」

食べ物でいうと、いわゆる「洋食」が普通にひとびとの食卓に上るようになってきました。
洋食という感じで思い浮かぶのは・・・・?「パスタ」?パスタなんていい方はぼくが働いてだいぶたってから。小さいころはスパゲッティといういい方が普通で、ケチャップであえたナポリタンが中心でした。しかし、それも、戦後になってからみたいですね。
阪急百貨店の食堂とメニュー 帝国書院「図説日本史通覧」P259

阪急百貨店の食堂とメニュー
帝国書院「図説日本史通覧」P259

「ハンバーグ」。確かにこの時代もありました。しかし、家庭にまで、一挙に広がったのは高度経済成長時代。肉が高いからミンチをつかったということです。ハンバーガーはさらにあと。僕の大学時代くらいかな、マクドのハンバーガーを感動して食べた記憶があります。
今でも洋食の王者、というより家庭料理の定番があるんだけど、わからないかな。みんな週に一回は食べない?ぼくも、きのう、駅のスタンドで食べんだけど。気がつかない?・・・もともてとはインド発祥。」・・
カレーライス」、ライスカレーといった方が今や合っている時代の雰囲気があるかな。
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かつての海軍基地の町がつぎつぎと『元祖カレーの街』として名乗りを上げている。 http://kaigun-curry.net/about

これは海軍で兵隊さんの食べ物としてだされたのが普及する背景だといわれています。だから佐世保とや横須賀とか、海軍基地があった町がカレー発祥の地と称しているのです。大正時代の終わり頃には安い値段でカレーが売られ、カレールーも販売されはじめました。家庭にも進出していきました。
それから「とんかつ」。これは明治の後半以来、人気がありました。それをカツ丼という形にしたのは大正時代。
でも、大正から昭和って肉はとても高かった。もっと安いフライをたべたいというひとが飛びついたのが、・・「エビフライ」?これは日本発祥らしけど高級だね。もっと庶民的なものはない。
ぼくが小さいときは洋食といえばこれでした。うちのお袋なんか、毎回2~30個位揚げていました。兄貴が生まれる寸前までこれを揚げていたとのことです。だから兄貴はよく食べるなんていわれていたけど・・・、ちょっと昭和な揚げ物。コンビニでも唐揚げと一緒に並んでるけど、売れているのかな。物まね芸人にもいますね・・「コロッケ」。やっとでたか。
1917(大正6)年には「コロッケの歌」という歌が流行し、ぼくも懐メロで聞いたことがあります。
ちょっと聞いてみますか?
 コロッケの唄 益田太郎冠者
 一、ワイフ貰つて、嬉しかつたが
   何時も出てくる副食物はコロツケ
   今日もコロツケ
   明日もコロツケ
   これじや年がら年中コロツケ
   アハハハ、アハハハ
   こりや可笑し
なんて、たわいもない歌。でも、なんとなく時代の雰囲気が出ていますね。
というわけで「カレー・コロッケ・とんかつ」を大正の三大洋食というらしい。こういったものが日本の食卓の上に並ぶようになってきました。米ばっかりの時代から食卓の風景が変わってきたという風にいえますね。
ちなみにこんなことが試験に出るわけないかと思っているんじゃない?実は毎年出題していますが・・・。

小林一三と阪急電鉄グループ

次は住宅。関東大震災の復興の中で、東京でアパートといわれる集合住宅が生まれました。最初に作られたアパートは、電気・都市ガス・水道・水洗式便所などが完備され、多くの人の憧れの的だったといわれています。
電気・都市ガス・水道が完備したような住宅を文化住宅などといいました。

小林一三 鉄道事業に取り組み始めた頃の写真

しかし町の中は家が密集していて、少し豊かになった人たちはもう少し広い家を持ちたいと思うようになったりしました。
こうした中、一人のアイデアマンがいました。かれは大阪の中心梅田から郊外に向かう小さな鉄道を敷く計画を知り、銀行を説き伏せて、経営しはじめます。当時は田んぼや畑の多い人けのない場所を走っている電車で、一見すれば、将来性がないと思われそうな鉄道です。しかし彼は考えました。逆転の発想をしたのです。

 

帝国書院「図説日本史通覧」P259

帝国書院「図説日本史通覧」P259

郊外への住宅の広がり
乗る人がいないのなら、乗る人を作り出せばいい」、まず考えたのは「自分たちの会社で、住宅を作り、多くの人にそこに住んでもらう
とい考えたのです。沿線にある素敵な住宅、サラリーマンでもなんとか手が届きそうなちょっと贅沢な「文化的な」住宅を次々と建てました。郊外だから土地は安いよね。しかも月賦なんて制度も取り入れます。
うちの鉄道に乗ると大阪の町までそんなに時間はかかりません。環境は抜群、しかも支払いは月賦です」と大々的に宣伝し大成功。こうして郊外に文化住宅が続々と建ちはじめ、これに刺激されて、他の業者も同じようなことをはじめ、気持ちのよい郊外住宅街が形成されていきます。

「阪急百貨店」
このアイデアマンを小林一三といい、のちに阪急電鉄となる私鉄の経営者でした。

阪急電鉄本社ビル。この一階にデパートを誘致した。 山川出版社「詳説日本史」P334

阪急電鉄本社ビル。この一階にデパートを誘致した。
山川出版社「詳説日本史」P334

さらに、郊外に住んでいる人が買い物にいくために鉄道に乗ってもらおうとターミナルである梅田にデパート(のちの阪急百貨店を作りました。

現在、梅田(大阪駅周辺です)はデパートの激戦区として有名です。

宝塚少女歌劇とカチューシャの唄

小林は、逆方向にも鉄道に乗ってもらうことを考えました。
皆さんもよく知っているあるものを作ります。
とくに女性に熱狂的なファンが多いし、この中に試験を受けた人がいるかもしれないけど、わかります?・・・
阪急で梅田から北西の方にいくと、なぜか有名な町があります。
小林はここにレジャー施設を作ろうと考え、その目玉として女の子たちを集めて、今でいえばAKBみたいなグループを作り、専属劇場を建てました。
東京書籍「日本史A」p119

東京書籍「日本史A」p119

もうわかるよね。宝塚少女歌劇、現在の宝塚歌劇団です。AKB効果もあって秋葉原にオタクが集まったように、宝塚の町にも人がやってきます。
こうした努力もあって、阪急は一挙に発展、路線も拡大します。
さらに小林は当時流行であった活動写真映画事業にもも乗り出しました。
東京宝塚映画。略して東宝
こうして小林は鉄道を中心に、不動産開発からデパート、レジャー産業にひろがる産業を生み出しました。
こうしたやり方を東京の電鉄会社などもまねていきます。

西武電鉄の堤康次郎は軽井沢を高級別荘地として開発、箱根を日本有数のリゾート地として開発しました。

活動写真と弁士
当時の映画は、活動写真といいました。多くは音が入っていない無声映画で、弁士という人がセリフや風景描写を一人でしゃべり、映画館専属の楽団が演奏をしていたのです。

こんな感じです。弁士の名調子で始まります。「東山三十六峯、静かに眠る丑三つ時。・・突然起こる剣劇の声」(音楽)・・・。こんな感じです。
これはこれですぐれた芸能だということが近年見直されてきて、復活しようという人もいるみたいですよ。今から見ると画面の作りもカッコいいですよ。ちょっと見てみますか

ちなみに、音の入っている映画はトーキーといいました。

 

演劇・レコード・流行歌・ラジオ放送このように映画や演劇などもさかんになりました。松井須磨子という女優が演じた演劇「人形の家」は大評判となり、1914(大正3)年発売された演劇「復活」の主題歌「カチューシャの歌」はレコード売り上げが二万枚という流行歌となりました。

これもちょっと聞いてみますか?
さらに1925(大正14)年にはラジオ放送も始まります。
テレビではないですよ。試験の正誤問題でラジオをテレビに変えておくと面白いほど引っかかります。注意してくださいね。テレビは戦後だからね。

教育の定着と大衆文化の発展

 

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学校教育制度の整備  帝国書院「図説日本史通覧」P241

教育制度の整備
このころになると、義務教育がほぼ定着し、中等学校、現在の中学と高校をあわせたような学校へ通う子どもも増え、その上の高等学校も増加しました。

これまでは国立しか求められなかった大学ですが、私立大学も認められるようになり、高いレベルの教育を受ける人たちも増えてきました。

多くの人は六年間の尋常小学校で終わりましたが、あと2年間の高等小学校へ通う子どもたちも増えてきます。さらに、講義録という通信教育で勉強する人も増えてきました。貧しくても勉強したいときは、先生の養成学校であり、学費がかからない師範学校に進学するという道もありました。

山川出版社「詳説日本史」P310

山川出版社「詳説日本史」P310

新聞・雑誌の普及・創刊 
こうした教育の発展、識字率の上昇を背景に、日本の文化レベルが上昇してきたました
一部の人のものだった新聞や雑誌も購買者が急速に増えました。中央公論や改造といったちょっと難しい総合雑誌とならんで、キングなどの大衆雑誌も創刊されるようになります。

 

『キング』創刊号(講談社) 山川出版社「詳説日本史」P336

山川出版社「詳説日本史」P336

円本」「岩波文庫」と「立川文庫」また1円という安い値段で本が買える「円本」が発売され、安い値段で世界や日本の古典がよめる岩波文庫なども発刊されました。

猿飛佐助や水戸黄門などの講談を面白おかしく描いた立川文庫なども発刊され、子ども向け大人向けの大衆小説も盛んに書かれるようになりました。

ニヒルな剣豪机竜之介を主人公とした新聞小説「大菩薩峠」は大正時代を代表する大衆小説といわれます。

こうした経済や社会の変化、国民の文化水準の高まりと文化の大衆化などが大正デモクラシーと呼ばれる時代の風潮の背景となっていたのです。

 

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