ノモンハン事件と第二次世界大戦の開始


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ノモンハン事件と第二次世界大戦の開始

 「点と線」の支配 ~「面」を支配できない日本軍

1937年に始まった日中戦争は、南京占領後、しだいに膠着状態となっていきます。
考えてみてください。当時の中国の人口は5~6億人の間、日本軍がいくら大量に派兵したとしても百万人を越えることは難しい。

山川出版社「詳説日本史」P353

単純計算すると、日本兵1人が対応する中国人は500~600人、人口比0.2%程度、中規模の学校程度の中国人の中に、日本兵が一人ポツンといる計算です。この人数で中国全体を掌握することは難しく支配できたのは都市と都市を結ぶ鉄道や主要道路に限られました。いわゆる「点(都市)と線(鉄道・主要道路)の支配」です。この言葉を裏返せば、広大な面=農村は支配しきれなかったと言うことです。作戦地域が広がり「点と線」の間が広がれば広がるだけ、日本軍の拠点と拠点の距離が広がり、襲撃される機会が増えてしまいます
日本軍は南京攻略戦ののち、華北と華中を結ぶ要衝徐州攻略戦、長江中流域の武漢攻略線を展開しますが、その後、日本側は目標を失い、他方、中国側は正規兵での戦いを避け「持久戦」へと作戦を変更していきます。攻撃すれば逃れ、止まれば攻撃するという形です。1940(昭和15)年になると、華北では中国共産党の指導下にあるゲリラが農村(「面」)の多くを掌握、「線」(鉄道や主要道路)の各所におかれた小部隊への襲撃を本格化します。昼間は日の丸を振って協力を約束していた村が、夜になると態度を一変し日本軍を襲撃するのです。小部隊の全滅が相次ぎます。他方、敵が出現したと聞いて「それ!」とばかり出撃しても敵の姿は見えません。地下道などが張り巡らせていて、それに潜む。こうしたことがつづきました。中国人すべてが敵と思われるようになっていきます。

三光作戦

笑顔を振りまいていた人間も敵かもしれない。いつ襲ってくるかもしれない。さらに共産党軍は神経戦を展開します。夜になると襲撃するかのような動きを見せ、日本兵を眠れなくして兵士のストレスを高めます。
こうした状況下、日本軍が共産党勢力の影響の強かった華北(中国北部)の農村部ですすめたのが「燼滅(じんめつ)作戦」です。「敵の根拠地を完全に破壊(「燼滅掃蕩(じんめつそうとう)」)し、将来も生きることができなくする」という内容で 「土民を仮装する敵や「敵性があると認められる15才以上60才までの男子」を「殺戮(さつりく)」し「敵性部落」を「焼却破壊せよ」と命じられました。
さらに、堀や石垣で囲った村の中に一般住民を移住させ、多くの地域にはだれもいない「無人区」を設定しようとしました。誰もいないところをうろついていればゲリラとみなされました。
この作戦に基づいて、日本軍は、共産党側の支配領域であると考えられた地域にある村々をつぎつぎと襲撃、物資を奪い、村を焼き払い、敵である可能性を持つ住民を殺す。あるいは外に出られない所へ村を作り、村人を押し込める作戦でした。

 毒ガスなどを使って皆殺しを行うということもありました。参加した兵士の証言をNHKが保存しています。みてみることにしましょう。
ときには兵士は、戦闘員とは到底思えない子どもなどの命も奪いました。「命令を受けてやったこと」とは思いながらも、死ぬまで罪悪感に悩まされた元兵士たちもいました
こうした日本のやり方を、中国では「三光作戦」といっています。「奪い尽くし(「略光」)、焼き尽くし(焼光」)、殺し尽くす(「殺光」)」という意味です。また「ウサギ狩り」といって、住民を捕らえて、労働者として日本へ強制連行、鉱山労働に従事させるといったこともおこなわれました。
こうまでしなければ、日本は支配を維持できなくなっていました。
こうしたやり方自体が日本への反発をいっそう強め、共産党の支持者を増やし、抗日ゲリラの力を増していきました。

ソンミ村事件~侵略戦争というもの

こうした日本軍とそっくりの行為をおこなった軍隊があります。ベトナム戦争でのアメリカ軍です

ソンミ村事件1968年3月、アメリカ陸軍部隊によって引き起こされた。無抵抗の住民504人が殺害された。

ゲリラに悩まされたアメリカ軍は「戦略村」をつくり、ベトナム人を囲い込み、広大な地域を無人地域としました。さらに解放戦線の影響下にあると考えた村を襲撃、村を焼き尽くし、多くの人びとを殺害しました
日中戦争の話ではありませんよ。それから20数年後のベトナムの話。やったのは、日本兵でなくアメリカ兵。ソンミ村事件という事件が有名です。
イラクやアフガニスタンでの戦闘でも似たような事件が発生しました。イラクで、アメリカ兵は訓練と恐怖から、少しでも不審な動きがあれば反射的に発砲するようなっていました。戦場では大切なことだったのかもしれません。しかし困った事がおこりました。彼らの除隊してアメリカ帰国しても、何かの弾みに、反射的に発砲するという行動が身についていたのです。アメリカで帰還兵による銃の乱射事件が発生、アルコールや薬物中毒になったり自殺してしまう帰還兵も多くいました。兵士たちは、本国に戦場を持ち帰ってしまったのです。

土井敏邦「ファルージャ2004年4月」 イラク戦争でアメリカ軍によっておこされた住民虐殺を描いたドキュメンタリー。

こうした行為のなかに共通項があると思えてなりません。わかりますか?それは、他国の領土内に攻め込んだ、多くは侵略戦争であったことです
言葉も分からず、不信の目で見る地元の住民、いつ寝首をかかれるかわからないという恐怖、それがこうした残虐行為の背景にありました
「アメリカも同じ事をやった」と日本兵の残虐行為を弁護するつもりはありません。侵略が残虐行為の背景となっていることは共通です。

話を日中戦争に戻します。日本軍は多くの残虐行為を繰り返し、それが中国軍民の日本への反発をいっそう高めました。双方の死者はどんどん増加します。政府も軍部も、戦争を終わらせる方策を持たないまま、泥沼のような戦争を1945(昭和20)年の敗戦までつづけました。

重慶爆撃と本土空襲・原爆投下~戦時国際法違反

持久戦を強いられ、戦局の発展もなく、解決の展望もないなか、戦局打開をめざす日本軍は、中華民国臨時首都の重慶へ無差別爆撃を開始、これによって中国側の戦意をくじこうとしました

パブロ=ピカソ『ゲルニカ』 ピカソが、ゲルニカでおこなわれた無差別爆撃をテーマ書き上げた作品。二十世紀を代表する絵画といわれる

世界史上、最初の無差別爆撃は1937年ナチスドイツが北スペインの小都市ゲルニカで行ったものだとされます。ピカソの絵で有名ですね。1938(昭和13)年にはじまった重慶爆撃はそれにつづくものです。その後、無差別爆撃というやり方は連合軍側により、いっそう組織化・大規模化させられました。連合軍は、1944年からはドイツの諸都市で、1945(昭和20)年になると3月10日の東京を手始めに日本全土で行われ、同年8月の広島・長崎への原爆投下へとつながります。

日本軍爆撃後の重慶(1941)Wikipedia「重慶爆撃」より

無差別爆撃は「非戦闘員への攻撃」という、あきらかな戦時国際法違反の行動です
戦争犯罪を裁いた東京裁判で、アメリカ人弁護士がアメリカ軍の本土空襲は国際法違反であるという弁論を行い、そのためか日本軍の重慶爆撃は起訴対象となりませんでした。
重慶爆撃と、東京大空襲や原爆投下は表裏の関係にありました

米英の中国援助と中国官民の抵抗

中国軍、とくに国民政府軍が戦いを続けられた背景には、アメリカやイギリスの援助がありました。日本の中国侵略に反発した両国は、中国へ武器・弾薬などを援助しました。
日本側は思います。「弱いはずの中国がこんなにも頑強なのは、アメリカやイギリスがついて援助しているからだ。だから中国への米英の援助を止めれば、中国はすぐ屈服するだろう」、相も変わらずこのように考えました。
こうして米・英とくにイギリスに対する強硬な態度が目立ちはじめます。1939(昭和14)年、イギリスが租界内に犯人をかくまって引き渡さなかった事件では、日本軍が天津のイギリス租界を鉄条網(トゲトゲの針金です)で取り囲み屈服させるという強硬策もとりました。この事件は、アメリカをも怒らせました。アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告してきます。
中国の強さは、アメリカやイギリスがついていたからでしょうか。それ以上に、日本のやり方、侵略行為そのものが、中国の人びとを怒らせ、団結して戦わせてたのです
日本人の多くはこのことが理解できませんでした。日清戦争以来のさまざまな出来事が、中国や中国人への偏見をかきたて、日本人の目を曇らせていたのです。

ノモンハン事件

泥沼化した日中戦争で兵士も国民も苦しんでいるにもかかわらず、あらたな戦争を引き起こそうとする人間がいました。関東軍参謀、辻政信と服部卓四郎です。
陸軍の従来の戦略、覚えていますか?シベリアへ進出しソ連と戦うという北進論です。かれらはこの計画を密かに進めていました。1938(昭和13)年ソ連と「満州国」の国境地帯に軍隊を派遣し、戦闘となりました。張鼓峰事件です。

東京書籍「日本史A」P130

翌1939(昭和14)年10月、「満州国」西部と、ソ連の影響下にあった外モンゴル(現モンゴル国)との国境地帯ノモンハンでソ連軍との衝突が発生、日本軍は大規模な軍事行動にうってでました。これをノモンハン事件といい、ノモンハン戦争とも呼びます。
政府や参謀本部では「中国との戦いがつづいているのに馬鹿なことはやめろ」というまともな声があったのですが、参謀本部は「ちょっとだけやらせてみよう」と辻や服部の火遊びにつきあいます。信じられないような性格の持ち主たちです。

ソ連軍の力を見せつけろ!~スターリンの作戦

スターリンをリーダーとするソ連側は、これをチャンスと考えました。当時、ソ連は、ヒトラー率いるドイツを非常に警戒していました。そのソ連にとって目障りなのが日本でした。とくにおそれていたのは、日本とドイツが連携して東西から攻め込んでくることでした。ですから日中戦争ではソ連は率先して中国を援助していました。
こうしたなか、日本軍が侵入してきたのです。スターリンは「日本をコテンパンにやっつけよう」と決意します痛い目にあわせて、ソ連に侵入するという考えをすてさせようと考えたのです。ソ連軍は最新鋭の飛行機や戦車など圧倒的な兵力を投入しました。ソ連軍の前に日本の戦車はあっけなく破壊されました。日本側も兵士が爆弾を抱えて戦車の下に飛び込むという特攻作戦で大きな打撃を与えました。しかし、最新鋭のソ連の前に日本軍は完璧に敗れ、一個師団、壊滅という状態となりました
私の高校時代の日本史の先生の胸にはこのときの銃弾の破片が入ったままだったという話を聞きました。日本軍は大敗し、やむなく停戦協定を結びました。

辻や服部はさらに兵力をつぎ込もうとしますが、さすがに東京の大本営もそれを許さず、関東軍の指導部を総入れ替えする形で阻止しました。
この大敗の結果、日本軍は北進論を一時あきらめ、南進をすすめるようになります。(「北守南進」)。こうして、スターリンの作戦は図に当たり、安心して対ドイツ戦略に臨むことができるようになりました。
さて作戦を計画した辻や服部はどうなったのでしょうか。かれらは、責任を現場の司令官に押しつけ、司令官たちは相次いで自決させられます。他方、二人はいったんは閑職につきますがが、すぐ何事もなかったように参謀として活動を続け、太平洋戦争の各段階で無謀な作戦を立案、多くの兵士の命を無駄に奪い続けました。戦後になっても恥じることがありません。服部は自衛隊創設にもかかわり、辻は国会議員になります。こんな連中が、陸軍を動かしていたのです。

「欧州情勢、複雑怪奇!」 ~独ソ不可侵条約と平沼内閣

ノモンハン事件の休戦協定の交渉がつづくさなか、1939(昭和14)年8月耳を疑うニュースが飛び込んできました。ノモンハンの敵ソ連と、味方と思っていたドイツが独ソ不可侵条約を結んだのです。
当時の平沼騏一郎内閣では、ソ連、さらには英米と対抗すべく日独伊三国同盟を結ぶべきだという議論が強まり、米英との対立は避けるべきと考える米内光政海軍大臣や山本五十六海軍次官などとの激しい論争が続いていました。山本は殺されることを覚悟していました。こうした情勢下の出来事です。平沼からすれば「裏切られた」という思いでした。ここで、平沼は、日本史上にのこる迷文句を吐きます。「欧州情勢は複雑怪奇、これまでの政策はやり直さねばならない」。
内閣を投げ出します。日本中が苦笑しました。正直といえば正直ですが・・・このような人物が首相をつとめていたのです。

第二次世界大戦の発生~「不干渉政策」

1939(昭和14)年9月1日、さらに大きな出来事が発生しました。ドイツ軍がポーランドに侵攻したのです。

東京書籍「日本史A」P134

妥協に妥協を重ねてきたイギリスとフランスもついに覚悟を決め、ドイツに宣戦、第二次世界大戦が発生します。ドイツに呼応してソ連もポーランド東部に侵攻しました。
ドイツはイギリスの戦意をくじき、アメリカの参戦を思いとどませるために、日本の三国同盟への参加を強く求めます。しかし、あらたに首相となった海軍出身の阿部信行は不介入政策をとり、これを避けます。阿部につづく米内光政内閣もその方針を踏襲しました。中国との戦争の決着がつかない以上、あらたな動きにはかかわらない、当然といえば当然の対応でした。
ヨーロッパでの戦争は奇妙なものでした。ソ連と協力してポーランドを分割したドイツは、それ以降、不気味な沈黙を保ったのです。フランスとイギリスは独仏国境に兵力を集め、ドイツの来襲を待ち構えます。
この間、活発な動きを見せたのはソ連でした。ドイツへの警戒を持ちつづけるソ連は、国境を接するバルト三国とフィンランドに圧力をかけます。バルト三国は基地を置くことを認めましたが、翌年には併合されます。要求を拒否したフィンランドとの戦争を始めます。明らかな侵略戦争でした。ソ連はやっと加入ができた国際連盟から追放されてしまいます。

ドイツによる大陸支配~フランス降伏とイギリスの抵抗

ドイツが動いたのは、翌1940年4月です。突如、デンマークとノルウェーに侵攻し、これを占領、潜水艦Uボートの基地を設置します。5月にはオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの三国へ侵入、侵攻不可能と考えられていた国境の森を抜けてフランス領に侵攻、6月10日、パリが陥落、6月22日にはフランスは降伏、ドイツの傀儡政権(ヴィシー政権)が作られます。これに対しドゴール将軍らはロンドンに亡命政権を樹立、国内では抵抗運動(レジスタンス)が始まります。
ヨーロッパ大陸はドイツ・イタリア・およびスペインなど友好国の支配下におかれ、ドイツと戦っているのはイギリスだけとなりました。ドイツ空軍は連日イギリスに無差別爆撃を加え、イギリスの降伏も時間の問題と思われました。しかしイギリスは踏みとどまります。レーダーと新鋭機を駆使したイギリス空軍の前にドイツ機は次々と撃墜され、その被害に驚いたヒトラーは上陸作戦をあきらめました。しかしそのことを日本は気づかず、すぐにでもイギリス上陸作戦が実施されると思っていたのです。
孤立したイギリスを全力で援助したのがアメリカでした。
いいですか、この段階では日本は第二次世界大戦には参加していません。アメリカもです。ヨーロッパ内で戦争がつづいていただけです

「バスに乗り遅れるな」~第二次近衛内閣成立

ドイツの「快進撃」は、日本国内で新たな動きを引き起こしました。

植民地支配下の東南アジア 植民地化されていないのはタイだけであった。

ヨーロッパでの状況をアジア東部に落とし込んでみましょう。地図をみてください。水色のベトナムなどインドシナはフランス領でありフランスの傀儡政権の下にあります。濃い橙色は現在のインドネシアですが、その宗主国オランダもドイツに降伏しました。ただ現地はイギリスに逃れた亡命政府への忠誠を誓っていますオレンジ色のビルマ(現ミャンマー)とインドはドイツの攻勢の前で降伏寸前にもみえるイギリス領です。なお紫色フィリピンはアメリカ領です。

ドイツと近い立場にいる軍人たちは、この機会にドイツと結べば「棚からぼた餅」で、こういった地域が日本の手に入るという妄想を抱きました。同時に中国への米英からの物資の流れ(援蒋ルート)を遮断することができる。これで中国も屈服する。インドネシアを占領すれば、石油などの天然資源も得られると考えました。親ドイツ派は主張します。「バスに列車に乗り遅れるな」と。
しかし政権の座にいた米内光政はこうした動きに否定的でした。そこで陸軍は、またも例の手段を用います。・・・陸軍大臣を辞職させ、後継者を推薦しないやり方です。これによって米内内閣は崩壊、当時、ナチス風の巨大な政治・社会組織の建設をめざす「新体制運動」をとなえ、陸軍にも受けがよい近衛文麿が首相として再登場します。そして第二次・第三次近衛内閣は米英開戦の道をひた走ります。

「東亜新秩序建設」宣言の波紋

近衛は、第一次内閣のとき、二つの声明をだしました。どれだけ熟考のうえか疑問符がつきますが、客観的には重要な意味を持ちました。

東京書籍「日本史A」p130

一つは1938(昭和13)年1月の「蒋介石政権は対手とせず」との声明で、和平対象から蒋介石の国民政府を排除したものです。これによって、戦争を止めるチャンスを放棄した話は既にしました。
もう一つは同年11月の「東亜新秩序建設」声明です。日中戦争(当時は支那事変と呼んでいました)には「正義」=「大義名分」がないとの批判を受けた近衛は「この戦争の目的は『東亜新秩序の建設』である」と打ち上げます。実の狙いは「この考えを共有する政権となら交渉に応じる」として先ほどの方針を変更し国民政府との交渉を可能にする所でした。
ところが、この声明は新たな波紋を呼びます。このスローガンは、ヒトラーが主張していた「ヨーロッパ新秩序」建設をまねたものでした。だから、日本もアジアのあり方を、ヒトラーのように劇的に変えようとしていると受け取られたのです。
アメリカは、中国権益を独占するにとどまらず、自国の植民地フィリピンをも含めた東南アジア進出をめざしたと理解しました。欧米による東南アジアの植民地支配、帝国主義国際秩序への公然とした挑戦と受け止めたのです
アメリカは日本への警戒レベルを上げました。

アメリカとの対立の本格化

その後の展開は危惧の現実化と考えられました。ドイツへの接近、米英を対象とする三国同盟構想、中国南部への進出、天津のイギリス租界で見せた友好国への暴力的な対応。
アメリカは決断を迫られつつありました。
最初の答えが、1939年の日米通商航海条約破棄宣言であり、中国援助の拡大でした。
しかし、ローズヴェルト大統領の第一の関心はヨーロッパの民主主義陣営の援助、とくにイギリス援助でした。日本への関心は第二でした。アメリカは、ドイツと日本、双方の動きを見て、参戦も視野にいれはじめます。しかし「戦争反対」の声も強く、参戦に踏み切れませんでした。
ドイツは、日本がドイツイタリアに加わればアメリカは参戦を避けるだろう考えて執拗に三国同盟への参加をもとめてきました。

北部仏印進駐と三国同盟締結

1940(昭和15)年7月、こうしたなかでの近衛の再登場です。
近衛内閣は就任早々、ナチスにならった新体制の構築と、大東亜新秩序構築という方針を決定、陸軍の南進計画に従って、北部仏印(ベトナム北部)への軍隊進駐決定します。
この地域はフランス植民地でした。フランス本国がドイツに降伏したのをみて現地総督に圧力をかけ軍隊を進駐を認めさせました。中国への補給路(「援蒋ルート」)を絶ち、この地の資源を手に入れようとしたのです。

帝国書院「図説日本史通覧」P279

つづいて三国同盟の締結を進めます。9月にはこれまで三国同盟に強く反対してきた海軍が賛成に回り、日独伊三国軍事同盟が締結されました。海軍は賛成すれば軍艦建造費用が増えると考えたのです。
こうして日本は世界再分割の戦争へ参加していく道を歩み始めます。

アメリカによる経済制裁の開始

このような強硬な姿勢をみせることでアメリカは参戦できなくなるだろうと考えたのです。しかし、それはまったく逆で、フランクリン・ローズヴェルト大統領は対決姿勢を本格化、7月には航空機ガソリンを、9月には 製鉄に必要なくず鉄の輸出禁止に踏み切ります。

帝国書院「図説日本史通覧」P271

対立しているアメリカですが、この段階でさえアメリカは日本にとっての最大の貿易相手国で、石油など資源の大部分はアメリカ産でした。品質のよい機械もアメリカ製です。それが制限されることは日本の戦争経済におおきな負担となりました。

アメリカからの資源が止まると、かわりの資源獲得の為に南方に進出せざるをえなくなる。そのことがいっそうアメリカなどとの対立を激化し、資源獲得が困難になるというジレンマのなかに日本はいました。
対米英戦争の準備が本格化し始めていました

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