ワシントン体制と関東大震災
第一次大戦後の世界
覇権国としてのアメリカ
おはようございます。
第一次世界大戦は、とくにヨーロッパに大きな傷跡を残し、1918(大正7)年に終わりました。戦争ののち、人々が見た世界は、戦前とは大きく変化していました。
一つは、あらゆる面で巨大化したアメリカでした。
アメリカは、1920年代、大戦の傷跡に苦しむヨーロッパを尻目に繁栄の時代を迎えます。ニューヨークに巨大ビル群、摩天楼が立ち並ぶのもこの時期のことです。
アメリカに集まった大量のカネが世界を動かします。
ヨーロッパ諸国をはじめ世界はアメリカが提供する資金に依存するようになりました。軍事力、とくに海軍力は世界最強であったイギリスと肩を並べるようになりました。外交においても、ドイツへの復讐と領土獲得に狂奔する英仏を尻目に、ウィルソンの十四か条という理想主義が、建前上とはいえ新たな世界の理念とされました。孤立主義の立場から国際連盟には参加しなかったものの世界の外交はアメリカがイギリスとともにリードするようになっていきます。アメリカが覇権国となりつつあることを世界は認識せざるを得ませんでした。
アジアにおける日本の台頭
東アジアでも大きな変化が起こっていました。
ヨーロッパ列強不在の間隙を縫って、日本が急速に台頭していました。
大戦中は、アメリカも単独では対応できず、石井ランシング協定という玉虫色の解決策でお茶を濁さざるをえませんでした。
戦艦長門。1920(大正9)年に完成したこの時期世界最大・最速の戦艦。太平洋戦争後、核実験の標的艦として用いられた。
日本は海軍に膨大な予算を投入、全体でも米・英に迫り、太平洋においては両国を上回るいきおいです。さらに、ドイツ領であった南洋群島を手中に収めることで西太平洋の広い地域をカバーできるようになります。
また、他の列強が撤退したにもかかわらず、陸軍部隊をシベリアに展開させ、中国東北部(「満州」)北部から東シベリアを勢力圏、さらには領有するかのような動きも見せています。
日本が、アジア人の国であることそれ自体が、アジアに植民地をもつ列強にとって潜在的脅威でした。インドの民族運動家が日本への接近する動きを見せています。
余談:「恋と革命のインドカリー」
こうしたインドの民族運動家の一人がビハリ・ボーズです。この人物は、当時から有名であったパン屋の
新宿中村屋にかくまわれ、のちこの家の娘・俊子と結婚します。中村屋の本格的インドカレーは、彼によって伝えられたものです。
だから、中村屋のカリー(中村屋は「カレー」ではなく「カリー」です)のキャッチフレーズは「恋と革命の味」で、かれがカリーを伝えた6月12日は、ボーズと俊子にあやかって「恋と革命とインドカリーの日」としたそうです。
ともあれ、第一次世界大戦後の日本はヴェルサイユ体制下において混乱を続けるドイツと並ぶ不安定要因となっていました。
軍拡競争の激化
日本をとくに脅威と感じていたのは、太平洋をはさむ隣国・アメリカでした。
アメリカは、日露戦争直後からロシア艦隊に完勝した日本の海軍力の強化に脅威を感じはじめ、日本を仮想敵国として位置づけはじめました。日系移民問題で日米関係が緊張したときには「親善訪問」という形をとって日本にアメリカの海軍の偉容を見せつけるという手法も採りました。
その日本海軍が、アメリカと対抗すべく海軍力増強を進めていたのです。すでに太平洋地域における海軍力の日米バランスは日本に傾きつつありました。このことは、アメリカの海軍力増強=軍事予算増をもたらしました。軍拡競争が始まっていたのです。
余談:軍拡競争と軍縮
外交的・軍事的に対抗する国同士は、相手国よりもより強い軍事力をもとうとします。それは相手国にとっても同様です。だから軍拡競争は際限なく激化する傾向があるのです。
最も典型的なのが、第二次世界大戦後、いわゆる冷戦下での米ソ両大国による核軍拡競争でした。両国は相手を上回る兵器やシステムをもとめ、財力と技術力などすべてをかけてしのぎを削りました。その結果、原爆から水爆、爆撃機搭載から大陸間弾道ミサイル、さらには宇宙空間におけるミサイル防御システムへと、いわゆる核軍拡競争が際限なく進みました。
その結果、起こるのが財政破たんです。
財政の半分以上を軍事費などにつぎ込んだソ連は国力を消耗し、崩壊しました。
余談つづき:軍縮をすすめることとその難題
この際限のない競争はどうすれば止めることができるでしょうか。それは話合いによる解決しかありません。二国間、あるいは多国間で交渉し、信頼関係を作り出し、「いち、にの、三」で互いに軍拡をストップし、さらには軍縮をすすめる、こうしたやり方しかありません。
このためには、相手国に対する敵意をもちたがる国民感情を解きほぐし、軍人を中心とした「相手を上回る質と量を持った軍隊を持ちたい!」という習性を押さえ込まねばなりません。
ところが、軍人とそれにつながる人々は「軍備を縮小することは国家を危うくする売国的行為である」と攻撃をし、場合によっては相手国の脅威を必要以上にあおり立てます。
武器生産で儲けている「死の商人」たちも「開発の中断は致命的な軍事力の差となる」と主張します。そして、これに共感するマスコミなどもいます。
軍縮に反対する人々は、クーデタや暗殺といった暴力に訴えることも多いのです。
こうした人々への説得と抑止が不可欠となります。各国はこうした苦しい手順を踏みつつ、軍縮をすすめることになります。
残念ながら説得は失敗に終わることも多いのです。
ワシントン会議の開催
第一次世界大戦後、軍拡は急速に進んでいました。日本の軍事費は原内閣の下で財政支出の49%という冷戦下のソビエトのような状態となっていました。とくに大きな戦争が起こりそうもないこの時期でですよ。
これに引っ張られるように、アメリカ・イギリスの軍事費も、ともに23%に達していました。
日本がさらに軍拡を進めることは、米英といった国にとっても自国の財政を圧迫し、国民の不満を高める問題でもありました。なんとかしなければならなりません。
そこで軍備縮小(軍縮)のための国際会議が開かれます。
主宰したのはアメリカです。
アメリカが、首都のワシントンに世界の主要国を集めて開催したのがワシントン会議です。1921(大正10)年 から翌年まで、二年間つづきました。軍縮だけではなく、中国の問題や太平洋の安全保障なども相談されました。
四国条約~日英同盟の破棄
ワシントン会議では、三つの条約が結ばれました。
一つ目は、日本・アメリカ・イギリス・フランスが結んだ四カ国条約です。
太平洋における各国の領土を保障しようという内容です。これまで日本がかなりわがままをできたのは、ある国のバックアップがあったからです。わかりますか?日本が結んできた軍事同盟。日露戦争直前に結ばれた・・・日英同盟、イギリスとの同盟です。最初はロシアとの対抗上、日露戦争後はドイツをにらみながら。
アメリカからすれば、これが日本を甘やかしてきたとも考えられます。アメリカは提案します。「ドイツが敗れ、敵対する相手はなくなったし、四国で仲良くすることになったのだからもう軍事同盟はいらないのでは」。
イギリスにとってもメリットがなくなっていました。アメリカからすればとくに仲良くしたいイギリスが仮想敵国日本との同盟を結んでいることは好ましくなかったのです。
こうして、これまでの外交の柱であった日英同盟が解消されます。
九カ国条約~門戸開放政策の勝利
二つ目は、中国をめぐって締結された九ヵ国条約です。中国と中国に利害関係を持つ国が参加して結びました。
門戸開放政策~中国の主権と領土尊重、門戸開放、機会均等、というアメリカが掲げてきた諸原則を再確認し、さらにこの原則にあわない利権などは破棄しようという形で進められます。
この結果、日本が大戦中に得た権益の多くがこれに引っかかりました。日本の特殊利権を認めた石井ランシング協定は破棄され、山東省でドイツから引き継いだ利権も返還されることになりました。ただ、山東省での経済的な利権は認められ、山東省は日本の勢力圏のままです。
日本との一対一の交渉を避け、石井ランシング協定で時間稼ぎをしていたアメリカが、他の国々の協力を得て、日本の強引な動きを、当面は押しとどめたともいえるでしょう。
ワシントン海軍軍縮条約
三つ目が海軍軍縮条約でした。日米英仏伊の五カ国で話合いが進みます。
結論を先に言うと、この五カ国が保有する主力艦(戦艦のことですが)の数の比率を、アメリカとイギリスが「5」、日本が「3」、フランスとイタリアが「1.67」と定めました。
フランスやイタリア、悲しい数字ですね。ある意味、第一次世界大戦の結果ともいえるかもしれません。
帝国書院「図説日本史通覧」P253
さて、当時の世界の戦艦について、実際の比率でいうと、日本が米英の「5」にたいし「4」に近く、海軍は「3.5」を死守せよという姿勢でした。
しかし、米英は厳しく日本に迫ります。そりゃそうでしょう。日本は太平洋にしか面していない。大西洋はもとより、インド洋にもまずでていかない。
加藤友三郎 帰国後、高橋是清内閣の後を受けて総理大臣となり、在職中に死亡する。
それに対し、アメリカは太平洋と大西洋両方に海軍を置く。仮に半分ずつなら、太平洋は「2.5」となり、日本が「4」に近い数字だと圧倒的に不利。イギリスもそう。七つの海に進出するイギリスは大西洋を中心にインド洋にも置くことになるので、太平洋は手薄になります。だから、できる限り、日本海軍を減らしたい。こうして両国はタッグを組んで、日本の押さえ込みをはかりました。
こうしたなか、日本側全権で海軍大臣の加藤友三郎は「建艦競争をつづけても財政規模からいって日本がアメリカに勝つことはできない。軍縮条約を結ばないときのデメリットを考えて我慢した方がよい」と、ある意味、良識的で合理的な判断をし、出身母体の海軍を説き伏せ、調印にこぎ着けました。
ワシントン体制の成立
会議の席上、日本はシベリアからの撤兵も表明しました。
ワシントン会議これまでの話を総合するとワシントン会議の隠れたねらいが見えてきませんか。
日英同盟の破棄、中国での利権の返還、海軍軍拡への強い圧力、シベリアからの撤退。
第一次世界大戦で急速に力を増し、世界の脅威になってきた日本を国際協調の力で押さえ込もうという構図です。
日本はこれまでの強引なやり方は国際社会で通用しないことをこの会議を通じて思い知らされました。
これ以降、日本も国際社会との協調をすすめることを第一にした協調外交をすすめていきます。
でも、自分の都合だけを並べ立て、国際感覚が欠如した人も多かったのも、日本でした。
国際協調外交の進展
ワシントン会議で形成された国際秩序をワシントン体制といい、先のヴェルサイユ体制とあわせてヴェルサイユ=ワシントン体制ともいいます。
こうしてアメリカの覇権の下、国際的協調体制が成立します。
帝国書院「図説日本史通覧」P253
こののち、ヨーロッパでは破滅的なインフレーションに陥ったドイツが、アメリカ資金の導入もあって立ち直り、1925年のロカルノ条約で国際協調の枠組みに参加、国際連盟にも加盟が認められました。
社会主義国ソ連も、1922年ドイツとの間のラパロ条約をはじめに、西側諸国との関係を改善、1925(大正14)年には日ソ基本条約で日本との国交関係も結ばれます。
こののちも国際協調の動きはいっそう進展し、戦艦以外の補助艦の軍縮は1927(昭和2)年のジュネーブ海軍軍縮会議では失敗したものの1930年(昭和5)年のロンドン軍縮条約で成立します。
1928(昭和3)年には国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定したパリ不戦条約も締結しました。
この条約の考えが日本国憲法9条に大きな影響を与えています。
1920年代、世界では話合いと国際協調によって平和を維持しようとする風潮が広がっていた時代でした。
幣原外交の展開と反協調外交の動き
日本においても、話合いによって世界との良好な国際関係を維持していこうという国際協調外交が展開されました。こうした考え方は混乱がつづく中国に対しても適用され、不介入政策がとられました。
こうした外交を、外交を主に担っていた外務大臣幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の名を取って幣原外交とも呼ぶこともあります。
しかし、世界では別の流れもありました。
イタリアでムッソリーニ率いるファシスト党が政権を握り、ドイツでもヒトラー率いるナチス党が活動をつづけています。アメリカでも、人種差別集団であるクークラックスクラン(KKK団)の活動が活発化していました。
日本では、軍部の一部や右翼勢力は、軍縮に反対し、中国へのさらなる進出を主張、協調外交を批判する動きを進めました。軍部は、外務省が中国への不干渉政策に反して独自で軍閥勢力などと接触するなど事実上の二重外交が展開されています。
軍縮の実施
1922(大正11)年、ワシントン会議で全権として参加し、軍縮にたいしてその見識を発揮した加藤友三郎が高橋是清に変わって総理大臣となります。
山梨軍縮
帝国書院「図説日本史通覧」P253
ワシントン会議で各国に約束をしていたシベリアからの撤兵を実現、自ら海軍大臣も兼ね、軍縮条約の実施に尽力しました。
海軍の軍縮は、陸軍の軍縮も迫ることになりました。
国会では軍備縮小の議案が次々と可決され、陸軍も軍縮を余儀なくされます。この時期の軍縮を当時の陸軍大臣の名を取って「山梨軍縮」と呼びます。
国会で軍縮が議論され、軍縮が進められる、軍部の暴走がすすむ昭和期には考えられないがおきていました。
宇垣軍縮
帝国書院「図説日本史通覧」P253
1924(大正13)年には、前年に発生した関東大震災の復興とかかわってさらなる陸軍の軍縮が求められました。こうして実施されたのが「宇垣軍縮」で、大幅な人員削減などが実現しました。
しかし、これと引き替えに戦車隊や飛行隊といった軍備の近代化が進められました。
さらに余った将校たちが中等学校以上の学校に配属されます。
軍事教練(大阪高等商業学校)中等学校以上の中等・高等教育機関に配属将校が派遣され、生徒・学生に軍事訓練を施した。
配属将校は、各校の生徒・学生に軍事教練を実施、軍人(将校)としての基礎訓練を身につけさせます。重い荷物を持っての長距離の行軍などが行われたり、学校の教育活動への介入も行われます。
さらに地域には青年訓練所などが設けられ、平時における軍事訓練などもすすめられました。
軍部は、軍縮を利用して軍隊の近代化と国民の軍国主義への動員を進めたのです。
関東大震災
震災の発生
1923(大正12)年9月1日11時58分、相模湾北東部を震源地とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。関東大震災です
関東大震災の被災地域
帝国書院「図説日本史通覧」P257
ちなみに関西でも揺れはあったようで、当時、私の父を胎内に宿していた祖母は「なんか変な揺れが長くつづいた」といっていました。
東日本大震災のとき、関西に住んでいる人が感じた揺れと同じだったのでしょう。
当時は耐震構造などは考えられていない建築ばかりです。建物は次々と崩壊しました。
東京書籍「日本史A」P114
東京名物の浅草十二階(凌雲閣)は7階から折れてしまいました。
相模湾などには津波が押し寄せ、別荘にいた皇族なども飲み込まれました。
約16万戸の建物が全壊または半壊し、1万1千人が圧死しました。
しかし、それだけではありません。起こった時間をもう一度見てください。11時58分、どんな時間帯ですか。正午の直前、多くの家では何をしています?・・お昼ご飯の準備たけなわな時間です。料理をするためには・・・火を使いますね。多くの人がかまどで料理をしています。そこに地震がやってきて木造の家屋がバタバタと倒れます。倒れてきた木に火が移り、火の手が上がり、燃え広がりました。人々は家財道具を持って逃げ出します。
陸軍被服廠跡の惨劇
とくに被害が大きかったのが、家屋が密集していた東京の東部、下町です。家々が密集している下町。
多くの人が逃げ場所として思いついたのが、隅田川沿いにあるかつての陸軍被服廠の跡地でした。
人々は家財道具をもって続々と集まりました。「個々なら大丈夫」「大変だったね」とか話していたのでしょう。集まった人は4万人近くになりました。
火が燃えるためには酸素が必要です。そこら中を焼き尽くした炎は酸素を求めて移動していきます。火は、まだ燃え残っているため酸素が供給できそうなこの場所にやってきました。
炎は被服廠跡へ渦を巻いて侵入、巨大な炎の渦巻き(火災旋風というらしいです)となって、人々を家財道具もろとも空高く投げあげ、焼き、そして地面にたたきつけました。この場所での死者は3万8千人にも及びました。
東京都慰霊堂(東京横網町公園HPより)
のち、この地には、他の場所での死者も運び込まれてきました。そして、震災慰霊堂が建てられました。
ちなみに今は東京慰霊堂とよばれています。なぜ、かわったか、分かりますか?同じような悪夢が22年後、再び起こったからです。今回は天災ではなく、人間によって・・・。
1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲です。
東京慰霊堂にはこの二回の恐ろしい出来事の死者が葬られています。
吉原弁財天
大震災によって、人災ともいえる多くの死者を出たところもあります。
浅草のそばに、吉原という町があります。江戸時代から特別な町として発展してきた町です。どんな町か知っていますか?・・・男性が女性の性を買う町、でした。
ここにも火災がやってきました。女性たちは逃げようとしますが、女性たちを逃さないように町は閉ざされており、逃げ道を失った女性たちは、火から逃れるために池につぎつぎと飛び込みました。490人がおぼれて死にました。この場所にある吉原弁財天には犠牲者を供養する記念碑と観音像が建てられています。
こうした悲劇は各地で発生、焼失した家屋は21万戸を超え、焼死者は9万人を超えました。
朝鮮人虐殺
地震はさらにとんでもない事件をひき起こしました。
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑(東京横網町公園HPより)
関東大震災で地震で傷ついた人々の耳におかしな噂が聞こえてきます。
「朝鮮の人たちが暴動を起こしたらしい」「井戸に毒を入れているのを見た人がいる」といったデマ、明らかにデマです。
暴動の準備とか、毒とか、いいますが、いつ準備するのですか。あらかじめ地震が起こるとでも思っていたのでしょうか?
朝鮮の人たちは、異境の地で地震にあい、日本人以上に恐れ、ふるえている人たちです。助け合うべき人間同士です。
ところが、デマは彼らに対し恐ろしい疑いを向けさせました。震災が受けた衝撃が理性を曇らせたのかもしれません。だれにも向けられない怒りをぶつける対象を探していた人もいたのでしょう。デマはまたたくまに広がっていきます。
暴動などがデマであったことに気づいた警視庁はその火消しのためにこのようなビラを配布した。(江戸東京博物館蔵)
混乱状態は政府や警察も同じでした。政府は取締を命じ「戒厳令」まで布告しました。
こうした動きはさらなるパニックを起こさせます。「あの噂は本当だったのだ・・」
町々で「自分たちの町を守ろう」と自警団が結成され、刀や木刀、鳶口などで武装、朝鮮人を見つけ次第殺害します。でもだれが朝鮮人かなんてわかりません。そこで、見知らぬ人をみれば、「鳩ぽっぽ」の歌など朝鮮の人が苦手な発音をふくむ言葉を言わせ、なまりがあれば朝鮮人だとして殺害しました。朝鮮人も、中国人も、日本人も、犠牲になりました。
千田是也 「俳優座」の創設メンバーで死ぬまでその代表を務めた。
そのようななか、一人の青年が自警団に呼び止められました。自警団はいいます。「おまえは朝鮮人だろう」。暴行され、殺されかけていたところを、運良く知り合いが通りかかり、身元を証明したため、青年は殺されず済みました。
彼はこのときの経験を何度も思い返したのでしょう。「自分は助かった。しかし知り合いが通りかからねば、いや、自分が朝鮮人であったなら・・・。」
かれは自分のペンネームにこのとき自警団がいった言葉をつけました。千田是也(せんだこれや)と。青年はのちに日本の新劇を代表する舞台演出家となりました。
萱原白洞「東都大震災過眼録(1924) 後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている。
東京書籍「日本史A」P114
自警団の暴行はエスカレートしていきました。その後、政府や警察などは朝鮮人の暴動が誤りであることに気づき、逆に彼らを保護しようとします。
ところが、自警団は警察側に「保護した朝鮮人を引き渡せ」と要求、朝鮮人を引きずり出して殺害する事件すら発生するようになります。
殺された人は、わかっているだけで、朝鮮人6000人、中国人200人、さらに巻き添えになった日本人もいました。さらに多くの人が命を奪われたと思われます。
甘粕事件~大杉栄暗殺事件
こうした状況は、警察や憲兵の間での恐ろしい企みへとつながりました。
亀戸警察署は、この地域で労働運動を組織していた平沢計七という人物ら10人を署に連行して虐殺しました。
東京憲兵隊の甘粕大尉は無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝(「青鞜」の二代目の編集長でもありました)、そして7歳の幼い甥を「日本のためにならない」といって殺害しました。
甘粕は軍法会議にかけられ、禁固10年の刑となりますが、わずか3年で仮出所となり除隊。陸軍の予算でフランスに留学、その後満州国で映画会社(「満映」)の理事長となる一方、その地でさまざまな謀略にかかわりました。
余談:関東大震災と阪神大震災の間にあったもの
少し余談をします。阪神大震災の時のことです。巨大な地震が発生したとき、ぼくは関東大震災のことがすぐ思い浮かびました。虐殺は起こらないまでも、民族差別的な出来事なんかは起こらないだろうかと・・。韓国や中国の人などへの差別事件なんかがおこらないだろうかと。
非常に感動しました。そして思いました。何だかんだといっても、この70年余の間に、人々の人権意識は高まり、協力しあう力を身につけていた、憲法の精神が定着したのだと。
こうしたシーンは東日本大震災などでも見られました。
被災した中国人研修生たち。飲み物を飲むためのコップを、紙を折って作る。ほかの人が折った紙コップを開いて折り直し、作り方を覚えた=宮城県女川町(朝日新聞より)
関東大震災の頃の日本人とはやっぱり変わったのだと。
しかし、ネット上に許しがたいデマを書き込む人もいました。私はこうした書き込みをする人を人間を心の底から軽蔑します。
人間の中に対立を持ち込むことの恐ろしさ、それがどのような結果を導き出すのか、私たちはその恐ろしさを関東大震災から学ばねばならないとおもいます。
今日はこのあたりで終わりたいと思います。ありがとうございました。