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中国統一の進展と田中積極外交
大正から昭和へ
おはようございます。
1926(大正15/昭和元)年12月25日、
病気療養であった大正天皇が死亡し、摂政であった皇太子裕仁が天皇となりました。死後、昭和天皇と呼ばれる天皇です。この日をもって、大正は一五年で終わり、昭和が始まります。昭和元年は7日間、わずか一週間しかありませんでした。
天皇の在位と年号(元号)を一致させる一世一元制は明治に始まった制度ですが、明治天皇の在位期間と「明治」の年号はずれいるので、名実ともに一世一元となったのは「大正」が最初です。
時代の変わり目
ぼくは昭和から平成への移り変わりを経験しましたが、「なぜ、一人の人間の生死によって自分の生きている時間が区切られなければならないのか」と、非常な違和感を感じました。自分の時間が、天皇の在位によって区切られること、天皇制が生きている人間を呪縛していると感じたのです。
天皇即位式での隊列 東京書籍「日本史A」P123
とはいえ、不思議なことに元号と世の中の変化は奇妙にシンクロしています。
大正という自由と民主主義、世界との協調が曲がりなりにもめざされていた時代でした。それが、ちょうどこのころから、軍国主義、統制と暴力、狂信と無責任、そして戦争という昭和(前半)へと変わっていったのです。
実際の画期をどこにおけばいいのでしょうか。
ひとつは1925(大正14)年。大正デモクラシーの成果といえる普通選挙法制定と昭和の暗黒を象徴する治安維持法の制定。
いまひとつは1927(昭和2)年の田中義一内閣の成立。
なぜ田中義一内閣か。この内閣の下で、国際協調から対外強硬への転換、治安維持法体制ともいえる思想統制の本格化という昭和前半のキーワードがはっきりと姿を見せるからです。
田中義一内閣の成立
田中義一について見ていきましょう。
田中は長州出身の陸軍の軍人。
山県・桂の後継者というべき藩閥・軍閥の中心人物です。
第一次大戦中は参謀次長としてシベリア出兵を主導しました。政党とは対立的なタイプです。その田中が、人材難と、憲政会(のち立憲民政党となる)との対抗軸を打ち出そうとした政友会幹部に担ぎ上げられ、政友会総裁となりました。
1927(昭和2)年、第一次若槻礼次郎内閣が、金融恐慌と枢密院の「いじめ」によって崩壊。田中が政友会総裁として総理大臣に指名されました。
田中内閣がまず行ったのは前回見た金融恐慌からの脱出です。そして並行しながら進めたのが積極外交=対中国強硬策でした。
辛亥革命以後の中国情勢
辛亥革命と袁世凱
この間の中国の動きをみていきましょう。
中国では、1911年、明治が終わる前年、辛亥革命が発生し、翌1912年の正月にアジア初の共和制国家中華民国が成立、臨時大総統に孫文が就任しました。そして「平和的」に清が滅びます。最後の皇帝は宣統帝、本名が愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)です。当時6歳、物心がついたら元皇帝になっていたという変な人生ですね。その運命に逆らおうとしたため、おかしな役回りを演じさせられます。
清を「平和的に」滅ぼしたのが清の軍隊を仕切っていた袁世凱(えんせいがい)です。袁は考えました。「革命派を鎮圧することは簡単だ。しかし、清が立ち直ることは不可能だ。」そこで袁は孫文らに条件を出します。「孫文の地位を譲ってくれたなら、平和的に皇帝をやめさせて清を滅ぼしてあげよう。」と。「断ったとして、私の軍隊に勝てますかね」と脅しもかけたでしょう。
袁には軍事力だけでなく、列強の支援と資金もありました。孫文らは申し出を受けざるを得ませんでした。
こうして袁世凱は清を滅亡させ、中華民国臨時大総統となりました。選挙は行われ、革命派が勝利しましたが、袁は権力を渡さないどころか革命派指導者を暗殺、革命派を弾圧、正式な臨時大総統に就任、議会も解散しました。
日本が21か条要求を突きつけたのはこのころです。日本の要求を最終的には受け入れたことへの反発も生まれるなか、袁は皇帝となることを宣言しました。
軍閥の割拠と北京政府
袁は辛亥革命で中国の人びとが学んだ経験を甘く見ていました。袁の宣言が出ると、帝政反対の声は中国全土からまきおこり、軍隊を率いる有力者(軍閥といいます)は公然と袁に反旗を翻しました。あせった袁は皇帝を退位しますが後の祭りでした。袁は直後に病死します。
こうして、結果として、中国全土に自前の軍隊を持つ親分である軍閥が出現します。戦国大名をイメージすればいいかもしれません。かれらは列強とも結びながら各地に割拠します。
首都・北京では袁の部下でもあった軍閥たちが抗争を繰り返し、めまぐるしい政権交代がつづきました。寺内内閣が多額の資金を貸付けた西原借款の相手・段祺瑞もこうした一人でした。混乱に乗じて、東北部(「満州」)奉天(現・瀋陽)の軍閥張作霖は、北京への進出をすすめました。日本軍の援助を受けながら。
五四運動と第一次国共合作
革命の経験と日本など列強の横暴は、中国人の民族運動を高揚させました。
五四運動 中国での大衆的な民族運動の画期とされる。 東京書籍「日本史A」P102
ヴェルサイユ条約に反対した五四運動は大きな広がりを見せ、これまでにない階層までが民族運動に参加しはじめました。
これをみた孫文は、1919年に革命家集団の中華革命党を解散し、大衆政党・中国国民党を設立、北京大学の陳独秀(ちんどくしゅう)らは1921年中国共産党を設立、上海の工場労働者らの間に影響を広げていきました。
共産党の設立を知った孫文は考えます。「ともに中国を列強の支配から独立させ、新しい中国を作ろうとする仲間じゃないか。ぜひ一緒にやりたい」と。
こうして国民党は共産党員が個人の資格での入党を認めました。この時期の国民党と共産党の協力を「(第一次)国共合作」といいます。
1924年には、これまでの革命の理念「三民主義」(「民族・民権・民生」)に加える「新三民主義」として、「連ソ・容共・扶助工農」を掲げます。社会主義国ソ連と連帯し、共産党を受け入れ、労働者農民を助ける政策を進める、という内容です。
広州「国民政府」と孫文の死
孫文ら国民党は1920年ごろから中国南部の広東省に拠点を築きはじめ、1924年にはこの地に黄埔(こうほ)軍官学校を設立、革命軍の養成をはじめました。
蒋介石 黄埔軍官学校の頃のもの
校長が孫文の後継者となる蒋介石(しょうかいせき)で、スタッフにはのちの中華人民共和国首相周恩来やモスクワ・コミンテルンから派遣されたベトナム人グエン=アイコック、のちのホーチミンの姿もありました。
1925年7月、広東省・広州で中華民国国民政府が正式にうちたてられます。
しかし、この年の3月、中国革命の父孫文は北京で「革命いまだならず」という遺言を残し、なくなっていました。
五三〇事件と中国共産党
同じ1925年共産党の影響力の強い上海の共同租界で五三〇事件が発生します。
共同租界とは、外国人の居住と自治が認められた列強の共同植民地ともいえる場所です。上海の共同租界には、外交施設や商店・住宅だけでなく、外国人経営の工場なども作られ、列強によって組織された警察が治安を守っていました。
その上海共同租界で、日本人経営の紡績工場で発生した労働者解雇にかかわるトラブルがきっかけです。5月30日、連帯しようとした中国人のデモにイギリス人警察官が発砲、事態は一挙に拡大、上海全土で工場が操業を停止するゼネストへと発展、20万人以上が参加しました。ストライキは香港や広州にも広がり、香港では16か月にもおよびました。
浜島書店「新詳日本史」P267
中国の民族運動は労働運動と結びつき、イギリスや日本の支配に反対する反帝国主義の性格も強めました。この背景には労働者の間に影響力を強めていた中国共産党の存在がありました。
共産党員や孫文の遺志を大切にする人からすれば、こうした動きは「反列強、反帝国主義の立場で新しい中国を作っていこうとする」動きと見えます。しかし工場経営者である民族資本家からすれば危険な行為とみえますし、イギリスなど列強との協調を重視する人たちにとっても面白くないものでした。
国民党内に、共産党との関係をめぐる亀裂が生じてきました。
北伐の開始と「中国不干渉」政策
こうした亀裂を抱えながら、国民党・国民革命軍が、1926(大正15/昭和元)年、中国統一のための北伐を開始しました。
北伐と山東出兵
帝国書院「図説日本史通覧」P265
広州から北に向かって進み、妨害をする軍閥を排除し、最終的には北京を占領、中国を再統一しようという運動です。
「伐」の字は「門構え」なしで、木を「伐採する」(=「きりたおす」)というときによく使われます。それにたいして軍閥の「閥」は門構えがいるので注意してください。
北伐とは北に向かってすすみ「軍閥を伐採(ばっさい・切り倒す)する」というイメージでとらえてください。
北伐軍は中国国民の支持を受け、軍閥を排除しながら北上、長江流域に達しました。
浜島書店「新詳日本史」p269
これと呼応する形で租界を回収しようという運動もおこったため、各地で列強の軍隊と国民革命軍などとの衝突が発生、南京ではイギリス・アメリカの軍艦が群衆に砲撃を加え、多くの死傷者を出すという事件も起こりました。
日本国内でも「権益を守るために出兵すべき」との声が高まりますが、当時の外相幣原喜重郎は中国不干渉を名目にこれを拒否、政友会や在華紡関係者から「軟弱外交」という非難が浴びせかけられました。
上海クーデタ・「国共分離」と北伐の再開
1927年4月、上海にいた国民革命軍の部隊が突如、共産党員や影響下にある労働者を逮捕・虐殺するという上海クーデタをおこしました。
これをきっかけに各地で国民党が共産党員をおそうという事件が発生、両者の協力関係はこわれ(国共分離)、両者の対立は内戦(国共内戦)へと発展します。
なお、幣原はこの動きをつかみ、裏工作にもかかわっていた、ともいわれています。
このように中国情勢が切迫しはじめた時期、若槻内閣が崩壊、田中義一政友会内閣が成立、中国への内戦不干渉をかかげるハト派色の強い幣原外交は否定され、政友会の主張する積極外交が始まります。
田中義一「積極」外交の開始
山東出兵と東方会議
若槻内閣が、幣原外交に反発を持つ枢密院によって崩壊させられたあと成立したのが田中義一内閣でした。
1927年5月、日本軍は山東省の「在留邦人の生命・財産の保護」を名目に軍隊を山東省に派遣、北伐の北上を妨害しました。(第一次山東出兵)
つづいて、6月には中国関係の外交官・軍人を東京に集めて、東方会議を開催、中国政策を討議しました。ここで確認されたのは、満州・内蒙古(「満蒙」)に日本は重大な利害関係を持っていること、これが奪われそうになった場合は武力を行使する事も辞さないということであり、戦後総理大臣となる外交官・吉田茂はこの地域を中国から分離する強硬論を主張しています。会議では中国本土でも「居留民保護のためには軍隊を出動する」ことと示唆するなど、幣原とは打って変わった「積極外交」をうちだしました。
余談:「在留邦人の生命・安全・財産」をまもるといういい方
ちなみに、「居留民保護」ということばについて見ておきます。そこに住んでいる日本人の生命・財産を守るために軍隊をだして保護することですね。
前もいいました。戦争や武力行使には「正義」「大義名分」が必要です。
しかし、上海出兵のように「正義」も「大義名分」もない武力行使、でも政府や軍部が出兵させたいとき、ここで用いられる「大義名分」が「居留民保護」(=「在留邦人の保護」)です。のちの上海事変では、軍部の特務関係のものがガラの悪い中国人に金を渡して日本人を殺害させ、「日本人の生命と安全を守る」として軍隊をだしています。
現在、当然のことのように「在留邦人保護のため」ということがいわれますが、このように利用された歴史があったことを忘れてはいけないと思います。
済南事件
東京書籍「日本史A」P117
1928(昭和3)年4月、蒋介石は、第一次山東出兵などによって中断されていた北伐を再開、山東省に進出しました。すると田中内閣は山東省への派兵を決定、山東省内陸部の済南の町で国民革命軍との間でかなり激しい戦闘となりました。この名目も在留邦人の保護でした。これが第二回山東出兵(済南事件)です。
北伐軍の前で「とおせんぼ」をした形です。日本軍がさらに軍隊を増強すると、国民革命軍は全面衝突を避けて、済南を迂回、北京に向かいました。
張作霖爆殺事件
済南を迂回して北に向かった北伐軍の目標である北京には日本軍の支援を受けている張作霖(ちょう・さくりん)がいました。
山川出版社「詳説日本史」P342
引き上げを渋る張作霖にたいし、日本側は満州への引き上げることを勧告、張作霖は十数両編成の列車を仕立てて奉天に帰ることにしました。
ところが列車が奉天の町に入ろうとする直前の立体交差のところで、仕掛けられていた爆薬が爆発、張作霖は死亡しました。(張作霖爆殺事件)
日本軍(関東軍)は、そのそばに中国人の死体があり、犯人は国民革命軍であると主張しました。しかし、考えてください。20両近い車列のうち、ちょうど張作霖の乗った車両の真上で爆弾を破裂させるなんて高度な技、情報をきっちりとつかんでいないと無理ですよ。翌日の世界中の新聞は犯人は関東軍と報道しました。
この事件を起こした中心人物は、関東軍高級参謀河本大作大佐。混乱に乗じて新政権を打ち立てる計画でしたが、準備不足から張作霖を殺しただけという結果となりました。
余談:陸軍軍人の「習性」?!
細かい事には「丁寧な準備」をするが、全体的な展望にしたがって行動したり、その行動をおこなえば日本や世界がどう反応するかといったことを考えない。とりあえずやってしまえ!というのが日本の軍隊とくに陸軍の思考方法みたいです。
こんな連中がとくに大量に集まり、大言壮語していたのが関東軍。
彼らにとっては、張作霖の後継者張学良はアヘン中毒者で、簡単に日本の言いなりになると考えていました。
しかし、彼らの脳の中には、父親が惨殺された子どもがどう思い、何を考えるか、という人間の感情や行動を考える力が欠如していました。
自己中心的で、根拠のない希望的観測や一方的な決めつけ。
背景にある相手側に対する人種的・民族的差別感や偏見。
これからあと、われわれは、こうしたシーンを何度も見続けることになります。
北伐の完了
張学良は、日本に対する復讐を誓い、必死の思いでアヘン中毒から抜け出します。父から受け継いだ軍隊を率いて国民革命軍に参加・合流、1928(昭和3)年12月満州全土で中華民国の国旗青天白日旗が掲げられます。
関東軍や吉田茂ら、「満蒙分離」をめざしていた連中からすれば最悪の結果となりました。ショックだったでしょうね。人間として常識的に考えれば分かることを、考えられなかったのです。
張学良軍の国民政府への参加で北伐は完了しました。この一連の過程を国民革命という時もあります。
首都は南京に移され、北京は北平(ペーピン)と呼ばれるようになります。
この新しい政権を世界は承認します。アメリカも、いったんは敵対したイギリスも、国民政府を承認、不平等条約改正交渉にも応じます。
これは日本の孤立を意味しています。
日本の行動は中国の人々の強い反発をうけ、日本製品のボイコット(日貨排斥)は中国全土を超えて東南アジアまで広がり、日本の中国輸出は激減しました。
田中「積極」外交の失敗は明らかでした。
満州某重大事件と天皇の激怒
張作霖爆殺事件について、事件直後、田中は天皇に「河本の単独犯とおもわれる」と説明していました。
その後、民政党は国会でこの事件を「満州某重大事件」として厳しく追求しますが、真相が明らかになったにもかかわらず、田中は身内をかばう態度をとります。天皇にもそのような態度をとったため、天皇は激怒「やめてしまえ」と叱責を受け、1929(昭和4)年7月田中内閣は総辞職、3か月後、田中は死亡します。自殺ではなかったかという説もあります。
田中の死をしった天皇は「若気の至りであった」と述懐していますが、田中のいい加減さに、28歳の若者は耐えられなかったのでしょうね。
治安維持法体制の成立
「普通選挙」の実施
田中は、別の方向でも戦争に道を切り開きました。
治安維持法体制を一挙にすすめたからです。
ちょっと意外な話からはじめましょう。
第一回普通選挙での各政党のポスター
帝国書院「図説日本史通覧」P264
田中内閣まで、衆議院議員は制限選挙で選ばれた議員たちでした。普通選挙法以前の議員たちが残っていたのです。
新しい選挙、普通選挙はできるだけ先延ばしにしたい、これが本音でした。
普通選挙法による初の選挙が行われたのは、1928(昭和3)年2月、田中率いる政友会はかなりヤバい手段も使ったにもかかわらず勝利することはできませんでした。
選挙では、無産政党と呼ばれた社会主義政党も4.7%の得票をし、8議席を獲得しています。非合法下の共産党も運動に加わっていました。左派の労働農民党からは山本宣治らが当選しています。
三一五事件と特高警察
社会主義政党の進出は予想されていたこととはいえ8議席も獲得したことは、田中内閣など支配層には衝撃でした。
選挙翌月の1928(昭和3)年3月、政府は共産党員と支持者の大量検挙に踏み切ります。(三・一五事件)ついに治安維持法が用いられたのです。
さらに6月には緊急勅令で治安維持法を死刑を含む内容に変更、さらに「結社の目的遂行の為の行為」も処罰対象としたため(目的遂行罪)、共産党が「侵略戦争反対」などのスローガンを掲げていることを名目に、「戦争に反対する人は『共産党の目的遂行』を行っている」として検挙できる根拠となり、この規定を用いて、多くの人々が処罰されました。
この勅令の承認に強く反対しつづけたのが、労働農民党で当選した山本宣治です。山本は、特高警察などでの拷問の実態を国会で明らかにして反対をつづけました。
山本は、1929(昭和4)年3月下宿で右翼に暗殺されます。警察の監視下におかれていた山本の宿舎、なぜかその日だけ監視がいなかったといわれています。
山本の奮闘は無駄であったわけではありません。治安維持法の緊急勅令事後承認案には反対が170票(賛成249票)、民政党の大部分は反対票を投じました。
治安維持法を主に運用する機関が特別高等警察(「特高警察」)です。共産党などへの弾圧強化の動きを受けて、1928年7月特高警察(「特別高等課」)は全県に設置されました。
翌1929(昭和4)年の4月には再度、共産党関係者への一斉検挙が行われ、共産党組織は壊滅的な被害を受けました。(四・一六事件)。
治安維持法体制の確立
改正治安維持法に死刑が加えられたといいました。
しかし治安維持法で死刑にされた人はいません。
死刑にする必要もなかったのかもしれません。
東京書籍「日本史A」P126
ある統計(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟)によると、特別高等警察(特高警察)などによる拷問で虐殺されたり獄死した人は194人、獄中で病死した人が1503人にのぼっています。
「蟹工船」などで有名なプロレタリア作家小林多喜二や「講座派」経済学の野呂栄太郎も「取調中」に命を奪われました。
逮捕された人数は数十万人におよぶといわれ、厳しい拷問や説得によって考え方を変えたり(「転向」といいます)、沈黙を余儀なくされた人もいました。他方、「転向」を拒否して18年間も牢獄にいた人たちもいました。
このような、思想弾圧が恒常化し始めて来たのも田中内閣の時代でした。
動き出した「戦争の歯車」
田中内閣は、金融恐慌をなんとか切り抜けましたが、
対外政策では満蒙の分離といった外交政策を打ち出し、山東出兵も行うなど対中国強硬策によって、さらには張作霖爆殺事件といった卑劣な工作によって、中国侵略への道筋をつくっていきました。
国内的には、共産党に対する二回の弾圧をすすめるとともに、治安維持法を改悪、特高警察も整備するなど、国民の思想統制を本格化しました。
昭和になって最初に生まれた政権、普通選挙を始めて行った政権は、戦争への流れを作り出した政権でした。
その後、立憲民政党(かつての憲政会)浜口雄幸内閣のもとで幣原協調外交へと戻りますが、田中義一内閣の下でいったん動き出した戦争への流れを押しとどめることは非常に厳しくなっていました。
次の時間はこの流れをおしとどめようとした浜口雄幸民政党内閣をみていきましょう。
それでは、起立、はい、ありがとうございました