兵士たちの日中戦争~上海での戦闘と南京攻略戦

東京書籍「日本史A」p132

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Contents

上海での戦闘と南京攻略戦
~兵士たちの中国戦線

日中戦争の激化

こんにちは、それでは授業を始めます。
前回は1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、中国との間の全面戦争へと発展していく様子を見ていきました。

山川出版社「詳説日本史」P353

日本の軍も政府も、国民も、中国を見くびっていました。
40年前の日清戦争の経験、非正規軍との間の戦いだった満州事変、こうした印象で中国をとらえていました。根強い差別と偏見にとらわれていました。

だから、思ったのです。「中国は一撃すれば屈服する」。
ガラの悪いいい方をすれば「二・三発、ビンタでも食らわせれば、泣いて、謝ってくる」こういったイメージでしょう。
こうした考え方は、軍部だけでなく政府関係者や多くの国民にも広がっていたと思われます。だからこそ、軍人たちは功名を上げるチャンスだと勝手に戦線を拡大し、国際関係を重視していた政治家や外交官も、陸軍・参謀本部などより強硬な姿勢を主張したのです。
日中戦争が泥沼化した責任は、陸軍中央よりも政治家の方にあったともいえるかもしれません。このことはのちほど、見ていきましょう

戦場における兵士たち~上海での戦い

華北とともに、上海で激戦が繰り広がられていました。
国民党の蒋介石は上海に精鋭部隊を投入、反日意識の強い上海市民がこれを援助、民兵たちの参加もみられました。
こうして、日本軍の旗色はどんどん悪くなり、やむなく、大軍の投入を余儀なくされます。劣勢の日本軍は、優位に立つ海軍力と飛行機で対抗、さらに杭州湾上陸作戦などを敢行、しだいに優勢となっていきます。

戦場の様相~臭いと死体、排泄物

兵士たちの様子をみてみましょう。
戦闘に参加した人たちが異口同音に語るのが「臭い」です。
上海戦線では狭い地域での激戦がつづいたせいか、両軍とも死体を収容することが困難で、それが腐敗して膨張してガスを発していました。ウジとハエがそれを覆っています。強烈な腐臭がただよっています。
排泄物が散乱しています。死傷率が高いのは排泄中のことが多いため、身を隠せる塹壕内やわずかに残った建物で用を足します。銃撃を逃れて飛び込んだ建物の中が排泄物だらけで閉口したという手記を読んだことがあります。

「水」の問題

みんな、海外旅行、とくに途上国に旅行に行く時、必ず言われるのが、「けっして生水を呑まないでください」ということです。生水にはさまざまな細菌なんかがいて、おなかを壊すから。ひどい時は赤痢やコレラにかかったりもします。

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P56

さて、さっきの話です。兵士たちが飲む水、水筒の水がなくなったりするとは、濁った水路や水たまりの水、死体が浮かんでいるような水さえ飲み、料理に使いました。

 太平洋戦線で戦ったアメリカ兵の手記にこんな記事がありました。
意外にも水は茶色かった。それでもかまわず口を満たした—-そしてひどく喉が渇いていたにもかかわらず、思わず吐き出しそうになった。ひどい味だ。錆と油をたっぷり含み、悪臭がする。あらためて手元のコップをみて仰天した。鼻を突く茶色い水の表面に、青い油の膜がゆらゆらとゆれていたのだ。腹がよじれるように痛んだ。/いかにひどくても、この水を飲むか、熱ばてで倒れるかしかない。飲み干すと、コップの底にコーヒー滓のような錆の澱が残り、胃がキリキリ痛んだ。
こんな水を飲むのです。下痢をするものも多かったのです。
下痢はつらいですね。海外旅行で下痢をすると、トイレに行きたい。粗相をしてはいけないので脂汗ものです。
しかし、今見ている場所は、戦場です。どこでもいいので安全に用便が足せる場所を捜して用を足します。移動中などでそうもいかないときは、・・・・。兵士たちのズボンはテカテカしていることが多かったといいます。

銃弾・砲弾、爆裂音、そして「戦死」

さらに飛び交う銃・砲弾、爆弾が破裂する音、火薬の臭い。銃弾や砲弾の的は自分なのですよ。自分を殺そうとして銃弾が飛んでくるのです。傷ついたものの悲鳴や痛みを訴える声。あるいは精神の安定を失った人間の声。
ついさっきまで冗談を言っていたり、話しあって仲間がガクンと力を失って倒れる。 迫撃砲の直撃を受けたものの身体は、百合の花のような形になってしまうということを従軍ジャーナリストから聞いたことがあります。
日本の軍隊は同郷のものが集められていますので、自分の村や地域の出身者、同級生の死を看取らねばならない。

「戦場に慣れる」ということ

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P56

接近戦では、必死の形相の敵兵と一対一で銃剣などでたたかうことも起こります。相手の血しぶきを全身に浴びたりもする。一度、人を殺すと人間は変わるといいます。人を殺すことについての感覚が麻痺することが多かったといいます。
最初は恐ろしかった飛び交う銃弾の音も、死体のにおいにも平気になってきました。のどが渇くと、浮かんでいる死体を横によけて、水たまりの水を飲むことも普通になりました。
その一方で、こんな苦しい目にあわす敵、自分の友人や親戚を殺した敵に仕返しをするという感情が高まってきました。

「肝試し」~ある体験から

こののち、日中戦争では訓練が十分でない兵士が次々と派遣されてきます。それぞれの部隊では、こうした兵士を早く「一人前」の兵士とすることが求められます。

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P60

どうすれば「一人前」の兵士になれるのか。そこで行われたのが「肝試し」です。わかりますか?さっき、人を殺すと人間は変わっていくといいました。そう中国人を殺させるのです。スパイだとか、ゲリラだとか言っていますが、一般住民も多かったと思います。彼らを捕らえ、縛り付けて、銃剣で突き殺させるのです。上官の命令だといって。人を殺すことが「一人前の兵士」にする「教育」でした。
このことは、あまりにも普通に行われていました。
あるとき元兵士のところに話を聞きに行ったことがありました。そして、話が終わって外まで送っていただきながら、ぽつりと言われました。先生、『肝試し』って知ってますか。私はやりましたよ。」そのときは、どぎまぎしてしまって、聞くことができなかったのですが、あとになって、その方はだれかにそのことを話したかったのだと思いました。
辛い経験を自分の心の中だけに置いていくのは、重すぎるのではないのかと

断ち切られた兵士たちの「願い」

上海での戦闘は、ある意味では「まし」でした。兵士たちには「夢」があったからです。上海が陥落すれば戦争は終わる、そうすれば日本に帰ることができるという「夢」が。

なぜ「おじさん」兵士が多かったのか?

当初、日中戦争に派遣された兵士は20代後半から30代にかけての「おじさん」が中心でした。陸軍中央は、考えました。「ちょっと叩けば、すぐ降参するような弱小・中国に対して、十分に訓練を積んだ現役兵を使うのはもったいない。年寄りで十分だ」と。

東京書籍「日本史A」P132

訓練の行き届いた現役兵は、ソ連との戦いのために温存され、中国戦線には、いったん軍隊を離れてふつうの生活をしていた元兵士(予備兵=20代後半中心や補充兵=30代)を召集した特別編成の部隊を、中国戦線に送り込んだのです。
こうした人たち、家には妻や子どもがおり、家の大黒柱でもある人たちです。自分が軍隊に引っ張られたことで、家族や仕事がどうなっているか心配で仕方がありません。だから大部分が独身である20~22歳という現役兵以上に「帰りたい」「死にたくない」という気持ちが強かったのです。また世の中の裏、当然軍隊の裏事情もよくわかっています。したがって、20代前半の若者のようにあまり深く考えず、命を惜しまず戦闘に参加するわけにはいきません。すぐ戦場につれだされたため、訓練も不十分でした。
中国が降参すれば、故郷に帰り、妻子とあえる、仕事に戻れる、つらい軍隊とおさらばできる、それが彼らの「夢」でした。

南京攻略戦の開始

1937(昭和12)年11月、ついに中国軍は上海から撤退をはじめ、日本軍は追撃態勢に入りました。
しかし、上海が陥落しても、中国政府は降伏しませんでした。
そのころ、現地のトップである松井石根ら、現地指導部は考えました。「おれが首都南京を陥落させて、中国を降伏させてやる」政府や軍中央の命令なんてどうってことはない。いままでからそうやってきたのだから」自重を求めた外交官が生命の危機を感じるありさまでした。
独断で南京攻略が命令されます。それをうけ、各部隊はわれさきに南京をめざしました。陸軍中央や政府の対応、もうわかってますね。「やってしまった以上、仕方がない」。11月末には軍中央が、政府が、追認します。すでに兵士たちは南京に向かって全速力で進んでいます。

「夢」を絶たれた兵士たち

こうして、国に帰れるという兵士たちの「夢」は叶いませんでした。上海が陥落したのもかかわらず、また辛い日々が始まるのです。

東京書籍「日本史A」p132

「なぜだ?」兵士たちは思います。軍や政府への怒りがわいてきます。でもそれは、なかなか口には出せません。
そこで考えました。
中国が降参しないからだ」「素直に言うことを聞けばよいのに抵抗するからだ。だから自分たちは帰れないのだ」と。
彼らの意識も、明治以来の教育や社会風潮、そして中国での戦闘によってゆがめられていました。
同じ部隊の戦友が、同じ村のなかまが、兄弟が、戦死したり傷ついた。自分も辛い思いをしている、それなら、こっちも考えがある・・・

無理な南京進撃と兵站の困難

別の話をします。みなさん、戦争をするために必要なものは何ですか。
「武器」「弾薬」・・「兵士」。
みなさん日本的ですね。何か足りないものがありませんか?
兵士だって人間、それ以上に動物です。だから・・・
「食料」が必要なのです。
最初に話が出た武器、弾薬。実は、これ自体が不足しています。上海では、思いも掛けない激戦となり、弾薬が大量に消費され、国内の部隊のために取っておいた爆薬すら使い込む羽目に陥っていました。他の兵器もそんな状態です。南京まで攻め込むのには、かなりの無理がありました。
さらに食料です。上海は海から近いので食料の供給は比較的簡単です。輸送にかかわる部隊もたいして必要ありませんし、上海自体、中国最大の都市、ものはあふれています。
ところが、上海から南京までは直線距離で300キロ強の距離があり、武器弾薬を届け、食料も届けるとなると大変です。
道路は舗装されていないぬかるみですし、トラックなどもない。馬や人間がものを運ぶことになります。しかし、そのための部隊は準備できていない。南京攻略に対して、軍中央や政府が消極的だったのはこういった事情もありました。

「徴発」という名の略奪、そして強姦・放火

ところが松井司令官や各師団・連隊の司令官たちは功名争いで、南京への道を急ぎます。中国軍も、各地で激しい抵抗を繰り返します。さて、何が起こりそうですか。問題となったのは、なんといっても食糧です。進撃、という命令がでます。では、食料は?司令部からの返答は・・・「現地調達せよ」という言葉です。
日本軍の作戦思想に「敵地に糧を求める」というものがあります。食料は最低限持っていくだけで残りは現地調達しろという考え方です。でもどのように現地調達するのですか?コンビニやスーパーがあるのですか、それでも一〇万人近い人間の食料を準備する事はできないでしょう。ではどのようにして?

南京市内で略奪した物資を運ぶ日本兵 ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P60

現地調達」、結局はそのあたりの農村や町から手に入れろというのです。本来なら、若干なりとも、「おかね」を払って買えということになっていますが、貧しい村にそんなに売り物はない。多くは、怖いものだから誰もいない。村のなかを家さがしをして、畑の作物をとっていく。家畜でもいれば殺してもっていく。人がいれば交渉する。交渉に応じねば脅してださせる。そもそも食料を買うような「お金」ももらっていない。「お金」を払う気などもなくなってくる。いつのまにか、「現地調達」「徴発」は、略奪へと変わっていきした。略奪しなければ生きていけないのです。これが「敵中に糧を求める」の実態です。日本軍の作戦思想のなかに略奪と暴行にいたる原因が隠れていたのです
上海から南京に向かって、次から次へと日本兵は進んでいきます。食料はもうないと言ったら腹立ち紛れに暴行し、場合によっては殺します。家を焼きます。食料以外も奪い始めます。女性の強姦・輪姦事件も発生します。略奪も強姦は軍規で禁じられているので、ばれると都合が悪い行動です。実際に、強姦で捕らえられ、処罰された兵士もいます。とすると、口封じに・・・殺害する。さらに家々に放火する。こういった行為がエスカレートしていきました。
しかし憲兵の数は圧倒的に少ない。捕らえられた兵士は氷山の一角にすぎないものでした。
強姦事件が頻発したことが、兵士のための性的なサービスを行う従軍慰安所が設けられる理由ともなりました。このことは次の時間に話しましょう。

精神の荒廃と軍司令部

すでに略奪された村に、さらに日本兵がやってきます。日本兵が通ったあとには何も残らない。まるでイナゴ(蝗)が作物を食い尽くすみたいだといわれました。日本軍が自称する「皇軍」をもじって「蝗軍」とよばれました。
兵士の価値観もおかしくなってきます。どんな手段を使ってでも食料を手に入れてくる兵士は頼もしい兵士で、中国人に配慮したり略奪をしない兵士は役に立たない兵士という風になっていきました。徴発という名の略奪を否定する兵士の方が、居場所を失ってしまいました。こうした日本軍の軍紀の乱れは司令部でも大きな問題となっており、つい最近なくなった皇族の三笠宮崇仁親王は事態の深刻さを当時から厳しく指摘していました。

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P58

こうした軍紀の乱れと乱暴の背景には、俺たちの仲間を殺した中国が悪い。日本の言うことを聞かない中国が悪い。降参しない中国が悪い。家族と別れさえ中国に来させた中国が悪いという思いがありました。どうせ日本に帰れないのなら、やりたい放題やってやるという投げやりな思いがありました。
さらにこのような命令を出した軍への腹立ちから上官の命令等は聞かなくてもよいという気持ちの背景にありました。上官に対する反抗も急増しています。
さらに厳しい戦闘のなかで命に対して無神経にもなっていました。兵士たちが置かれた厳しい環境がこのような蛮行を生んだのです。

「行軍」~30キロの荷物で30キロ歩く

日中戦争は、広大な中国でたたかわれたこともあって、経験はまちまちだと言われます。「何もせず、酒ばかり飲んでいた」という人もいれば、暗い目をして、いっさい口をつぐむ人もいます。

帝国書院「図説日本史通覧」P278

大部分の兵士が「辛かった」と口にするのは、「行軍」つまり長距離の移動でした。「戦闘よりも辛かった」という声も多いのです。25~30キロという正規の装備に加え食料などをあわせて50キロにもなる荷物を持って、長い距離を歩くのです。1日30キロを歩くなどはざらです。
しかも、普通のところを歩くのではありません。自分たちをどこかから見ていて、隙があれば襲ってくるかもしれない場所を歩くのです。遅れることは捕まって殺されかもしれないのです。「ちょっとトイレ」なんていえません。だから、歯を食いしばって、おしりのあたりが生暖かくなって、異臭がしても歩き続けなければならないのです。だから・・・兵士たちのズボンはテカテカしていたのです。

南国土佐をあとにして

戦後、ペギー葉山と言う人が歌った「南国土佐をあとにして」という名曲があります。「南国土佐をあとにして、東京へ出てから幾とせか」という歌詞です。しかし、元の歌詞は「東京」ではありません。そこには「中支」という地名が入ります。中支、つまり中国の長江流域(華中)のことです。この歌は、中国との戦争で疲れた四国出身の兵士たちからなる第40師団「鯨」兵団の人たちが、辛い戦場で歌った望郷の曲でした。この歌に見られる兵士たちの思い、かつての兵士が元の詞でうたっておられる動画を見つけたので、見てください。
兵士たちの望郷の思い、鎮魂の気持ち、これも兵士たちの真実の姿でした。彼らを苦しめたのは、中国兵や中国の民衆だったのでしょうか。

「苦力」としての使役

戦争が長引いてくる中、こうした辛い行軍、少しでも楽がしたいと思った兵士は、そこらにいる中国人をつかまえ、荷物を運ばせました。人間の「徴発」を行ったのです。
兵士たちは、彼らを中国人労働者を意味する中国語で「苦力(クーリー)」とよんでいました。仕事が終われば、食事をさせて、カネを渡して、「ご苦労さん、気をつけた帰れよ」という兵士もいましたが、用が済めば敵に情報を流すかもしれないといって「肝試し」に使われるということもありました。

見て見ぬ振りをする上官たち

現地司令部は、各部隊のさまざまな「非行」を、多くは見て見ぬ振りをし、さらには黙認していました。
徴発をやめろ」といえば、「それなら食料を持ってこい」「食料が来るまでストップ」といわれるのですから。
かれらは、こうした非行をとめるよりも、南京到達と占領を優先しました。各部隊は、現地司令部の命令さえ無視して南京一番乗りをめざします。このような、軍司令部の姿勢や体質の中に、日本軍の問題がありました。

南京でおこったこと

南京への道でも、一方では「徴発」という名を略奪、それに派生しての強姦や放火などの「非行」を繰り返しながら、他方では南京防衛線を敷く中国軍との激しい戦闘を繰り返しながら、南京に接近していきました。
兵士たちは思いました。南京に行けば大量の食べ物にありつける。いろいろなものも、女性さえも「徴発し放題だ」と。

南京占領

そして1937(昭和12)年12月10日、日本軍は南京の総攻撃を命令、数日間の激戦ののち日本軍は南京に入城しました。

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」 写真は上海でのもの P48

この間、蒋介石らの政府指導者は南京を脱出して重慶に向かい、徹底抗戦を命じたはずの中国側司令官は日本軍の攻撃を受けると、自分たちだけが撤退し、多くの中国軍兵士が取り残されました。多くは急遽集められた農民兵です。
あるものはさまざまな形での撤退をはかり、あるものは日本軍に降伏し、あるものは軍服を脱ぎ捨てて外国人地域などに隠れました。逃げだそうとしたものの多くは捕らえられます。
兵士も一般住民も家などに隠れて息をころしています。「南京の町は恐ろしく静かだった」。多くの証言者がかたっています。そりゃそうでしょうね。敵が攻め込んできたのに町を歩いているわけないですよね。

大量の「捕虜」の出現

そこに日本兵が「残敵掃討」としてやってきて、隠れていたものを連れ出します。一般の人と交じっているのですから、区別のしようがありません。

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P62

手が柔らかいから農民でない」「手のマメは銃のためついたものだ」などといって。「16歳から60歳までの男は全部連れてこい」という命令が出たという証言もあります。こうしておそるべき人数の「捕虜」が生まれました
集められた捕虜はどうなったのでしょうか。さて思い出してください。兵士たちが苦しんでいた理由は何ですか。そう食糧不足です。大量の捕虜に与える食料はありません。収容する場所は、ありません。監視するだけのスタッフはいないし、そのような気もありません。

「適当な処理」~「捕虜」殺害

実教出版「高校日本史A」P129

教科書の史料に日本側の最高司令官の一人中島今朝吾の日誌が掲載されています。ここには「捕虜はとらない方針なれば、片端より片付くること」と命令したことが記されています。「片端より片付くる」これは捕虜全員を殺害せよと命令したことです。
南京大虐殺というとそこら中にいる人をめったやたらと殺したようにおもわれがちですが、中心は「捕虜」の殺害です。機銃掃射によって、あるいは何十人もの捕虜をロープなどで結びつけ、長江の真ん中で沈めたなどさまざまな方法で殺害されたと言われます。試し切りだといって軍刀で捕虜を殺害した将校もいました。一刀両断にしたというメモを残した将校もいました。その将校は、日誌の別の部分では、非常にやさしい一面を示しているのですが。

強姦や略奪、殺人

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P62

こうした「残敵掃討」の過程で、強姦や略奪も多発、それをとめようとした中国人も殺害されます
殺された人間の数、中国側は三〇万人、日本の研究者は十数万人以上それの二〇万人近く、あるいはそれ以上と考えています。
他方、「大虐殺はなかった」という人たちは数千人から数万人と主張しています。「大虐殺」ではなく、「虐殺だった!」ということでしょうか?

南京事件から何を学ぶか~なぜ、兵士が?

人数も問題かもしれませんが、それ以上になぜこのようなことが起こったの方かを考える方が重要だと考えます。

丸木位里・俊「南京大虐殺」  実教出版「高校日本史A」P139

事件があったことを認める人でも、やったのは「残虐な一部の人のことだ」といったりします。「日本人が残虐だから」と、言われる場合もあります。
しかし、そのようないい方でよいのでしょうか。この行為を行ったのは、ぼくのお父さんやおじさんの世代、きみたちにとってはお祖父さんやひいお祖父さんたちです。たしかに危ない人もいたかもしれませんが、多くは普通の人でした。そんな人が行った、行わされたというのが南京事件に象徴される残虐な出来事です。残虐行為がなぜおこったのか、その構造をしっかりと見つめる方が大切だと思います。残虐な行為をやった、やってしまった兵士たちはたしかに加害者です。しかし、同時にそのようなことをやらされた被害者でもあるのです。

兵士たちの加害と被害

かれらは、妻や子や家族をおいて、やりかけの仕事をおいて、大義もはっきりしない戦争につれだされ、苦しみながら、仲間の死を見て哀しみながら、食料もあたえられないまま、重い荷物を持って、ときには糞尿を漏らしながらも歩かされ、たたかわされ、残虐行為を強いられた被害者でもあるのです。

ほるぷ出版「写真記録日本の侵略:中国朝鮮」P56

長い間、自分のしてしまったことに苦しめられてきた被害者でもあるのです。
やっていながら「やっていない」と言い続けた人もいたでしょうし、「やってしまった。誰かに知ってもらいたいし、お詫びもしたい」という人もいたでしょう。「やったことをやったといわせてもらえなかった被害者でもあるのです。
ぼく自身も聞いたように、彼らの多くが生涯の終盤になって、重い口を開くようになったことの意味を考える必要があるでしょう。
かれらが、どういう状況にあり、何を行ったのか、リアルにみつめ、なぜこのようなことになったのか、同じ事を二度と起こさないためにはどうするのかが問われているのです。
「虐殺はなかった」「やったのは人間的に問題のある人だった」と強弁することは、決してかれらを救うことにはならず、いっそう苦しめることになるのです。

第一次近衛声明~和平工作の拒否

きつい話で気が滅入ってしまいますが、話をつづけます。
南京はこうして、日本軍の手に落ちました。少し話したように、南京に合った蒋介石の中華民国政府はより奥地の重慶に逃れ、徹底抗戦の体制を崩しません。南京を占領しても、戦争は終わらなかったのです。正確に言うと終わらせなかったのです。日本政府が!不思議なことに陸軍ではないのです。悪役の代表のような陸軍・参謀本部は停戦を望んでいたのです。

トラウトマン工作

この間、日本は中国側との間で、トラウトマンというドイツ人外交官を通じて和平工作をすすめていました。ところが南京が陥落すると、日本側は戦勝気分から急に和平内容のハードルを上げます。中国側が「和平内容をもっとつめよう」としたにもかかわらず、近衛総理や広田外相は「中国側の時間稼ぎだ」と主張、「交渉を続けるべきだ」と主張する陸軍・参謀本部を押し切って交渉を打ち切り、1938年1月には「蒋介石政府は相手にしない」という声明(第一次近衛声明)を出してしまいました。「今の政府はダメ、新しい政府としか交渉しない」といってしまったのです。こうして平和的に戦争を終わらせる道を自分から閉ざしました
陸軍・参謀本部は本命のソ連との戦いの準備のため、予定外の中国との戦いには決着をつけたかったのです。強大な中国、これまでとはまったく異なる中国、これまでの戦法が通用しない中国に勝てるという展望をもてなくなっていたのかもしれません
これまでは、陸軍が事態をどんどん悪くし、それに政府がつきあわされるというパターンでしたが、今回は「なんとか日中戦争を終わらせたい」という参謀本部を「これでは不十分だ」とばかり政府がおしきりました。絶好の機会を無駄にした近衛や広田といった人物の政治家としての素養の問題を感じさせる出来事でもありました。

戦争はつづく

早く国に帰りたいという兵士たちの願いを、今度は政府が裏切りました。こうして戦争はさらに泥沼化の様相を呈し、悲惨な戦いがさらにつづき、戦争の影響は国民生活にも広がっていきます。それでは、今日の授業を終わります。
<次の時間:国家総動員体制と国民生活>
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