太閤検地と朝鮮侵略~「平和モード」移行への苦闘

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5時間目

太閤検地と朝鮮侵略

      <授業プリント>

今回も、これまでと同様のものを使用

 <生徒のノート(板書)>

※今回は、日本史Bを履修している生徒のものを使用した。
通史である日本史Bであるため、教える内容がかなり細かく、検地において本来教えるべき「一地一作人の原則」などについて丁寧に説明している。桃山文化にも触れている。
当然、授業プリントも異なったものである。

秀吉1
秀吉2
秀吉3秀吉4

秀吉の課題、「平和モード」への移行

戦国時代、さらに信長政権の中で最高潮に達しつつあった戦争体制=「戦闘モード」を終わらせ、平和な時代に即したシステム「平和モード」へ移行させることが、秀吉、さらに秀吉の後継者の課題であった。
その中心的な政策が「兵農分離」であり、それによって「身分制」が確立していった

「兵農分離」で日本の風景は激変した

「兵農分離」は、百姓(その周辺かもしれないが)から武士へ、という秀吉個人がたどってきたルートを断ち切ることであった。
これ以後、原則として人々は「武士の子は武士」、「百姓の子は百姓」という身分を背負って人々は生きる時代となる
さらに「刀狩り」と武士(および地侍の一部)の都市移住は、農村の武装解除を急速に推し進めた。
こうして農民と武士、武士的農民がタッグを組んで活動するという室町・戦国期の農村の風景は一変し、一向一揆などに代表される農村の反抗は衰える
別の言い方をすれば、社会の流動化の中心であった農村が安定したのである。

「一所懸命」のDNAは数字に置き換わる

武士の城下町集住は、愛着のあるリアルな存在であった領地=農村(及びそこに住む人々)から、武士を切り離した。
土地は、自分の生活費を生み出す財産という性格を強め、最終的には、土地から収穫できる石高という抽象的な数字、他の石高と等価交換できる財産と変化させた。
そして「一所懸命」という武士の精神は、石高(現在の「給料」に近い)という数字を増やすことに価値観を見いだすという形に置き換えられた。
こうして、武士たちの土地への固執や「一所懸命」という原理は石高という数字に置き換えられていく。

「太閤検地」

聖なる土地は、単なる数字に置き換えられた

「聖なる存在」であった土地を、米の収穫高(「石高」)という数字に変えてしまう作業が「太閤検地」である。
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山川出版社「詳説日本史図説」P139

検地とは、土地の場所、持ち主、土地の広さ、土地の生産性、収穫高を確認することをいう。秀吉はこれを日本中で実際の測量によって行うことで、日本中の土地、そしてそこでとれる収穫高を掌握することを可能にした。

画期的な太閤検地

検地自体はすでに何人もの戦国大名が実施していたし、信長もしていた。しかし太閤検地は画期的であった。なぜか?

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検地にもとずき田畑の石盛に応じて村全体の収穫高・年貢高が算定された。(山川出版社「詳説日本史図説」P139)

まず全国規模で行われたこと。しかも同じ基準で行われたこと。秀吉は、ものの長さ、重さ、量(これを合わせて度量衡という。普通名詞だけどできない人が多い)の単位を統一して、ズルができないようにしている
 次に、実際に計測をしている。戦国大名(そして信長の時も)の時は、武士の自己申告(指出検地)にもとづくものだった
あれだけ強いと思われた信長でさえ、武士、一人一人の土地に入り込んで調査することはできなかった。
そうして考えると、秀吉の力の強さが分かる。

「石高制」~「収穫」を米の取れ高で示す

さらに、戦国大名の時、田畑からの収穫高は、どのような単位で示したか、分かる?米、お金?
お米、そりゃ米の方が古くて、お金の方が新しいと思えるよな。
ところが、実際は、お金。お金の価値である「貫」(もともとは銀貨の重さ)で量っていた。
 しかし、お金で量るということは、収穫物を売るという一手間がかかるよな。
これにたいし、太閤検地では、実は田畑の収穫を米の取れ高(これを「石高」という)で量った。これだったら土地の広さと土地の質(一定の広さからどれだけ収穫できるか)を計算すればわかる。よりリアルな数字が出る
ちなみに太閤とは元関白のことをさす「一般名詞」だけど、秀吉を指す固有名詞としても使われるようになる。
太閤検地は、日本中の土地を、同じ基準で調査して、場所、広さ、収穫高と持ち主を検地帳という記録簿に書き残す形で調査した。

畑の収穫は?家などの財産は無税?

しかし、ちょっと待ってくれよ。農業をやっているところを見れば、米だけを作っているわけではないよな。冬には違う作物も栽培しているし、田んぼに向かないので畑しかやらず、違うものも作っている。さらに農地をつぶして屋敷もある。屋敷地の中に小さな畑もあるので、もっとややこしい。
だから、こうした場合の読み替えの計算式もつくられた。
実は、米の収穫高ですべての土地の収穫高を量るということ自体がフィクションの側面もあったんだ

検地のじゃまをする奴は皆殺しにせよ

検地は非常に厳格に行われたといわれている
秀吉は検地を行う係の武士に、百姓がいうことを聞かない場合は村人全員を「なで切り」にしてもかまわないという命令書を送っている。
検地にかかわって、各地で反乱が発生したとされるが、他の要素も多く、検地自身が反乱の直接原因となったかはよくわからない江戸期に入ってからの例が茨城県で一件報告されている。このできごとは小説にもなっている

「太閤検地」で日本の生産を把握できる

太閤検地によって、豊臣政権は、まず一人一人の持っている土地とその収量を知ることができ、それをもとに村全体の収量、そして村を支配している領主、大名のもつ土地、あらゆるレベルでの収量が把握できる。そしてすべてを合計すれば、日本全体の土地からの収益も捉えらるようになる
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山川出版社「詳説日本史図説」P139

しかし、そんなに長くない時期に、これだけの大事業ができたのだから驚きだ。ついでにいうと、これを実施できるだけの技術とスタッフがいたことも驚きだ。

「石高制」のおそるべき効用

家柄や格、兵士や武器などの装備や人数も

収量の正確な数的な把握はいろいろなことの基礎データとなる。
まず、一人一人の武士の収入を「石高」という基準で表せるようになり、その大きさによって武士の格も決まってくる。
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このように大名などは石高に応じて、従者の数や装備などが厳密に決められていた。(この表は江戸期のもの) 山川出版社「詳説日本史図説」P146

 同様のことは大名においてもいえる。
石高の大きい武士は、義務が大きくなる。
義務とは何か。
それは戦争の時に連れて行く兵士や武器などの装備など、これを「軍役」という。これは厳密に決めれている。
石高が多い大名はいい格好ができるが、出費も増える。

石高の多い軍事系大名、石高の少ない文官大名

秀吉の軍隊は、基本的には大名に命じて兵を出させる形だったので、秀吉の直轄軍は、加藤清正や福島正則など軍事系の大名の石高を増やすことでまかなわれた。だから軍事での活躍を期待された家臣は石高が多い
これにたいし、経済や外交など内治にかかわる実務派の官僚の石高は豊臣政権での働きと位置づけから見て思いの外、少ない。
こうしてみれば石田三成の20数万石というのは実は非常に大きいといえるのかもしれない。
Ishida_Mitsunari

石田三成 文官大名の中心であり、秀吉の側近。

このことは、豊臣氏のなかである問題を生み出す。
後でも触れるが、豊臣氏の家臣の中には、軍人官僚と文官官僚が生まれつつあった。したがって、戦争での活躍を期待される師団長クラスの軍事系大名(加藤清正や福島正則が有名)の石高を大きくなり、石田三成に代表される文官大名は軍事力としての期待値が低い。本人の能力が主に期待されているのだから、石高が少ないという結果となる。
石高は給料だけでなく、秀吉軍を養うためのものでもあったのだ。
ふと考えてみると、このことが秀吉死後の争いでの文官官僚グループの敗退につながり、商業よりも農業を重視するという江戸時代のトーンにつながっていったのかもしれない。

同じ石高なら等価交換も可能では…

石高中心主義は、あらたな可能性を生み出す
たとえば、上杉氏の越後で得ていた石高と同じくらいの石高を保障するから会津に移ってくれという言い方が成立しはじめる。
実際、上杉氏は戦国大名として地歩を固めた越後の地をはなれ、縁のない会津へ移らされる。その際に越後に残り家臣から離脱するものと、会津に連れて行く家臣の選別を迫られるようになった。これは先に話したとおりだ。こうして兵農分離はいっそうすすんでいく。

兵農分離と検地、石高制の功罪

戦争モードから平和モードという観点をもう一度見直してみよう。
とりあえず、3つのミッションを指摘した。
①武士のリストラ、
②「一所懸命」のDNAからの脱却、
③農村から武士という流れの断絶。
④さらに社会の流動性や実力主義、力による決着、そして「下剋上」といった戦国時代な意識からの脱却もあわせて指摘した。
これにたいし秀吉は、主に兵農分離による身分制の固定化、およに検地による石高制の確立というやり方でこのミッションに応えてきた。
その結果、③、さらに②についても方向は出てきた。
しかし、①はある程度進むとしても、まだまた武士の数は多すぎる。④の人間の意識はそんなに簡単に変えられない。もし秀吉がこの時代に生まれていたら、きっと納得しなかっただろう。

秀吉の朝鮮侵略

武士団のリストラ策と朝鮮侵略

①の武士のリストラについてはまだまだ困難であった。
あまりにふくれあがった武士団をどうするか、これにたいする秀吉の選択が「海外侵略」のように思われる。
秀吉は、マカオやゴアなどに朝貢をもとめ、さらに朝鮮に明攻撃の先導をするように要求、受け入れられないとわかると、朝鮮への出兵を命じた
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山川出版社「詳説日本史」P165

秀吉は、多くの大名・武士たちに大陸で領地を与える話している。
朝鮮出兵は秀吉が老年に近づいてきたための妄想のように考えがちであるが、内戦が終わった直後なのにまた戦争を始めるというやり方は、古今東西よくみられる行動である。現に、江戸時代が終わった直後、明治新政府において西郷隆盛らが同様な提案(征韓論)をしている。
なお、海外進出のアイデアはすでに信長が持っており、秀吉はそれを受け継いだだけというべきかもしれない。

「正義」のない朝鮮侵略

しかし、この戦いは、戦争で最も重要な「正義」がない。
秀吉のプランとしては、過剰となった軍事力を海外侵略に振り向ける。そして獲得した領地を軍人たちに渡すことによって、新たな「一所懸命」を実現させる
こうして「平和モード」移行によるストレスを解消できる。
戦争準備と戦争はナショナリズムを鼓舞することで求心力を増し、強硬な国内改革をやりやすくする面も持っている。
強いていえば、これが秀吉の「正義」だったのかもしれない。ともあれ、迷惑な「正義」であるが。
HS143

浜島書店「新詳日本史」P143

この行動に対し、実際の秀吉の家臣団はどのような評価をしたのだろうか。しかし、この侵略に対し、積極的に支持し、協力したという勢力はいたのか。文官官僚は秀吉の命を受けてテクノクラートとしての後方支援の活動に力を入れたであろうし、その中で改革をすすめた面もある。

しかし、かれらに近い立場にいた小西行長や宗義智らの動きを見ると本音では賛成のように見えない。
軍人官僚は活躍の場を得られたとして戦闘を繰り返したであろうが、多くの不満をもっていたことがわかる。
家康は、関東への移封を理由に参加していない。

朝鮮侵略の失敗~「平和」の担い手は家康に

この16世紀末の大陸侵略は、朝鮮の軍民一体となった抵抗と明の援軍の前に失敗におわり、秀吉の死を口実に撤退する。
HS143

浜島書店「新詳日本史」P143

そして豊臣政権は、財政難と内部対立、責任の押し付け合いといった敗戦につきものの事態が起こる。
こうした事態を虎視眈々と狙っていたのが、徳川家康である。
 秀吉は、平和モード実現への主要な政策を進めながらも、朝鮮侵略という手法を用いる事により失敗、平和モードの実現の課題は、徳川氏へと移っていく
秀吉の最後の皮肉な役割は、最愛の子秀頼を平和モード確立の人身御供として捧げ「平和」実現に「力を貸した」ことかもしれない。
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