原敬内閣とヴェルサイユ体制

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前の時間:大正デモクラシー

原敬内閣とヴェルサイユ体制

米騒動と原敬内閣

前回はさまざまな社会運動が第一次大戦前後から急速に発展していったことを見てきました。そうしたなか、大正デモクラシーの画期とされるのが、1918(大正7)年に成立した日本初の本格的政党内閣・原敬内閣の成立です。
原敬の肖像(写真2)拡大画像

原敬 (「原敬記念館」HPより)

ちょっと復習です。
原敬内閣が成立したきっかけは・・・・その前の寺内正毅ビリケン(非立憲)内閣が米騒動で崩壊したためですね。・・・米騒動にみられる巨大な国民のエネルギーの前に失政を繰り返してきた寺内内閣は崩壊したのです。
このような国民のエネルギーのたかまりを静めることのでき国民的な人気と実力を兼ね備えている政治家として考えられたのが、原敬です。
桂園時代の頃から「総理大臣に」という声は強かったのですが、その前に立ちふさがっていたのが・・元老の山県有朋です。
当時、総理大臣は元老が推薦するというルールがありました。多くの元老が死んでいくなか、生き残った元老で圧倒的な存在感を持っていたのが山県でした。大嫌いな政党(政友会)のリーダーで、華族でもなく、薩長など藩閥でもない原を、山県は嫌っていました。明治維新以来の政治の流れを変えてしまうと考えたのかもしれません。しかし、米騒動という国民のおおきな力の前に、国民の支持が得られ、この混乱を収拾できるのは原しかいないことを、山県も認めざるを得ませんでした。明治以来のシステムとともに、山県も年老いていました。

原敬という人物

原敬という人物を見ていきましょう。原は「平民宰相」とよばれましたが、出身は岩手県・盛岡藩の上級武士の家柄です。
原敬の生家。記念館と隣接しています。

原敬の生家(原敬記念館HPより)

盛岡藩は戊辰戦争で敗れ、賊軍の藩の出身として、藩閥優先の社会では不利な立場に置かれました。こうした世間への反発もあって、原は平民としての道を選びました。新聞記者を経て官僚となり、伊藤博文の信任を得て立憲政友会に参加しました。

そして、立憲政友会結成の立役者星亨が暗殺されると、政友会の実質的なリーダーとして、桂園時代を裏で支えました。政友会総裁として西園寺公望が総理大臣を務めていましたが、それを支えていたのは原でした。その後も総理大臣を勧められた西園寺が頑として拒否したのは原との対立があったからともいわれます。
明治末以来、原は政界の大物でした。

原敬政友会内閣の成立

 

1918(大正7)年、原がついに総理大臣となります。
藩閥でない賊軍の藩の出身。衆議院議員であり、爵位を持たない(華族でない)平民宰相。
人々はこの内閣成立を新しい時代の始まりとして歓迎しました
原は、陸軍・海軍・外務の三大臣を除く全閣僚を政友会の党員で固めた初の本格的政党内閣を実現します。議会の多数派による政党内閣の出現により吉野作造が期待していた、民本主義がすすむと期待されました。
ここで、業務連絡。テストの時、正誤問題で「本格的」を外して、「原内閣を初の政党内閣」とするのはオーソドックスなひっかけだからね。これが×の理由、わかる?初の政党内閣は第一次大隈(隈板)内閣だからね。ひっかからないようにね。以上、業務連絡でした。

原敬内閣の手法

では、原内閣は吉野が望んだ「民本主義」をすすめる内閣であったのでしょうか。
実は、原は吉野作造を「民本主義」を強く嫌っていたことが分かってきました。
原が進めたようとしたのはどのような政治だったのでしょうか?
先に結論を言うと、選挙で政友会が多数を占めること、これを第一に考えた政治といわれます。議会の多数を背景に強力な政治をおし進めようとしたのです。
ではどうすれば選挙で勝てるのか、原や政友会は、それぞれの選挙区の選挙民がよろこぶ政策に力を入れます。自分の地域に仕事をもってくる、鉄道や道路をもってくる。こういった地元密着の政策です。
「我田引鉄」と国鉄民営化
当時使われた言葉に「我田引鉄」という言葉がありました。「我田引水」という言葉をもじったいい方です。議員たちが「自分は強いコネを持っています。我が町に国鉄の線路を引き、駅がつくるよう努力しますよ!だから投票してください」という選挙運動をし、当選すると国鉄や関係の役所などに圧力をかけて鉄道を作らせました。
「我田引鉄」は第二次大戦後、保守系の政治家にも多用され、その結果、赤字確実な国鉄路線が次々敷かれました。案の定、赤字が膨らみました。こうしたこともあって、国鉄財政は破たん状態となり、国鉄の分割民営化、JRとなる原因にもなりました。当然のこととして、新たに作られた路線の多くも廃線となりました。
こうした手法は現在も使われます。選挙公約に「新幹線や高速道路の開通」などとかいている議員さんはいっぱいますからね。
地元に利益をもってきますという手法を利益誘導といいます。
「利益誘導」を実現するためには
「我田引鉄」をはじめとする利益誘導型政治を大々的にすすめたのが、政友会であり、原内閣です。
「我田引鉄」当時開通した国鉄・大船渡線は不自然なルートを通過している。帝国書院「図説日本史通覧」P251

「我田引鉄」当時開通した国鉄・大船渡線は不自然なルートを通過している。帝国書院「図説日本史通覧」P251

ではどうすれば鉄道を敷くといったことが実現できるのか。それは政府や官僚にコネをもつことです。内閣の一員なら最高、その他、官僚が挨拶に来るような有力政治家なら実現しやすいでしょう。
だからこそ、政党や議員は政府との関係をもちつづけることに腐心します。考え方が違うはずなのになぜ?と思っても、当選するためにはしかたないということもあるのですね。

帝国書院「図説日本史通覧」P241

帝国書院「図説日本史通覧」P241

さて原内閣。自分が政府のトップになったんだから、こんなチャンスはない。
原は積極財政といわれるばらまき政策をすすめます。
鉄道拡張のほか、高等学校や大学など高等教育の充実、電信網の整備などをすすめ、さらに大規模な軍備拡張もすすめました。

 

 

原内閣と選挙法改正

「平民宰相の原が首相になったんだからきっと普通選挙法を実現させてくれるだろう」と多くの人々は思いました。普通選挙権を求める運動が最高潮に達したのもこの時期です。友愛会なんかも積極的に取り組みました。
普通選挙制を要求する人々(国会前)1919 帝国書院「図説日本史通覧」P251

普通選挙制を要求する人々(国会前)1919
帝国書院「図説日本史通覧」P251

ところが、原は考えました。普通選挙権を実現するとどうなるか?・・・貧しい人にも投票権が与えられると、どんなリスクがあるか?

ロシア革命があって、米騒動もあったのだから・・・?みんなが原の立場なら、米騒動の中心となった人たち、労働者、小作人、こういった人たちにも選挙権が得たらどんな人に投票しそうだと考える?
原たちは、「社会主義者とか、政府にとって都合が悪いと考える人に投票する人も出てきそうだと考えました。自分たちを支援してくれている地主や資本家に反対する人たちも当選する、そうすると政治が混乱するこう考えたのです。
しかし、普通選挙運動をまったく無視するのも難しい。そこで、選挙資格を拡大し、投票権が与えられる人を増やします。
これまで直接国税10円以上を払っていた人に与えられてきた選挙権を3円以上に引き下げました。これにより日本の総人口の5.5%に投票権が与えられるようになりました。最初の選挙の時が1.1%ですから、まあ少しましになったというところです。一見すると、普通選挙に近づいたようにも見えますね。
山川出版社「詳説日本史」P338

山川出版社「詳説日本史」P338

しかし、よくみるとこの改正で投票権を与えられた人の多くは小規模な農村地主でした。他方、急速に増えつつある都市住民には、所得税の仕組みからあまり選挙権が与えられません。つまりこの改正は政友会の支持層である農村票を増やす内容でした。
さらに、あわせて小選挙区制も導入します。小選挙区制は現在の衆議院選挙でも行われているから分かると思うけど、一つの選挙区から一人しか当選しないという選挙法、大政党に有利といわれています。

このように選挙のルール自体を政友会に有利としたのです。

衆議院議員選挙結果 立憲政友会の圧勝ぶりがわかる。 山川出版社「詳説日本史」P325

1920(大正9)年、野党が普通選挙法を国会に提出すると原は「普通選挙法は時期尚早と思う。国民に信を問いたい」として、衆議院を解散し、選挙にうってでました。
結果は、もう分かりますね。政友会=原内閣の圧勝です。これによって、普通選挙法は選挙で否定された形となり、普通選挙運動はいったん下火となります。原は、現実主義的でしたたかな、悪くいえば「ずるい」政治家でした。

原の暗殺とその後の内閣

こうして原内閣は盤石の基盤を手にしたように見えました。
ところが、この直後から多くの問題が発生します。
ひとつは戦後恐慌の到来です。

原敬の暗殺現場(Wikipedia「原敬」より)

これにより、原内閣がばらまき政策を行おうにも財源が不足します。
利益誘導型の政治には利権を求めていろいろな人が集まったため、政友会をめぐる汚職事件が立て続けに発生します
こうしたなか、原に対する反発も高まり、1920年原は東京駅のホームで一人の青年に刺されて、即死しました。

高橋是清内閣と非政党内閣

あとを継いだのは、政友会の総裁を引き継いだ高橋是清でした。戦後恐慌の中、軍縮や財政の引き締めなどをすすめようとしたため、政友会内部の対立が激化し、短命に終わりました。
そののち、1922(大正11)年加藤友三郎内閣、1923(大正12)年第二次山本権兵衛内閣と二代続けて海軍出身の総理大臣が続きます。この間、大戦後、欧米でグローバルスタンダードになってきた普通選挙を導入しようと検討、準備がすすめられますが、政友会の消極的な姿勢にくわえて、加藤の病死、関東大震災などがあってなかなか進みませんでした。

政党内閣がつづかなかった理由

ではなぜ政党政治がつづかなかったのでしょうか。
一つは1920年の選挙で政友会が勝ちすぎたからです。政友会内閣が崩壊すると、次は第二党の憲政会と考えるところですが、憲政会と政友会の議席の差は非常に大きく、政友会の反発を考えるとむつかしいと 思われました。しかも憲政会の総裁加藤高明は二十一か条要求を押しつけたときの外相で評判が悪い。原が元老との間で、憲政会内閣は認めないよう裏取引をしていたことも明らかになっています。
では、議会の圧倒的多数を占める政友会はどうか?当時の政友会総裁は高橋是清でした。この人物は元老の評判がすこぶる悪い。この時期になると元老といっても山県と松方正義、そして新たに追加された西園寺公望だけです。
高橋は大戦でドイツが戦争で敗れたのは参謀本部という陸軍の制度に問題があったと考え、その考えを一部に漏らしていました。ある意味、軍隊の統帥権という明治憲法の最大の問題を指摘しらともいえます。しかしこの制度を作った元老・山県からすれば、許すことのできない考えでした。こうして高橋を総裁とする政友会からも総理大臣は出せないとなります。
こうして、政党政治の流れができつつあったにもかかわらず、非政党内閣がつづいたのです。

パリ講和会議とヴェルサイユ体制

パリ講和会議と日本

第一次世界大戦が終結したのは、1918(大正7)年11月、原内閣の時代です。
そして第一次大戦の後始末を行うパリ講和会議が1919(大正8)年開催され、日本からは西園寺公望が全権として参加、戦勝五大強国の一つとしての扱いをうけます。

パリ講和会議の日本代表団 牧野伸顕と西園寺公望(Wikipedia「パリ講和会議」より」)

 しかし会議において日本はまったく存在感を持ちません。西園寺は人々に茶を振る舞うことに最大の興味があったかのように見えたといいます。
日本代表団は、二つのことにしか興味がなく、他のことについては沈黙を守ります。
一つ目は中国・山東省や太平洋におけるドイツ利権の継承です。
そして二十一か条要求で中国におしつけた山東省の利権の継承強引に条約にもりこむことに成功しました。

赤道以北の南洋群島は国際連盟の委任統治領という形式をとって獲得します。

二つ目は人種差別撤廃を条約に盛り込むことです。アメリカですすむ日系移民排斥運動を念頭に置いた主張でした。しかし、移民の流入に危機感を持つオーストリアなどが反対しました。さらに、日本の植民地・朝鮮で三・一独立運動が発生、その鎮圧のやり方が報道されると、日本の主張の首尾一貫性も疑問視され、採用されませんでした。

勝者の世界分割と「民族自決」

パリ講和会議は、勝者の論理に立った会議でした。敗戦国ドイツは植民地のすべてと領土の多くを奪われ、「天文学的数字」と呼ばれるほどの多額の賠償金を抱え込まされました。ドイツは、この過酷な内容の条約を釈明もできずに強要されました。これがヴェルサイユ条約です。
帝国書院「図説日本史通覧」P252

帝国書院「図説日本史通覧」P252

また、伝統的な大国オーストリア帝国は解体され、社会主義革命によって崩壊したロシア帝国の領土も取り上げられます。
かわって、東ヨーロッパには「民族自決」という考え方にしたがって、新たな国家が生まれました。
「民族自決」という考え方は、ヨーロッパ外では適用されませんでした。その結果、敗戦国の一つオスマン帝国の旧領土はイギリスとフランスによって分割され、ドイツの植民地なども国際連盟の委任統治領という名目で、列強の手などに渡っていきました。
勝者の論理に貫かれたこの会議の決定は、とくにドイツの人々の強い反発を招きます。のちヒトラー率いるナチス党はこのときの怨みを国民に訴えて台頭しました。パリ講和会議が第二次大戦の原因をつくりました。

「民族自決」の広がり

すでにみたように、アメリカのウィルソン大統領は大戦末期に世界の恒久平和のための原則として十四か条の平和原則を発表しました。 会議は、表向きはこの原則を尊重する形をとっています
ここには、秘密外交の禁止などとともに、民族自決、平和的国際機構の樹立といった重要な提案が含まれていました。
そして「平和的国際機構の樹立」の提案は、国際連盟創設という形で日の目を見ることになりました。
民族自決」とは、民族がそれぞれ自分の運命をみずから決める権利があるということで、他民族支配から独立を認める内容でもありました。ウィルソンの念頭にあったのが東ヨーロッパであったことは先に見たとおりで、自国の植民地フィリピンで「民族自決」を認める気はまったくないなど、この原則をアジアなどに及ぼすことも考えていませんでした。
ところが、この原則は一人歩きし始めます。この理念を大きな感動を持って受け止めた一人が当時パリに住んでいたベトナム人グエン=アイコックです。感動した彼はウィルソンへの面会を求めようとしました。この人物こそ、約40年後、「民族自決」を求めてアメリカの前に立ちはだかりアメリカを打ち破ったベトナムの伝説的指導者ホーチミンです。
このようにウィルソンが提唱した「民族自決」の原則はその意図を超えて「植民地の人々も自分たちの民族の運命を自分たちで決める、すなわち独立する権利を認めるものだ」と受け止められ、植民地や半植民地の人々に、民族独立というゴールを考えさせました。

三・一独立運動

帝国書院「図説日本史通覧」P252

帝国書院「図説日本史通覧」P252

「民族自決」という言葉に心を踊らせた人たちが日本にもいました。日本で学んでいた朝鮮の留学生たちです。かれらはこれを聞いて「朝鮮も独立ができる」と考え、東京で「独立宣言書」を作成、ぞくぞくと朝鮮に戻りました。
1919(大正8)年3月1日、宗教指導者を中心とする民族運動の指導者がソウルのパゴダ公園で集まった民衆の前で「独立宣言書」を発表すると、これをきっかけとして「朝鮮独立万歳」ととなえる三・一独立運動が朝鮮全土、さらには国外でも展開されました

実教出版「高校日本史A」P114

これにたいし日本側は軍隊を出して鎮圧、厳しく鎮圧しました。
ソウル近郊の堤岩里では付近で発生した警官殺害事件の報復として村人たちを教会に集め、全員を虐殺するといった事件すらも起こしました。(堤岩里事件)この事件はアメリカの通信社を通して、全世界に報道され、パリの会議場にも伝わりました。これにより、「人種差別撤廃」という日本の主張は説得力を失ったのです。
現在の「大韓民国の憲法」は「三一運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」をうけつぐと主張し、三・一運動こそが現在の韓国の出発点と位置づけています。
三・一運動後の朝鮮半島の歴史は、すでに話しました。

五四運動

パリ講和会議での日本の姿勢は、中国での激しい反日運動を引き起こしました五・四運動と呼ばれる事件です。先に見たように日本は二十一か条要求で山東省のドイツ利権を奪い取りました。中国は、第一次世界大戦に参戦し戦勝国となることによって、日本に対抗しようとし、中国代表も講和会議に参加しました。しかし、日本は山東省の利権獲得を強硬に主張、人種差別条項を拒絶した米英仏などはその交換条件という性格もあり、日本の主張を認めます。
帝国書院「図説日本史通覧」P252

帝国書院「図説日本史通覧」P252

こうした会議の様子が伝えられると激しく反発したのが大学生、とくに北京大学の学生たちでした。
かれらは朝鮮での三・一運動にも影響され、街頭に出てデモをおこない、会議の不当性とくに日本の山東省の利権獲得方を強く非難し、日貨排斥(日本商品のボイコット)をよびかけました。

浜島書店「新詳日本史」p256

学生たちは思っていたでしょう。「こんなことをいったって多くの人々は耳を傾けないであろう」。ところが、不思議なことが起こりました。彼らの訴えに、人々が足を止め、その主張に耳を傾け始めたのですそして運動は、学生から市民、労働者へ、北京から上海、そして中国全土へと広がっていき、日貨排斥なども広がりをみせていきます。中国における民族運動が大衆的な基盤を持ち始めるようになったのです。

こうした運動の高まりの前に、中国政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否するとともに、逮捕した学生たちを釈放しました。

運動を見た孫文は、革命家を中心とした中華革命党をより広い国民の参加を求める中国国民党に改組、北京大学の教授であった陳独秀たちは中国共産党を創設します。
日本の強引なやりかたが中国人の民族意識に次々と火をつけていきました。
ところが、多くの日本人は民族意識の目覚め始めた中国人の変化に気がつかず、これまでと同じように行動しました。帝国主義的な優越意識が日本人の精神を冒していたのです。

国際連盟の創設

パリ講和会議の成果としてとくにいわれるのが国際連盟の結成です。
Woodrow Wilson (Nobel 1919).jpg

ウィルソン米大統領

平和的国際機構の樹立」というウィルソン大統領の提案はパリ講和会議の中で検討され、1920(大正9)年国際連盟として正式に発足、日本は常任理事国に選ばれるました。
国際紛争を話合いで解決しようという目的で創設されたこの機関でしたが、提案国であるアメリカが議会の承認をえられずに参加を断念、敗戦国であるドイツ、社会主義国であるソビエト連邦は参加を認められないなど多くの問題を抱えたままの発足でした。

ヴェルサイユ体制

東京書籍「日本史A」p103

東京書籍「日本史A」p103

こうしてパリ講和会議は、第二次世界大戦につながる大きな火種を残しつつも、話合いで世界平和をつくっていこうという風潮も作り出しました。
パリ講和会議とヴェルサイユ条約などによって生み出された国際秩序ヴェルサイユ体制といいます。
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