<前の時間 明治初年の外交(2)江華島事件と琉球処分>
士族反乱・農民反乱・自由民権運動の発生
<プリント>
士族反乱・農民反乱・自由民権運動の発生
これまでは政府の動きを中心に、明治初期の動きを見てきました。しかし、政府へのやり方への反発も大きいという話もしてきました。今日はそれを整理して見ていきます。
ということで、今日はいつもとは違うタイプの
プリントを準備しました。本来なら板書するところですが、途中で時間切れになったりすると面倒だし、時間もかかるのでこういう形にしました。ノートに貼っておいてください。
明治維新で何が行われたのか?
まず最初に、明治政府はどのような政治をすすめたのか、復習からはじめます。
明治政府のテーマは・・・「欧米列強に追いつけ、追い越せ」。ものすごい勢いで欧米化政策を進めていきます。
どんなことをやったか、少しおさらいをすると、
まず藩をなくした・・・これが廃藩置県。
徴兵制に基づく近代的な軍隊をつくる。
学制を発布して学校制度をめざす。
年貢から地租という税金に変える地租改正。
四民平等と称して身分制を廃止。
とくに痛い目にあったのが旧武士階級、士族と呼ばれるようになりましたね。名誉の証(あかし)といもえる刀を差すことを禁止され(廃刀令)、生活の糧であった禄は大幅に減額され、廃止(秩禄処分)されつつあります。
あ、これ、まだやってなかった?じゃ、あとで見ていきます。
文明開化が進み、伝統的な風俗や習慣は頑迷固陋とみなされ、
お寺や仏像が破壊され(廃仏毀釈)、いろいろあったけど、キリスト教も認められた。太陽暦が採用され、節句が廃止され、天皇にかかわる日が新たな祝祭日となる・・・・などなど、
実際の改革は、2つの「1月3日」から!
言い出したらきりがないほどのさまざまな改革が、洪水のように人々の上に押し寄せたのです。
それが、明治の初めの改革(明治維新)でした。
時代劇なんかでは、幕末の話がよくあつかわれます。坂本龍馬の活躍とか尊王攘夷の志士と新撰組とか、大政奉還や王政復古とかいろいろありますが、実際は京都あたりでごちゃごちゃやってるだけです。多くの庶民には「違う世界の話」正確に言うと「違う世界の話と思っていた」というのが本音でしょう。
ところが、ごちゃごちゃやっていた中から生まれた明治政府の政策は、日本中、すべての人々を生活レベルからひっくりかえし、その政策と人々の生活との間ですさまじいばかりの摩擦を発生させました。
本当の混乱は、明治になってから、正式にいうと1868年(慶応3年12月7日以後)の、二つの1月3日からはじまります。
すなわち、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古クーデタと、慶応4年1月3日(1868年1月27日)鳥羽伏見の戦いの発生から。
藩閥政治
こうしたおそるべき変化にたいし、当時の人たちはどのように思い、対応したのでしょうか。それぞれの立場にたって考えてみましょう。
前提として、当時の明治政府の様子を見ていきます。
かれらは「欧米列強に追いつけ、追い越せ」とのテーマのもと、強引な欧米化・近代化政策をすすめていきます。みんなのやり方なんかを聞く余裕がないとばかり、「開発独裁」ともいえるようなやり方、少数のエリートに権力を集中する形(当時の言葉で「有司専制」といいますが)で強引な政治を進めていきます。
このリーダーたちの多くの出身は・・・薩摩(鹿児島)と長州(山口)、これに土佐(高知)、肥前(佐賀)の出身者を合わせて薩長土肥、この四藩の出身者が政権の中心を担いました。
このような特定の藩の出身者が政治を支配することを・・藩閥政治といいます。
しかし土・肥の二つの勢力は征韓論争で一挙に弱体化します。
士族反乱~破壊されるプライドと生活
明治政府のやりかたを、うっとうしいと考えた人、どんな人がいるでしょうか・・・。
明治初年の人口比
東京書籍「日本史A」p46
まず最初に考えられるのは士族(かつての武士)。
武士たちは、自分たちこそが、政治と軍事を担い、社会の秩序と安全を守ってきたとのプライドをもっていました。「すべて任せておけ!それが俺たちの仕事だ。」と。しかし、戊辰戦争で役に立たないことが明らかになり、徴兵令で「軍人として不要です」とのレッテルを貼られ、役人としての地位も版籍奉還と廃藩置県で奪われます。四民平等となって苗字を名乗っていいという特権も、刀を差す特権もなくなる。
藩閥以外の藩出身者は、計算能力が高いなどの能力がなければ中央でも地方でさえ雇ってもらえません。戊辰戦争で賊軍とされた東北諸藩の出身者ならなおのことです。
さらに深刻なのは生活。廃藩置県はつとめていた「会社」が急に消滅したということです。政府から秩禄という失業保険をもらえますが、それも打ち切られそうです。「これからの生活はどうなるの」ということ不安がかれらを襲います。「なんでこんな目にあわされるのだ!」と騒ぎたくなりますね。
生活は困難、プライドはズタズタ。未来に希望がもてない。とにかく腹が立って仕方がない。
こんな感じかな。
こういう状態は、勝ち組の薩摩や長州、さらに戊辰戦争の主力・土佐や肥前・佐賀の武士たちも同様です。「俺たちが、あれだけ厳しい戦いをして勝ったからこそ今の政府がある。それなのに、一部のものだけがいい思いをして、自分たちは切り捨てられた」という感情が強く、こうした藩の武士の方が、戦争にも強いだけに、やっかいな存在になります。
木戸孝允 奇兵隊などの反乱に厳しく対応した。政府内の長州派の勢力低下を危惧したともいわれる。
とくに長州のやりかたはひどい。奇兵隊など諸隊の隊士、とくに平民出身者の多くを、何のほうびもなくクビにします。怒った隊士たちが蜂起すると木戸率いる討伐軍がそれを鎮圧、多数の元隊士が処刑されました。
中国には迫力のある言葉があります。「一将功なりて万骨枯る」。一人の将軍の輝かしい功名の陰には、戦場に命を失った多くの兵士たちがいる、こういった意味です。反乱を起こした隊士はもとより、多くの士族たちの木戸や大久保を見る目には、こんな思いがあったような気がします。
士族たちの反乱は、これ以降、いっそう拡大していきます。士族による武力での抵抗・・・、プリントの一番左の列、①は「士族反乱」という言葉が入ります。
農民反乱~「世直し」を期待したけれど
次に考えられるのが農民などの民衆。豊かな農民(「豪農」)はあとで見るので、普通の農民のイメージで考えてください。
農民たちは、幕府が倒されることにある種の期待感をもっていたと思われます。この期待感・・・・「世直し」という言葉で表現されます。メインは「年貢を安くしてくれるんじゃないかな」「生活が楽になるんじゃないかな」というあたりでしょう。
ところが、新政府がいってきたことは「お前たちに軍隊にはいる義務がある」とか、「学校をつくる」といって子どもを集め費用を負担させるとか、農業などの計画に欠かせない暦を一方的に変え節句も古くさいからやめさせるとか。地租改正では期待していた年貢の引き下げもない。逆に増えるところもある。年貢は領主とも相談をしながら村でまとめて払えばよかったのに、「税金は一人一人がお金で払え」といってくる。
「農民たちの期待に応えないどころか、訳かわからない無理難題をおしつける」こんな感じでしょう。
農民をはじめとする民衆は、江戸時代の長きにわたってそれぞれ独自の世界を築きあげてきました。百姓や町人として「分を守り」、家や村、地域社会で助け合いながら、営々と作り上げてきた世界があったのです。そこには、領主たちもあえて手を触れませんでした。それが「身分制社会」のもう一つの姿でした。
ところが、明治政府の諸政策は、この世界の中にずかずかと入り込むものでした。だから「今の政府は夷人が支配していて、人々から血を絞って飲ませるのだ」という荒唐無稽な話もつい信じたくなったのです。それくらい、政府の方針はクレージーでした。
農民反乱とその理由 図説日本史通覧P213
だから、再び農民一揆が高まりをみせたのです。
幕末以前は決して用いなかった竹槍を使い、放火をし、命も奪う。このような一揆の過激化が明治初年の一揆の特徴です。
明治政府も、ことを荒立てないように処理をしていた江戸時代とは異なり、武力制圧、大量処刑という強硬方針で臨みます。農民の生活を配慮してというありかたにかえて、力を表に出した統治がはじまったのです。
こうした農民たちの動きを示したのがプリントの一番右の列です。「農民反乱」とかいてありますね。
血税一揆、学制反対一揆ときて、⑫のところは・・・「竹槍でエイと突き出す二分五厘」だったから・・・「地租改正反対一揆」、書き込んでおいてください。
豪農や商人たち~金も知識もあったけど
ほかに、新政府に反対していたグループ、誰が考えられますか?・・・・
ぼくは豪農・商人をいれたいと思います。
「おまえ、ただの百姓やないか!」「くそ~」(生徒のノートより)
いままでの二つのグループが、生活が破壊されたり、今までの生き方を破壊されめっちゃ怒ってるという感じなのに対し、この人たちはかなりちがう。
明治維新のおかげで未来が見えてきた人たちだから。
この人たちの多くは生活に困っていません。江戸時代においては、武士よりも生活が楽なものも多かったでしょう。経済的余裕があり、いろいろな学問に触れる機会も多い人たち、「金も知識もある」人々です。
にもかかわらず「身分が低い!」のです。
江戸時代において、町人や村のリーダー層が政治や社会について発言したり、武士の気にさわることをすると、「分をわきまえぬ振る舞い」といって叱られ、場合によっては処罰されました。財産没収が目的で、理屈をつけて処罰された大商人もいます。
村のリーダーであり、知識人であり、農民に土地を貸す地主であり、農民を雇ったりしている豪農。かれらが世直し一揆では武士の手先として真っ先に打ち壊されました。農民たちの恨みを買うことも多くなっていたのです。
江戸時代は彼らにとってストレスの多い時代でした。
だからこそ、かれらは、幕末の動乱期にチャンスを見いだそうとしたのです。国学を学んだ人たちは草莽の志士として尊王攘夷運動に参加しました。のちの大実業家渋沢栄一のように幕臣に潜り込みました。剣術の得意な者は新撰組などに入って武士になることをめざしたりもしました。
明治維新~新しい可能性の広がり
明治になると、こうした人々にチャンスが広がります。
四民平等がいわれ、威張っていた武士たちは落ちぶれていく。これまで聞いたことのないような新しい知識に触れるチャンスも増え、これまでの常識が覆されたのです。
福沢諭吉「学問のすゝめ」はいいます。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり」と。
これまで、人間に上下があるのは当然であり、平等などということは狂人の発言としか思われませんでした。
だからこそ、商人も豪農も、庶民も、さらには武士たちも「分をわきまえて」生活していたのです。
ところが福沢はいいます。「人間は生まれながらにして平等だ。それが世界の常識だ」
さらに福沢はつづけます。
「人間に上下の差がでるのは学問の差なのだ。」
人々は知識(とくに西洋からの)を学び、世界を知ることで、抑圧されてきた自分の欲求を実現させるチャンスが到来したことを感じはじめます。「何でもできる」そんな気分が彼らの中で充満してきます。こうして、新しい自分たち、新しい日本を求めるようになっていきます。
こうした気持ちは、知識人ともいえる人々に共通の思いであったでしょう。こういった気持ちを多くの人が持てるようになったこと自体が、明治維新のプラス面といえるのかもしれませんね。
この思いを、士族は士族なりに、豪農は豪農なりに、商人など都市民は都市民なりに、それぞれ、受け止め、行動できるようになりました。
士族が生活の基盤を奪われるという不安と裏腹な関係なのに対し、豪農や豪商は自分たちの仕事も時代に後押しされる可能性をもっており、プラス面でとらえる事が多かったと考えられます。
なお、人口の多くを占める一般農民にこうした気持ちが伝わるのは厳しかったかもしれませんね。
それなのに、なぜ豪農や商人たちをなぜ反対派と考えたのでしょか。
あたらしい生き方、新しい日本を求めるようになったかれらにとって、現実の明治政府は薩長という藩閥による独裁的な政治であり、市民革命を経て成立した基本的人権と民主主義という、もう一つのグローバルスタンダードに反する頑迷固陋なものでもあったからです。
新しく学んだ西洋の人権と民主主義という観点は、明治政府ひきいる非民主的な日本を批判し自分たちも参加できる民主的な政治を求める方向性を与えるようになっていきます。
明治一桁の後半から10年代は、近代化をめざしつつ自由と民主主義を抑圧する政府とこの3つの勢力が複雑に絡み合いながら未来の日本のあるべき姿をめぐって争いを繰り広げていく時代となってきます。ある意味、多くの可能性を秘めた日本の青年期といえるような時代であったともいえます。
明治六年の政変~征韓派の失脚と藩閥政治の進展
プリントは明治6(1873)年から記しています。
この年、中央政府では大事件がありました。中央政府の動きが左から二列目に書いてあります。征韓論争です。その結果、敗れた西郷らが政府から出て行ったのが③明治六年の政変。
政変で勝利したのが大久保利通を中心とする「内治派」。内治派、わかるかな?国内政治を優先すべきという考えの人たちですよ。内治派とはいうものの、この政権が日本近代史初の海外出兵、台湾出兵をおこない、征韓論を実現したともいえる江華島事件を引き起こすのです。「どちらかといえば国内優先」程度でとらえておいてください。
明治六年の政変にはもう一つの意味がありました。
この政変で敗れ政府を去ったのは西郷を除くと、土佐と肥前の出身者ばかりです。かれらが政府から去ったことで薩長が中心の藩閥政治が進んだということです。
大久保たちの名誉のためにいっておくんだけど、大久保さんも、木戸さんも、藩閥という意識はそれほど強くはなかったといわれています。しかし、人材を登用するシステムもない時代、自分たちのそばにいて、能力や気心のわかり合える人物ということで、どうしても薩長出身者が増えていったというのが実際の所でしょう。
ついでにいっておくと、新政府の役人は薩摩や長州などの出身者ばかりのように聞こえるけど、実際に現場で実務をおこなっていたのは旧幕臣、かつての岩瀬さんや井上清直さんタイプの人たちが多いのです。新政府も経験豊富な旧幕臣の力なしにはやっていけませんでした。
仕事の内容をよく理解し、現場でこつこつと実務を果たす人々なしには政治も社会も動かせないのです。
「民撰議院設立建白書」~自由民権運動の発生
では次の論点に入りましょう。辞職した征韓派の参議たちをみていきます。西郷はこんなとこでやってられるかとばかり、鹿児島に帰ります。他方、腹の虫が治まらないのが板垣や江藤といった他の元参議たち。
そこで政府に意見書を提出します。「今の政治は薩長だけで勝手にやっている。国民の意見を聞いた政治をしろ。そのためには国民代表から意見を聞くための議会を開け、それがグローバルスタンダードだ。」
これが④の「民撰議院設立建白書」です。今まで政府の中枢にいた藩閥第二グループの土・肥の元参議、もっとも過激に文明開化をすすめた連中がそんな事を言っても「負け犬の遠吠え」とつっこみたくなるし、実際にそういわれています。
でも、強引な独裁的政治への不満のなか、議会を開いて国民の意見を聞くべきだということは多くの人たちの共感を得ました。「五箇条の誓文」の約束にも反するとの共感も得て、選挙と議会開設を求める運動、すなわち②自由民権運動が生まれてきます。プリント三列目の題名です。
まずこれを受け入れたのが士族たちです。士族たちは、西郷ら征韓派の参議たちが自分たちのために「征韓論」を唱えてくれたと感じており、政府は士族に冷たすぎると思っているから、この考えに共感します。士族は読み書きのできる知識人であり、欧米の知識を理解できる能力を持つ人も多くいます。これまで政治を担ってきたプライドもあるので共感を得られやすかったのです。
ついでにいうと、建白でいう「国民」は士族をさしており、百姓・町人身分などはあまり考慮されていませんでした。
建白を出した人たちは、この考えを広げていこうとふるさとに帰っていきました。
佐賀の乱
その一人が江藤新平。日本の司法制度の基礎をつくった秀才です。心の中では征韓論なんてダサいと思っているけど、薩長を出し抜くために支持するという、頭が切れるけど策におぼれるタイプ。私心があまりなかったと言われる大久保にとって、とても嫌いなタイプだったみたいです。
江藤はみんなが止めるのも押し切って、出身地の佐賀に戻ります。佐賀では「よく士族のために征韓論を唱えてくれた」と大歓迎をうけ、調子に乗って反政府派のリーダーに祭り上げられ、明治7(1874)年、佐賀の乱という士族反乱を起こすはめに陥ります。
反乱は起こしたものの、江藤は小さな戦闘で負けただけで逃げ出してしまいます。
どこにいったのか、征韓論といえば西郷だとばかりに鹿児島へ。
しかし西郷は戦いを始めてすぐ逃げるなんて奴は大嫌い、だから相手にしない。「では」と、もう一つの拠点高知に行こうとして逮捕されてしまいます。
死を覚悟した江藤は考えました。自分がしっかりとした裁判制度を作った。だから裁判の場で正々堂々と自分の意見を全国に伝えようと・・・。でも大久保はそんなに甘い人物ではありませんでした。自分の腹心を佐賀に送ると、江藤が作った法律なんかは無視して江藤を斬首刑とし、江藤が廃止したはずのさらし首にします。⑤にはいるのが佐賀の乱です。
立志社と愛国社
土佐・高知に戻った板垣退助はふるさと高知から自由民権を広げようと⑥「立志社」という自由民権をめざす地方結社を結成します。さらに全国化しようと大阪で「愛国社」という全国組織を結成します。当初のメンバーは士族中心。
立志社 図説日本史通覧P214
西洋思想を学んで、その立場から「遅れた」政府を批判しますが、実際は痛い目にあわされている士族の意見をもっと聞くべきだというの思いがメインです。
その点では士族反乱のグループと大差ありません。だからこそ、江藤は土佐にやってこようとしたのだし、民権運動家が士族反乱に参加、のちの西南戦争では立志社のひとびとも西郷軍に合流しようとしました。
しかし、立志社などの活動がすすむにつれて士族以外の豪農たちの参加も増えてきます。「士族の民権」から「豪農の民権」と言われる運動の変化が生まれつつありました。ということで⑨が士族、⑩が豪農。となります。
海外出兵と大阪会議~立憲政体樹立の詔
これでプリントの多くの部分が埋まりました。士族反乱、農民一揆、民権運動、こういったものは別々に起こったのではなく、同時期に影響しあいながら起こっていました。一つ一つとしてではなく、並行して起こっていたことを確認してください。
明治7(1874)~明治9(1876)年という時期は、全国でいろいろな反政府運動が花盛りでした。
佐賀の乱は鎮圧したものの士族の反発は強く、農民たちの反乱もおこり、自由民権運動も広がりを見せる。こうした動きが合流すれば、手がつけられなってしまいます。
まず士族たちのガス抜きをしようと対外出兵を実施します。1874(明治7)年台湾出兵と、1875(明治8)年江華島事件です。
これによって、征韓論は存在感を失います。1873年末には士族に人気のあった保守派の島津久光(懐かしい!)を左大臣として政府内に取り込みます。
大阪会議跡地(大阪市中央区北浜)のレリーフ 左上から大久保・木戸・板垣、左下から伊藤・井上馨
つぎに自由民権派を取り込もうとします。ねらったのは、民権派の中心板垣と民権運動に理解をもつ長州の大物木戸。1875(明治8)年⑦大阪会議が開催されます。
すでにみたように、大久保も木戸も憲法を制定するのは当然と考えています。問題はその時期とタイミングです。そこで三人は「ゆっくりと、憲法を導入できる体制を作っていく」という点で合意、「立憲政体樹立の詔」をだし、板垣、木戸の政府復帰を実現するとともに、議会までの暫定的な民意汲み取りのため地方官会議や元老院というような機関も作られます。
⑧は板垣退助です。
新聞紙条例と讒謗律
自由民権運動の側は、大阪会議によって運動の中心板垣が引き抜かれ、腰砕け状態となってしまいます。
さらに政府は1875(明治8)年に新聞紙条例と讒謗律という二つの命令をだしました。反政府的な言論を弾圧するための命令です。
横浜毎日新聞・創刊号
図説日本史通覧
この時期、西洋の影響を受けて、新聞や雑誌といったジャーナリズムが急速に発展してきました。
ジャーナリストは士族を中心とした知識人がおおく、かれらは政府への反発を持っていたから当然政府批判が多くなっていました。
このような新聞などジャーナリズムによる政府批判を黙らせようとしたのが、この二つの命令です。
いつの時代でも支配者、とくに独裁的な支配者は、自分に批判的な言論に圧力や弾圧を加えたいと思う種族なのでしょうね。
ちなみに、讒謗律の「讒謗」という漢字、日本史のなかで一番難しい漢字だと思います。期末で、この漢字を書いてもらおうかな・・・。まあやめといて、語群にしとくわ。ちなみに「讒謗」とは「悪口をいうこと」。本当のことでも「悪口」にあたるというからこわい。政治家は本当のこといわれるのが一番怖い種族かもしれませんね。
でも、変な感じがしませんか。板垣が参加した政府がこんな命令を出していること、当時の人も同じ事を考えました。「板垣さん、何やってんね!」結局、その年の内に島津久光と板垣が、翌年には木戸も政府を離れることとなります。
秩禄処分と士族授産
1876(明治9)年、政府は廃刀令と秩禄処分を行い、士族の切り捨てともいうべき政策に踏み切ります。
「秩禄処分」四民平等のところで、説明し忘れていたので、簡単に説明します。
さっきもいったように、廃藩置県で武士にとっての「会社」ともいうべき存在の「藩」がなくなりました。「会社」がなくなると「給料」(「俸禄」)もなくなるのが普通。でもそんなことをすれば何が起こるか分からないので、政府が士族の生活保障のため、給料に代わるお金をわたすことにしました。これが「秩禄(ちつろく)」です。いまでいったら失業保険とでもいうのかな。
政府の財政(1877~78) 秩禄等が財政の30%を占めている
考えてください。政府は国ができたところでのどから手が出るほど金が欲しい。ところが、何の役にも立たず、文句ばっかりいっている士族に政府予算の1/3近くが持って行かれるのです。だから、リストラ策が考えられました。最終的にとった手段が、1876(明治9)年の秩禄処分。退職金がわりに金禄公債証書というのを渡して、これで我慢してねという形です。
この公債をもとでに士族たちはいろんな仕事を始めたけど、結局は大部分が失敗に終わりました。
金禄公債証書 「図説日本史通覧」p205
うちの先祖は、お茶屋さんをはじめたらしいけど、来る人来る人にただ飯を食わせて、あっさりと倒産したみたいです。
こういうのを当時のことばで「武士の商法」といったのですね。
こんなこともあって没落していく士族があいつぎます。これが士族反乱や自由民権運動など社会の不安定化の原因となっていたものだから「政府もなんとかしなければならない」と士族授産をはじめます。福島県で広大な開墾を行ったり、北海道の未開の原野に屯田兵として入植させるなどいろいろな仕事を世話したようです。学校の先生や警察官になったり、役人になった人もいたけど、やっぱり多くの士族たちは没落していきました。
士族反乱と地租改正反対一揆
これにたいし士族たちは我慢の限界とばかり士族反乱をおこします。
士族の商法の風刺画 東京書籍「日本史A」P58
この年1876(明治9)年から翌年にかけて各地で士族反乱が発生しました。
熊本で発生したのが神風連の乱、山口で起こったのが萩の乱。萩の乱では吉田松陰の関係者も参加しています。もう一度プリントの右側農民反乱のところを見てください。1876(明治9)年のところに地租改正反対一揆とあります。反政府運動で騒然としている時期は、一揆が最高潮となった時期でもありました。だから、大久保はこの一揆に対し江戸時代ではありえない残虐な手段で弾圧する一方、2.5%への地租引き下げを行いました。
日本史上珍しいと言ったけれど、これ以上、反政府運動が広がると日本が持たない状態でもあったのです。
西南戦争
最後の士族反乱が1877(明治10)年の⑬西南戦争。
士族反乱と西南戦争関係図 東京書籍「日本史A」P59
鹿児島県、かつての薩摩藩の士族たちがおこした士族反乱です。リーダーは維新の元勲西郷隆盛。
鹿児島の士族が反乱を起こしたと聞いて、大久保はガッツポーズをとったみたい。邪魔者(大久保も薩摩の出身だよ!)が消せると思ったのでしょうね。ところが、親友西郷が参加していると聞いて、冷静な大久保も真っ青、鹿児島にいって「自分が西郷を説得する」と駄々をこねて、なかなか聞かなかったみたいです。木戸や岩倉に説得された結果、大久保は親友との戦いを「冷静に」進めます。
西郷軍は、熊本城を包囲するとともに、熊本中部の田原坂で政府軍を迎え撃ちます。しかし、最新鋭の銃・砲と徴兵された軍、さらに士族出身の警察部隊・抜刀隊のまえに敗れ、その後九州各地を転戦したのち、鹿児島に戻り、戦いで傷ついた西郷は、この地で切腹します。
「田原坂の戦い」 政府軍は旧士族らを中心とする警察官から抜刀隊をも組織し西郷軍と戦った。抜刀軍には旧会津藩士らもいた。
最初の頃、西郷は首領とはいうもののついて行っただけでとくに指揮をした形跡はなく、敗走し始めてから指揮をとり始めます。
西郷の本音はどこにあったかわかりません。
個人的には、滅びようとする士族に殉じようとしたではないかと勝手に思っています。
「自分が一番やっかいな薩摩の士族たち反対派を一緒に連れて行くので大久保さん、あとをよろしく」といった気持ちがあったようなという気がしてなりません。個人の感想です!
西郷隆盛(実際には想像図)
前もいったように、西郷は「死に場所」を探していました。でも、こんな形で死ぬのは大義がなく不本意だったのではないか、とある研究者は書いています。
明治維新の終結~維新三傑の死
西南戦争と西郷の死は、日本最強の英雄西郷が率いる最強の士族軍団の薩摩であっても政府と新しい軍隊の前には歯が立たないことを明らかにした出来事でもありました。
これ以降、暴力によって政府を打倒しようという士族反乱は姿を消し、言論によって、自分たちの意見を政治に反映させようという自由民権運動が本格的に展開し始めます。
この運動は、明治維新と西洋の知識を得て、よりひらかれた政治と社会を求める豪農や商人たちにとっても共感できるものであり、豪農や商人たちの参加もしだいに進みます。
なお、西南戦争の最中「西郷、いい加減にせんか」という叫びを残して、木戸は京都で病死しています。
大久保利通 殺害される日の朝、日本の将来構想を語っていた。またその懐には西郷の手紙をもっていた。
木戸・西郷につづいて、大久保も翌1878(明治11)年東京・紀尾井坂で石川県士族らによって殺害されました。大久保の懐の中には西郷からもらった手紙が入っていたといいます。
この三人の死は大政奉還・王政復古に始まる激動の時代の一段落を象徴する出来事といってよいのでしょう。その後、第二世代である伊藤博文や山県有朋らが率いる明治政府と、憲法と議会制定をもとめる自由民権運動が対峙するなかで、新しい日本の道がえらびとられていきます。