大正政変と第一次世界大戦


  1. 前の時間:社会問題の発生と桂園時代

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大正政変と第一次大戦

大正時代

今日から大正時代になります。
どんなイメージがあります?
15年間という短い時代だったし、そんなに印象ないかな?
大正天皇も病気がちで存在感がない。
主な人物・・・なかなか浮かばない?・・・
なんとか出てきて本格的な政党内閣を始めた原敬くらい。
聞いたことない?
大正なんとかというと・・・。
大正ロマン、いいですね。
竹久夢二の美人画が目に浮かびそうですね。西洋風なものと日本風のものが融合して、ちょっとはかなげな感じ。
大正という時代は、明治のように肩ひじ張らずに、西洋風な日常が自然と生活の中に入り込んできたイメージがありますね。
大正デモクラシーということば、聞いたことないかな?・・・聞いたことはある。・・まあそういう感じでしょうね。ちなみにデモクラシーって、日本語に訳すと、・・・え、わからない?「民主主義」ですよ。
大正デモクラシーというのは、大正時代に民主主義的な空気が流れていたこと。その代表選手とされるのが原敬
大正は、明治のようなみんなが前を向いて頑張るというイメージでも、ブラックホールに呑み込まれるように戦争・破滅へ向かっていくという昭和前半のイメージでもない。
ほんわかした「これからどうしようかな」という「階段の踊り場」のようなイメージかな。
実際にはさまざまな問題があったんですが・・・。

大正政変とジーメンス事件

第二次西園寺内閣の崩壊

大正時代が始まったときの内閣は第二次西園寺公望内閣です。
この時期、西園寺内閣は厳しい攻撃にさらされていました。
当時の日本財政は「火の車」、借金だらけです。
日露戦争の借金に加え、1906(明治39)年の鉄道国有化の借金も加わっていました。
鉄道国有化法の内容 帝国書院「図説日本史通覧」P237

鉄道国有化法の内容
帝国書院「図説日本史通覧」P237

 鉄道国有化、話したかな?日本の多くの鉄道を買い取って国有化したこと。これで日本の中心部はすべて国有鉄道(「国鉄」)でつながりました。戦争の時、輸送に手間どったことから軍部なんかが強く主張したせいです。当然のこととして金ががかりました。買い取り資金が産業革命を加速したともいわれます。
日露戦争後の歳出状況 国債費と軍事費に莫大な支出がなされている。 帝国書院「図説日本史通覧」p234

日露戦争後の歳出状況 国債費と軍事費に莫大な支出がなされている。
帝国書院「図説日本史通覧」p234

世界の一流国になったからということで軍事費も増加しています。
こうして財政支出が積み重なり、政府は身動きがとれなくなりました。
あまりの重税に、農村でも都市でも減税を求める声がたかまりました。国民の支持を重視する政友会が基盤の西園寺内閣は、行政整理と歳出抑制を重要課題として取り組みます
世の中には、家の現状を考えず「金がいる。金をくれ」とだけいう困った人がよくいますね。この頃「金をよこせ」と無理をいい、断られると暴れるという困ったちゃんが、軍部とくに陸軍でした。
陸軍は「植民地化した朝鮮に二個師団をおきたい。だから予算をよこせ」といいだします。これによってさらなる大陸進出に備えようとしたのです。これを二個師団増設問題といいます。
帝国書院「図説日本史通覧」P234

帝国書院「図説日本史通覧」P234

西園寺と軍部を描いた当時の風刺画 東京書籍「日本史A」p96

西園寺と軍部を描いた当時の風刺画
特徴的なとがった頭の人物は陸軍の寺内正毅
東京書籍「日本史A」p96

これにたいし、西園寺は「これ以上の出費は無理!」と拒絶します。

すると、陸軍は乱暴な行動に出ます。陸軍大臣に辞表を出させ後任を推薦しなかったのです。

当時、陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人でなければならないというルール(軍部大臣現役武官制)があり、かわりの陸軍大臣が見つけらなくなりました。陸軍大臣がいないと内閣はもちません。第二次西園寺内閣は総辞職します。
陸軍のせいで!
簡単に言えば、陸軍の言うことを聞かない西園寺内閣を陸軍が強引につぶしたのです。
みんなが当時の人間だったらどう思いますか?・・・
気にくわない内閣を陸軍の都合でつぶせるのなら、政府は軍部の言いなりになるじゃないか! こんなことは許せない!」

第一次護憲運動と大正政変

次の内閣をどうするのか、元老たちがいろいろあたったのですが、やはり桂太郎しかいないという結論に達します。
陸軍の軍人(「軍閥」)で、長州藩出身(「藩閥」)仲が悪くなりつつありますがもともと山県の子分。
桂は天皇にかかわるまとめ役である内大臣に就任したばかりで、前回総理大臣を辞めるに際して「二度と総理にならない」と断言していました。
その舌の根も乾かぬうちに、桂がまたまた「総理をやる」と言い出したのです。批判をかわそうと、天皇に桂に協力しなさいという命令(詔勅)すらも出してもらって・・
こうしたやり方は、天皇の威をかりる卑劣な振る舞いとして人々の怒りを買いました。
1912(大正元)年12月、第三次桂内閣はこんな風に発足しました。当然のことながら、各方面から批判が集中します。
最初に動いたのが都市の実業家たちです。
政友会、結成されたばかりの国民党といった政党も加わります。犬養毅(立憲国民党)尾崎行雄(立憲政友会)が先頭に立ちました。
桂首相を弾劾する尾崎行雄 東京書籍「日本史A」P97

桂首相を弾劾する尾崎行雄
東京書籍「日本史A」P97

憲政擁護」(憲法に基づく政治を守れ)、「閥族打破」(「日本の政治は藩閥や軍閥といった集団によって支配されている。それを打破しなければならないの二つのスローガンの下に、国会周辺には多くの人々が集まりはじめます。

全国にも運動は広がります。
そして二月になると国会周辺では暴動の様相も見せ始め、「日比谷焼き討ち事件とそっくりだ」といわれます。
こうしたなか、ある議員が、桂を窓際に誘い、国会前に集まった群衆を指さして「このままでは大変なことになる」と退陣をすすめ、桂はあきらめて退陣しました。
「憲法体制を守れ」というこの運動を第一次護憲運動といい、桂退陣をもたらした政変を大正政変といいます。
議会を取り囲む人々 東京書籍「日本史A」P97

議会を取り囲む人々 東京書籍「日本史A」P97

 

政党と民衆の運動の前に政府が打倒されるという新しい事態に人々は大正という新しい時代の始まりを感じます。

山本権兵衛内閣とジーメンス事件

桂の退陣を受けて元老たちが、新たな首相として選んだのは海軍のボス山本権兵衛です。

まわりの人が気をつかって「ごんのひょうえ」と呼びましたが、「自分はごんべえ」だといっていました。「ごんべえ」という名前はミスター百姓というイメージだったので・・

山本は、海軍のボスで薩摩出身だからやはり「閥族」。反発もありましたが、政友会のボス原敬が反発を抑えこみます。そして、大部分の閣僚を政友会でそろえた事実上の政友会内閣が生まれました。

護憲運動を受けた改革が進みました。陸海軍大臣は現役の軍人でなくてOBでもかまわない軍部大臣現役武官制の改正)。官僚に厳しい採用条件をもとめた文官任用令も緩和します。
うまくいっていたかにみえる山本内閣ですが、一つの事件であっさりと崩壊します。
ジーメンス事件の風刺画 帝国書院「図説日本史通覧」p247

ジーメンス事件の風刺画
帝国書院「図説日本史通覧」p247

海軍の軍人が軍艦購入に際してドイツのジーメンス社から賄賂をもらっていたことが発覚したジーメンス事件です。
重税に苦しみながら購入した軍艦で賄賂をもらっている海軍軍人がいたとわかり国民は怒ります。
政友会と対立関係にある立憲同志会は海軍のボスでもある山本を攻撃し、反対運動を盛り上げます。
政友会は山本を守ろうとしましたが、予算案が貴族院が否決されるという事態が発生し、山本内閣は崩壊しました
またも議会と国民運動の高まりで政権交代が発生しました。

第二次大隈重信内閣の成立

こうした運動の高まりに直面し、元老たちは手詰まり状態になりました。明治のやり方では通用しなくなりつつあったのです。
元老たちは考えます。たかまりつつある国民の不満を和らげられるような人物はいないのかと。
本来なら、政友会総裁の原敬が最適です。しかし政党嫌いの山県は拒否します。
こうしたなか、思いがけない人物が首相となります。当時76歳でとっくに政界を引退していた大隈重信。懐かしい名前に驚くかもしれません。明治維新期、伊藤とともに明治政府を率いていた人物です。自由民権運動の英雄で、立憲改進党を立ち上げた人物。立憲同志会や国民党はその流れを引いています。ただ、明治14年の政変で政府を裏切ったとされ、元老にはなれませんでした。早稲田大学の創設者でもあります。
何といっても大隈は国民の間にカリスマ的な人気がありました。
山県たちは大隈を首相にすることでこうした国民の不信を払拭しようとしたのです。
これは大成功でした。大正政変のきっかけとなった二個師団増設問題も、大きな反対もなく通ってしまいました。
第二次大隈重信内閣のもと、日本外交は世界のなかで試されることになります。
1914年、第一次世界大戦が発生します。

第一次世界大戦と日本

第一次世界大戦

このころ、世界では日本と同じ1871年に国家統一を実現したドイツが急速に国力を伸ばしていました
第一次世界大戦にかかわる国際関係 帝国書院「図説日本史通覧」p248

第一次世界大戦にかかわる国際関係
帝国書院「図説日本史通覧」p248

ドイツは次第に領土拡大をめざし、旧来からの帝国主義列強であるイギリス・フランス・ロシアからなる三国協商との対立が激化していました。
1914年6月、ドイツの同盟国オーストリアの皇太子がロシアと近い関係にあるセルビア人青年に暗殺されたサラエボ事件が発生、7月に第一次世界大戦へと発展します
 ちなみに、当時の若者は戦争をスポーツ感覚でとらえていたみたいです。
長い間、本格的な戦争もなかったしね。今でいうとゲームのイメージ。
恋人や妻には「クリスマスまでには帰れるから」といって出征した若者が多かったという話が残っています。

ところが実際の戦争はお話やスポーツ、ゲームのようなものではありませんでした。両軍は、パリの郊外にえんえんと掘られた塹壕と呼ばれる溝にひそんで向き合います。敵のようすをじっと見ていて隙があれば狙撃し、されます。連日、頭の上を巨大な砲弾が飛び交い、前後左右で炸裂します。生死は運次第です。壕の底にはいつも水がたまっており、冬になると、足は水虫と凍傷が入り交じった塹壕足というものにかかってむずむずします。空気に交じって毒ガスがやってくることもあります。

まわりで仲間が、狙撃されたり、砲弾をうけて次々と死亡していきます。
戦場ジャーナリストによると、迫撃砲の直撃を受けた人間の身体は百合の花そっくりの形になってしまうそうです。これは現在の話ですが。

銃弾を跳ね返す巨大な鉄の塊である戦車が現れ、目の前に迫ってくる。
機関銃や戦車や戦闘機、毒ガスなど近代兵器の投入で被害者は桁違いとなりました。
「壕を出て突撃!」という命令は、ただちに死を意味しました。数百メートルの攻防で数万人の死者が出ることはざらでした。

地獄図絵が繰り広げられました
多数の戦死者と負傷者、そして精神に変調を来す兵士たちが大量にあらわれました。
戦争はスポーツでもゲームでもありませんでした。
 
NHKが1995年放映した『映像の世紀2大量殺戮の完成』はこの戦争の恐ろしさを余すところなく描き出した番組です。いま話したことの大部分は、この番組のパクリです。もし余裕があれば、いっしょにみたいと思います。でも時間がとれるかな?
第一次大戦は、とくにイギリスにとって第二次大戦以上にダメージの大きい戦争だったといわれます
エリート大学の学生が将校として出征し先頭を切って戦うというイギリスの伝統は、将来を担う人材を大量に失わせ、イギリスの没落を促進したといわれます

第一次世界大戦と日本

この戦争は欧州大戦と呼ばれたように主戦場はヨーロッパでした。
イギリスは、最初、アジアにいるイギリス商船を日本軍に守ってくれと頼んできました。しかし、ふと我に返ったイギリスは気が変わり、日本に開戦しないようにいってきます。
しかし日本は「困ったときはお互い様。助けてあげるから。」とイギリスの制止を振り切って、ドイツに宣戦します
第一次世界大戦をめぐる日本の動き 帝国書院「図説日本史通覧」p249

第一次世界大戦をめぐる日本の動き
帝国書院「図説日本史通覧」p249

 なぜイギリスは日本の参戦を嫌ったか分かりますか?・・・
自分たちが戦争で手一杯になっている間に、日本が中国や西太平洋で力を伸ばすことを怖がったのです。
第一次大戦勃発を聞いて、元老井上馨は「天佑(天のたすけ)」と記しました。
日本の財政や政治の行き詰まりが、日本から遠く離れたヨーロッパでの戦争によって解決できると考えたからでした。
でも、戦争という悲劇を「天の神様が日本を助けてくれている」というのは、少し軽薄ですね。こうした軽薄さのせいか、井上は一度も総理大臣にはなっていません。
ともあれ、日本は、宣戦と同時に中国におけるドイツの拠点である山東省・膠州湾を攻撃・占領し、さらに南洋群島も占領します。

板東収容所

この時期、日本は文明国と認めてもらおうと必死でした。
捕虜たちの待遇にも心を砕きます。
捕虜収容所の一つが現在の徳島県鳴門市におかれました。
板東捕虜収容所といいます。
そこでは捕虜の自主性を尊重した人道的な対応をし、地域の人との交流も進みました。
ドイツ捕虜の一部は日本に残り、ドイツの文化が伝えられました。
バウムクーヘンのユーハイムという会社があります。
ローマイヤというハムメーカーは、日本ではじめてロースハムを作りました。

板東収容所では、音楽が盛んで、そうした中から、日本の年末の恒例行事が始まりました。年末とドイツ、結びつかないみたいだけど、知ってる?・・・。

吹奏楽部の人どう??お母さんとか、お父さんとか、合唱団にはいって、歌いにいっていない?

そう、ベートーベンの第九交響楽の演奏会。
バルトの楽園(がくえん)の画像

映画「バルトの楽園」より

この曲がはじめて完全に演奏されたのが、この収容所だといわれています。
映画も作られました。
鳴門市は、板東捕虜収容所跡をユネスコ世界記憶遺産に申請しているとのことです。
昭和の戦争のときの捕虜の扱いとは天地の違いですね。

二十一か条要求

日本軍は、中国・山東省にあるドイツ拠点を占領しました。そして「ここも日本のものにしたい」という声がでてきます。「この機会に、中国に圧力をかけ懸案事項を一挙に解決しよう」という声も出てきました。
他の国は戦争で大忙しだし、日本の協力も必要だ。あまり文句も言ってこないだろう」ということです。当時から「火事場泥棒」といわれました。火事でみんなの注意が集中している隙を狙って泥棒することですよ
この時の日本はそのものですね。汚いね。外交ではこういうやり方をよくやります。
とくに課題となっていたのは、関東州(旅順や大連だよ)の租借期限が8年後で終わること。中国は再延長をいやがっています。この再延長、さらに日本の権益を内モンゴルに拡大するなどいろいろな要求をてんこ盛りにして中国に受け入れを迫りました。もちろん「山東省でドイツがもっていた権益をくれ」なんてのもあります。
ちなみに、悪徳弁護士のテクニックにこんなのがあります。乱暴な提案や要求をして相手を困らせ、相手が反発し、話が煮詰まったところで、「仕方ないなあ」とかいって、乱暴な要求をひっこめて、「こっちも折れたんやから、あんたも折れたらどうや」といういい方で、ほっとさせながら、最初から狙っていたものをゲットする。反発の多い法律を出すとき、政治家もよく使うやり方だね。
「二十一か条の要求」 山川出版社「詳説日本史」p321

「二十一か条の要求」
山川出版社「詳説日本史」p321

大隈内閣の外相加藤高明もこの作戦を考えたみたい。中国が絶対の呑めないような内容も、あくまでも「希望条項である」として入れておきました。
中国政府内に日本人の財政・外交・軍事顧問をおく」。こんなものを認めたら中国は日本の保護国になってしまうね。これに比べれば、他の条項は受け入れやすく見える、これがねらいです。

合わせて5項目21か条の要求の受諾を、当時の袁世凱政権に迫りました。これを二十一か条要求といいます。

「国恥記念日」と寺内内閣の成立

こうした要求をしたことは、他の列強に対しても伝えています。しかし「希望条項」は除いて。「こんなことを中国に要求しました。大部分は既成事実ですから」とかいいながら。
当然中国側は困り、かつ怒ります。そして、「日本がこんなひどいことをいってきた」と列強にも伝えました。「希望条項」も含めて
列強は日本に対して不信を抱きます。イギリスやフランスはイラッとしたかもしれないけど「こっちはそれどころではない。日本にもっと協力してもらわなアカンからきついことはいわんとこ」という状態でした。

しかし、日本への不信感をあらわにし、中国支持を表明した国もありました。・・・
この段階では大戦に参加していなかった国で、日本のやり方に厳しい視線を向けていた・・・アメリカ

アメリカは、当初は仕方ないかと考えていましたが、日本側が二十一か条を正確に伝えず、隠していた内容があまりにひどいことに怒りを持ちました。
加藤の下手な小細工が逆効果になったのです。
アメリカの支持をうけ中国側も抵抗を強めます。
これにたいし、日本は最終通牒をだして「認めなければ戦争だ」と脅し、撤回するつもりだった分をのぞいて、要求を受け入れさせました。
中国の人が「ああよかった」何て思うわけがない。加藤の作戦はマイナス以外の何者でもありませんでした。
中国人は、ひどく腹を立てて「はずかしめを受けたこの日を忘れないでおこう」ということでこの要求を受け入れた日を国恥記念日と名づけ、いつかこの怨みをはらすぞと決意しました。日本製品のボイコットも(「日貨排斥」)を始めます。
日本の乱暴なやり方が中国の民族運動を高揚させることになったのです。
ちなみに、何年か前に、中国で日本商品をボイコットする運動が起こしました。やっていた人たちは、主観的にはこうした伝統を引き継いでいるつもりだったんだと思います。実際はかなり違うと思うんだけど。
こうして、「最もウザいのは日本、頼りになるのはアメリカ」という思いが中国人の脳みそにインプットされていきます
せっかくドイツ人捕虜の待遇をよくして評判をよくしようとしても、ちゃんとした連絡もせずに火事場泥棒みたいなことをする国は信頼できないという悪評もたってしまいました。
加藤外相と大隈内閣のやり方は元老たちのひんしゅくも買い、加藤は外相を辞職します。
大隈内閣は1916(大正5)年退陣します。大隈は子分の加藤高明を次期総理にしたくていろいろ工作したんだけど、政党(立憲同志会)きらいの山県に嫌われ、それ以上に「こんな無茶な外交をした奴はダメ」として相手にしてもらえず、加藤はながく首相候補から外されます。
2012年にお目見えした通天閣の三代目ビリケン像

http://billiken.jp/about/who.html

最有力候補の政友会・原敬も山県にノーを出され、結局、陸軍大将で朝鮮総督であった寺内正毅が次期総理大臣となります。時代錯誤の超然内閣を組織し、人々の反発を買います。
寺内のとんがり頭が当時アメリカではやっていたビリケンさんに似ていたので、非立憲=「ビリケン」内閣と呼ばれました。
ちなみにビリケンさんは、大阪の通天閣に祀られています。

アメリカの参戦

日本が中国に二十一か条要求を押しつけたことは、アメリカにとって不快な出来事でした。
しかしアメリカ側は考えます。
日本と事を起こすべきではない。イギリスやフランスなどの協力もなしに日米で争うと損だ。時間を稼いでイギリスやフランスが戻ってきてから、日本を押さえる方がいいだろう。

ドイツとの外交関係断絶を演説するウィルソン米大統領

さらにもう一つ事情がありました。長く英仏に資金や武器の「援助」をしながらも中立政策をとってきたアメリカの中で「参戦すべきだ」という声が高まってきたのです
なぜかわかる?「援助」ということばがミソです。
援助といってもただではないよな。いつのまにかイギリスやフランスはアメリカに多額の借金をしていたのです。ところがドイツも強くて、下手をすれば英仏も負けてしまう。
英仏が負けるととするとどうなる?
そう、借金が返してもらえない。それはまずいということが最大の原因といわれています。
帝国書院「図説日本史通覧」P249

帝国書院「図説日本史通覧」P249

アメリカ人を多く乗せた客船がドイツの潜水艦(Uボート)に沈められる事件がありました。
アメリカではイギリス系の人も多いこともあって、反ドイツの声も高まっていました。
こうした声も背景にアメリカは1917年4月、第一次大戦に参戦します。「世界平和を実現するため」という理屈をつけて。
大統領ウィルソンは、翌18年1月には14か条(平和原則)を発表して戦後の国際秩序の方向を提起することで、第一次大戦後の国際的地位を固めていくことになります。

石井ランシング協定

このようにアメリカは時間稼ぎに出ます。こうして結ばれたのが石井ランシング協定
石井ランシング協定 帝国書院「図説日本史通覧」P249

石井ランシング協定 帝国書院「図説日本史通覧」P249

アメリカの中国政策の基本は・・・「門戸開放」政策。「門戸開放」「機会均等」「領土保全」でしたね。この原則を日本が守る事と引き替えに、日本の満州及び内モンゴルにおける「特殊利益」を認めるという内容です

でも、おかしいよね。「特殊利益」はあきらかに中国の領土保全を侵している。だから、中国はこの協定に抗議しています。
アメリカは、原則は述べつつ日本が門戸開放政策からの逸脱を認めたように見えます。これで日本側は安心したみたいです。
ところが、アメリカにも理屈がある。
この「特殊利益」は経済面に限定したものであって、政治的なものではない。政治的なものは日本が認めた原則に含まれる」と主張できる余地をつくっておきました。「解釈の違い」といえる余地を。
戦争が終わってから、国際政治の場で片をつけてやるから」という気持ちだったのかもしれないですね。いわゆる「玉虫色の決着」というやつ。見る角度によって違うように見えるということ。時間稼ぎによく使われる「大人のやり方」です。
日本側はうまくいった積もりだったんだろうし、「成功」と書いている人もいるけど、そんな甘いものでないように思うけどね。

西原借款

寺内内閣になっても、日本は世界をいらつかせる事を行っています。寺内内閣は反日感情の高まった中国との関係を改善させたいと考えました。
Masatake Terauchi 2.jpg

寺内正毅 寺内内閣は超然主義をとり、「非立憲(ビリケン)」内閣と呼ばれた。

このころ日本は大戦景気で金余り状態になっていました。他方、中国はヨーロッパ資金が引き揚げられ資金不足。
そこで日本が病死した袁世凱の後釜である段祺瑞(たんきずい)に大量の金を貸し付けることで日本の影響力をより強くしよう考えました。ただ政府が直接金を貸すのは国際ルールに反するので、寺内と親しかった西原亀三という人物を表に出し、民間の資金援助という形で。

だから西原借款といいます。しかし、実際の金の出所は、政府系だからね。
このころ中国では前の袁世凱のやりかたに反発して、地方軍事勢力=軍閥が台頭、争いを続けていました。その一つでもある段を援助することは、中国の分裂と内戦をいっそう促進することになります。
しかし、段祺瑞が没落し、寺内内閣も米騒動で崩壊したため、このやりかたは失敗に終わります。
各種の反発だけを残して・・・。それでは今日はこのあたりで終わります。次は、いつもとはちょっと違った話をします。
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