幕藩体制~「幕府」と「藩」とサラーリーマン化した武士たち

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<7時間目>

幕藩体制~「幕府」と「藩」、サラリーマン化した武士たち

 

<授業プリント>

前回に配布した「2 幕藩体制の成立」を利用

<授業ノート(板書事項)>

日本史Bの生徒のノートを紹介する。
実際の日本史Aの授業では、多くを省略したため、簡単なノートであることが多い。さらに、実際の授業を行った時期が1学期当初であったため、この時期のノートを入手できなかった面もある。
やむなく時間をとって説明した日本史Bからのノートを用いている。
非常に几帳面に書かれたノートでわかりやすい。少し誤字もあるが…。

幕藩体制1

幕藩体制2幕藩体制3

武断政治~大名たちを力で押さえ込む

「平和モード」を確実なものとすること

こんにちわ。それでは授業を始めます。
前回は、戦国時代という「戦争モード」を、信長・秀吉・家康という愛知県が生んだ三人のもとで「平和モード」へと、移行させてきたという内容でした。
その過程で、朝鮮侵略や関ヶ原の合戦、そして大坂の陣なんかが発生したことも話しました。
今日は成立した「平和モード」の内容を、システム面を中心に話していきます。

「旗本八万騎」~幕府の巨大な軍事力

大坂の陣以後の当面の課題は、なんといっても「平和モード」を確実なものとすることだった。
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幕府の軍事力 浜島書店「新詳日本史」P153

そのため、幕府は、自らが巨大な大名として圧倒的な軍事力経済力をもった。「旗本八万騎」と呼ばれる強大な直轄軍を持ち、武家の棟梁として、諸大名の兵を召集する権利を持ち、すこしでも不穏な動きがあれば直ちに圧倒的な兵力を投入することが可能であった。こうして、対抗勢力が軍事力で幕府に対抗することは不可能と思わせたのだ

日本の1/4が天領や旗本領

また経済力も圧倒的だった。
広大な領地をもった。幕領(天領)と呼ばれる直轄地が約400万石で全国の14%、これに直轄武士団である旗本・御家人領(幕府の人件費!)350万石11%程度、合計750万石で日本全土の石高3000万石のほぼ1/4となる。

「カネ」をも支配する

江戸・京都・大坂という日本の三大都市を始め長崎や堺といった主要都市を掌握、商工業者ににらみをきかせた。
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幕府の財政基盤 浜島書店「新詳日本史」P153

佐渡相川金山、石見大森銀山、但馬生野銀山といった主要な鉱山を持ち、そこから得られる金銀などをもとに貨幣を鋳造する権利を独占した。
これを背景に、元禄以降になると財政難になると貨幣に含まれる金の量を減らして収入を得るという手段に気づく。この方法が、幕府の最大の資金源になっていく。これは後の話。
こうした軍事力と経済力を背景に、大名たちを押さえ込んでいったのが武断政治だった。

「大名」たち

江戸時代の大名は3つのグループに分かれる。
このへんは試験に出しやすい内容だから、要チェック。

「外様大名」~幕府の潜在的な「敵」

大名の中でいちばん心配なのが、豊臣時代の同僚や先輩だった大名たち。これを外様大名という。
まず元戦国大名(守護大名出身もいるけど)。島津氏(鹿児島)、伊達氏(宮城・仙台)、毛利氏(山口・萩)、上杉氏(山形・米沢)などが有名。有力守護大名の一族でいったんは落ちぶれた細川氏(熊本)なんてのもいる。
次に織田氏や豊臣氏の家臣であった大名。
百万石の最有力大名である前田氏(石川・金沢)を筆頭に、黒田氏(福岡)、浅野氏(広島)などがいる。
関ヶ原の合戦でラインを引いて、関ヶ原以後に徳川氏の家来になった大名が外様大名
客分の家来とでもいう位置づけかな。
徳川家の潜在的な「敵」と見なされるのがこの勢力。
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山川出版社「詳説日本史」P172

一大名で現在の都道府県1県分を持つような大大名(「国持ち大名」)が多い。
石高ランキング ベスト10(幕末段階)のうち8家、(他は、御三家の尾張・紀州という幕府の親戚(親藩)2家がはいる)、ベスト20では14家(他は親藩が5家、幕府の古くからの家来である譜代では唯一井伊氏が19位でランクイン)となる。
多くが遠隔地に置かれ、客分だから幕府の政治には加われず、幕府が何か言ってくれば「ありがたき幸せ」と答えるしかない存在だ

「親藩」~将軍の親戚、意見は聞くが参加は?

外様大名と同様に、広い領地はもっていてもあまり政治に参加させてもらえないのが徳川家の親戚の大名にあたる親藩
原則として「徳川」ないし「松平」(家康以前の徳川家の苗字)の姓を名乗る。(ただし松平姓であっても譜代大名に位置づけられる大名もある。)
上で見たように、ベスト20で5家。ベスト30では9家、全体の1/3。しかし、「将軍の親戚に仕事をさせるわけにはいかない」とばかりに政治への参加は制限される。意見を言えても、実際の幕政にはあまり参加できない

「譜代」~幕政を動かす、中小大名

これに対し、幕政を実際に動かす中心となったのが、譜代大名(および旗本)。
譜代大名は徳川氏の元々の家来、身内という位置づけ。
原則として関ヶ原以前から家来であった家の子孫で1万石以上の武士。とくに仲の良かった外様大名や新たに大名に取り立てられたものもここに加えられることがある。

ちなみに、大名は1万石以上の領地を持つ武士。それ未満は旗本・御家人
(未満はその数字を含まない。だから一万石は大名。社会に出たら以下と未満の違いで迷うことあるので、要注意!陰険なぼくは試験に出すかもしれない?!)

一万石前後の武士は、譜代大名と旗本を行ったり来たりする。
譜代大名のなかには、武田家や今川家の家臣の子孫も多く含まれる。徳川家は、静岡から長野や山梨に領土を拡大していく過程でこうした武士を家来にしたから。
石高ランキングでいえば、「ひこにゃん」で有名な彦根の井伊家が23万石でかろうじて19位に食い込む以外は25位以下の中小大名である
ただ多くが関東地方、あるいは地方の要衝におかれ、幕府の要職を独占する

「親藩」「外様」と「譜代」大名

整理してみよう。
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帝国書院「図録日本史総覧」P150

親藩大名や外様大名の多くは広い領地を持ち、朝廷から高い官位を与えられることも多いが国政からは外される。とくに外様は、幕府(幕政を担う譜代大名ら)に痛めつけられることもある。
譜代大名は領地も狭いし官位なども今一つではあるが、実際に幕政(幕末までは国政といってよい)に参画でき、場合によっては自分たちよりも格上の外様大名を痛めつけることも可能だ。
譜代と、親藩、外様、いちばん強いのはだれか、ちょっとわからないね

大名と旗本・御家人

はい復習。大名は何石以上?そう1万石以上。
それ未満は旗本・御家人。彼らが幕府の直轄軍を形成する。

旗本八万騎というが、旗本+御家人で三万騎、さらにその家来を入れて八万騎というのが実際の数字らしい。

旗本と御家人のちがいは?

旗本と御家人の違いは将軍に直接会える資格があったかどうか。あったのが旗本で、ないのが御家人。
譜代大名が幕府軍の司令官、平時は閣僚級の高級官僚(キャリア官僚)であるのに対し、旗本や御家人が幕府の直轄軍の将校・士官・下士官、将軍の周りを囲んで守る親衛隊。平時は公務員(石高の高い有力旗本はキャリア官僚として町奉行や勘定奉行という幕府の中枢に入り込むことも多い)。最初は家柄がものをいったが、しだいに採用試験や学校での成績がものをいうようになり、能力主義がすすむ。

大名の領地=「独立国」としての「藩」

 さて大名だ。大名は自分の領地を持ち、原則として自分の居城を1つ持つことが許されていた。(かつては城を山ほど持っていたが、大坂の陣直後の「一国一城令」でこうなった)
領内に住む人々は大名の命令に従わなければならず、鹿児島の島津氏などは鎖国政策をとり他領からの人々には強く目を光らせていた。(鹿児島の方言が難解なのはスパイを見つけるためだという説があるが無視して良い)
このようにして、大名の領地は、大名を「国王」とした「独立国」のような色彩を持つことになる。このような大名の領地と領民を「」とよぶ。(この言葉は、江戸後期になって初めて使われるようになったらしい。正式に『藩』が使われるのは、明治政府の地方組織として組み込まれた1869(明治2)年以降)
実際のところ、独立国的な「藩」は一定規模以上の大大名に限られていた。他方、近畿や関東、越後(新潟)などはいろいろな領主の土地が複雑に入り混じり、一つの村から2~3人の領主に年貢を収めることもあり、一つの村にそれぞれの領主向けの2~3セットの庄屋さんら村役人のセットが存在することもあるなど、とてもややこしかった。関東にヤクザ者が増えたのは、こうした事情で治安が乱れやすかったからといわれる。
ともあれ、住んでいる地域によって、殿様(領主)や武士の存在感は大きく違っただろうね。

藩の財政の基礎、「年貢」

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大名支配の構造 浜島書店「新詳日本史」P152

大名は、領内に住む百姓から年貢などを徴収し、その収入で藩政を運営し、大名家の生活費をまかない、石高に見合った家臣を雇い、百姓をはじめとする領内の人々の生活と生産を維持させ、たまに発生する飢饉などにも備え参勤交代や江戸屋敷の膨大な出費にも対応し、幕府の理不尽な命令に伴う出費にも耐えねばならなかった

武士の「サラリーマン」化

年貢の取り方だが、最初の頃は戦国時代同様に年貢を集める村が指定されていたが(地方知行制という)、大名が領地をころころと移されたこともあって、知行制は薩摩など一部の藩、一部の有力家臣を除いてなくなる。
そのかわり、藩が一括して年貢などを集め、それぞれの武士が石高にあった「給料」を与えられる形に代わっていた。秀吉が進めた兵農分離の完成形である。
こうして、武士の「兵」の要素は薄らぎ、まさしくサラリーマンになっていく・・。

「僕って、何?」~武士たちの自問自答

ちなみに、江戸時代の武士は、人口の一割くらいといわれている。リストラが不十分だったこともあって、仕事に比べて、武士が多すぎた。しかたがないので仕事を細かく区切って分担した。休みもかなり多かったといわれている。
暇だけれど、金もない、たいした仕事も与えられない。
まじめな武士たちは、「そもそも自分たちは世間の役に立っているのか」と自問自答しはじめる。ここから「武士道」という独自の精神文化を生み出し、学問や文化の発展などにも影響を与える。

江戸時代は「地方分権」の時代だった?

日本には、こうした二百数十の小さな「独立国」が存在し、身近なところでそれぞれ独自の政治を行っていた。このようにいっても、藩や旗本、幕領、寺社領などの土地は、全国に分散し、入り混じっていたので、事情はさらに複雑であった。現在の日本における地方ごとの独自性はこうした江戸時代の特殊性によって生まれてきた。
現在、「地方分権」の時代というけど、百数十年前の日本はまさしく「地方分権」そのものだった。

江戸や上方の文化の浸透

同時に名と家来たちの多くが江戸に行き、住んだり遊んだりしたことで江戸の武家文化に触れた。さらに京・大坂にも屋敷があり、京・大坂という上方文化にも接触を持った。こうして、ローカルではあるが共通性もある日本文化の独自性が生まれたのだ。

江戸時代を「幕藩体制」として捉える

武断政治~幕府と藩の緊張関係

江戸時代は、日本全体にかかわる内政と外交に責任を持ちそれ自体が巨大な藩でもある江戸幕府と、二百数十の藩が日本を支配していた。こうした体制を幕藩体制とよんでいる
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改易・減封された大名の時期と原因 山川出版社「詳説日本史図説」P146

この体制の中で、幕府は大名が勝手なことをしないように、ときにはいくつかの藩を犠牲にしながら運営していく。
こうして二代三代将軍の武断政治で多くの大名がつぶされた(改易にされた)。
家康~家光時代では、外様大名の改易が88件とさすがに多いが、親藩・譜代も49件とかなりの数字に上っている。とくに家光の弟の忠長(切腹を命じられる)をはじめとする有力親藩、江戸幕府初期の有力家臣であった大久保忠隣や本多正純ら有力譜代大名も改易となっている。
幕府内部の権力抗争をうかがわせるとともに、武断政治が親藩・譜代大名にも容赦なく実施されたことを伺うことができる。

幕府のもう一つの脅威=「天皇」「朝廷」

家康の遺言~「西に向けて葬れ」

家康が恐れていたのは大名だけではない。家康は、死に際して、「自らの屍を西に向けよ」と言い残したと伝えられている。
自分は死んでも、西方の勢力をにらみつけておくから、おまえたちも注意せよ」といったところであろうか。
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幕藩体制の仕組み 浜島書店「新詳日本史」P152

では「西」とは何を指すのか。
一般的には、島津・毛利、さらには福島正則など西国大名と解するのが一般的である。しかし、もう一つの説も成り立つ。
西には、大名以外にも、あるいはそれ以上に気になる存在があった。ある意味では、幕府のアキレス腱であり、ここをつかれて幕府は滅亡する…。
天皇(天皇が政治を行う場所としての朝廷
幕府のアキレス腱はここであった。

「なぜ、将軍様はえらいの?」

こんな質問があったらどうだろうか。
なぜ将軍はえらいの?
実際の答えは、
戦争で強かったから!
でも、この答えにはこんな返しがくる可能性を潜めている。
だったら、もっと強い勢力が出てくれば、織田・豊臣のように将軍の席を渡さねばならないんだね。
もう一つの回答は
天皇に命じられ『征夷大将軍』という地位に就いているから
しかし、次のような返しも考えられる。
だったら、天皇と将軍、どっちがえらいの?
当初、幕府はこの問いについて、非常に神経質であった。
天皇の方がえらい」と見えるから。
だから、天皇の存在は、幕府(家康とその側近)にとっては気になる、目の上のたんこぶのような存在であった。
だったら、幕府の公式見解はというと、途中で変更になる。
江戸時代中期までは「戦いに勝ったから」。難しい言い方をすれば「武威」という最初のほうの言い方で正当化されていた。
しかし、後の方で見るように天皇の権威が強まり、世界の中の日本ということが意識されはじめた後期になると「エラい天皇様から『大政』を委任されたエラいのだ」という説明がメインとなる。
この変更がなされたのは、松平定信の「寛政の改革」のとき。天皇の権威を借りて、幕府の権威を高めようとしたんだ。でも「将軍より天皇の方がエラい」という理屈を認めたことになるね。このことが人々の意識を微妙に変えていくことになる。
とりあえず、将軍=幕府の正統性はこの二つから説明されていたことは理解してほしい。

「禁中並公家諸法度」~幕府による「マウンティング」

家康の支配の「正統性」を保障してくれるものが天皇である。これがなければ徳川氏も戦いに勝った強い大名(「覇者」)でしかなく、殺伐とした説明となる。
でも天皇は危険だ。
そこで家康はブレインを集めいろいろ検討した。
1615年、…そう大坂の陣で豊臣家が滅び、大名たちが武家諸法度を突きつけられて年、幕府は天皇=朝廷にも一つの決まりを押しつけた。
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」。
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禁中」というのは「天皇が住む場所」つまり「御所」のこと。恐れ多いというので、天皇が住んでいる場所のことで天皇自身をさしていた。「並(ならびに)」は英語で言う「アンド」、そして「公家」はいいよね。
 天皇と公家が守るべききまり、それを幕府が決めたのだ。
このなかで、天皇の仕事は「学問」と書いてある。学問といっても現在の大学で学んでいるようなものとは違う。主に昔ながらの天皇家の儀式や和歌などの文芸などをさす。
あまり露骨なことは書いてはいない。
しかし幕府が作ったルールを天皇に守らせるというのは、天皇も公家も、幕府の命令下におかれることに他ならない
前のいい方を使うと、幕府による朝廷への「マウンティング」だ。

「幕府による締め付け」

幕府の朝廷への締め付けはかなり厳しいものがあった。まず京都には京都所司代が置かれ、朝廷の一挙手一投足に介入する。
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朝廷の統制 山川出版社「詳説日本史図説」P148

天皇が御所から外にでることはないが、もし出ようものなら大変だ。
実際に、天皇が御所から外に出たのは、火事の時だけだった。
いろいろなところに行くのは、天皇をやめてからだ。

朝廷内の重要な役職として、幕府の意向を取り次ぐ武家伝奏という役職がおかれた。お公家さんの仕事としては、関白に次ぐ要職となる。

そして例によって経済的な締め付け。
朝廷の石高…どのくらいと思う?
1万石!大名の最低水準。
一石でも下回ったら、旗本・御家人の水準となるレベル。
あまりにひどいということで綱吉のとき3万石に加増され、幕末でやっと4万石くらい。それでも小大名レベル。公家領をあわせても10万石。これでやっと中大名に入れてもらえるかどうかの規模。火事からの再建などの臨時出費は幕府に泣きつかねばならない。
この収入で「古来の儀式を維持し、格式を守れ」と言われる。
食事は献立や品数も決められていた。金がないので形だけのものも多いとされてきたが、近年の研究では、大名や倹約を強いられていた時期の将軍より、いいものを食べ酒も飲んでいたことが、明らかになってきた。
収入を得るために、近隣の農民や商人なんかに位を売って寄付を求めたりしており、下級貴族はバイトに励んだ。お稽古事を町人に教えたり、百人一首の絵を描く、幕末にでてきた岩倉具視の家は家をばくち場として提供してその場所代を手に入れていたらしい。
さらに、大名や有力武士に娘を嫁がせたり、幕府の許可を得て形式的な役職につけ、箔をつけさせることも収入源だった。こうして幕末が近づくにつれ、朝廷・公家と大名の距離も近づき、京都に藩邸を置く藩も増えてくる。大きくない藩は、京都の町人を藩士として、その屋敷を藩邸代わりにもする。小さい国が一般の人を名誉大使に任命し、仕事を手伝ってもらうことに似ている。
お公家さんの多くはビンボーだったから、庶民がコネをつけることもそんなに難しくなかった。京都の庶民にかなり近い存在だったんだ

「水戸黄門」様の困った発言!

家康は実に丁寧に天皇=朝廷を押さえようとしていた。
ところが、その孫の中から困った人物が出てくる。
助さん格さんを引き連れて、全国をまわり、最後には印籠を出して悪代官をこらしめるという、日本的ワンパターンの典型ともいえるテレビドラマで有名な…年寄りだったら絶対知っている人物…。無理か。
水戸黄門」、徳川光圀(とくがわみつくに)

実際には全国は回らず、茨城県内を回った程度。

では何をしたかというと、歴史を勉強した。
勉強した結論が 「日本で、いちばんえらいのは天皇!」とのこと
そしてその立場から日本の歴史をまとめさせた。家康の配慮もぶちこわし。
 この時期は、武断政治から学問で政治を進めようという文治政治」へと変わりつつある時代なので、こうして学説はあっという間に広がる。
こうして
天皇を大切にすべきだ」という尊王論が生まれ、幕府の中にさえ広がっていく。綱吉が朝廷の石高を増やしたのもこうした風潮を受けてのもの。
こうしたなかから天皇と幕府の関係は「日本の中心は天皇であり、幕府は天皇から日本を統治する権限をあたえられている」と整理されていったんだ。
なお、幕末の政局で、水戸藩が尊王の本家といわれ、尊敬されたり、独自の動きをするのはこうした経緯からだ。これも後の話。
こうした考えが、幕府の公式見解となったのが、寛政の改革というとことになる。
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