「満州経営」と日米対立の発生

オーストリアの雑誌。日本人の子どもが「あなたの世界地図に少し変更を加えたいだけだよ」と教師役のアメリカにいっている。 「図説日本史通覧」p232

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Contents

「満州経営」と日米対立の発生

 

「坂の上」にあったものは

日露戦争でのロシアへの勝利と条約改正は、幕末以来、日本のリーダーたちがめざしてきたものがある程度実現したことを示しています。
植民地化の危機を自覚し「列強と肩を並べる強国にのしあがらなければ!」と考えてきた時代、司馬遼太郎風に言えば「坂の上の雲」をめざした時代が一段落を迎えたのです。
この道のりのなかで日本は多くのものを失ないました。日露戦争の膨大な犠牲のうえに到達した「坂の上」は楽園ではなく、民衆にとってあらたな負担を強いるものでした。

これまでの目標をクリアした日本、今後どのような国をめざすのか、新たな国家デザインが問わていました。しかし、それが明らかにならないまま、それぞれが勝手な事をやりはじめます。

実際、日露戦争直後、戦後処理をめぐってリーダーたちの足並みに乱れが生じ、世界にも影響を与えます。帝国主義列強の一員になったことは世界のあり方にも責任を負うことでした。しかし、そうした意識が不十分のまま対応し、アジア太平洋戦争へ、破滅へ、とつながる流れが少しずつ姿を見せ始めます

今日はこうしたところを中国東北部、いわゆる「満州」をめぐる国際対立を中心に見ていきましょう。

中国東北部南部における日本支配

朝鮮の植民地化とならぶ日露戦争のもう一つの結果は、中国東北部(「満州」)への進出でした。この部分をまず見ていきましょう。
まずポーツマス条約の内容を確認しておきましょう。
①遼東半島先端部(旅順・大連を中心とした地域)の租借権をロシアから譲り受ける。
②ハルピンから旅順を結ぶ南満州鉄道のうちの長春以南を付属地とともに譲り受ける
この二点です。
いずれも、もともと中国(「清」)のもの。勝手にやり取りしていいのですかね?そのあと、1905年の12月に満州善後条約が清との間に結ばれて、清の了承は得ることになります、新たな内容を付け加えて・・・。

「関東州」と「関東都督府」

日本は①の租借地を関東州と呼ぶことにします。
「関東州」 帝国書院「図説日本史通覧」p229

「関東州」 帝国書院「図説日本史通覧」p229

「関東」とは関所の東側のこと、日本の関東地方は江戸時代にあった箱根の関所などから東側という意味、ちなみに関西は関ヶ原にあった不破関などの3つの関所より西という意味です。

では関東州は何という関所かというと、中国本土と東北部(満州)の間にあり、万里の長城が海に出る場所にあった山海関、その東側という意味です。
この関東州、鳥取県とほぼ同じくらいの広さで朝鮮や台湾よりはるかに狭いですが、一種の植民地として扱われ、朝鮮や台湾の総督府に当たる役所として関東都督府がおかれました。

「満鉄」と付属地、関東軍

②についてですが、日本が手に入れたのは単に鉄道ではなく、付属地を含むというところに注意してください。
南満州鉄道と所有する鉄道・炭鉱 東京書籍「日本史A」P103

南満州鉄道と所有する鉄道・炭鉱
東京書籍「日本史A」P103

鉄道に沿った帯状の土地を鉄道の付属地といいます。普通の感覚なら5~10メートル程度、せいぜい100メートルまでと思われがちですが、実際はまったく違います。
幅数百メートルにおよぶはるかに広いもので、実態としては帯状の植民地でした。
その場所もきっちりと決められているわけでなく、付属地だといいはればいいのですから。
この中に鉄道の関連施設だけでなく軍隊の駐屯所、都市なども存在します。さらに鉄道に関連する施設ということで、露天掘りで有名な撫順炭鉱工場なども付属地として扱われます。ここは治外法権であり、住む人への統治権や税金にあたるお金を徴収する権限ももちます。
このように南満州鉄道といっても鉄道だけではありません。巨大で、どのようにも解釈可能な利権が隠れています。現在の鉄道会社も、このような側面を持っていますね。
この巨大な利権については政府だけで維持するのは難しいということで、政府と民間が資金を出し合って南満州鉄道株式会社、略して「満鉄」が設立され、この満鉄が日本の東北部進出の中心となります。
また関東州と満鉄の利権を守るために、のちにこの地に陸軍の軍隊がおかれていた軍隊が整理・統合されます。これが悪名高い「関東軍」です。

日米対立の開始~桂ハリマン協定

ここにしるした東北部の利権をめぐり、日本外交は新たな局面を迎えることになります。
これまでの日本の外交の中心は「条約改正」と朝鮮や中国東北部進出をめぐる清やロシアとの対立でした。
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小村寿太郎 ポーツマス会議の全権として講和条約を締結した。桂ハリマン協定を白紙撤回させる。

しかし、ロシアとの関係が一定の決着がつき、条約改正もめどがついたなか、あらたな国際対立が表面化し始めます。
それは、日本が帝国主義列強に仲間入りしたことから生まれた対立でした。この対立が深刻化していく中、日本は無謀な戦争へと突入、敗れます。
新たな対立とはアメリカとの対立です。
この対立は、ポーツマス条約に全権として参加していた小村寿太郎がアメリカから帰国したところから生じます。
小村はポーツマス条約を締結した直後、アメリカで重病にかかり、生死の境をさまよい、なんとか命をとりとめ、遅れて日本に帰国しました。
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ハリマン アメリカの鉄道王として知られ、南満州鉄道の日米共同経営をいったん仮合意させた。(桂ハリマン協定)

帰国した小村が聞かされたのが、総理大臣桂太郎がアメリカの鉄道王ハリマンとの間で南満州鉄道を日米共同経営にする契約(仮契約)を結んだということでした。
桂や元老の井上馨らからすれば、戦後の財政難の中、日本だけでこの鉄道を経営することは困難であり、ロシア、さらには活発化しつつある中国の民族運動を考えて、アメリカと手をくむ方が有利という判断がありました。
それは列強との間の国際協調と信義を重視しつつ海外進出をすすめてきた伊藤ら多くの元老たちの考えでもありました。
小村はこれを聞いて激怒します。日露戦争の膨大な犠牲の上に手に入れた南満州鉄道、ポーツマス条約で自分が命を削ってなんとか獲得した利権、東北部の南部を日本の勢力圏とするための重要な足がかり、これをあっさりと外国資本に渡してよいのかと。
小村は、猛然と契約破棄に向かって動き始め、同じアメリカのモルガン系銀行の資金も得て、この契約解消に成功しました。
この小村の行動、これが日本の分水嶺だったかもしれません。

伊藤博文の激怒~軍部独走の始まり

伊藤博文 に対する画像結果

伊藤博文 伊藤はこの直後、1908年韓国の安重根に暗殺される。

もう一つ、気になる動きが進んでいました。日露戦争で戦った陸軍はロシアの脅威を主張し、なかなか東北部から撤退しようとしないのです。まるで北清事変後のロシア軍みたいです。こうした陸軍の態度を見て、伊藤が激怒したというエピソードも残っています。
軍部が政府の意向を無視し、自らの論理で動き出します。伊藤の激怒にもかかわらず、陸軍は居座りをつづけました。

「列強の一員になったけれど」

幕末以来、日本のリーダーたちは対立を繰り返してはいましたが「列強においつく」という目標では一致していました。民権派もこの点では異存はありませんでした。多くの国民にもこの目標を納得させようとしてきました。この目標が、一応達成したのが日露戦争でした。
では、これからどのような目標にむかっていくのか。どのような国をめざすのかといった方向性が定まらないまま、それぞれが動き始めます。そして元老・政府・軍部の思惑はしだいに分裂し始めました。
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井上馨 幕末に伊藤とともにイギリスへ留学、国際協調を重視し、日露戦争開戦においても否定的な姿勢をとった。

一方で、戦争中の約束を守り国際協調を重視する井上馨や伊藤博文ら維新以来のリーダーがいます。
他方で、戦争で手にした成果をもとにいっそう国益を拡大したい小村たちがおり、さらに、戦争の成果を確保し、さらに拡大したい軍部もいます。
こうして支配者間の意見の食い違いがすすみます
維新以来、日本をリードしてきた元老たちは次第に高齢化し、1908年には伊藤も暗殺されるなどしてしだいに影響力を失い、明治憲法下に力をつけてきた官僚たちに席を譲りつつあります。
さらに日露戦争で自信をつけた軍部は政府などのコントロールを嫌い、独自の動きを始めます。
列強の圧倒的な力を知りその力関係をたくみに利用し弱小日本を育てた明治の日本が、帝国主義列強の一員として世界と対峙しようとする大国日本とぶつかり合っていたといってもいいのかもしれません。

アメリカの「門戸開放」と日本の勢力圏

アメリカは日露戦争において、イギリスとともにあるいはイギリス以上に日本を援助しました。アメリカの対中国政策の基本は「門戸開放」政策です。
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ジョンヘイ マッキンレー・Tローズヴェルト両大統領のもとで国務長官をつとめ、1899年、門戸開放・機会均等・領土保全の三原則を示した。

中国を、世界に開かれた市場とし(門戸開放)、どの国も特権を有せず(機会均等)、中国の領土主権を保護する(領土保全)という内容であり、イギリスを生産力で圧倒しつつあったアメリカが、中国に進出するうえでに最も有利な主張でした。

自由貿易を「好物」とするのは?

ちなみに、自由貿易や自由主義経済がもっとも有利に働くには、有効なのはその時代にもっとも強い経済力をもつ国(最も安価で大量の工業製品を供給できる国)、正式には産業分野です。だからこそ、18世紀から19世紀前半はイギリスが世界中で自由貿易を主張していました。
現在にあてはめると、アメリカが大きな経済力をもつからこそ、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)など自由経済の枠組みを作りたがるのです。

なぜトランプはTPP協定から脱退したのか?

すこし、余談をします。なぜ都合のよいTPP協定からアメリカが脱退したのかという話です。
経済力が強いといってもその分野には偏りがあります。18世紀のイギリスでも当初、農業関係者は自由貿易に否定的でした。
現在のアメリカの強さとは、圧倒的な金融資産を調達する力であり、さらに情報産業、ハイテク産業、情報通信を駆使した金融・商業・サービス分野などがまず上げられるでしょう。それをささえているのは、先進国とくにアメリカに都合よく整備された膨大な特許制度、知的財産権制度、訴訟制度などです。さらに、世界最強の軍事力を支える軍需部門や広大な土地で展開する農畜産物生産の分野も強さの背景にあります。いずれも多国籍化した巨大企業の支配下にあります。
こうした企業は、安い原材料や労働力がえられ、税金が安く、金融などへも規制がなく、さらに環境への配慮なども少なくてすむ地域こそが、さらなる収益を伸ばせる場所です。
そこで、相手国が、自国産業、労働者や商工業者、健康や環境を守るための法律や規制(例えば「狂牛病」防止のために設けられた牛肉の輸入規制など)をつくり、社会保険制度などで自国民を保護していても、それは不公正な商環境であるとして訴訟をおこし、それを撤廃させることを可能にしたいのです。TPPにはこうした条項があります。(ISDS条項)TPPはこうした大企業の力をよりいっそう発揮するための最適のツールです。
他方、アメリカの自動車・電機・鉄鋼・精密機器といったものづくりの分野では、アジア諸国などの台頭によってかつての地位を失いました。こうした産業はアメリカ本土の工場を引き払い、労働力が安かったり資源をえやすい地域に工場を移したり、実際の生産はアジア諸国になどに発注し、自分は企画と販売に特化する、主力を金融・サービスに移すなどのやり方で生き残りをはかりました。
取り残されたのが、長くアメリカを支えてきたものづくりにかかわる労働者(主に白人)でした。こうした人たちにとって、自由貿易、その象徴ともいえるTPP導入はさらなる海外からの安価な商品の流入、工場の海外流出、産業の空洞化・衰退、勤務条件の悪化、失業者の増大に他ならなかったのです。トランプはこうした人々の怒りを組織し大統領に当選したのです。そしてTPPを脱退したのです。しかし、アメリカファーストを唱える以上、アメリカに有利なTPPをこのまま捨てるとは思えず、より都合のよい二国間協定の形式などで日本などに押しつけてくるような気がします。

自由貿易が苦手な国の選択~保護貿易、勢力圏

やや経済力に劣る国は、保護貿易をとったり、他の国が入ってこられない排他的な勢力圏を持とうとします。だから、とくに経済力の弱い日本やロシアは強引に自らの勢力圏を設定しようとしたのです。
これに対し、アメリカは列強がそれぞれ勝手気ままに勢力圏を設定すれば、自国の製品を販売しにくくなります。さらに出遅れていたこともあって、このような宣言をしたのです何もしなかったら自分の国の製品が一番売れるのに余計なことをするなという感じでしょうか。

「日米対立」の深刻化

このような余計なことをもっとも露骨にやったのがロシアでした。
 日露戦争直前にもどって、アメリカの立場を確認してきましょう。
セオドアルーズベルト に対する画像結果

セオドア・ローズヴェルト大統領  ラテンアメリカでは「棍棒外交」を展開する一方、日露戦争においてはポーツマス条約を仲介した。

ロシアは、北清事変後、東北部を事実上占領し、勢力圏どころか植民地化しかねない勢いでした。そのようなことが起これば、他の国もそれに追随し、中国の分割はすすみ、門戸開放は崩壊する。ロシアは門戸開放政策にとって、もっとも不快な存在でした。だからこそ、ロシアと戦う日本を応援し、多額の資金援助もしました。
日本も「日本が勝利すれば「南満州」を門戸開放のモデル地域としたい」との考えを了承していました。
だからこそ、ポーツマス条約で大統領が仲介の労を執ったともいえるのでしょう。その第一歩が桂ハリマン協定による南満州鉄道の日米共同経営計画でした
ところが小村外相によって、計画は白紙に戻されます。日本陸軍はロシアの脅威を唱えて東北部に居座り、清国の行政権を無視し、鉄道や港湾においても他国の利用を妨害し、日本人の利益のみを優先する姿勢を強めました。そして、先に見たように「満鉄」は日本人だけで経営します。

満州中立化計画と日露協商

アメリカは次第に日本への不信感を強めます。「日本もロシアと同じじゃないか。我々が資金と講和条約で協力してやったのに、戦争中の約束も守らない」。ルーズベルト大統領は「戦争中は親日派だったが、講和会議後はそうでなくなった」といいます。
日露戦争後の国際関係 日本とアメリカの対立が表面化しつつある「図説日本史通覧」p232

日露戦争後の国際関係
日本とアメリカの対立が表面化しつつある「図説日本史通覧」p232

 アメリカは、東北部の門戸開放のため、つぎつぎと手を打ちます。
1909年、日・露・米・英・独・仏の六カ国で満州の鉄道を買い取って共同経営しようという「満州鉄道中立化」案を出します。
これに対し、日本は、かつての敵国ロシアとの三回にわたる秘密協約で東北部及び内モンゴル地域における勢力範囲を制定します。東北部など(のちに「満蒙」といわれる)を両国で分割し、ほかの国は入れないという取り決めです
こうして、この時期の日本の行動は、日露戦争前のロシアと酷似したものとなり、アメリカは反発を強めます。

日系移民排斥運動

アメリカの日本への不満は弱い人々に向けられます。
19世紀後半、アメリカ西部には多くの日本人が移民として渡っていました。
シアトル日本人街での盆踊り(1936) 帝国書院「図説日本史通覧」p233

シアトル日本人街での盆踊り(1936)
帝国書院「図説日本史通覧」p233

かれらは、安い賃金で勤勉に働く一方、自分たちだけでコミュニティをつくりアメリカに忠誠を誓おうとしないなどとして、白人社会との摩擦を強めていました。こうしたなか、日系移民排斥運動が発生、カリォルニアの学校においては、日本人児童の隔離が行われました。
アメリカ政府は好ましくないとは思いつつ、こうした動きを押さえ切れず、しだいに日系移民の受け入れを制限、1924年にはハワイをのぞき、全面禁止します。
日米開戦の噂も流されるようになっていき、日本とアメリカが戦うというSF小説も生まれました。そして日米両海軍は、ともに双方を「仮想敵国」として位置づけ、装備の充実を図るようになります。
帝国書院「図説日本史通覧」p232

帝国書院「図説日本史通覧」p232

こうして、これまでは列強の中で親しかったアメリカは、日露戦争とポーツマス条約をきっかけに、次第に距離を置き始め、しだいに敵対的な関係へと変わっていきます

オーストリアの雑誌。日本人の子どもが「あなたの世界地図に少し変更を加えたいだけだよ」と教師役のアメリカにいっている。 「図説日本史通覧」p232

オーストリアの雑誌。子ども(日本)が「あなたの世界地図に少し変更を加えたいだけだよ」と教師役のアメリカにいっている。
「図説日本史通覧」p232

日本とアメリカがアジア太平洋戦争という形で戦火を交えることになるのはポーツマス条約の36年後、それが日本の敗北として終わるのがちょうどポーツマス条約から40年後のことでした。

辛亥革命と中国の民族運動

このころ、アメリカと並んで、いやアメリカ以上に激しく戦う、もう一つの勢力も登場してきます。これ以降、アメリカが日本との対抗上、手を組む中国における民族運動です。

孫文 中国の革命家。初代臨時大総統となったが、その地位を袁世凱に譲った。日本人の友人も多い。


1911(明治44)年
中国で辛亥革命が発生、翌1912年1月、アジア初の共和国である中華民国が誕生、清が滅亡します。
その後、中華民国の実権が、軍閥の袁世凱に奪われるなど、中国の分裂が進行するなど困難な道がつづきます。しかし、辛亥革命において清を滅ぼし新しい国を打ち立てたという自信は「眠れる獅子」を目覚めさせる効果をもたらしました。中国における民族運動が本格化しはじめたのです。

 日清戦争の時、テレビ局(あるわけありませんが)が街頭インタビューをしても、大部分の人が戦争相手も知らなかっただろうという話をしました。
ではこの時期、辛亥革命を経験した中国人はどうだったのだろうかはどうだろうか?
私に勝手な推測によると、
当面する中国の課題や危機について話す人がきっと増えてきたでしょう。
こうした中国の人々の間の変化に気づかないまま、日本は中国政策をすすめます。
その結果、アヘン戦争で悪名をはせたイギリスにかわって、中国にとって一番危険な国NO1というありがたい地位?!を獲得するにいたるのです。
そしてこうした中国人の民族意識も利用しつつ、アメリカの影響力が増していきます。

 小村や軍部が恐れたもの。

少し時間があるので、日露戦争後の日本社会について見ておきます。
満鉄の日米共同経営になぜ小村があれほど激怒したのか、少し考えたいと思います。

日比谷焼き討ち事件、集まった群衆 (Wikipedia「日比谷焼討事件」より)

実は、その背景にあったのは、日比谷焼き討ち事件にみられる国民の「怒り」だったでしょう。
小村は日本から伝わってくるニュースを聞いて、「自分の家族の命はない」と覚悟したといいます。民衆の怒りの大きさと意味を小村の方が感じていたのかもしれません。
「大勝利」のはずが、賠償金も、領土も、もらえらない。戦時だけの臨時的なものという言い分で認めた高い税金なども下がる見込みはない。戦争中の厳しい生活がそのまま続く
 こうしたなかでポーツマス条約のわずかな成果すらアメリカに渡してしまえば国民は黙っていないという切迫感、それは交渉の最前線に立った小村だからこそわかり、共感したのでしょう。
軍部にとって、満州は「多くの兵士の血」で獲得したものでした。こうした意識が満州を独占的に支配したいという欲求へとつながっていたのでしょう。
 指導者たちは、国民の「目」、死者の「目」を気にしはじめました。
それは新たな対立と戦争へとつながるものでした。伊藤や井上馨がおそれたのはそのことでした。

『坊ちゃん』の時代

新たな展望を見失ったのは、多くの国民にとっても同様でした。

関川夏央・谷口ジロー「『坊ちゃん』の時代』」(五部作)日露戦争後を中心に夏目漱石を中心に当時の人々を生き生きと描いた作品。事実として見ることはできないが時代の空気を見事に表している。

日露戦争で、列強の一つを破ったことは、これまで日本を動かしてきた原理、「列強に追いつこう」といった目標、「坂の上の雲」をめざそうという目標を曲がりなりにも実現したことを意味していました。
しかし、「坂の上」の世界は平安な世界ではありませんでした。目標達成のための苦労、多くの犠牲は、それに見合うものだったのでしょうか。日清・日露両戦争の勝利は、楽にするどころか、さらなるあらたな苦難を強いるものでした。
少なくとも、「臨時」のものとして導入された税金は下がるとは思えません。それどころか、さらなる重税が計画される。
啄木は歌います。
はたらけど、はたらけど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る
この嘆きは「ロシアに勝利すれば一流国になれる」と歯を食いしばっていた人々、日露戦争後を生きる多くの人々共通の嘆きもでありました。この時期、文筆活動を活発化させた漱石は小説「三四郎」の登場人物にいわせます。「滅びるね」
関川夏央・谷口ジローによる関川夏央・谷口ジロー「『坊ちゃん』の時代』」(五部作)はこの時代を生きた人々と事件を生き生きと描いています。ただし、多くの実在の人物が出てきますが、多くはフィクションなので注意してください。

「巌頭の感」1903年東京帝大生藤村操はこの書き置きを残し、華厳の滝に身を投げた。以後「煩悶青年」の自殺は社会問題となる。Wikipedia「藤村操」より

勝利のあとの虚脱感、信じさせられてきたものへの不信感、産業革命と都市化の進展の中、あらたな目標がみえない不安がひとびとをとらえます。国家主義への疑問が広がります。個人主義や社会主義の影響が広がります。
また高学歴の学生たちの間で自殺者が相次ぎます。ちなみに京都帝大に通っていたぼくの祖父の兄もこのころに自殺しました。明朗な性格の人だったと聞いていますが。漱石の小説「こころ」のKはこの時代の若者の象徴でした。

「戊申詔書」「大逆事件」

こうした動きに対し、1908(明治41)年政府は「戊申詔書」をだして、国民の一致協力による国の発展のため、贅沢をいましめ皇室尊重などを天皇の名で求めます。これを受け内務省は倹約・貯蓄や農業の改良を進める地方改良運動をすすめました。
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幸徳秋水 26名の社会主義者がとらえられ、最終的には12名が処刑された。多くは事件に関与していなかった。

こうした運動を、青年会などとともにすすめたのが、現役以外の軍人(いつもは普通の生活をしながら、戦争が近づけば集められる人々・「予備役」ともいう)で組織された在郷軍人会でした。前に見た「忠魂碑」なども多くが彼らの手で立てられていきます。
こうした中、発生したのが1910(明治43)年、幸徳秋水ら社会主義者が天皇暗殺を謀ったとして大量に処刑される大逆事件です。
日露戦争後の沈滞した状態のなか、1912年、明治天皇の死によって明治時代は終わりを告げ、新しい時代、大正へと移っていきます。
それでは今日はこのあたりで終わります。
次の時間は、経済について見ていくことにします。
<次の時間:日本の産業革命
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