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Contents
日露戦争への道(2)
中国の半植民地化と対立の激化
日清戦争・下関条約の意味
日露戦争の原因のひとつが中国東北部(満州)をめぐる対立です。
その前提として、日清戦争・下関条約(および三国干渉)が与えた影響を見ておきます。
これまで中国(清)は、「眠れる獅子」といわれ、恐れられていました。挑発して本気になればまずいと列強同士が牽制し合ってきたふしがあります。
ところが、清が、日本に惨敗、台湾(・澎湖諸島)のみならず遼東半島までを割譲したことで、その印象を大きく変えました。
清が日本に与えた領土は桁違いでした。イギリスがアヘン戦争で獲得した香港島は三宅島と八丈島の間くらい、租借地も含めた現在の香港特別区でも札幌市くらいです。
これに比べ、台湾はほぼ九州、遼東半島は北海道と同じ位の広さ。遼東半島の場所は北京に近く、朝鮮や満州全体にらみをきかせることができ、海上にもにらみがきく場所。「いくらなんでもやりすぎだ」という声が上がる当然でした。
こうして、ロシア・ドイツ・フランス三国による三国干渉が発生しました。なおイギリスはロシアから誘われますが断ります。でも「いわないこっちゃない」というところかもしれませんが。
あまりの非道に怒った下関条約の清の全権・李鴻章が仕組んだともいわれますが。
植民地化の引き金としての対外借款
日清戦争と下関条約は、清が弱体でありで領土割譲にも応じるという悪い前例となり、結果として列強の領土獲得意欲をかきたてました。さらに多額の賠償金は、清国を借金地獄へとおいやりました。清を欧米諸国への借金(対外借款)依存体質としたのです。
一国が植民地化されるきっかけの多くが対外借款です。債権国は、金を貸す条件として、あるいは返させない場合の担保として、債務国の権益を奪っていきます。その額が多くなるにつれて、関税徴収権、鉱山採掘権や鉄道敷設権、租借権、国内の通行税・課税権などへと拡大していき、ついには外交権にすら及びます。
こうした国の典型がエジプトです。19世紀前半という最も早い時期、非欧米諸国の先頭をきり富国強兵の近代国家建設をめざしたエジプトですが、不平等条約と自由貿易に苦しめられ、資金を外債に頼ったためについにデフォルトに(債務不履行)に陥り、スエズ運河を奪われ、ついにはイギリスの保護国となってしまいました。
明治以降の日本が植民地化されるとしたら、もっともあり得る形がこのパターンだったのでしょう。そのことを理解していたため、明治政府は借款を極力避け、日露戦争までは健全財政を維持しつづけたのです。
なお、エジプトのやり方を朝鮮で使おうと画策したのが井上馨です。朝鮮公使となった井上は返済できない事態を予想して、多額の借款を供与、保護国化を計画していました。しかし、日本はイギリスのように官民共に資金が潤沢でなく、失敗に終わりましたが。
露清同盟と東清鉄道
賠償金支払いのため、清は金策に走ります。借款に応じた国の一つがロシアでした。
ロシアには是非手に入れたいものがありました。それはシベリア鉄道の一部を、満州北部・ハルピン経由とする東清(中東)鉄道敷設権です。これが獲得できれば、ウラジオ・モスクワ間の最短・最速の路線が確保でき、かつ満州開発にもつながります。ロシア勢力が満州に浸透し、半植民地化もすすめることができます。
1896年、ロシアはニコライ2世の戴冠式出席のために訪ロした清の実力者李鴻章にこの計画を持ちかけます。借款に応じるし建設費もロシアが負担するので、是非敷設権を!というのです。
これにたいし李は別の提案で応えました。露清両国が日本と対抗すべく軍事同盟(露清同盟)をむすび、その手段として鉄道敷設を認めるというのではどうか。なんとしても鉄道敷設を実現したいロシアはこれを受諾します。
このとき山県もロシアにいました。そのうらで露清両国が日本を仮想敵国として軍事同盟を締結し、さらには東清鉄道の敷設権の供与を決めていたのです。
以後、清は鉄道敷設権や鉱山開発権を、借款と結びつく形で与え始めました。
ドイツによる膠州湾の租借
こうした半植民地化の動きを加速させたのがドイツです。
ドイツは皇帝ヴィルヘルム2世の下、対外進出の遅れを取り返そうと積極的な海外進出策をはかっていました。
1897年、ドイツは宣教師殺害事件を口実に軍艦を膠州湾に派遣、強硬な交渉によって、この地の99年間租借を実現しました。
列強は抗議でなく追随で応じました。軍事同盟を結んだはずのロシアも同様です。
ニコライ2世は艦船を旅順に派遣、旅順・大連という遼東半島先端部の租借をめざしました。
ロシアによる旅順港の租借
旅順港は天然の良港といわれますが、ロシアの高官・軍人にとっては不評で、ニコライの考えを支持したものはわずかでした。
曰く、港口がせまくここを封鎖されれば動きがとれない、さらに港自体も手狭で動きが取れにくい。隣の大連港も使う必要がある。
なによりも、この地を維持するための補給路の確保が困難でした。
補給路としては獲得した東清鉄道のハルピンを起点に大連・旅順にいたる南満州支線を敷設する必要がでてきます。これが次々と問題を引き起こします。清の領内を通るため、治安が維持できるかとの問題があるし、日本の影響力が増している朝鮮半島北部と隣接しており、日本との戦いにも備える必要がある、などなど。
海上ルートはさらに問題です。ロシアの海上補給ルートとしては、シベリア鉄道の終点ウラジオストクから日本海・朝鮮海峡・黄海経由のルートとなります。しかしこのルートは日本や宿敵イギリスによって切断されやすいのです。
政府部内では海軍をふくめ反対が圧倒的でした。にもかかわらずニコライはこれを押し切りました。かれは、日本がどう感じるかには関心がなく、ドイツ皇帝への対抗心のみが先行していたといいます。清は抵抗しましたが、最終的に承諾、25年間の租借が認められました。
なお、他の租借地のように99年間ではありません。25年という期間の短さが、中国の利権回収運動を活発化させ、日本が二十一か条要求の背景ともなります。
中国の「瓜分」
ドイツの膠州湾、ロシアの旅順大連の獲得をきっかけに、各国は租借地獲得にのりだしました。
イギリスは手狭になった香港植民地の対岸である九龍半島と周辺の島々、さらにロシア・ドイツににらみをきかすべく山東半島先端の軍港・威海衛を、
フランスは植民地ベトナムにつづく広州湾を、
それぞれ獲得します。
また清に「不割譲宣言」(他国には譲らないという宣言)をさせて自国の勢力圏としたり、工場設置権や鉱山開発権、さらに鉄道敷設権獲得をめざします。
こうして、長江流域はイギリス、満州とモンゴルはロシア、山東省はドイツ、南部はフランスという具合に勢力圏が分割されました。日本も、台湾の対岸の福建省の「不割譲宣言」をさせます。
このように中国は列強の勢力圏に切り分けられました。西瓜を切り分けるような状態から「瓜分かぶん」という言葉が用いられます。
こうした事態は、中国の人たちの新しい感情を生みました。典型的なことは、中国の人たちが自分たちのことを「中国人(中華民族)だ!」とよびはじめたのです。王朝の名である「清」人ではなく。長い歴史をもった中国に、ナショナリズムに目覚め始めたのです。よく聞かれる「中国3000年(または4000年)」というフレーズも生まれました。
日清戦争と「瓜分」の危機が「中国人」という意識を生み出しました。
仇教運動の広がりと義和団
「中華民族の危機」という意識は、キリスト教への反発という形でも顕在化します。
キリスト教の宣教師はときには独善的な布教方法でトラブルを起こしました。
かれらは孤児救済や貧民対策、教育など慈善活動に力を入れました。しかしそれが子どもたちを傷つけるなど悪意に満ちた噂を引き起こしました。また宣教師たちの欧米的基準から批判が激しい摩擦を生みました。かれらは意図的に足に奇形をつくりだす纏足てんそくのような前近代的な風習を非難し、裁判などへも介入しました。伝統的な道徳や風習と対立を否定するかのような行動は、保守的な共同体的秩序に生きる人たちとの摩擦を生み、ときにはその身分・階級関係にひび割れをも生じさせました。
こうした姿は、文明開化に恐怖を感じ、ときには反対して一揆を起こした日本の民衆の姿にダブります。明治政府は、西洋文明によって伝統文化や共同体が破壊されるという恐怖に怯える民衆を侮蔑し、ときには徹底的に弾圧しました。明治政府はこの点では「確信犯」とさえいえる政権でした。この点では、自由民権の闘士たちも共犯でした。
ただし日本では権力者とむすびついた「西洋かぶれの日本人」や「日本政府」事態が引き起こした「混乱」でしたが、中国では「西洋人」が西洋人という条約上の地位や「信仰心」「良識」によって引き起こす「混乱」であり、中央・地方双方の政治権力にはかれらを統御する力はありませんでした。
さらに中間団体の対立抗争がうずまく中国・地域社会では、対立する諸勢力が自らの優位獲得のためにキリスト教を利用しました。キリスト教徒になれば列強の保護、さらには特権も得られるからです。白蓮教の一派がまるごと改宗したケースもありました。地域内の対立抗争がキリスト教受容・排斥とも結びついたのです。そして「瓜分」の危機が引き起こす排外主義的ナショナリズムが西洋文明の象徴であるキリスト教に襲いかかりました。
こうしてキリスト教排斥運動=「仇教きゅうきょう」運動が活発化しました。
とくに活発であったのが山東省です。古くから白蓮教の伝統の強いこの地で、その流れを引く武術系の秘密結社・義和団が生まれました。義和拳という空手を学べば人間は神や宇宙と一体化することができ、銃弾に当たっても死なない不死身の力を得ることができると主張、信者を拡大しました。かれらは教会堂や鉄道など「洋」につながるものを次々と破壊、キリスト教徒を襲い殺害しました。
義和団は、地方政権の援助を受け勢力を拡大、「扶清滅洋」(清国をたすけ、欧米勢力をうち滅ぼす)をとなえました。さらに抗議をうけた清朝の形ばかりの鎮圧が、運動を外部に広げました。
北京や天津でも活動が見られ、満州をも含む中国北部一帯へとひろがりました。
北清事変
北京などでの義和団運動は、山東省からやってきた季節労働者、10代少年・少女が中心的担い手でした。
かれらは都市住民に義和拳を教えることで尊敬を得、鉄道や教会にとどまらず、電線や鉄道、輸入物資を扱う商店、さらに西洋人と接触の多い人びとなど「洋」につながるものを「正義」の名のもとに破壊します。
1960年代後半、文化大革命下、若者たちが「革命という正義」(象徴としての「毛沢東語録」)を振りかざしての、既存の秩序への攻撃と破壊を繰り返していた紅衛兵のイメージに重なるものを感じさせます。
列強からの抗議が殺到する中、清朝政府は決断を迫られます。
清朝の最高実力者であった西太后は清が頼れるのは人心しかない。その人心さえも失えば、どうして国を建てることができるのかと彼らを擁護しました。彼女はそれなりに事態を把握はしていました。しかしいま列強と戦えばどうなるかは別として。
そして、列強の連合軍が清の軍事施設を攻撃したことをきっかけに列強への宣戦を決断しました。
しかし、中国には中国の知恵もありました。こうした清朝政府の動きを注視していたのは、両広総督(中国南部の地方官)となっていた「東洋のビスマルク」李鴻章です。かれは他の地方総督にも働きかけ、戦闘には加わらないことを決めたため、戦闘は北部に限定されました。(北清事変)
なお、日本軍がどさくさ紛れに台湾から対岸のアモイへ出兵し、この地の占拠をはかりましたが、イギリス、アメリカの抗議をうけ撤退を余儀なくされます。
こうして、この時期の南進政策は挫折しました。これによって朝鮮から満州への北進ルートへの進出がめざされるようになっていきます(厦門アモイ出兵)
宣戦を決意した清は、北京に在住する公使館員ら外国人に退去を命じ、これに応じない外交官たちが立てこもる公使館街を五十五日間にわたって包囲し続けました。
列強は連合軍結成を決めたものの動きは緩慢でした。しかし日本軍一万人が到着、八カ国二万人となった連合軍は、まず天津を、さらには北京へと進撃、公使館街を「解放」、北京を占領しました。
この直後の連合軍の略奪は激しく、いまでも北京観光のガイドがその跡を見せてくれます。
なお、日本軍は世界の目を意識して略奪には加わらなかったといいます。
西太后は皇帝をつれて北京を脱出、これまでの命令に変えて、義和団鎮圧を命じました。なお、公使を殺されたドイツは懲罰と称し華北各地で攻撃を行いました。
北京議定書
義和団事件(北清事変)の講和条約が辛丑和約、一般に北京議定書といわれるものです。
ここでは、列強軍の撤兵が決まりました。これ以降、列強の間は共通の利益を重視する傾向が強まります。またこの時期、アメリカが打ち出した門戸開放宣言ともあいまって、個々の列強が利権獲得競争にのりだすというやり方は抑制されるようになっていきます。
なお北京議定書のなかで重要な規定としては諸国が北京周辺に軍隊を駐留する権利を得たことです。日中戦争の引き金となった盧溝橋事件をおこした日本人部隊はこの条約によって置かれた部隊でした。
しかし、北京議定書でもっとも大きな意味をもっていたのが、下関条約に倍する四億五千両という多額の賠償金支払いでした。
清は、これを年4歩の公債を発行することで調達し、1940年までの39年間で支払うこととします。元利合計は10億両近くとなり、清の歳入の12年分という巨額に上りました。この支払いのため、国内・外の関税収入、塩にかかる税など、中国財政を支えるはずの歳入が担保にあてられました。
清は資金調達のためにさらなる利権供与を余儀なくされました。
中国の革命家はこの条約で清朝は「洋人の政府」になったと記しました。
しかし、もう一つの側面は列強が中国を分割しようとしても民族的な反発を買い、失敗に終わることも教えました。
老練な政治家山県有朋は、数千年の歴史を持つこの国を急いで取ろうとするのは「利少なくして害多」しと記します。ところがかれの後継者たる昭和の軍人たちはこれに学ばず、滅亡の道を歩みます。
(中国史の記述は主に川島真『近代国家への模索』2010参照)
ロシア軍の満州占領
連合軍のなかで、最も多くの兵士を送ったのは日本です。8カ国連合軍は最終的に7万人を越えますが、その内訳は、日本軍が二万一千人、次いでロシアが一万三千、イギリスが一万二千、アメリカやフランスは三千人台です。当然のことながら、日本兵の死者がもっとも多く、横浜の共同墓地などでこのときの戦死者の墓を見ることができます。なおイギリス軍は、南アフリカのボーア戦争で戦っていたため大部分がインド人傭兵でした。
この数字からいくつかの事が見えてきます。
一つは東アジアにおける日本の軍事的な影響力の大きさ、
二つ目はシベリア鉄道の整備に伴うロシアの動員力の高まりです。
三つ目は多方面での部隊を展開せざるを得ないイギリスの対応力の弱さでした。イギリスは東アジアでは単独で宿敵ロシアに立ち向かうことができないことを示しました。
そこでイギリスが目を付けたのが日本の軍事力でした。
当初ロシアは日本軍の大軍投入に反対でした。その後、満州での鉄道破壊事件などが発生するとロシアは大量派兵にふみきり、東清鉄道の保護を口実に満州に軍隊を派遣、この地を事実上軍事占領してしまいます。
そして北京議定書締結後も、満州から撤退しませんでした。
日英同盟締結
一方における北清事変とロシアによる満州の占領、他方での日清戦争および北清事変での日本軍の軍事力の存在の認識、こうしたなかでイギリスは日本軍の見方を大きく変え、日本への接近をいっそう本格化します。
日本にとって、世界最強のイギリスと結ぶことはロシアとの対抗上、強い味方となりますが、ロシアを刺激し妥協を困難とする側面ももっていました。
かつては、桂首相・小村外相の日英同盟論と、伊藤や山県らの満韓交換論の路線対立としてとらえる説が多かったのですが、近年は両者とも満韓交換では一致しているものの、ロシアの反発や妥協への困難さを重視する伊藤らと、イギリスと同盟を結ぶことで同盟関係にあるフランスの動きを封じることを重視する桂・小村らの意見の違いとして捉える方が妥当であると考えられるようになってきました。
そして日英同盟に消極的な伊藤がロシアとの交渉のため外遊にでた機会をねらって同盟交渉が一挙にすすみ、1902年1月日英同盟が調印されました。
日英同盟によって、イギリスはロシア・バルチック艦隊への牽制やフランスへの働きかけ、借款の協力、日本に有利な情報提供などで、日本勝利に大きな役割を果たします。
ロシアの極東政策にとっての韓国と満州
この時期、ロシアの極東戦略で最重要な課題は旅順軍港を中核とする遼東半島先端部の租借地を守ることになってきました。他の戦略はここから派生します。
旅順軍港の孤立化を防ぐには鉄道輸送路(東清鉄道ならびに南満州支線)の安全確保が核心です。
義和団事件で発生した鉄道破壊はこの脅威を感じさせました。
ロシアは鉄道を守るため、軍隊の駐屯が必要と考え、戦闘終了後も占領を続行、清との条約締結を求めていたのです。
懸念されたように、旅順などの租借がロシアに、東アジアに新たな紛争の火種を持ち込みました。
満州駐屯が長期化し既成事実するなか、満州・モンゴルを自国の勢力圏として確保したいという動きも強まります。こうした動きを他の諸国が満州支配の実質化とみたのです。
ある国が自国の「安全保障」に完璧を期すことが、敵対する国の「安全保障」を脅かし、双方に緊張の悪循環を作りだす、こうした事例は「核の均衡」に典型的なように、歴史上あるいは現代においても枚挙の暇がありません。そこで起こる摩擦が戦争となることも同様です。
20世紀になって本格化する帝国主義時代が「戦争の時代」となるのは、こうした「安全保障」もしょせん自国の帝国主義的利害でしかなく、それを守るために深みにはまっていったことだったのでしょう。
こうした事態への反省が、第一次大戦後の世界での大きな課題となっていきます。この時期は、帝国主義時代の幕開けの時代でした。
ロシアの動きは、宿敵イギリスだけでなく、中国の門戸開放を主張しはじめたアメリカなどをも強く刺激しました。朝鮮半島へのロシア勢力の浸透をおそれる日本も撤兵を強く求めました。
抗議をうけたロシアは1902年4月の満州還付条約を締結、10月には第一次撤兵を実施します。ところが、第二次の撤兵を実施せず、逆に清との交渉を要求したため、日本やイギリス・アメリカなどは反発を強めました。
ロシアにとって、シベリア鉄道から旅順大連を結ぶ鉄路維持にはさらなる懸念がありました。
満州に隣接する朝鮮北部への懸念です。
ロシアは日本が韓国に強い影響力(とくに経済面)をもっていることを理解、承認しました。しかし、日本の影響力が国境を越えて南満州に及ぶとなれば話は別です。
そこで、南満州および鉄道の安全を保障するため、接続地である朝鮮北部にロシアの影響を残す、やむを得ない場合は非武装地帯とする、あるいは韓国を国際法上の中立国とする、こうした要求が生まれたののです。
しかしロシアの満州占領を警戒し、韓国からロシアを排除し独占しようとする日本にとって、すでにこのような要求は認めるわけにはいかなくなっていました。
日本の韓国進出とロシア脅威論
このころ、日本ではロシアが韓国を奪いにくるとの言説があふれていましたが、当のロシアにそのような動きはみられません。
ロシアには朝鮮で日本に対抗するだけの力も意思もはなかったでしょう。にも、かかわらず、日本国内ではロシアによる韓国への脅威が喧伝され続けられます。そういった言説は司馬遼太郎を筆頭に、現代に至るまで、絶えることはありません。
ロシアによる満州隣接地帯の非武装化の要求、日本への対抗上ロシアに援助を求めつづける韓国政府、それを援助してきたロシアの姿勢などが韓国の扱いについての日露の妥協を妨げていました。
ロシアが大国である以上、体面を維持しつつ路線変更をすることは困難でした。
こうしたなか、日本を苛立たせる出来事が発生します。
当時、韓国政府は、光武改革の中で急速に開港政策をすすめていました。
国内を世界に「開放」することで、列強勢力をひろく導入し、その均衡によって対外関係の安定をはかろうという国際戦略でした。
この結果、列国は鉄道の敷設権や鉱山採掘権などを獲得しました。これを利用してさらに経済的な影響力を強めたのはやはり日本でした。主要な鉄道敷設権や漁業権を確保、さらには第一銀行券を事実上の韓国の紙幣とします。
こうした日本と激しく利権を争ったのがロシアでした。
そのなかで、日本にとってもっとも恐れていた事態が進んでいることが判明しました。1899年、ロシアは朝鮮南部・釜山に近い馬山浦周辺に租借地を獲得し、購入していない土地にも所有権を示す杭を打つなど、海軍根拠地の建設をすすめようとしていました。
この地の地政学・地形上の重要さは、日露戦争開戦の数日前に日本海軍が強引に占領した事実からも明らかです。ロシア海軍も、開戦と同時にこの地の占領を予定していました。
この情報を入手した日本は、秘かに建設予定地内外の土地を買い集め、この計画を挫折させました。ロシアは韓国政府に抗議しましたが手遅れでした。
この事件は、日本国内でロシア脅威論を証明するものとして、ロシア脅威論をいっそう高めました。
なお、ロシアがめざしたのは本格的な基地ではなく、単なる補給施設にすぎなかったとの研究もあります。
「満韓交換」論の登場
かつて朝鮮北部の軍事的優越権をロシアに譲ることを打診した日本ですが、ロシアによる満州を「占領」後は、「朝鮮分割」や中立化でなく韓国の独占支配をめざすようになっていました。
ロシア軍が国境を越えて、朝鮮に進出する事に対する警戒心からです。
他方、日本は他の諸国と共に満州からの撤兵を強く求めつつ、各国の権益の保護を前提にロシアの優越権を認める姿勢も見せ始めていました。
日本が満州におけるロシアの、ロシアが韓国における日本の、それぞれ優越権を認め合うというやり方です。これが満韓交換論です。
両国の間の対立点は以下の点に収束していきました。
①満州の問題を日露で協議することへのロシアの反発。
②日本による韓国の独占支配について
韓国政府の独立性の確保、中間地帯設置とその内容
③満州における清の主権尊重
列国の権利尊重。ロシアの行動の制約。
この間、両国は提案と対案を出し合います。
ロシアは大国です。体面にもこだわります。強硬に出ても日本が全面戦争を仕掛けることはないとの過信もありました。そのことが、日本の動きへの感度を下げていました。
ロシアの中では、日本での緊張感が伝えられても、韓国(南部)への出兵ぐらいしかあり得ない。全面戦争を仕掛けることはないという根拠のない楽観論が充満しており、政府・皇帝の判断を遅らせ、先送りにする傾向がありました。
日本のメッセージを読み違え、サインを見落とし、文書の提示にも遅れを生じました。こうした問題が積み重なり、先制攻撃を受け、守勢に回る結果となったのです。
他方、日本では、マスメディアや軍部などの開戦論のまえに追い詰められる政府がいました。戦争への流れができつつありました。
鴨緑江開発の衝撃と「新路線」
皇帝専制国家であるロシアでは政治が個人のパーソナリティーによって左右されます。この時期のロシア皇帝ニコライ二世は逢う人ごとに気が変わるという移り気で軽薄なところのあり、その気分が政策を左右する傾向がありました。
なお、司馬はニコライが日本に対し侮蔑的な感情をもって、日本人を「猿」とよんだと記しますが、ニコライに好印象はありこそすれ悪印象はなかったと和田は記しています。
こうした皇帝専制主義のもと、皇帝に苦言を呈する人物、例えばヴィッテなどは嫌われ、根拠のない楽観論をふきこんだり、おべっかを使ったりして、皇帝のお気に入りになることで力を伸ばす人物も現れました。このような代表が、司馬遼太郎に日露戦争の主犯であるかのように描かれたベゾブラゾフです。こうした人物像は大江志乃夫(皇帝側近の極東利権主義者)や山田朗(冒険主義的な宮廷勢力)の見解ともつながります。これ対し、千葉功や和田春樹はやや異なった人物像を描きます。ここでは和田の研究をもとに紹介します。
1903年、ロシアが朝鮮北部・鴨緑江流域の竜巌浦に侵入・占拠し、軍隊にかかわる工事を始めたという情報が入ってきます。いわゆる竜巌浦事件です。日本では、ロシアがついに韓国に侵入を開始したかと大騒動になります。
この工事をすすめたのが下級貴族出身のベゾブラゾフです。かれはすでにロシアが獲得していた権益にもとづき、鴨緑江周辺の木材伐採を計画します。そして皇帝に接近、その寵をえて、退役軍人や満洲「馬賊」なども用いて事業を始めました。その一環が鴨緑江下流の竜巌浦での施設建設でした。
この地は日露対立の焦点の地でもあり、軍人も関係していたことから、両国の関係は緊張しました。
当初は利権目的であったベゾブラゾフですが、北京駐在武官ヴォーガクと知り合うことで、流れが変わります。ヴォーガクは、日本軍・兵の能力の高さと組織性に早くから注目し、それと戦うことの危険さを強く認識した大の「知日派」であることを和田は見つけ出しました。
ヴォーガクは戦争が始まると苦しいたたかいになることを見越し、「極東の軍備を強化して日本に警告すること」で戦争回避を図ろうとしたのです。そのため鴨緑江など国境地帯に強力なロシア軍を配置し日本の侵入を防ぐ、これが開戦熱に興奮する日本を鎮静化させ、開戦を回避する唯一の道と考えたのです。
この考えは、ベゾグラゾフを通して皇帝に示され、皇帝も興味を示します。この政策は「新路線」とよばれました。それにもとづき、組織再編と軍備増強が進められます。しかし不十分な形で。
ロシアの強大な軍事力を見せつければ、日本は攻撃意欲を萎えさせるはずだという、いわば「勢力均衡論」が戦争を引き起こしましたというのです。
「勢力均衡論」が対立しあう国々の緊張を高め、相手の意図を誤解させ、戦争の危機をいっそう近づけることは、こののちの歴史から見ても明らかです。ヴォーガク=ベゾブラゾフによる、日本との戦争を避けるための軍備拡張策が裏目に出たというのが、和田の分析です。
しかし「新路線」によるロシアの東アジアにおける軍備増強は、日本国内のロシアに対する警戒心を最高潮とし、開戦論が社会を覆い尽くす状況としました。
開戦論の高まり
戦争が近づくと、「戦争しか方法はない」「相手は悪者だ、正義は我にあり」「我々は強い。相手なんてたいしたことはない。敵の前の怖じ気づくのは卑怯者だ」といった乱暴な意見が湧き出します。
こうしたなかで、極端な開戦論を唱えたのが、いわゆる七博士意見書です。博士は、「末は博士か大臣か」いうぐらい希少価値があり、東京帝国大学教授たちが唱えたのでニュースバリューがありました。
その内容は危機感をあおりたて、開戦を迫る意見を「学問」的な体裁をとって主張したに過ぎないものでした。権威があるからといって安易に信じてはいけないというお手本のような代物です。
しかし、各新聞は立派な先生方のお墨付きのもらったとばかり威勢のよい記事をかきたてました。
こうして空虚で大言壮語する新聞が売り上げを伸ばします。マスメディアは暴走しはじめていました。戦争を煽る新聞が売り上げを伸ばし、冷静な判断をしたり、事実に即した現実論などを書いている新聞は売れなくなりました。
「万朝報」~非戦論から開戦論へ
日露戦争前、こうした風潮に、公然と対抗していた新聞がありました。
「万朝報よろずちょうほう」です。社長は「嗚呼無情」という名でユーゴーの「レミゼラブル」を翻訳したことでも黒岩涙香です。この新聞は、反政府・反体制を売り物に、政治家や華族たち「エラい人」のスキャンダルや特ダネ、暴露記事などで発行部数をのばす新聞、いまでいえば「日刊G」「週刊B」といった感じの新聞です。
キリスト者の内村鑑三、社会主義者の幸徳秋水や堺利彦などを記者として雇いいれ、「非戦論」をどんどん書かせました。内村を中心に読書会も組織します。
ところが、「万朝報」の発行部数は伸び悩み、非戦論への非難も高まります。こうした中、黒岩涙香は「日露戦争やむなし」いう方向に舵を切ります。
その後、数ヶ月間、開戦論と非戦論が紙面で同居するという奇妙な時期がつづいたのち、内村や幸徳・堺らは紙面に「退社の弁」という記事を書き、去って行きました。
こうしてマスメディアは、開戦論で埋め尽くされました。
平民新聞~幸徳秋水や堺利彦らのたたかい
万朝報を退社した幸徳と堺が、なかまたちと始めたのが平民新聞です。
そこで非戦論、反戦論を主張し、社会主義思想を伝えようとします。
平民社に集まった人びとは全国で行商をして新聞を売り歩きました。大口で注文し、知り合いに配布する人もおり、戦争開始後も一定数の読者をもちづづけます。
しかし、次々とうける発売禁止処分で、経営困難となり、最終的には「平民新聞」自身も禁止されます。しかし彼らは別の名前の新聞を発刊、反戦を訴え続けました。
よく人の尻馬に乗って大言壮語をはき、戦うことを勇敢とする風潮がありますが、厳しい弾圧に耐え、さまざまなやり方で戦争に反対し続けること、どちらが勇敢でどっちが卑怯なのか、よく考えてほしいと思います。
幸徳らの行動は、当時の支配者をかなりいらつかせていた思います。これが、のちに幸徳の悲劇につながります。
国民は本当に「熱狂」していたのか?
現在残された記録だけからみれば、多くの国民が熱狂的に戦争を支持していたようにみえます。残された史料の多さからついそう判断しがちです。しかし、実際は違ったのではないか、歴史家たちはある史料に注目します。
それは、当時すでに有力政治家であった原敬の日記、それも開戦直前の一節です。
「今日の情況にては国民の多数は心に平和を望むもこれを口外するものなく・・少数の論者を除くのほかは内心戦争を好まずして而して実際には戦争に日々近寄るものの如し」といった記述があります。
「民間の世論は、七部三部でありまして、戦争をしては行かぬという方の論が強かったのであります」との参謀本部員の回想もあります。
熱狂していたのは、戦争をあおりたてる軍部と一部政治家、戦争で儲けようとしているマスメディアだけではなかったのか、との指摘もあります。
テレビやラジオもなく、新聞などもそれほど普及していない社会において、戦争の熱狂は遠い存在でなかったのかとの指摘があります。さらに、有力者や大先生たちによる「開戦論」の大合唱の中、ひとびとは空気を読み、あるいは報復をおそれ「戦争反対」どころか「ちょっとまずいのと違う?」とすら言いにくくなり、内心戦争を好まないのに「口外」できなくなっていったようにもみえます。「気の弱い」人びとの声は、声高で凶暴な開戦論の前にかき消されていきます。
他方、開戦をもとめる声があまりに大きく過激になっていくと、政府すら、沈静化がさせるのが困難となっていきました。(この部分は井口和起「日露戦争の時代」を参照しました)
自分たちが「火をつけ」ておきながらコントロールが効かなり、「大火災」になるというのは、いつの時代、どこの世界でも、よくある話です。
皮肉な意味で「民主主義」化がすすんだともいえます。こうした声に、政治家は敏感です。
開戦へ
1903年4月、首相の桂は、外相の小村、元老の伊藤と共に、京都に山県を訪ね、対ロシア政策を協議します。さらに6月には御前会議を開き、元老や有力閣僚九人で日本の基本方針を決定しました。その内容は、韓国の一部たりともロシアに譲与しない、満州については多少の譲歩があり得るといったものです。日本はこの方針のもと、ロシアと交渉を進めます。
他方、軍部とくに参謀本部などに集まる中堅将校たちは、シベリア鉄道完成前に戦争を始めなければ手遅れになるといった声が高まります。
小村外相も朝鮮を完全に日本のものとし、合わせて南満州に進出するためには、戦争もやむなしと主張しました。小村にとっては、ロシアとの交渉自体に、開戦準備という性格があったといいます。
日本の最後通牒ともいうべき提案が出されたのは、1904年1月です。満州における他国の権益を保障する条件つきでロシアの優位を認め、韓国は日本の独占的支配におく、中立地帯設定は明記しないという内容です。日本はロシアがこの内容を呑まない前提で開戦の準備を加速させます。
しかし、ロシア内部では、1903年6月段階で日本による韓国独占(占領)を皇帝が承認、すでに問題は満州での優越権と国境地帯の中立地帯のありかたに絞られ、両者の意見の相違もかなり埋まっていたのです。とはいえ韓国に対してはこれまでのいきさつもあり対応に苦慮していました。
ロシアは、日本による軍事行動が近いとつかんではいましたが、全面戦争を想定したものは少なく、韓国占領、それも南部の占領にとどまると考えていました。実は、ニコライ自身もこれを期待していました。日本への強い抗議の意思を示せば韓国への言い訳にもなるからです。
開戦直前になって、ロシア政府はやっとこのメッセージを伝えようとします。韓国の独立と領土不可侵を前提としつつも、日本による韓国占領を容認、日本が満州で既にもっている権益は保障するがそれ以外はロシアの「勢力範囲」として認める、議論が対立する中立地帯設定問題は見送るという内容でした。
しかし、この回答は日本に届きませんでした。千葉功はこの情報が届いていれば韓国の犠牲の上にロシアとの戦争は回避できたのではないかと主張します。大江志乃夫も、ロシアの本心が伝わらなかったため、日本側の警戒感だけが肥大して開戦にいたったと説きます。
これにたいし、和田春樹はニコライの韓国占領容認は認めつつも、そのニコライが最終場面でも中立地帯の再交渉を命じたため、開戦の回避はやはり困難であったと主張します。他方、和田はベゾブラゾフが駐露公使に提示した露日同盟案に戦争回避の可能性があったとみています。それは小村外相に黙殺されましたが。
日露戦争の開始
ともあれ、日本側はロシアからの最終回答案を見ることなく、2月4日の御前会議で開戦を決定、軍事行動を開始します。
1904(明治37)年2月6日、午後4時小村外相は東京で駐日ロシア公使に外交交渉の断絶を通告、ペテルブルク時間午後4時(日本時間午後11時)駐露日本大使はロシア外相に対し、日露交渉の断絶を通知、開戦を意味する「独立の行動をとることの権利を保留す」との通告文などを手渡しました。
駐日ロシア公使はこれは開戦を意味すると理解、本国に連絡を試みますが、電報の送信は切断されていました。
他方、ロシア外相は通告文が開戦を意味することが理解できず、主要部分を欠落させた内容を皇帝や旅順など在外公館に伝えました。
これより先、釜山では守備兵が電信局を占拠、12時30分には日本軍艦は釜山に停泊中のロシア商船を拿捕します。午後4時には日本軍は朝鮮半島南部の鎮海湾を占領、馬山の電信局を制圧します。
日露戦争も韓国の主権を脅かす侵略行為から始まりました。しかも韓国は中立を宣言していたにもかかわらず。
ロシアとの戦闘が始まったのは、2月8日韓国・仁川港での軍艦同士の砲撃戦です。並行して仁川への陸軍の上陸も開始されました。
さらに深夜11時30分旅順港に侵入した日本の駆逐艦がロシア艦船に魚雷攻撃を開始、日露戦争は始まりました。
宣戦布告はロシアは2月9日、日本が2月10日通告します。
なぜ日露戦争は始まってしまったのか。
ではなぜ日露戦争は始まってしまったのでしょうか。
千葉功は、日露の期待するスピード感の違いと、交渉相手国の意図の誤解をあげています。これを参考に考えてみたいと思います。
(千葉功『旧外交の形成』2008)
一つ目はシベリア鉄道建設の進捗状況とかかわります。鉄道が完成すれば、ロシアは軍隊の移動が容易となり、大軍を送り込むことが容易となります。参謀本部はそうなると勝ち目はないと考えました。軍部とくに陸軍が早期決着にこだわったのはこうした事情でした。ロシアの本国から大軍が来る前、数的に有利なうちに決戦を挑み、決定的な勝利を得る、それが陸軍のねらいでした。
したがって、交渉で決着するにせよ、戦争を始めるにせよ、早い決着が必要だったのです。
ロシアからすれば、鉄道が完成すれば軍事力で日本を圧倒できるのだから急ぐ必要はない、交渉が長引けば長引くだけ、鉄道も完成にちかづき軍備増強も進みます。
それ以上に日本から戦争を仕掛ける、しかも全面戦争を開始するということは想定外でした。したがって、急ぐ必要もなく、有利な条件を獲得するようゆっくりと交渉を進めればよかったのです。
二つ目について、日本は、ロシアには朝鮮を支配しようという野望があると主張し続けてきました。
それはイギリス経由の情報によって生み出されたものであり、長年、「万国対峙」における仮想敵としてロシアを想定してきた経過からくるものでした。脅威を唱え続ける内に、いつのまにか現実の脅威のように感じられはじめました。日清両国への対抗上、朝鮮がロシア接近をすすめたことも危機感を高めました。
他方、ロシアにとって朝鮮は、海軍による基地建設以外では、あまり興味を引く対象ではありません。したがって、朝鮮に強い関心と興味を持つ日本とは異なり、消極的な対応をしがちであり、日本の優位を認めることに躊躇は少なかったといえます。とはいえ、援助を求める朝鮮(韓国)を見捨てることは大国ロシアとして困難でした。だからこそ、ニコライは日本軍による韓国の占領を期待したのです。
こうしたロシアにとって満韓交換は受け入れ可能な提案であり、あとは満州におけるロシアの優越権を十分に保障させることでした。そしてもうひとつが日本軍が満州に攻め込まないという保障でした。これが国境線に中立地帯を置くことをロシアが固執した理由であり、鴨緑江周辺でのロシア軍の軍備増強の意味でした。
しかし、同じ行動を、日本内部では韓国への侵入の足場をつくることと考え、その開始と捉えました。「利益線」である朝鮮半島の危機と考えたのです。
両者の間で、歴史的に形成された誤解が、相手方の意図の読み違いを生みました。その結果、日本側は、ロシア側の判断の遅れは交渉引き延ばし策であり、妥協の意思はないものとして判断、日露交渉を中断して、軍事決着に踏み切ったのです。
しかし、外相小村は、満韓交換論だけでなく、満州への勢力圏拡大をも考えていました。これにしたがい、韓国の確保を確実なものとしつつ、満州への進出をめざす戦略をたてていました。小村は、戦争が始まれば主戦場が南満州となることは明らかであり、戦いに勝利すれば満州進出の展望が生まれると考えてました。こうした面を隠しつつ、開戦を主張したのではないかと考えられます。
ともあれ、日露戦争は避けられたのではないか、あえて戦争する必要があったのか、など、研究者は考えています。
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※本稿は2020年6月にUPした新版です。
2016年度版「日露戦争(2)ロシアとの対立激化」(旧版)は
以下のリンクから見ることができます。
※2022/07/21加筆訂正を行いました。
※写真版のうち、注記のないものは海野福寿『日清・日露戦争』(集英社1992)のものを用いさせていただきました。
※全体として参照した文献
和田春樹『日露戦争~起源と発生』(上・下)
井口和起『日露戦争の時代』