明治初年の外交(2)江華島事件と琉球処分

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明治初年の外交(2)江華島事件と琉球処分

おはようございます。
前回のつづきで、明治初期の外交についてみていきます。

東アジア国際秩序と「小中華」、欧米列強

古い時期から東アジアの諸国は、中国という巨大な存在を中心とする政治的・文化的影響下にあったという話をしました。支配されているか、そうでないかというデジタルな感じじゃなく、80%は独立しているけど、20%は中国の家来というようなアナログな形で中国の支配を受け入れているところが多かったのです。
ところが、こうした秩序と違う原理をもった欧米諸国が乗り込んで来ました。それをうけ西洋化をめざす日本が、欧米的な国際秩序(「万国公法」)に立脚して国境線を画定し、独立した主権国家同士の国際体制を考えたのです。
明治初期の外交と国境の画定 東京書籍日本史AP57
明治初期の外交と国境の画定
東京書籍日本史AP57
ところが日本人の頭の中には「小中華」とでもいうような世界観がありました。儒教とくに朱子学を日本化した「天皇を抱く日本こそが世界の中心であって、朝鮮や満州、台湾、そして琉球などは一段下にある」という世界観です。
これが「欧米キリスト教社会が遅れたアジアなどの未開・野蛮の国を文明化する、だから欧米がアジア諸国などを植民地化するのは文明人としての義務だ」といった欧米列強のもう一つの世界観と融合しはじめます。欧米列強の国際秩序の矛盾した二つの立場を、日本もいつの間にか受け入れていったといえます。

征韓論争

では、前の時間のつづきを始めます。
前の時間では、岩倉使節団が海外に行っている間に、西郷を中心とする留守政府で征韓論が高まり、西郷が朝鮮に派遣される寸前まで言っていたこと、それを帰国した岩倉が大久保と組んで拒否、征韓論派がそろって辞職をしたという話をしました。
こうしたことから、教科書などでは西郷らを征韓論派でタカ派大久保らは内地優先派でハト派という枠組みでくくることが多いようです。でも、本当にそうなのか、という話から始めます。
 ちなみにタカ派、ハト派ってわかります。タカは肉食ですから軍国主義的、ハトは平和の象徴ですから平和主義的という意味ですからね。でも、実際のハトは、フンは落とすし、エアコンのカバーは食いちぎるし、いつの間にか巣を作って卵を産んだりするマンション住民にとっては、とっても迷惑な生き物です・・。すんません。グチをいってしまいました。

江華島事件の発生

明治8(1875)年、朝鮮である事件が起こります。朝鮮の首都漢城、今のソウル、を流れる漢江が海に注ぐところに江華島という島があります。
江華島 図説日本史通覧p212
江華島 図説日本史通覧p212
首都への入り口にあたるんだから、軍事的にも最重要拠点で、日本で言えば、東京湾の入り口、浦賀にあたる場所です。

 そこに日本海軍の雲揚という軍艦が近づき、領海内に侵入、海の深さを調べ、さらには川をさかのぼり始めます。イメージでいえば、相手の顔に顔を近づけて「殴れるものなら殴ってみろ」と挑発するようなやり方ですね。めっちゃイカツイですね。

東京書籍日本史AP56
東京書籍日本史AP56
やり方はペリーと似ていて、まねをしたのかもしれません。でも、こっちの方がはるかに悪質です。朝鮮側の砲台が発砲すると、雲揚も反撃、砲台を占領・破壊したという事件です。これを江華島事件といいます。

日朝修好条規(江華条約)の強要

江華島事件をうけ、日本から使節が派遣されます。日本は、さらに軍艦を派遣して圧力を加えるなど強硬な姿勢で交渉に臨み、翌年には日朝修好条規(江華条約)を強要、朝鮮を開国させます
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江華島事件~「勝手に海を探っただろう!」「撃ってきたから悪いんだ」(せいと
領事裁判権が認められたほか、日本の輸出入には関税がかからない、開港場では日本貨幣の使用を認めさせるなど、日本が列強と結んだ条約よりはるかに過酷な内容でした
雲揚の行動は、日本の外務省も関与した意図的・計画的なもので、朝鮮を開国させ、日本に有利な条約をおしつける目的だったと言われます。同時に「征韓論」をつぶしたことで不平をもった士族の反発をおさえる意味もあったとも言われます。開国しない朝鮮にいらだつ欧米列強のかわり日本がしたともいえます。
なお、江華島事件の話を聞いた西郷は「なんという卑怯なやり方をするのだ」と語ったと言われています。
こうして、日本は朝鮮への大国主義的な介入を開始、大陸進出の第一歩を歩み出します
実は、大久保政権はこれに先立つ明治7(1874)年、近代日本の最初の対外出兵である台湾出兵も行っています。

琉球王国、三つの可能性

前の時間で、国境画定の時、保留しておいたのが南西諸島方面、つまり琉球・沖縄方面の国境線でした。南西諸島、現在の沖縄県の場所には、琉球王国という国がありました。すでに見たように、琉球王国は、中国・清の属国である一方、日本の薩摩藩の属国でもあるという両属状態にありました。
19世紀後期、琉球王国は、①日清両国からの自立を図り近代主権国家をめざす、②清の支配下にはいり日本との関係を弱めていく、③日本領となる、こうした三つの可能性がありました

琉球王国について

琉球王国について復習します。
琉球王国は、室町時代の足利義満の頃、沖縄本島の三つの国を尚巴志(しょう・はし)という人物が統合する形で建国した王国でした。そして、中国(明)との間の主人と家来という関係(朝貢関係)をもとに、中国と東アジア諸国とをむすぶ世界の架け橋」として繁栄しました。ところが、江戸時代初期、家康がまだ生きている頃、薩摩藩が幕府の許可も得て、琉球を攻撃、北側の奄美諸島を取り上げて薩摩藩領とし、それ以南の琉球王国を薩摩藩の属国にします
本来なら、薩摩藩は琉球と中国との関係をやめさせるようなものだけど、琉球の収入の源泉は明との貿易なので、「琉球はこれまで通り明(滅亡後は清)の属国として朝貢関係を維持させ、その収益を薩摩藩がごっそりといただく」。明が怒るとまずいので、琉球王国が薩摩の属国になったことは秘密、こういう作戦をとりつづけます。

琉球はどこの国のもの?欧米との条約締結

前の時間のいい方をすると、琉球王国は中国の家来30%、薩摩藩島津家の家来30%、独立国40%、というような感じですね。前も言ったけど、この数字に根拠はないので、念のため。
図説日本史通覧p156
図説日本史通覧p156
 では「琉球はどこの国のものでしょうか?」。
琉球王国という独立国ともいえるし、中国の一部ともいえるし、島津藩が属している日本の一部ともいえる。
それぞれの国が権利を主張できます。
だから、結局はその時の力関係次第といういい加減で生臭い結論となります。
こういう曖昧さの上に立っていたのが東アジア的な国際秩序ですし、それを欧米的基準にしたがって国境を画定しようとするためさまざまな摩擦が生じるのです。
とりあえず、幕末段階でアメリカやフランス、オランダは琉球王国を独立した主権国家と認め、琉米修好条約などの条約を締結しました。

明治政府による琉球編入の動き

ところが、薩摩藩を吸収した明治政府は、日本領の確定に際し、「琉球王国は日本のものだ」と張し国境線の中に囲い込もうとします。しかし、中国(清)も、琉球王国も、おいそれと認めるわけにはいきません。
琉球を日本領とするためには二つのことが必要です。一つは琉球王国の人たちに琉球は日本の一部だと認めさせること二つ目は清に琉球は日本領と認めさせること。この二つです。
一つ目に関して、琉球王国はこれまでからも薩摩藩の軍事力の下に置かれ、しかも武装解除されていたので拒みにくい。そうしたなかで、1872(明治5)年、新政府は琉球王国を琉球藩とするという命令を出します。廃藩置県で藩を廃止するのに、沖縄だけはあらたに「藩」を置くことにしました。
藩というのは「地方政権」ということだから、ある意味、これまでの琉球国王の支配はつづくということですが・・・。そんなにうまくいかないことぐらい、わかりますね。

「台湾出兵」

二つ目の清との関係について、明治政府は一つの事件に注目しました。1871(明治4)年沖縄本島から宮古島に戻ろうとした使節、もちろん琉球人です、が台湾の先住民に殺されたという事件です。琉球漂流民殺害事件といいます。
明治政府は清に申し入れます。「日本人である琉球人が、清の領土である台湾で殺された。どう対処するのか。」こんな言い方です。かなり乱暴ですねね。
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「琉球王国の住民は日本人!!だから・・」(生徒のノートより)
やった人たちは清の命令の及ばない人(「化外の民」)だから責任を負えない」と清が答えると、政府(リーダーは大久保だ)は「それなら化外の民が住むところは中国領土ではない(「化外の地」)のか。では直接話をつけよう。どさくさ紛れに領有できるかも」と台湾に軍隊を派遣する計画を進めます。
征韓論の直後で、不平士族のガス抜きにちょうどいいし、列強も支持してくれると思ったみたいです。ところが政府内部からも、外国からも反対が続出、大久保らはあわてて中止しようとしますが、出兵の準備を進めていた西郷従道(つぐみち)、隆盛の弟、は命令を拒否、強引に出発しようとし、政府もやむなく出兵を認めました。これを台湾出兵といいます。
西郷従道西郷隆盛の実弟。西南戦争においては政府側の残った。のちの元老の一人。
台湾出兵、これは固有名詞として押さえておいてよ。近代日本が、最初に海外を攻撃した事件ですからね。
軍隊が勝手な行動をし、政府が追認するという、敗戦まで限りなくつづくガバナンス能力の欠如した戦前日本の原風景のような事件です。
よく考えれば、大久保を始めとする当時のリーダーたちは、こんな風なわがまま勝手、独善的なやり方で幕府を倒し、政権を奪ったんだから、「正しいと思えば命令なんか聞かなくていい」というやり方に慣れっこだったのかもしれませんね。

「琉球処分」

しかし、昭和の政治家たちと違って、明治の政治家は後始末だけはきっちりつけます。大久保はさっそく清国へ渡って、イギリスの援助もうけ、持ち前の強引な交渉能力でおしまくります。最初は清も強硬で、大久保は清との戦争も覚悟し、徴兵軍だけでは足りないので士族軍の編成も準備し始めていました。早くも日清戦争がおこっていた可能性もありました
しかし、清は急に折れ「日本がやったことは正当である」という対応をしました。列強は「引きすぎや!」と思ったとのことです。
日本側は、これを清が琉球への支配権を放棄し、清が琉球を日本のものだと認めたと理解しました。
琉球処分関係図 東京書籍日本史AP56
琉球処分関係図 東京書籍日本史AP56
 これをうけ、日本政府は、琉球の編入工作を本格化、清への朝貢の廃止などの命令を次々と発します。
琉球側がなかなかいうことを聞かないと考えると、明治12(1879)年軍隊と警察官を派遣して「廃藩置県」を命令、琉球王国(藩)は滅ぼされ、沖縄県が置かれることになしました。こうした一連の出来事を琉球処分といいます。

「旧慣温存」と対清交渉

 補足的に二つのことを話しておきます。
一つは、琉球処分のやりかたを、すべての沖縄の人が反対していたわけではないことです。琉球王国の政治は、薩摩藩の過酷な要求もあって、庶民にとってかなり過酷でした。とくに本島以外の離島の支配は厳しいものでした。そのため、庶民のなかには日本に編入されれば王国の苛政から逃れられると考えた人もいました。しかし、こうした人たちは明治政府に裏切られます。政府はいったん琉球を日本領に組み込むと「あとは好きにやって」とばかり、旧慣温存策、かつての王国時代の支配者たちに統治を丸投げします。過酷な統治はつづき、「世直し」期待した人たちの思いはかないませんでした。
他方、琉球王国(藩)の廃止、日本領併合を許せないという人たち(主に王国支配層)は、清の力をかりて琉球王国復活、あるいは清領への編入をめざします。清もこうした動きを受け、さらには江華島事件のやり方への反発もあって、日本にたいして厳しい態度をとります。
琉球帰属問題 図説日本史通覧p209
琉球帰属問題  図説日本史通覧p209
 こうしたなか、清の願いを容れたアジア旅行中のアメリカのグラント元大統領が、沖縄を分割し宮古島や石垣島など先島諸島を清に譲るという妥協案を提示、その線で話がすすみますが、日清戦争につながる両国間の対立もあり、最終結着はつきませんでした。世界遺産の西表島も、石垣島や宮古島も、現在問題になっている尖閣諸島も中国領となる寸前でした。しかし1894~95年日清戦争が発生、琉球処分は確定しました。

沖縄近現代史と「琉球独立」論

現在、琉球・沖縄の人の中から、琉球処分の正統性を問う意見がでています。清や薩摩に朝貢していたとはいえ、基本的には琉球王国は独立国だったし、だからこそアメリカやフランスなども欧米的国際秩序(「万国公法」)にもとづいて独立国と認め、正式に外交条約を締結したのです。だから日本が、一方的に自国領だと主張し、琉球の人の意思を無視するような形で、日本領にしたこと自体、国際法的に問題があったというのです。
そして、日本編入後もフルスペックで日本国民の扱いをしたのかといえば、NO!です選挙権が与えられたのも本土より大きく遅れるし、学校では方言札を使うなどの方法で沖縄のことばを奪おうとしました。ある博覧会で生きている琉球の人を「標本」として「展示」したという事さえおこり、大問題となりました。いうまでもなく人間を展示するという行為自体、決して許されないことです・・。残念ながら、それが当時の日本人の人権意識だったのです。
このように、戦前において、植民地に準じる存在として琉球・沖縄を扱っていたことは明らかです
アジア太平洋戦争では、本土決戦を遅らせる時間稼ぎに沖縄を利用し県人口の1/4が犠牲とされました
戦後、日本が独立したときは沖縄を日本から切り離して米軍の支配下に置きざりとし、本土で米軍基地反対運動がおこれば本土の米軍基地を沖縄に移しました。現在では日本の米軍基地の85 %が沖縄に集中し、さらに質的に拡大されようとしています
現在の琉球独立論 松島泰勝は龍谷大学教授
 こうした歴史と現状を見て、本当に本土の人は沖縄を日本と考えているのか、そう考え始めた人も多いのです。そして、一部の人たちは考え始めました。「本土の人たちがそういう考えなら、沖縄は独立する権利があるんじゃないか。」と。そして独立した沖縄がアメリカと交渉し基地撤去を進めるべきだと。こういう琉球独立論がじわりじわりと広がってきています。
歴史は過去のものではなく、現在につながっています
では、今日はこのあたりでおわりにしましょう。

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