明治初年の外交(1)国境線の画定と征韓論

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明治初年の外交(1)国境線の画定と征韓論

明治初年の国際関係

おはようございます。
今日は、明治初期の国際関係と外交について勉強していきたいと思います。
この時期、いくつかの外交上の課題がありました。
一つ目は、最終的には、明治時代全部を使ってやっと実現することになる条約改正の問題。この点は、前回やりました。岩倉遣欧使節団が派遣されたけど、失敗に終わった話。グローバルスタンダードのカベに跳ね返され、「おまえが条約改正に値する国になってからいってこい」といわれた話でした。

国家と東アジア的国際秩序

 二つ目の課題、今いった話につながるけど、日本が、みずからを欧米型の国家に変更しようとしたことから発生した課題です。
このような欧米型の国のあり方は、これまでの東アジアの国際秩序と大きく異なるもので、さまざまな摩擦をおこすものだったからです。
<国家とは>
急に難しい話をします。
「国」、正式には「国家」とはどういうものか、うまく説明できるかな?・・・・・。
国家とは「一定の領域をもち、その中で同じルールが適用しうる統治機関をもつ組織」という感じかな。
古代の都市国家だったら、都市(城壁の中)だけで、同じルールが適用される。城壁をでると、まったく別の世界です。
ところが、アレクサンドロスさんとか始皇帝とかいった強い王さんがでてくると、その支配地域ではその王さんの命令が通用する世界となる。そしてローマ帝国や中国の漢とか唐といった国は、世界帝国といわれるように、非常に広い範囲でその国のルールが適用されるようになります。だからといって、そのルールが支配地域の隅々まで伝わっていたわけじゃない。主人の命令を聞きながらも、かなりの部分はローカルルールがつかわれます。

清帝国による国際秩序=「中華帝国」

東アジアで考えてみましょう。
中華思想における世界のイメージ(Wikipedia”万国公法”より)
 17世紀中期以降の清で考えると、中国大陸の中心部では皇帝の命令が100%近くいきわたるが、周辺になるとその割合が低くなります。チベットやウイグルといった藩部といわれたところは、間接統治ということで基本的には勝手にやってるけど、たまに中国側がなんか言って行ってくるので30~50%というところかな。朝鮮やベトナムなんかは形式的には属国とされているので10~30%位かな。一応、あいさつ程度に「家来になりました」という手紙をおくっただけの地域、とくに東南アジアに多いけど、1~10%という感じ。そうそう、マカオのポルトガル人も朝貢している、皇帝の家来だった。何%だろうね。
東アジアの国際秩序のイメージ
ちょうど虹の濃さが中心部から離れるにつれてだんだん薄くなっていくように、中国の影響力には濃淡の差があったのです。中国という恒星とその引力圏にある惑星というイメージでもよいかもしれないですね。
日本のそばでいえば、17世紀前半に清の侵略をうけ属国となった朝鮮は王の位をもらっているから10~30%くらいかな。琉球王国も、王という称号をもつ属国だけど、朝鮮より依存度が高そうだから20~40%くらいかな。台湾は直轄領だけれど、「化外の地」ともされるから、やはり60~20%という風に幅が広そうですね。(なお、ここで使っている数字は根拠もなくいっているんだから無視してね。)
こういうふうに、アジア東部の国々は、中国「清」王朝の家来といえば家来、独立国といえば独立国、という中途半端な状態に、すこしずつニュアンスを別にしながら存在していました

東アジアの「小中華」

中国と周辺の関係は、東アジア諸国でも借用されます薩摩藩と琉球王国、朝鮮王国と対馬藩、それぞれが主人と属国、といった風に。さらに日本国内の幕府と藩の関係も、この関係を借用したともいえますね。
現在の中国が、かなり広い範囲を自分の領土であると主張するのは、こうした影響力を持っていた地域を目一杯、中国のものだと主張しているからともいえそうですね。
韓国の困った人たちも、現在の中国と同じ理屈を使う。対馬藩は、朝鮮との交易を行うために、朝鮮国王の「家来」という形式の朝貢を行っていました。さっきのいい方なら5%程度、家来だったといえるのかもしれない。ちなみに幕府と対馬藩なら50%程度の支配というところかな。ところが、困った人たちはこの5%をさして「対馬も韓国のものだ」といったりします。どこの国にも困った人はいるものです。
江戸時代後期には、日本を「小中華」と考え、朝鮮や琉球、さらには蝦夷地をも、一段低い国と考える学者たちも出てきていました。吉田松陰もこうした一人です。こうした意識があとでみる征韓論の背景にありました。
19世紀前期までの東アジアは、中国=清帝国を中心とする現在の国際秩序とは違った国際秩序(中華帝国とか華夷帝国とかいいますが)のなかで生きていました。
こういった前近代の東アジアでのルールを21世紀にもってくるのは無理があるのはいうまでもないんだけどね。

中国文化による日本「支配」~漢字・漢文文化

 清の時代、日本と清の間で国際関係における上下関係はありませんでした。秀吉の乱暴なやり方を見た「明」が幕府の朝貢を拒んだという説もあります。しかし文化的には明らかに中国文明の引力圏にいました
中国の文化的引力の源泉が漢字文化=漢文です。じつは20世紀以前、中国人同士が話し言葉で意思を伝えることはできませんでした。それは明治前半の日本でもおなじです。
ここでは中国についてみていきます。ではなぜ中国では2000年以上もまえから、中国としての一体感を持ち、巨大な官僚国家を維持できたのでしょうか?
その隠された秘密が漢文です。しゃべり言葉は通じなくとも、漢文を見れば、意味が通じるという関係があったのです。おなじことが中国と朝鮮・日本の間でも通用します。明治前半までの日本でも、書き言葉で話が通じたのです。
日本ではレ点などをうって漢文が読めるようなっていますが、ある意味で漢文の正しい読み方なのです。漢文は中国語の形をとった日本語です。漢文は中国語だから、教える必要がないなんて人がいますが、あまりにも恥ずかしい主張です。中国の皇帝からすれば、どの民族がどんな形で読んでも、意味が通じる事が大切だったのですから。
同じ関係が中世ヨーロッパのラテン語でも通用します。ただラテン語を読める人間は聖職者などほんのわずかだったのに対し、漢文は東アジアの圧倒的な数の人が、なんらかの形で読めました。中国文化の影響力は非常に深く根付いていました。
日本は、政治的には独立していましたが、漢字という共通語と漢文という教養の面では中国文化の引力圏にいました。広い意味の中華文化圏、東アジアの国際秩序のなかに組み込まれていたのです。

近代的欧米的国際秩序の導入

明治以降の日本は、こうした東アジアの国際秩序を否定し、近代的欧米的国際秩序をアジアにおいて打ち立てようとしはじめました。それが本日の課題です。

まず、近代の、正式にいえば欧米的な国際秩序についてまとめておきます。現在の国家は「主権国家」といういい方がされます。「国境できっちりと区切られた領土をもち、その中ではほかの国に口出しされることなく独占的に統治を行う国家であり、それぞれの国同士は互いに平等である」という国家のあり方です。こうした国のありかたが17世紀以降、互いに国境を接したヨーロッパで生まれました。

主権国家体制の考える世界像(Wikipedia「万国公法」より)
 こういった国際秩序は、ながく欧米諸国のあいだだけで適用し、欧米先進国以外にたいしては右の図のような基準が適用されていました。
この考え方にもとづき、未開国は植民地として文明の恩恵を与えるのが、文明国たる欧米諸国の役割と考えていたのです。鼻持ちならない考え方ですね。
「追いつけ、追い越せ」と先進国への道をめざす日本は、東アジアで先頭を切ってこの欧米先進諸国のルールを、先進国が欧米以外で行う「このルールに反したやり方」にも学びながら、実現しようとしました。
 その結果、どのようなことが起こったのでしょうか?

国境線の画定

近代主権国家は今、見たように「国境できっちりと区切られ」ることが出発点となります。だからこれまでのようなあいまいな国境でなく、しっかりと国境線を引く必要が出てきました。
つぎに、近代主権国家として、中国や朝鮮などまわりの国との関係を調整する必要も出てきます。さらに中国の属国でもありながら日本の一部薩摩の属国であった琉球王国との関係をどうするかという問題もでてきます。

小笠原諸島の編入

まず国境線の画定ということから見ていきましょう。
一つ目は東南方向での国境線です。ここで課題となったのは小笠原諸島です。この地は17世紀以来、日本人が存在を確認、調査をしてきて「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれていました。
19世紀になってやってきた外国船がこの地に寄港するようになりイギリス人やハワイ人などが植民を始めていました。
明治初年の国境線の画定 「詳説日本史」p274
明治初年の国境線の画定  「詳説日本史」p274
この当時の国際法では誰のものとも決まっていない島は発見した国のものというルールができており、(とんでもない勝手な理屈ですね)イギリスやアメリカなどが,自らの領土としようと考えていました。
ペリーは浦賀来港に先立って、小笠原諸島へ来港し、この地の領有をめざしています。これを知った幕府は、林子平の「三国通覧図説」フランス語版!にはっきりとこの島の存在が記されているとして日本の主権を主張、ペリーもこれを認めました。
その後、移住していた住民の理解も得、(つまり日本人になってもらって!)明治9(1876)年、日本の統治を世界に通告しました。
なお、太平洋戦争中、島民は日本軍によって退去を命じられます。 1945年の敗戦後、小笠原諸島はアメリカの占領下に置かれ、先祖がハワイや欧米から渡ってきた人の子孫だけが島に戻ることを許されました。旧島民が島に戻ることができたのは1968年の小笠原返還ののちのことでした。

千島樺太交換条約

次は北方、北海道の北東に連なる千島列島と、北の樺太(サハリン)島をめぐる国境線。
1853年ペリーにつづいてロシアのプチャーチンがやってきて、日露和親条約で、千島ではエトロフ以南を日本領、ウルップ以北をロシア領とする。樺太は日露雑居の地として国境を定めない、という二点が定められました。
明治になって、新政府は樺太の開拓も進めようとしましたが、現在の北海道(蝦夷島)すら開拓がすすまないのに、樺太までは手がまわらない、下手をすれば北海道も危ないと考え、明治8(1875)年の千島樺太交換条約樺太の領有権を放棄、代わりに千島全島を日本領とするということで合意しました。
今こんなことをしたら日本の領土を簡単に引き渡したとして、売国奴呼ばわりされることは確実でしょうね。
こうして、二つの国境が画定します。しかし、もう一つの国境、南西諸島・琉球は簡単にはいかなかった。この部分は次の時間のメインテーマの一つとなるのでおいといて、別の点を見ましょう。

日清修好条規の締結

先に見たように、当時の日本は近代国家を目指し、周辺諸国とも近代的な国交を結ぼうと考え、明治4(1871)年清との間で対等平等な日清修好条規を結びました。関税についてはいいとして、領事裁判権は難問です。
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日清修好条規「お互いに治外法権にしよう!」(生徒のノートより)
どちらも、相手の国の人を自国で裁判し、刑罰を与えるなんてリスクは負いたくない。ということで、面白いことが決まりました。両者ともに領事裁判権を認め合うことにしたのです。中国で日本人が犯罪を犯せば日本が、日本で中国人が犯罪を犯せば中国が、それぞれ裁判をすることとした。たしかにこれなら対等平等です。こうして、日本と中国の間の第一歩はとりあえずうまくいった・・・のですが。

「小中華」朝鮮と日本の対立

日本は朝鮮にも国書を送りました。
「日本は新しく天皇中心の国になった。今後ともよろしく。」といったような内容の文書です。ところが、朝鮮はこの国書の受け取りを朝鮮側が拒否します。日本では、無礼な態度だという声が高まりました。
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征韓論~「何が天皇だ!」「なぜ返書をしない!」(生徒のノートより)

実は、朝鮮も海禁(鎖国)政策をとっており、開国を求めるアメリカ船やフランス船と戦って追い返す攘夷政策をとっていました。朝鮮の側からすれば「自分たちは頑張ってるのに日本は開国・開港するとは何事だ!そんな奴とはつきあいたくない」というところです。それ以上に反発をかったのは日本からの手紙の形式です。とくに」の文字です

朝鮮は儒教・朱子学を厳格に守る国です。本音では満州族という「夷狄(いてき)」(=異民族)がたてた清よりも、日本よりも、正しい朱子学が伝わっている朝鮮の方が偉いと思っています。戦いで敗れたのでやむなく属国になり、「国王」という称号に甘んじている国です。そこに、朝鮮側からすれば、本音では軍人が支配する文明的でないが、がまんして対等と考える日本から宇宙で一人しか使ってはいけないはずの「皇」の字を用いた国書が届いたのです。「これでは日本が朝鮮よりも上となるではないか」と、上下関係に厳しい儒教の国、朝鮮は思ったのです。
ではなぜ江戸時代はなぜうまくいっていたのでしょうか。江戸時代、日本は将軍を指す「大君」という呼び名で朝鮮と対応していました。「国王」と「大君」の間ではどちらが上かは問う必要がなかったのです。
幕府からすると、琉球からやってくる使者と同じようなものがやってくるのだから日本が上だと考えていました。逆に、朝鮮からすると非文明国日本人に自分の国を踏ませないから上なのだと考えました。このような互いの異なる両者の判断によってバランスをとっていたのです。
しかし、さきにみたように日本での「小中華」的意識が高まるなか、膨大な経済負担もあって、幕府も高踏的な対応を取り始め、1811年の最後の通信使に対して江戸ではなく対馬で応接します。そしてそれ以降の外交関係は途切れました。
そして、久しぶりに発せられた日本の国書に「王」より上の「皇」の文字が使われたのです。開国した日本に反発していた朝鮮は、日本が朝鮮より上だといいたいのだと感じ、国書の受け取りを拒否したのです。

征韓論の高まり

こうした朝鮮の対応は、朝鮮に対し優越的な意識を持っていた日本側の怒りを引き起こしました。「無礼だ」というのです。本音は「これは利用できる」と思ったのかもしれません。「無礼な態度をとる朝鮮を懲らしめろ」という声が高まり始めます。こういうして生まれた考えが「征韓論」です。
なぜこのような話が出たのでしょうか。倒幕以降の変革は日本国内に大きなストレスを与えました。このストレスを、朝鮮と戦うということで解消し、日本国内をまとめることができると考えたのだといわれています。とくに、廃藩置県以後、実態として存在意義を失っていた士族を日本軍として派遣し、朝鮮で戦わせることでプライドを取り戻させ、ガス抜きをはかるという説明が一般的です。しかし「欧米列強にやられっぱなしなので憂さ晴らしに弱そうな奴をいじめて気分を紛らすか」なんてのが、一番近いかもしれませんね。吉田松陰も、列強との対抗上、朝鮮や「満州」等に進出すべきなんてことをいっていたのですから。
このような話、前もしませんでしたか・・・?。
そう、豊臣政権末期。秀吉の朝鮮出兵。戦闘モードから平和モードに移行する過程で、巨大化した軍事力を大陸進出に使おうとした出来事、これと似ていませんか。
こうした議論が広がっていたのが、岩倉使節団の留守政府。
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西郷隆盛(エドアルド・キヨッソーネによる想像図)
 西郷は乗り気になって、「自分が朝鮮に乗り込んでいって挑発する。そして殺されたら、軍隊を送り戦えばいい」なんてことを言い始めます。
西郷の本音はいったいどこにあったのか、議論は分かれます。西郷は持ち前の率直さで「話し合えばわかり合え協力しあえると考えていたのだ」侵略者でなく平和主義者だと主張する研究者もいます。
ただ、西郷は「あんなに多くの仲間の死で実現したのがこんな日本なのか」という思いが強く「死に場所」を探していた節があります。こうしたニヒリズムは木戸にも共通するみたいです・・。
このあたりが大久保や岩倉との人間性の違いかもしれませんね。

明治六年の政変

とりあえず、明治6(1873)年には、留守政府のメンバーの多くが、それぞれの思惑もあって西郷の派遣に賛成し、あとは天皇に伝えて了承してもらう直前までいきました。この段階では、西郷が大好きだった明治天皇もOKといっていたかもしれませんね。
そこに岩倉が帰ってきます。岩倉は、西郷との対立を避けている大久保に発破をかけ、対決をせまります。親友西郷と戦いたくない大久保も腹をくくり、閣議の席で激しい議論を繰り広げます。
こうしたプレッシャに耐えきれなくなった議長役の三条実美が倒れます。代理に任命されたのが岩倉です。岩倉は独断で、西郷の派遣を認めず天皇の許可も取り付けます。これに反発した征韓論を主張していた留守政府のメンバー~西郷隆盛、板垣退助、江藤新平たちは辞表をたたきつけて出ていきます。これを「明治六年の政変」といいます。「征韓論論争」ともいいます。

土肥勢力の没落と薩長出身者への権力集中

幕末から明治前半にかけて、維新の三傑西郷・大久保・木戸の三人を中心に話がされるのですが、こうした場面では公家・岩倉の決断が決定的な役割を果たします。岩倉は三人がつづけざまに死んでいくという厳しい状況のなかでも生き続け、リーダーシップを発揮して生き続けます。
こののち、使節団から戻った大久保利通が権力を集中、伊藤博文や大隈重信らとともに「殖産興業」政策を中心とする政策を進めます。
大久保利通 サンフランシスコにて撮影したもの
政変で辞職したメンバーは西郷をのぞけば土佐藩・肥前藩出身者ばかり。征韓論争は政府部内の薩長対土肥の権力闘争の性格を持っていた節もあります。
とくに征韓派・肥前出身の江藤新平は征韓論に反対だったんだけど、薩長の勢力を分断する目的で賛成したといわれています。藩閥にこだわりがなかったと言われる大久保は、だから江藤が大嫌いだったのです。
結果的には薩長土肥の藩閥4藩のうち第二勢力土肥2藩出身者の力が失われ、薩長両藩出身者の力が強化される結果となります。それとともに藩閥批判も高まります。
大久保らは内地優先で、西郷らの方が強硬派だといわれるんだけけど、実際はそう簡単ではありません。
このあたりは次の時間とします。
ありがとうございました。

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