明治憲法体制と初期議会


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明治憲法体制と初期議会

明治憲法の制定

こんにちは。それでは授業を始めます。よろしくお願いします。
前の時間で明治憲法、正式にいうと・・・「大日本帝国憲法」が制定された話をしました。
憲法とはいうものの、国民の意見は一切聞かず、上から与えられた・・「欽定憲法」でした。
国民は「臣民」・・・「天皇の家来」とされ、人権というものも法律によって制約されるものでした
しかし、曲がりなりにも、衆議院議員選挙ということで、わずか人口の1.1%とはいえ「国民」の意見を聞くというシステムが組み込まれたのでしたね。
政府は衆議院の影響力が強くなりすぎないようにいろいろな機関をつくったりもしました。しかしその諸機関はまとまりをもたないばらばらな形で設置され、全体を統御できるのは天皇だけでした。そしてそれをいいことに力を伸ばしていくのが軍部でした。
 こうしたシステムの背景には、これまで権力を握っていた人たちが、今後とも「元老」としての力をもちつづけられるようになっていたのです。
前回は、そんな話をしました。
テスト出しやすい部分・・・ひとりごとです。

民法典論争

憲法が実現と並行して、他の法律も整備されていきました
そうした中で、大問題となったのが民法の整備でした。民法はフランス人の法律学者ボアソナードが中心になって整備を進めていきます。

ボアソナード (法政大学)

 世界史に出てきたナポレオンが「自分の業績で後世に残る最大のものは民法典だ」といいのこしたように、フランス民法典、いわゆるナポレオン法典がもっとも先進的と考えられており、日本もこれにしたがって民法の整備を進めたのです。
しかし、世界史を思い出してください。ナポレオンが出てきた時期はどんな時期でしたか。19世紀の初期で・・・・・の直後でしたね。そう、フランス革命。ナポレオン法典はフランス革命の成果を法律上に定着させたものでした。フランス革命といえば、「自由」「平等」「友愛」というスローガンのもと、個人の人権を第一に考える民主主義の原理に立ったものでした。ボアソナードを中心に編纂された民法典はこのような平等な個人を基礎とするフランス民法の性格を反映していました。
これにたいし、現在の東大、当時の帝国大学の穂積八束という学者を中心に、大反対がおこります。「家族を大切にして、上の人の言うことを聞く「孝」の精神が日本社会の基本、この民法では個人や自由を大切にして、日本の素晴らしい風習である家族の中の「孝」の精神をないがしろにしている。」と。
そしていいます。「民法出でて忠孝滅ぶ」と。ただ穂積は実際の民法典はあまり見ないまま発言したともいわれます。
大反対を受け民法の施行は延期とされ、あらたに家族の長、お祖父さんやお父さんといった戸主(家長)、お父さんやお祖父さんが強い権限を持って家族を支配する権限をもち、その権限は長男の単独相続によるという江戸時代の武士などに見られた制度が民法に組みこまれました。

明治憲法体制のもとでの「女性」

現在は「両性の合意のみを条件とする」とされる結婚も、この時代は親(戸主)の認めた相手との結婚が原則で「自由結婚」(=恋愛結婚)などは「親不孝」な行為とされたのです女性の地位が低かった時代です。こうした女性差別は、刑法にもみられます。夫のいる女性が、夫以外の男性と性的関係を持つと、その女性と関係を持った男性は「姦通(かんつう)罪」という刑法犯!で逮捕され、懲役または禁固刑となります。
では、その逆、妻子のある男性が他の女性とそういった関係になるとどうでしょうか。現在なら「不倫」といって週刊誌のネタになりそうですが、当時は、相手に夫がいなければ問題にならず、「男の甲斐性!」なんていわれました。何人もの女性をまわりにおくような政治家や実業家がいくらでもいました。
まったく同じ内容でも、男女間で大きな違いがありました。

江戸時代の「女性」の地位

ちなみに、日本で最も女性の地位が一番低かったのはいつだと思いますか?・・・
江戸時代だとされることが多いのですが、近年は、戦前の日本、とくに明治時代がもっとも低かったと言う人もいます。
江戸時代は、身分制が厳しく、女性への相続が認められず、結婚や離縁においても不利で、原則として離婚は夫が離縁状(「三行半」)を出さねば認められませんでした
また「幼くしては親に、嫁しては夫に、老いては子に、従う」という「三従」が説かれる時代でした。
しかし、江戸時代は、形式と実際に大きなずれのある時代でした。女性はかなりの財産を持っていたし、離婚・再婚率も高かったといわれます。あの西郷さんも、木戸(桂小五郎)さんも、「ちょっと実家に帰ってきます」といういいかたで最初の奥さんから離婚されています。また「家」を維持することが第一なので、娘に婿養子を採ることが多く「家付きの娘」=妻の権限が強いものでした。「親孝行」な息子たちが母親に頭が上がらないことは何となくわかりますよね。
家族内の厳しいルールも武家や上層の町人・百姓が中心で、それ以外の百姓や都市住民なんかはゆるかったようです
江戸時代においては「家」が続くことが、家族だけでなく村などにとっても大切なので、かたいことをいわないという「世間の知恵」が働いたのでしょうね。
ただ、江戸時代の前半の村の書類においては、女性は名前を記されず、「○○妻」「△△娘」といった書き方しかされないことが多かったのですが・・。

明治期の女性の地位

ところが、明治時代になると、これまでの融通無碍なルールが否定され、上流社会などでの建前が、規則や法律などとなりより広範囲に適用されるようになります。こうして、とくに女性にとっては息苦しい時代となります。

浜島書店「新詳日本史」P259

だからこそ、女性の地位が最も低かったのは明治ではないか、といった発言も出るのです。
他方、明治という「文明開化」の時代は、女性たちに自分たちの置かれた立場を自覚させ、解放運動をすすめるためのチャンスも与えました。

自由民権運動のなかでは女性たちも演壇に立った。(東京書籍「日本史A」P67)


良妻賢母」を育てるという名目であっても、女性たちが小学校、高等女学校、さらには高等教育をうけることも可能になり、自分たちの置かれた地位に疑問を持つ知的な基礎が与えられました。当時のありかたに異議申し立てをおこなう女性も現れました。

自由民権運動期の、景山英子や岸田俊子といった活動家を出発点に、つぎつぎと「新しい女性」が生まれてきます。

「大逆罪」と「不敬罪」

 さきほど少し触れましたが、憲法制定前後には、民法以外にもさまざまな法律が整備されました。
諸法制の編纂 東京書籍「日本史A」P72

諸法制の編纂 東京書籍「日本史A」P72

 刑法についてもう少し触れておきます。
刑法、わかりますか。泥棒や傷害・殺人といった犯罪を取り締まるための法律です。その中に、先ほど見たような姦通罪がありました。現在、「不倫」は、「離婚訴訟」とか「損害賠償請求」とかいう形で、個人と個人の関係を裁くための民法で裁かれるのですが、戦前は刑法上の犯罪とされ、警察官が出てきて逮捕され、有罪となれば牢屋に放り込まれました。
また、もう一つ特徴的なのは、天皇や皇室にかかわる犯罪の存在です。天皇や皇室の人に危害を加えると「大逆罪」となりました。この罪に対する罰則は死刑しかありません。
また、こうした人や伊勢神宮・天皇陵などにたいして「無礼な行為」があると「不敬罪」が適用されました。戦前でも、たまに新聞に天皇の写真が載ったりすることがありましたのでそんなときは扱いが大変だったでしょうね。下手のことをすればこれに引っかかりますから。

「教育勅語」

教育勅語 明治天皇側近の儒学者元田永孚と憲法起草の中心井上毅が中心となって起草した。

教育勅語
明治天皇側近の儒学者元田永孚と憲法起草の中心井上毅が中心となって起草した。

国会開設の直前の1890(明治23)年、「国民が守るべき道徳を、天皇が与える」という形式をとって一つの文書が出ました。
教育勅語(教育ニ関スル勅語)」です。
これは国民に「忠孝」といった儒教的な徳目を守り、憲法・法律の遵守などを求めながら、「もし戦争が起これば命を投げ出して天皇と国家のために尽くすのが正しい国民の生き方だ」という「忠君愛国」の考え方を天皇の名の下に強要するものでした。
戦争中に作られた「教育勅語図解読本」のさし絵東京書籍「日本史A」p140

戦争中に作られた「教育勅語図解読本」のさし絵
東京書籍「日本史A」p140

 子どもたちは、わけもわからないまま、暗唱できるまで教え込まれました。大切な行事では、校長が白手袋・タキシード姿で教育勅語の「写」を捧げ持ち、うやうやしく朗読しました。その間、こどもたちは最敬礼で、頭を上げることは厳禁です。
校長も必死です。読み間違えたりすれば大変です。天皇の写真(ご真影)と教育勅語を出そうと火の中に飛び込んで焼け死んだ校長が「美談」とされました。
「教育勅語には変なところもあるけど、いいことも書いてあるじゃないか」という人もいますが、親を大切にとか、兄弟仲良くとか言うことは、天皇に命じられたから守るべき事なのでしょうか。
残念ながら、大切にしたくてもできないような親も兄弟もいるんだ」といえない社会はおかしいと思います。どうでしょうか。敗戦後、教育勅語は国民を戦争に導く役割を果たしたとして、効力を失う決議がされました。

福沢諭吉「脱亜論」

こうして憲法制定の前後になると、自分たちが「新しい日本をつくろう」というキラキラした時代の空気から、「文明国家日本を完成させる」という空気にかわっていきます
日本は憲法と近代的な諸制度、さらに発展した産業をもつ文明国の一員だ。ほかのアジアの国とは違うのだという意識も強まってきます。
 こうした時代の感情を文章化したのが、「文明開化の旗手」福沢諭吉でした。福沢は、朝鮮の近代化改革が失敗した(甲申事変)直後の1885(明治18)年、新聞に「脱亜論」と題された論説を発表します。「日本は欧米的な近代化を果たした文明国」「中国や朝鮮などアジアは「未開」「野蛮」な国」という二元論的な論理にたち、今後の日本の進路は欧米文明国に仲間入りし、アジア諸国という「悪友」と手を切り、欧米諸国と同様の態度でのぞむことだと主張します。
福沢諭吉「脱亜論」(抄)

福沢諭吉「脱亜論」(抄)

「世界を文明化する」という名目で不平等条約を押しつけ植民地化をすすめた欧米諸国のやり方を、日本もアジアでおこなってよい、行うべきだとも読める内容でした

欧米列強の圧倒的な力の前に力で開国を余儀無くされ、条約改正もままならない弱小国家である日本が、その裏返しともいうべき優越感を自分よりも遅れたと感じるアジア諸国へ感じる、こういった意識が生まれ始めたことがわかります。
「欧米には低姿勢、アジアには高圧的」という現在に続くある種の日本人の心性がこのころに生じたことを、この福沢の論説から見ることができます。
ちなみに、中国や韓国などアジア諸国の急速な発展によって、こうした心性の背景にあったアジアに対する優越感を見いだせなくなってきた焦りが、近年のヘイトスピーチなどの背景にあるのでしょう。
現在の私たちは、こういった「脱亜入欧」的な感情からどれだけ自由になっているでしょうか?アジアに対するゆがんだ優越意識と差別感情、これが戦前の日本を侵略の方向に導いていったことを忘れてはいけないと思います。

国会開催と「超然主義」

1890(明治23)年、国会が開催されます
第一回帝国議会

第一回帝国議会   「図説日本史通覧」p220

 それに先立つ衆議院選挙では立憲自由党や立憲改進党といった旧民権派(民党)が多数を占めました
国会開設によって、政府の内と外で、言論、ときには暴力も交えて争われていたいろいろな事が、議会内で、言論を用いて争われるようになったのです
黒田清隆の「超然演説」

黒田清隆の「超然演説」

前総理大臣の黒田清隆は国会開設にかかわって、政府=内閣としては、衆議院がどうなろうと気にせずに政治を進めていくという超然主義を唱え、国会開始時の総理山県有朋もこの方針を維持しました。
 かれらは憲法や国会の持つ意味をまだ十分には分かっていませんでした。

「政費節減」「民力休養」

国会が開設されると、民党はさっそく攻勢に出ます。
選挙風景 警察官が立ち会っていた。 東京書籍「日本史A」p75

選挙風景 警察官が立ち会っていた。
東京書籍「日本史A」p75

 予算案の承認をめぐって二つのスローガン「政費節減」と「民力休養」で政府を責め立てます。「政費節減」はわかりますね。「無駄遣いをやめて節約しよう」という意味で、政府が出してきた予算、とくに軍艦を作る予算や公務員を減らせという要求をつきつけます。「民力休養」・・・「民力」つまり「国民の力」、これを「休養」休ませるということです。疲れ切った国民を休めさせる、具体的にはどういうことか分かりますか。松方デフレによる不況で苦しめられた国民とくに農民の疲れを取り除くため・・・「税金を減らせ!とくに地租を引き下げろ!」という内容です。「無駄遣いをやめて、地租を下げろ!」ということです。
民党も「政府が超然主義といって聞く耳を持たないなら、こっちも予算を認めないだけだ」とばかり対立が激化、動きがとれなくなります。
山県は思ったでしょうね。「伊藤の野郎め、国会なんか変なものをつくり、予算承認権なんかを与えるからこれまでのように金が自由に使えなくなった」。さらに思ったかもしれません。「憲法も、国会も辞めてやる・・
こうした事態は、伊藤にしても、民党の一部にしてもまずい展開でした。国会が最初からうまくいかないという事態になれば、やっぱり、日本人、アジア人には憲法も国会も早すぎたんだという目で見られます。
そこで、政府は裏から手を回し、自由党の板垣グループを抱き込んで、政府の修正案に賛成させました。民党の連中からすると、裏切られたという印象だったのでしょう。思想家としても有名な中江兆民は「無血虫の陳列場」という強烈な批判を残し議員を辞職します。

大選挙干渉

なんとか最初の国会を乗り切った政府でしたが、次の国会では乗り切りに失敗、衆議院解散という手段に出ます。政府は考えます。「民党の数が多すぎる。政府支持派を増やさなければ政治がうまく進まない」と。もはや「超然」とはしていられなかったんですね。
大選挙干渉  自由民権運動の中心高知県ではとくに激しい対立が続いた 東京書籍「日本史A」p77

大選挙干渉  自由民権運動の中心高知県ではとくに激しい対立が続いた
東京書籍「日本史A」p77

第一次松方内閣の内務大臣品川弥二郎はえげつない作戦を命じました。地方行政や警察の力で民党議員を落とす作戦です。高知県では死者10名・負傷者66名という流血事件が発生するなど、全国で25名もの死者が出ます。これを大選挙干渉とよびます。
民党はかなり議席は減らしたものの、四割をキープ、結局政府の思い通りにはならず、松方内閣も崩壊しました。
「やり過ぎだ」と感じた次の伊藤内閣はこうした大選挙干渉をおこなった役人たちをやめさせています。国会との正常な関係を作らねば、政治はうまくいかないことを分かってきたのでしょう。

第二次伊藤博文内閣

元老たちはいいます。「こんなものを作った伊藤が自分で責任をとれ、総理大臣をやれ」。すると伊藤は「それなら、元老の皆さんも内閣に入ってください」と。こうして8名いた元老(「元勲」)のうちの6名が参加するという超重量級の第二次伊藤博文内閣(「元勲内閣」)が成立しました。
伊藤博文 千円札 に対する画像結果

旧千円紙幣に描かれた伊藤博文の肖像

それでもなかなかうまくいきません。しかたがないので、「内閣と国会が仲良くやって!」という天皇の命令(「和協の詔勅」)を出してもらったり、民党のなかの金持ちも得するような鉄道敷設案で自由党などの協力を得ようとしたりして、一方的な権力行使や力ずくの対立を避けるといったルールもつくろうとしました。現在の国会のやり方に近づいたことが分かりますね。
条約改正が大詰めを迎え、清国との対立も深刻化すると、国会内に外国との強硬な対応を主張する勢力が台頭、伊藤はつづけざまに二回も国会を解散するなど、議会対策に苦労しました。

初期議会

こうした第一回帝国議会から、日清戦争までの帝国議会、政府と民党の激しい争いがつづいた時期の議会のことを初期議会といいます。

初期議会における政党とその要求  山川出版社「詳説日本史図録」P222

この状態は、あることで一挙にかわります。変えるためにとんでもないことを始めたのではないかという人もいます。何か分かりますか、とんでもないことって?
そう、日清戦争です。日清戦争は、日本の姿を大きく変えていきます。先ほど見た福沢のような考えが広がる日本に・・・。

それでは、今日はここまでとします。
次の時間は、憲法制定・国会の開設のごほうびともいえる「不平等条約」の解消、条約改正の経過を見ていきたいと思います。
日本はついに先進国クラブへの入会が認められることになります
はい、起立! 礼!ありがとうございました。
追記:

ここで展開した内容を以下でより詳細に論じています。
よろしければご覧ください。(2022,8,6記)
<憲法と帝国議会>
2:明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)
3:憲法体制の整備と初期議会(1889~1894)
4:明治憲法体制の成立と展開(1894~ )

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