朝鮮問題の深刻化と日清戦争の発生

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朝鮮問題の深刻化と日清戦争

「五十年戦争」の開始=「日清戦争」

おはようございます。授業を始めます.
今回から、日本は長い戦争の時代に入っていきます。というか、これからの日本史の内容は戦争だらけです。
(参考プリント:日本近代史の概略
一つの戦争が、次の戦争の原因となり、それが新たな火種となって・・・・という風に、日本は戦争を続けていきます。
これ以降、1945年の敗戦まで、戦争空白期が10年を超えることはありませんでした。
ある歴史家は、五十年戦争というスパンで歴史を考えるべきだと主張しています。日本の近代史を理解する上で、非常に示唆に満ちた考えだと思います。
そして、これ以降、戦争をすすめることによって日本の社会は変えられ続けていきます。
最初の授業でも、そんな話をしたけど、覚えていますか。
五十年戦争の出発点が1894(明治27)年にはじまる日清戦争です。
だから、日清戦争は日本を変えたのです。

「日清戦争」ってどんな戦争?

日清戦争?なんか分からんけど清と戦争をした。清は当時中国にあった国。日本がやったんだから、きっと日本が正しく、清が悪かったんだろう。どんな戦闘が、どこであったのか、よく知らないけど大勝利だったみたい。その結果、『下関条約』でいろいろもらった。もらったお金で八幡製鉄所もつくった。ところが、ロシアなどヨーロッパの列強が三国干渉をしてせっかくもらった『遼東半島』が取り返されてしまった。
仁川に上陸する日本軍 東京書籍「日本史A」P78
仁川に上陸する日本軍 東京書籍「日本史A」P78
 日清戦争については、今も、昔も、こんな感じで理解している人が多いと思います。
なぜか後半だけは、細かくしっかり覚えていて(教えられていて)、遼東半島の名は、リャオトン半島という中国読みも含めて定着していたりします。

「日清戦争」について、まとめておこう

日清戦争のおおよそについて、整理しておきます。
戦争の期間は、1894~95年の2年間、
戦ったのは、日本と清、だから日清戦争。
しかし、それだけではありません
戦場は、朝鮮半島と中国東北部の南部(いわゆる南満州)、
    山東半島の一部
海軍は、朝鮮半島と中国の間にある黄海が中心
実はこれだけでなく、まったく別のところがあります
日清戦争関係地図 (山川出版社「詳説日本史」P290)
日清戦争関係地図
(山川出版社「詳説日本史」P290)
戦争の原因は、朝鮮の支配をめぐる日清の争い
かなり、保留つきで・・・
戦争の結果結ばれた条約は、下関条約
知っているつもりでも、意外と知らないでしょう。
さらにフセンのような保留がいっぱいついていますね。

「日清戦争」の原因、詳しく記すとかなりヤバい。

戦争の原因は、単純化すれば、さっきいったようになります。
両者ともやむなく戦ったとみえますが、もうすこし丁寧にいうと。
朝鮮への影響力を強めようとした日本が、朝鮮の属国化を急速に強めた清をきらって、戦争を仕掛けた
これで、よいでしょう。
でも、実はまだ保留が残っています。当初の説明にはフセンが二枚ついていたのです。
二枚目のフセンは、まったく違う原因が記されています。
条約改正の条件などをめぐり国会運営にいきづまった伊藤政権が国内の強硬な世論に押されて強引に清との戦争を仕掛けた。
清の前に、「日本との戦争など考えていなかった」と付け加えてもよいかもしれません。
こう書いたとたんに、そこらじゅうからブーイングの嵐が来そうです。
しかし、この認識は日本史研究者の中では、ほぼ定説といっていいと思います。
実際、日清戦争の開戦は、かなり無理筋で始めたもので、うまく説明するのも困難ですし、事実について、丁寧に説明すればするほどヤバくなります
だから、「属国として支配し続けようとする清から朝鮮を助けたのだ。完全に独立させたのだ」という政府に都合のよい大本営発表ともいうべき説明で、お茶を濁そうとしてきました。
この説明が変なことは、このあとの歴史を見れば明白です。

朝鮮王国の歴史を簡単に見ていきましょう

朝鮮王国の建国

朝鮮について、時代をさかのぼって見ていきましょう。
朝鮮というのは地名でもあり、国の名前でもあります。
李成桂という人物が1392年朝鮮王国を建国します
はるか昔に箕子朝鮮や衛氏朝鮮というのがあったので、李朝(李氏朝鮮)ということもあります。
李成桂 倭寇の鎮圧などで名声を博した。中国における元と明の対立の中、高麗を倒し朝鮮を建国した。
ちなみに、それまであった国は・・・・高麗(こうらい)です。現在の英語名コリアの語源になった国名です。
歴史の得意な人が、高句麗(こうくり)と書いてしまうことがあります。血統的にはご先祖さんですが、別の国なので間違えないでくださいね。
朝鮮が建国されたのは1392年。
この年、年号の得意な人はわかるかな・・・。日本でいえば南北朝が統一された時代、将軍は足利義満・・・金閣寺がつくられた時代です。
李成桂は、日本人を主要なメンバーとした海賊・・・倭寇を撃退したことで力を伸ばした人物です。
その後、韓国・朝鮮語としてよく目にするハングル文字を作ったのが第四代国王世宗大王、15世紀中期の人です。
庶民が漢字を覚えるのはかわいそうだということで作られた表音文字。他の文字をもとにせず作った文字で、かなり合理的に作られています。

倭(日本)と女真の侵略をうける

 16世紀末になると、倭寇の親玉みたいな奴が朝鮮に攻めこんできます。朝鮮の側からいうと、まったく理不尽に。
わかりますか。16世紀の最後の年が1600年、関ヶ原の戦いだから、その直前、当時日本のリーダーだったのは・・・・豊臣秀吉。秀吉は天下統一の勢いをもとに、朝鮮侵略を行いました
日本風にいえば文禄の役、慶長の役。朝鮮風に言えば壬辰倭乱・丁酉再乱。朝鮮全土が戦場になり、朝鮮の国土は荒廃、これ以後、朝鮮の人は日本への強い警戒心を持つようになります。
しかし朝鮮の苦難はさらにつづきます。17世紀初めになると、今度は北方からの攻撃を受けます。
中国東北部(「満州」)の女真族(のちに「満州人」と自称します)です。かれらが二度にわたって朝鮮半島に侵入、朝鮮を属国としたのです。
属国といっても、実際の政治はこれまで通り朝鮮国王がおこなっており、非常に名目的であったことは、既に話したとおりです
その後、朝鮮でも、江戸時代と同様、矛盾が高まっていきます。1政争が相次ぎ、19世期になると農民反乱などが頻発します。
自分たちこそが正しい儒教文化を受け継ぐ明の正統な後継者であるという「小中華」思想を強く持ち、清・日本よりもはるかに厳しい海禁(「鎖国」)政策をとっており、欧米はおろか清国の文化すら受け入れようとしない風潮が支配層を中心に広がっていました。しかし新しい思想に関心をもった人が招き入れる形で、カトリックも広がっていました。

大院君の鎖国政策と征韓論

 1863年、日本では京都で新撰組が活躍しはじめたころ、朝鮮では前国王の急死によってその遠い親戚の少年が国王となりました。高宗です。睦仁天皇(明治天皇)と同じ年齢です。
まだ11歳だったので、父親の大院君(李昰応)が事実上の最高実力者となって実権を握りました。
大院君は、古い勢力を排除する一方で、強硬な鎖国攘夷政策を採り、侵入してきたフランス・アメリカ両軍を撃退しました。このときの自信とこれまでのいきさつもあり、開国し近代化をすすめる日本には厳しい対応をとりました。
日本では、こうした対応が無礼であるとして征韓論争がおこりました。
朝鮮政府内の対立関係(帝国書院「図説日本史通覧」p224より)
朝鮮政府内の対立関係(帝国書院「図説日本史通覧」p224より)
しかし、1873年朝鮮で、高宗が自らの意志で父・大院君の権力を奪うという宮中クーデターを起こし、高の親政が実現、王妃・閔妃の一族が政権の中枢にたち、鎖国攘夷政策をあらため日本との交渉にも応じるようになりました。

朝鮮の「開国」と壬午軍乱

こうしたさなか、発生したのが1875(明治8)年江華島事件です。
そして翌年の日朝修好条規と関連の条約で朝鮮は開国に踏み切りました
高宗の気持ちからすれば、それまでの日本との通交をひきつぎ、大きく変更したつもりはなかったのですが、現実は非常に過酷な内容でした。儒教しかも保守的な朱子学に特化した思想が影響力をもちすぎていたため、世界の動きに柔軟に対応することができなかったのです。
開国・開港がどのような問題をもたらすか、幕末の日本の混乱を思い出してください。しかも、朝鮮が結んだ条約は日本が結んだものよりはるかに過酷でした・・。
朝鮮国内でもきびしい経済混乱が発生、「攘夷」運動が高まりをみせます
他方、朝鮮政府は「開化政策」をすすめます。日本人将校を招き軍隊の近代化を進めました。するとどのようなことが起こるでしょうか。
日本でも、新しい軍隊導入とかかわって「士族反乱」が起こしましたね。同様のことが朝鮮でも起こります。
1882(明治15)年朝鮮の「士族反乱」ともいうべきものが壬午軍乱です。(ただし、朝鮮では反乱を起こした兵士は漢城=ソウルの町外れで別の仕事をしながら兵士もやっているという貧しい階層の人たちです。そうした意味では日本の士族反乱とは大きく異なります。)
給料を払ってもらえず、久しぶりに支払われた給料の米は石ころで水増しされたもの、怒った旧式の軍隊の兵士たちは給料を払った役人を殴りつけ、それを取り締まろうとした指揮官らと戦闘になります。そして町はずれに住む彼らの親戚や知人も暴動に加わります。こうして発生したのが壬午軍乱です。反乱軍に接近してきたのが開国・近代化に反発してきた大院君です。大院君は反乱軍の力をバックに高宗にせまり、政権をうばい政府要人を殺害、日本公使館を襲います。日本人にも死者が出ました。
これをみて、日清両国が出兵、日本は大院君らに補償を求めますが拒絶されます。かわって動いたのが清でした。清は日本に代わって首都に大軍を派遣、援軍がきたと勘違いした大院君をとらえ反乱軍も鎮圧、大院君を清に連行しました。閔妃をふたたび王宮に戻し、政府をたてなおしました。そして出兵した清軍を首都に駐留させました。さらに日本と朝鮮との条約締結を仲介、日本軍も首都近郊に置くことが認められました。

甲申事変

こうした対応と駐留軍を背景に、清はこれまでの名前だけの主人(宗主国)と家臣(属国)という立場を、宗主国が属国朝鮮の内政や外交にも関与するという実質的な関係へ変えていきます。こうして朝鮮政府は清主導のもとで近代化政策をすすめることになりました。
金玉均Z224
金玉均 日本をモデルにした近代化をめざしたが失敗、日本に亡命したが上海に連れ出され暗殺された。
これにたいし、清との宗属関係を清算して本格的な近代国家をめざす金玉均ら開明派官僚を中心とするグループ「独立党」が反発を強めます。かれらは日本を見ることで明治維新をモデルとした近代化をめざしました。ところが、壬午軍乱以後、清の属国化が進行、その支配を認めつつ近代化をすすめる朝鮮政府は許せないものでした。
そこで暴力に訴えてでも、自分たちの主張を実現しようと考え、日本公使館に接近しました。こうして金玉均らが日本軍の援助のもと、1884(明治17)におこしたクーデタが甲申事変です。清がフランスとの間で清仏戦争をしており群の一部が撤退したチャンスをねらいました。とはいえ、駐屯している日本軍の数倍の清兵がいたのですが・・・。
しかし清が素早く軍隊を出動させ、王宮を守る日本軍を撤退させ、国王を確保します。日本公使らはイギリス船に救出され、船長の計らいで何とか乗船を認められた金玉均らとともに日本に向かいました。
朝鮮をめぐる日清両国の関係図(東京書籍「日本史A」P78による)
朝鮮をめぐる日清両国の関係図(東京書籍「日本史A」P78による)
日本政府は、日本公使らの行動には触れず、日本公使館が襲撃され日本人が被害に遭ったとして軍隊を派遣、日清両軍がにらみ合い、国内でも強硬論が出始めます。
圧倒的に不利な日本ですが、清も清仏戦争のさなかにあり、無理はできませんでした。日本は朝鮮政府から補償金を受け取り、清との間で天津条約が結びます。この条約を受け日清両国の軍隊は朝鮮から撤退、これ以降出兵するときは相手国に通知するという日本側に妥協したものとなりました。
こうして両国の軍隊は撤退し、以後十年近く、朝鮮は表面上は平穏な状態となります。

高宗のロシア接近とその波紋

今回も、清の軍事力で混乱が収拾されました。清の朝鮮政府に対する影響力はいっそうに強まりました。清から派遣された袁世凱は輿で王宮に乗り付けるなど、「宗主国」として国王にも勝るかのような尊大な態度を見せつけます。
こうした姿勢は国王高宗にとって非常に不快なものでした。そこで高宗はドイツ人顧問メレンドルフの進言をうけ、ひそかにロシアに援助を求める文書をおくりました。
こうして朝鮮をめぐる対立にロシアが加わります
これを知った清、とくに袁世凱は激怒し、高宗を退位させようしました。それは思いとどまったものの、朝鮮を保護国といわれても仕方ない状態へしていきます。
他方、高宗のロシアへの期待も高まります。朝鮮にまでとても手が回らないロシアからすれば、ありがた迷惑の面の方がつよかったようですが。
 ロシアが一枚かんでくることを知ってイギリスも動きました。1885年4月、突如朝鮮南部の巨文島を占拠、基地化を試みたのです。イギリスはロシアが朝鮮に不凍港を得て太平洋側に進出することを非常に恐れていました。
この占拠事件は清とイギリスの間で決着がつきます。イギリスは「ロシアの力を止めてくれるのなら清でも日本でもどちらでいい」と考えていました。

甲申事変が日本に与えた影響

甲申事件は、朝鮮でも「文明化」がすすむと期待していた日本の人たちを失望させます。「清や朝鮮は文明化をきらう遅れた国だ」という議論を展開したのが福沢諭吉の「脱亜論」でした。これは前回話しました。
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脱亜論~「アジアなんか、もうぺーだ!」(せいと
また、国内で行き詰まった自由党左派が、朝鮮独立と近代化を援助するとして朝鮮渡航を企てとらえられた大阪事件も発生しました。朝鮮からすれば大きなお世話です。(裏では金玉均の画策があったとのことです)

壬午・甲申事変では機動的に動けなかったとの反省と大国主義的ナショナリズムの高まりのなか、軍部が動きます。陸軍のボス山県有朋は、谷干城ら反対派の将軍たちの批判を押し切って、軍隊のシステムを専守防衛から清との戦争を見据えた海外進出仕様へと変更しました。それにともない、松方デフレのところで「例外」として説明した軍事費の増大が行われたのです。日本は海外に出て、戦争できる国になっていきます。

日本人の目が、「国内の民主化」から、「海外進出」に変わる、軍隊のあり方が海外進出仕様に変わる、壬午・甲申の二つの事変は日本近代史の分水嶺となる事件でした。

甲午農民戦争の発生と和議の成立

話を朝鮮に戻します。
国内問題を放置し、問題がおこれば宗主国=「清」の力を借りて対応しようとする朝鮮政府の姿勢が朝鮮をいっそう苦しい立場に追いやります。
甲午農民戦争関係地図 (帝国書院「図説日本史通覧」P224)
甲午農民戦争関係地図
(帝国書院「図説日本史通覧」P224)
1894(明治27)年、朝鮮南西部で巨大な農民反乱が発生しました。民衆宗教である「東学」の信者を中心とした反乱はまたたくまに広がり、「農民戦争」の様相を強めます。反乱軍は、役人の不正を批判するとともに、土地の自由な使用、未亡人や被差別民といった弱者への救済と人間の平等を主張するなど古い社会を変革しようとする民主主義的な内容をもつ東学という宗教結社の強い影響下にあり、地域経済を破壊する日本の排除も求めていました。
しかし、これはあくまでも朝鮮国内の農民反乱であり、国内問題です。この出来事を甲午(東学)農民戦争といいます。
反乱軍は、日本や清国といった外国の介入を招く可能性があること、農繁期が近づいてきたこともあって、朝鮮政府との間で話合いを持ち、合意し、農民軍を解散するなど、理性的な対応をしました。

清への援助要請と日本軍の出兵

和平の動きが進んでいるにもかかわらず、朝鮮政府は、自らの力では対応できないとして、清に援助をもとめます。
これをうけ、清は軍隊の派遣を決定するとともに、天津条約に従って、日本にも「要望によって出兵することにしました」と通告しました。
日本政府、とくに陸奥外相はこれを待っていました。
当時、国会では、条約改正の手法に対して激しい反発がまきおこり、政府は衆議院解散を連発していました。内政で行き詰まっていた政府に朝鮮問題の緊張は目を外に向ける絶好の機会でした。
外務省と軍部は、朝鮮政府と清のやりとりを注意深く観察し、派兵のタイミングをはかっていたのです。そこに通告がきます。そして「在留日本人を守る」というおなじみとなるフレーズで、フライング気味に大軍を派遣します。「農民戦争は終結しそうだ」という現地からの連絡は無視し、名目とは合致しないほどの大軍続々と派兵します。何かを想定して。
こうした行動は外務大臣の陸奥宗光と陸軍参謀次長川上操六の二人が独断ですすめていたといわれます
朝鮮政府と清からすると、頼みもしない日本から4000人もの大軍が朝鮮にやってきたのです。さらに後続部隊も来るといいます。
農民戦争は終わっています。
朝鮮政府からも、清からも、さらには欧米列強からも、「何しに来た?」「すぐ引き返せ!」との声が出ます。現地の日本公使館は困惑します。
振り上げた拳の下ろしようがなくなった」というところでしょう。何もしないで帰ったら、何をいわれるか分からない。政府に批判的な諸政党の声が聞こえるようです。
陸奥たちは「拳を振り下ろす口実」を探すよう現地側に命じます

「7月23日戦争」の発生

いろいろ考えます。これまでは「朝鮮は独立国なのに、清がいろいろ口出すのはおかしい」とかいってきましたが、これで喧嘩(「戦争」)に持ち込むには説得力がない。
そこで、清国にこんなことを言い出します。
いっしょに朝鮮の近代化改革をすすめましょう。いやなら日本だけでやりますが」。
清からすれば、自分の都合のよいように改革を進めているのだから聞くわけもない。「何わけの分からない事言ってるね?そんなもの朝鮮政府のやることやろ。早く帰れ。帰ってからなら話のしようもある」となり、対立は激化します。
日本側がかってに対立を作り出しているとしか思えません。
写真
朝鮮王宮(景福宮日本軍は、門を爆薬で破ろうとしたが失敗、斧で破壊して侵入、三時間の銃撃戦ののち王宮を占領した。
1894(明治27)年7月23日、事態が動きます。日本軍が「近代化改革を実施しない」として、朝鮮王宮を攻撃・戦闘の上、これを占領、国王を拘束、変わって大院君を引っ張りだし摂政とし、漸進改革派の金弘集を中心とする親日改革派内閣を樹立させました。
日本軍は事件を、朝鮮側からの発砲に対応しただけ、偶発的な事件と主張しましたが、計画的に行われたことが陸軍の書類にしっかりと記されていることが分かっています。この事件を歴史家は「7月23日戦争」といっています。
そして朝鮮側から「朝鮮を属国扱いし、改革を妨害する清の軍隊を撤退させてほしい」と依頼したことにして(そんな文書はなかったようですが)、清に戦争を仕掛けたのです。

甲午農民戦争の鎮圧

最初、日清戦争、誰と戦ったかというところで保留をつけていました。このように、戦った相手には「朝鮮政府」もはいります。それでもまだ保留が残っています。
さきにこの保留部分も見ておきましょう。答えは「朝鮮民衆」です。あわせて「朝鮮」とすれば良さそうですが、そういかない事情があります。
日清両軍が出兵したきっかけ、覚えてますか・・・甲午農民戦争です。全羅道という朝鮮南西部(かつて「百済」という国のあったあたり)でおこった農民反乱でした。
かれらは、反乱が日清両国の介入を招くと考え、朝鮮政府と話合い、合意をして解散したのでしたね。
しかし、それにもかかわらず、日清両国の軍隊が朝鮮にやってきて、ついには戦争を始めてしまいました。
これを知った東学の信者をはじめとする13万人もの農民たちは「戦争に協力をしない」として再度蜂起をしました。
これに対し、日本軍は朝鮮政府軍、さらには地主たちも参加してかれらと戦い、村の隅々まで捜索、殲滅しました
ですから、戦った相手のもう一つは「朝鮮民衆(農民)」となります。
「朝鮮」とひとくくりにしたくなかった理由、わかりますね。朝鮮政府軍と日本軍の共同作戦で「農民軍」を鎮圧したのです。
日清戦争で戦った相手、まだいますので、さらに保留します。それは、次回ということで。

なぜ日本は強引に戦争に持ち込んだのか?

このように強引なやりかたで起こされたのが日清戦争です。
戦争をしたくて仕方がなかった日本が、やる気のない清に無理強いした戦争です。
では、なぜこれほど乱暴なやりかたで戦争をしたかったのでしょうか?
山県有朋は「朝鮮」を日本の「利益線の焦点」と表現した。
山県有朋は「朝鮮」を日本の「利益線の焦点」と表現した
ひとつには朝鮮は「日本の主権に密着な影響を与える地域」=利益線であり、これを保護せねばならないという山県有朋らによって主張されるようになった国家方針がありました。朝鮮がふらふらしたままならロシアの呑みこまれる、そうなると日本の利益線が脅かされるという強迫観念がありました。朝鮮が強い国になるには清が邪魔というのです。
この理屈なら、朝鮮が日本の主権線に含まれるならば「満洲(中国東北部)」が、満洲が主権線なら、中国華北地方が利益線という風に、無限に拡大していきそうな理屈ですね。
日本側の警戒心に反し、ロシア内部では朝鮮へのそれほどの興味はなかったといわれます。いくつかの点と数人を除いては。
実際問題としては国会運営に行き詰まっていた伊藤政権の打開策といわれています。
国民の声を政治に反映させねばならないという「民主主義」が政府を戦争に向かわせた側面があります。そして、政府の意図を越えてより好戦的な方向に向かわせようという傾向も出てきます。こうしたシーンを私たちは何度も見ることになります。

軍事評論家の勝敗予想は。

日清戦争における欧米の軍事評論家の見立てはこうです。
いい勝負!やや清が有利かも?」というところです。ロシアや朝鮮政府は「清の勝利」を前提に動いていた面があります。
なぜ清が有利かというと、清には定遠・鎮遠という巨大な戦艦があるから。
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清の戦艦「定遠」 全長94メートル、常備排水量7,144t。ドイツで建造され、日本海軍にとっては同型艦「鎮遠」とともに脅威のまとであった。
ところが、実際の戦闘は日本側の圧倒的な優勢のまま推移しました。
実は、この結果を予想していた予想外の人物がいたといわれます。清軍の事実上の創設者で、清政府で最も実力があった政治家である李鴻章です。かれは、自分が作り育てた軍隊が見掛け倒しのハリコの虎であることを知っていたといわれます。したがって、戦争には強く反対したのですが、力を持ちつつあった皇帝光緒帝とその取り巻きの交戦論に押し切られたといわれています。そしてかれが恐れていた事態となったのです。
なぜかれが反対したのか、なぜこのような結果となったのか。そして日清戦争は日本やアジアをどのように変えてしまったのか、こういったあたりから次の時間をはじめたいと思います。
それでは、はい起立、礼、ありがとうございました。
※注記:これまでの内容には古い知見に基づいたり、問題ある記述も多かったため、今回大幅に加筆・訂正しました。(2020/02/27記)
さらに加筆訂正しました(2020/06/08)

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