<前の時間:五一五事件と国際連盟脱退、二二六事件>
Contents
盧溝橋事件~日中戦争の開始
広田内閣の成立=政治の軍部への屈服
前回は五一五事件、二二六事件という2つのクーデタ騒ぎが発生、国際連盟も脱退するなど、日本が急速にきな臭い雰囲気になっていく様子を見ました。
しかし、総理大臣・広田弘毅は、軍部のいいなりでした。
「国策の基準」~陸軍の「北進論」
撤退といっても、明らかに負け戦です。プライドの高い陸軍はリベンジをめざします。満州事変も、計画立案者の石原莞爾にとっては、ソ連との戦いのためのものだったのです。ソ連は社会主義国です。だから、社会主義が日本やアジアに広がらないためにも重要だと考えていました。
こうして陸軍の仮想敵国のトップはソ連。シベリアに進出して、この地を手に入れるという「北進論」が作戦計画の中心です。陸軍は「国策の基準」に「日本の軍事目標はソ連と戦いシベリア進出をめざすこと」と書くように要求します。
「海軍」の立場~「南進論」と艦隊整備
世界最強の海軍を持つアメリカを仮想敵国とすることは世界最強の海軍をめざす多額の予算要求を出すことでもあります。このように主張します。日本は資源の少ない国だ。だから資源を手に入れる必要がある。そのためには、東南アジアなどに進出しなければならない。そこではアメリカやイギリスと対立することもある。だから海軍力が必要だ。こうした考え方を「南進論」といいます。さらに軍縮条約がなくなったため、米英も軍艦を増やすだろう。日本はそれ以上に増やさなければならない。こういうことです。
「国策の基準」~両論併記
「日本の侵略を画策した文書」?!
日独防共協定締結
なお、これはあくまでも「防共協定」であり、いわゆる日独伊三国同盟ではありませんので、注意してくださいね。それは1940(昭和15)年ですからね。今やっているのは1936(昭和11)年ですからね。
こうして、1936(昭和11)年は二月の二二六事件をきっかけに日本は一挙に軍国主義の道をひた走るようになっていきました。それをすすめたのが広田内閣でした。しかし軍部は軍拡のさらなる拡大と行政や議会の改革を求め、官僚や政党との対立が激化するなか、1937(昭和12)年1月、広田内閣は総辞職しました。
宇垣内閣「流産」と林銑十郎内閣
宇垣にかわって推薦されたのが、やはり陸軍の林銑十郎でした。かれは若手の言いなりでした。しかし政治的には余りにも無能であったため、四か月の短命で終わりました。
近衛文麿の登場
しかし、近衛の総理大臣就任の一か月後、盧溝橋事件が発生、日本は中国との全面戦争という取り返しの付かない道に足を踏み入れることになります。
西安事件と抗日民族統一戦線の成立
国共内戦を重視する蒋介石と抗日運動
満州事変で日本軍と戦ったのは地方軍事勢力、日本側が「匪賊」と蔑称していた人たちが中心でした。この地を支配していた張作霖の子ども張学良の軍隊はどうしていたのでしょうか。張学良は日本とたたかうために国民党に参加し、その軍隊もその指揮下にありました。ちょうど、国民党の指示で満州を離れたときに柳条湖事件、そして満州事変が発生したのです。
地元に戻って、日本軍と戦いたい張学良を、共産党との戦い(「国共内戦」)を重視する国民党の蒋介石が押しとどめたため、満州事変は日本側の一方的な展開となったのです。
東北部を制圧したあとも、関東軍は反日勢力の拠点をたたくとして、「国境」を越えて作戦を展開、日本軍は中国の北部(華北)一体での活動を活発化し、第二・第三の「満州国」ともいうべき傀儡国家を次々と作りあげていきました。
こうした日本軍の動きは中国民衆を強く刺激し、抗日運動が全国化します。1935(昭和10)年毛沢東率いる中国共産党は八・一宣言で、国民党・政府や中国国民に「内戦停止・一致抗日・抗日民族統一戦線の樹立」を呼びかけ、抗日を求める多くの人びとの共感を呼びました。
「西安事件」の発生
腹を立てた蒋介石が飛行機で西安に乗り込んでいきます。そこで一つの事件が発生します。西安の部隊の司令官が蒋介石をとらえ、監禁したのです。その司令官は張学良!でした。
日本の新聞は面白おかしくかき立てます。「やっぱり中国だ。仲間割ればかりしている」「蒋介石が殺され、日本は楽になる」など。ところが「蒋介石は生きており、抗日民族統一戦線が作られる」と正確に報じたジャーナリストがいました。尾崎秀実といい、のちにソ連側のスパイとして処刑された人物です。
蒋介石と周恩来
蒋介石は殺されると覚悟したでしょう。その蒋の前に一人の人物が現れます。
数日後、西安から飛行機が南京に到着します。蒋介石が妻の宋美齢をともなって、タラップから降りてきました。彼らにつづいたのは張学良と周恩来です。話合いがまとまり、蒋介石は、共産党との内戦を停止し、日本とたたかうことに同意したのです。おおくの中国人がそれを歓迎したことはいうまでもありません。日本の多くの人びとはこの意味をまだ分かっていませんでした。
ちなみに張学良はこれからあと長い軟禁状態におかれたみたいです。
1990(平成2)年NHKの番組で、張学良がインタビューに応じていました。おもわず「まだ生きていた!」と声を上げてしまったことを覚えています。かれは台湾で生きていました。なお。彼は21世紀まで生き延び、2001年ハワイでなくなりました。
第二次国共合作の実現
1937(昭和12)年七月日中戦争が始まります。その二ヶ月後の九月、国民政府と共産党は正式に協力体制(第二次国共合作)を実現し、共産党軍は「八路軍」「新四軍」に編成されて日本軍と戦うことになります。共産党軍の戦い方は、農村に拠点を置くゲリラ戦術であり、正規軍同士の戦いしか知らない日本軍を悩ましつづけます。あわせていえば、こうした戦いの中で共産党は農村部に影響力を広げていきました。
日中戦争の発生
盧溝橋事件
日本軍は、満州事変以来、中国北部(華北)への侵入を繰り返し、各地に傀儡政権を樹立、兵力も増強していました。そうしたなか北京(当時は北平(ホーペイ)とよんでいましたが)近郊に駐屯する日本軍部隊が夜間軍事演習をしていました。すぐそばにいる中国軍の基地を攻撃するかのような生臭い演習です。ところが演習が進んでいる内に、数発の銃声が聞こえました。あきらかに実弾の音です。日本軍はただちに演習を中断し、人員点呼を行います。例の「番号!イチ!・ニ!・サン!・・・」というやつですね。すると一人足りないのです。一人の兵士がトイレをしていたところ、急に呼集があったので、いきそびれ、「一人、足りない!敵に捕まった!」と、大騒動をしているので怖くて隠れていたといわれています。中国側に近づきすぎて銃撃されたという説もあります。
とりあえず、謎の銃声をきっかけに事態は一挙に緊迫、日中両軍の間で衝突がおこりました。これを盧溝橋事件といいます。
しかし、現地では双方とも事態の収束をはかり、数日後には停戦が実現しました。ところが、東京の陸軍内部では「これを利用して中国側を一撃し、屈服させるべき」という意見が台頭し、ソ連との戦いを重視する石原莞爾(覚えていますか、満州事変を起こした張本人です)ら指導層と対立します。
「中国は一撃すれば、すぐ屈服する」という意識は、近衛らの内閣も共有していたみたいで、追加部隊の派遣を決定します。大軍が送られるとどんなことがおきますか。
まず中国側。そもそも、日本のやり方に怒りが高まっていた中国側です。停戦したはずだがそれは時間稼ぎだったんじゃないかという疑いが強まります。
そして、日本側。強化される軍事力を背景に、停戦のハードルを上げて、中国側の呑めないことを要求し始めます。そして両者の間で小競り合いが始まり、ついには本格的な戦闘へと発展します。日本軍は北京や天津を占領、華北の各地で中国側と戦闘を繰り返しました。ついに日中戦争が開始されました。
ぼくは、いつも不思議に思うことがあります。テレビでも、新聞でさえも戦争が始まった日として、真珠湾攻撃をした12月8日ばかりを取り上げますが、盧溝橋事件の7月7日の方がはるかに重要だと思っています。本格的な戦闘が開始され、日本中が戦争ムード一色になったのはアジア太平洋戦争ではなく、日中戦争からです。戦争の記憶として伝えられることの多くは、1937年7月7日以降です。南京大虐殺も、慰安婦問題も、この時期の話です。そして7月7日は「七夕の日」としてのみ扱われます。日本のジャーナリズムは、日中戦争を避けようとしているのではないかとついつい疑ってしまいます。
日中戦争と「支那事変」
ちなみに当時、日本人が中国をさして使っていた「支那」という言葉ですが、現在は差別的なニュアンスを持っていますので使わないでください。
満州事変のところでいいました。事変は「宣戦布告をしていない国際紛争」。たしかに宣戦布告をしていない、その点では「事変」です。しかし満州事変でたたかった相手は地方の軍事勢力であり、国家と国家の戦いという形ではなかった。これにたいし日中戦争は明らかに国家と国家の戦争でした。日露戦争の最大動員時の100万の兵力を七年間にわたって中国に展開させ、日米戦開戦までの五年間の死者も三〇万人と日露戦争の一〇万人を遙かに上回りました。軍事費にいたって日露戦争の14倍という巨大なものになります。中国側の被害は計り知れないものです。一九世紀以来の戦争を死者の数で順番に並べて場合、三番目に位置する戦争、人類史上三番目の大量の被害者をだした戦争でもあるのです。
こうした意味合いからも、「事変」といういい方で日中戦争をとらえることは妥当ではありません。日本国内には、7月7日のとらえ方も含めて、日中戦争をできるだけ小さく見せたいと考えるある種の「圧力」があるような気がします。
「日本は米英に負けたのであって、中国に負けたのではない」と思い込みたい人が多いのも、「戦争」ではなく「事変」であるといいたがる背景にあると思います。
なぜ宣戦布告をしなかったのか?
一つ目は、戦争にははっきりしたたたかう理由が必要ですね。何度かいったいい方を使えば「正義」あるいは「大義名分」です。ところが国内外に対して積極的な大義名分が見つけられなかったのです。国民には、「暴支膺懲」=「乱暴な「支那」をこらしめる」といっていますが、こんないい方で世界に通用するはずがない。これがためらった一つ目の理由です。
もう一つはもっと切実です。前もいったとおり、軍事物資の原材料の大部分はアメリカやイギリス圏から輸入しています。また武器などを作るための工場の機械などもアメリカ製です。さて、日本と中国が戦争を始めるとどういうことになりますか。国際法では戦争をしている双方との貿易は厳しく制限されます。ここで宣戦布告をし、戦争となるとどうですか。アメリカなどから、石油も鉄鉱石も工業機械も買えなくなってしまうのです。
この二つの理由で日本は宣戦布告をして、戦争とすることを断念したのです。
しかし、日露戦争をはるかに超える戦争を「たいしたことのない国際紛争」=「事変」としたままであったこと、戦争の「大義」も不明瞭のままであったことは、国民の間のストレスをためさせることになります。家族や知り合いを戦死させた人にとってはいっそうこうした気持ちが大きかったでしょう。
宣戦布告しないことを歓迎する意外な人たち
アメリカは日本が宣戦布告をして戦争となれば、これまでのように派手な貿易ができなくなります。アメリカでは、当時いったん収まりかけた恐慌がふたたびぶり返していました。不況のアメリカから、大量に原料や機械などを買ってくれるお得意先、それが日本でした。アメリカにとっても戦争でなく事変の方が都合がよかったのです。アメリカは目に見えるところでは日本を非難しながらも、見えないところではたんまりと儲けていたのです。
上海での戦い~日中全面戦争へ
こうして、開戦当初の四か月だけで九〇〇〇人を越える死者と三万人を超える負傷者が生まれました。