社会運動の発生と桂園時代


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社会運動の発生と桂園時代

桂園時代

日露戦争後の政治について、少し触れておきます。
日露戦争当時、首相・桂太郎は国会運営を円滑にするため、政友会に取引を持ちかけます。「国会運営に協力してくれれば、戦争終結後、政友会の西園寺公望に総理大臣の地位を譲る」と。
政友会が受け入れたことで桂は5年という当時では珍しい長期政権を実現しました。日比谷焼き討ち事件が民衆暴動だけで終わったのは、政友会が桂を支持していたからでした。
桂は約束通り総理大臣の地位を譲り、1906(明治39)年1月政友会総裁の西園寺公望による内閣が成立します。これからのち、10年足らず、政友会総裁の西園寺と陸軍大将で藩閥出身の桂が交互に政権の座につきます。桂太郎の「桂」と、西園寺公望の「園」の一字ずつをとって、桂園時代といいます。
山県有朋と伊藤博文、それぞれの子分ともいう人物が交互に政権を交代したのです。伊藤ら元老も二大政党のような感覚で支持したのだろうといわれています。

桂内閣と西園寺内閣

パリ時代の西園寺公望

フランス留学の経験を持ち、民権運動にもかかわった西園寺の方がややリベラルであったといわれ、1906(明治39)年結成された日本社会党も様子を見る姿勢をとりました。外交面でもアメリカとの協調を重視する姿勢を持っていたと言われ、ややハト派的だといわれます。あくまでも程度問題ですが。
ハト派とタカ派、このいい方、わかりますか?平和主義的なのがハト派で、攻撃的・好戦的なのがタカ派ですからね。今風にいえば、草食系がハト派で、肉食系がタカ派ですかね。
桂は、陸軍軍人であり、政党を嫌い藩閥論理で政治をすすめたい山県にかわいがられるタカ派です。
1908(明治41)年成立した第二次桂内閣は、韓国併合を実現する一方で、「戊申詔書」などで国民の統合をはかり、大逆事件で社会主義者への大弾圧を行いました。なお、1911(明治44)年関税自主権を回復し条約改正を完成させています。

明治から大正へ

条約改正を完全実現した第二次桂内閣が1911(明治44)年辞職すると、合意にしたがって第二次西園寺内閣が成立、1912年7月30日、明治天皇が死亡し明治時代は終わり大正時代となります。不思議なことに天皇の変わり目に大きな事件が起きるようです。民衆が第三次桂内閣にノーをつきつける大正政変をきっかけに、明治とは一味ちがった大正時代が花開きます。

産業革命と労働者、「下層社会」

日清戦争の少し前くらいから日本でも産業革命が発生、20世紀に入る頃からは重工業などにも波及するなど本格化し、日露戦争が終わる頃には資本主義が定着していきました。
労働者の状況 帝国書院「図説日本史通覧」P238

労働者の状況
帝国書院「図説日本史通覧」P238

しかし、日本の産業革命の中心となった製糸業や綿紡績業は、未成年の女工たちの低賃金・長時間労働によって支えられていました。
他方、しだいに工場の職工などが増加してきたとはいうものの、都市には下層社会が膨張し、車夫な日雇いといった雑業に従事する人も多く、炭鉱や工事現場など生命すらも軽視されるような職場が数多く存在していました。

こうした状況について、横山源之助が「日本之下層社会」というルポルタージュを発表、農商務省も調査を開始、「職工事情」という報告書を出すなど人々の関心を集め、改善を求める声も高まります。政府が「工場法」という労働者保護の法律の制定を目指したものの、資本家たちの反対で難航したことも前回見たとおりです。

労働運動の発生

このような労働者の状態を自分たちの力で改善しようという運動が生まれ始めます
前回、1886(明治19)年山梨県の女工たちがお寺に立てこもって待遇改善を求めたという話をしました。
このような労働者と資本家との間の争いを労働争議と呼びます。みんながいっしょになって仕事をストップさせて自分たちの要求実現をめざすやり方をストライキとよび、労働争議でもっとも多くつかわれる手段です。
日本最初のストライキが、この山梨の女工さんたちの行動だと考えられています。
しかし、当然のことながら、資本家の側はこうした動きをつぶそうとします
どんな風に?最も多いのは、中心人物や関係者、参加者をクビにすること。あと暴力を振るったり、脅迫をしたり、家族に圧力をかけたり、会社の言うことを聞けば給料を上げたり昇格させるという甘い話を持ちかけることもあります。とりあえず、いろいろなやり方で労働争議を失敗させようとします。
とくに女工さんたちは、家とのつながりが強く、隔離された状態におかれていることが多かったので、泣き寝入りすることの方が多かったみたいです。

労働運動と社会主義

日清戦争後、産業革命が進展し、都市化が進み、急激な物価上昇がつづくなか、「これでは生活ができない。賃金を上げて欲しい」「あまりにもひどい労働条件をなんとかしてくれ」といった声が高まり、労働争議も活発化してきました。社会問題の解決をめざす運動もつぎつぎと生まれます。
こうしたなか、1897(明治30)年にはアメリカから帰国した髙野房太郎は、キリスト教の立場から社会主義をめざしていた片山潜らとともに労働組合運動を活発化させようとして労働組合期成会を結成、「労働世界」という新聞を発刊します。機械工の人たちが作った鉄工組合や印刷関係の人による活版工組合などが結成され、鉄道に働く人たちが作った鉄道矯正会結成にも影響を与えました。
社会民主党の創設 帝国書院「図説日本史通覧」P238

社会民主党結成 帝国書院「図説日本史通覧」P238

片山は安部磯雄幸徳秋水らとともに社会主義研究会を発足させ、1901年には日本社会民主党結成を宣言します。

このときのメンバー6名の内幸徳秋水以外の5名はキリスト教徒でした。日本の社会主義はキリスト教の平等の思想と深く結びついていたのです

ちなみに安部磯雄は早稲田大学野球部の創設者で「日本野球の父」ともいわれています。

治安警察法と社会民主党

政府はこうした動きには敏感です。とくに敏感な人物が・・・山県有朋です。
そして社会主義や労働運動など活発化しつつある政治運動や社会運動を弾圧するための法律が作られました。おぼえてますか?・・・治安警察法。1900(明治33)年。第二次山県内閣の時。
この法律は、1901年さっそく使われます。その対象とされたのが、片山や幸徳らが結成した社会民主党
結成と同時に禁止されます。片山らも、結成したとして新聞に発表することに意義を見いだしていたともいわれます。
その後、社会民主党に集まった幸徳が堺利彦らとともに日露戦争非戦論を唱える平民新聞を発行したことは既に見たとおりです。
この法律は、労働組合期成会などにも適用され、期成会の活動は停滞し、ついには解散に追い込まれます。

日露戦争後の停滞

日露戦争は日本を「世界の一流国」におしあげました。しかしポーツマス条約にみられる国際政治の現実は日本の甘い期待を打ち砕きました。(指導者たちはわかっていましたが・・・)
帝国書院「図説日本史通覧」p234

帝国書院「図説日本史通覧」p234

こうして、これまで日本を強迫観念のようにしばってきた「列強においつく」というスロ-ガンも、「日本のために」というナショナリズムも色あせはじめます
Sōseki in 1912

夏目漱石 小説「それから」で実業家の父に反抗し、親の金で高等遊民の暮らしをつづける人物像を描いた。

明治前半、自由民権期のころの「新しい時代を作る」といった危ういけれどキラキラと輝いて見せた日本の未来は、明治憲法下で完成されつつあるシステムに吸収されてしまいます。
学生たちにも、国家や民間の官僚制の中で「家と国家と会社に尽くす生き方」「立身出世」こそが「堅実な未来」として求められます。

他方、そうした生き方に反発する個人主義的な考え方も生まれます。将来に絶望し、自らの命を絶つ人たちも現れてきます。
夏目漱石の小説には、この時代の空気が色濃く示されています。
帝国書院「図説日本史通覧」P234

帝国書院「図説日本史通覧」P234

戦争の間だけということで受け入れた税金に加えて、戦争中の借金の返済、軍事費の増加によって、さらなる重税がのしかかってきます。この時期の国民一人あたりの租税負担は日清戦争直後の1897年の倍になってきました。都市化にともなうインフレで物価も上昇しています。厳しい生活におかれた都市の下層社会での困窮は先に見たとおりです。

工場では、寄生地主制のもとでの貧困と前近代性の影響をも受け、長時間低賃金、劣悪な労働環境と無権利状態、その矛盾をいっそう浮き立たて、労働者の不満も高まり、労働争議なども増加の兆しを見せます。
このように社会の中に不満が渦巻いています。こうした社会の中で、平等な社会をめざす社会主義の運動も影響力を持ち始めてきました。

「戊申詔書」と大逆事件

このような日露戦争後に急速に広がった社会の不満やこれまでの価値観への疑問、個人主義や社会主義のひろがりに危機感を抱いたのが元老山県有朋や桂太郎といったリーダーたちです。
第二次桂内閣では、質素倹約による国力増強をもとめる「戊申詔書」が出され、それにもとづき内務省主導で行われる地方改良政策がすすめられました。在郷軍人会が結成され、各地に忠魂碑などが建てられていきます。
大逆事件を報じた新聞記事 東京書籍「日本史A」P67

大逆事件を報じた新聞記事
東京書籍「日本史A」P67

そして天皇暗殺を計画したとして幸徳秋水ら社会主義者を一斉に逮捕、24名に死刑判決を出し、幸徳を含む12名の死刑を執行した大逆事件が発生しました

この事件は、社会主義者にとどまらず、社会全体を震撼させます。石川啄木は「時代閉塞の現状」という評論を書き、徳冨蘆花は「叛逆論」という講演を行い大問題となり、永井荷風は戯作的な文学を生きることを決意します。
帝国書院「図説日本史通覧」p234

帝国書院「図説日本史通覧」p234

社会主義は「冬の時代」を迎え、牢に入っていたために死刑を免れた堺利彦や山川均らはアルバイト生活に追われることになります。

足尾銅山鉱毒事件

「渡良瀬川遊水池」

渡良瀬川遊水池 渡良瀬川遊水池のHP(http://watarase.or.jp/)より

現在、関東平野のど真ん中、栃木・埼玉・群馬・茨城に広がる池と大水になれば池となる荒れ地が広がっています。絶滅危惧種をも含む野鳥や昆虫の楽園となり、ラムサール条約にも登録されています。渡良瀬川遊水池といい、明治の末期から大正にかけて、そこに住んでいたと人々を追い出し作った人工の池です。
なぜ、このような池が作られたのでしょうか。

足尾銅山

渡良瀬川の上流には非常に重要な銅の鉱山がありました。名前、知ってる?・・・足尾銅山。江戸時代からの鉱山で、1877(明治10)年古河市兵衛という人に払い下げられます。
ここで1885(明治18)年、大鉱脈が発見され、日本の銅の40%を産出するアジア最大の銅山となりました。生糸以外に輸出品のなかった日本にとっては非常に重要な存在です。足尾銅山は急激に事業を拡大します。
帝国書院「図説日本史通覧」p248

帝国書院「図説日本史通覧」p248

しかし、さまざまな問題も引き起こしました。煙は大気汚染を引き起して農作物や山の木を枯らし、有害な残土は処理されないまま渡良瀬川に流れ込みます。その土にはカドミウムなど多くの有害物質が含まれており、魚が大量死し、稲も枯れました

ある村では、死んだ子どもの数が成人した者の数を上回り、徴兵検査で合格した者は50数人中2人でしかなく、そのうち一人もすぐ返されるという健康状態となります。明らかな健康被害が現れていたのです。
このような足尾銅山が周辺に多くの被害をもたらした事件を足尾鉱毒事件といいます。
ちなみにカドミウムっていう鉱物の名前、聞いたことない?
四大公害訴訟、習ったよな?富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病の原因物質がカドミウムです。これを摂取すると、骨がもろくなって、ポキポキと折れ、すごく痛い。それでこの名前がつきました。このイタイイタイ病がこの地域にも存在したことが、現在になって知られています。
さらに山の木が、鉱山の使うといって切られ、さらに立ち枯れもひきおこしたため、洪水を頻発させます。
ただの洪水ではありません。大量の有害物質を含む洪水です。
汚染された土が広大な関東平野にばらまかました

鉱毒反対運動と田中正造、荒畑寒村

農民たちは東京に出向いて政府に請願を繰り返します。逮捕者もでました。
衆議院議員であった田中正造は、彼らの訴えに耳を傾け、誠実に対応しました。何度も何度も国会でとりあげましたが、政府は一向に改善しようとしません。そこで田中は1901(明治34)年天皇に直訴するという行動にでました。ちなみにこの直訴状の原稿を作ったのは幸徳秋水でした。
こうした田中の行動は人々の鉱毒事件の存在を認識させることとなり、政府も対策に乗り出さざるを得なくなりました。そうして作られたのが最初に話した渡良瀬川遊水池です。
大きな池を作ることで下流の洪水を食い止めるとともに、上流から流れ込んだ鉱毒を沈殿させようとしたのです。下流対策にはなりましたが、上流では洪水が多発しつづけます。上流での鉱毒被害に効果がなかったのはいうまでもありません。この池を作るため、この地にあった谷中村の人は強制的に移住させられることとなりました。政府の強引なやり方に反発した田中は谷中村に住みこみ、荒畑寒村という若者にこうしたこのやり方を弾劾するルポルタージュを書くことを依頼しました。それが「谷中村滅亡史」で、現在は文庫本としても出ています。

荒畑は、幸徳秋水のもとに出入りしていた人物で、大逆事件の中心であった管野スガの元夫であり、共産党や社会党の結党にもかかわった人物です。ぼくが大学生の頃、「徹子の部屋」に出演していたので、びっくりした記憶があります。

資本主義と環境問題

資本主義というものが利益を上げることを目的とするものである以上、企業はコストをできる限りおさえて、商品の価格を安くして競争に打ち勝とうとせざるをえません
労働者の賃金を抑え、長時間働かせるというのもこうした資本主義の本質から生まれるものなのです
さらに空気や水、そこから生み出される健康被害などはあまり考慮されませんでした。コスト低下を第一にしたため、環境面の配慮を欠いていたのです。
現在でも、価格の安さを最大の売り物にしようとする発展途上国などではこのような環境の配慮が欠けた開発が行われがちです。
日本企業が日本では通用しない基準で操業し、反発を買うという事件もありました。

しかし、低賃金・長時間労働が人々の生活と健康をむしばみ、国内市場の狭さという問題を引き起こしたように、環境への配慮を欠くことは地球的な汚染などの問題を引き起こし、ひいては人類の危機につながることです。

近年になって、急速に発展した中国などでは近代化を急ぐあまり、環境への配慮をしないまま工業化を進めました。その結果、汚染された大気によって日本や韓国で酸性雨というが降りそそぐという問題を引き起こしています。環境の問題は一国では済まないのです。
日本も長い間大量の有害ガスを排出し、酸性雨を降らせていたのでしょう。しかしはアジアの一番東にあったため、多くは太平洋に降り注ぎ、表に出なかっただけなのです。
環境問題、公害問題が人々の目を引くようになったのも、日清戦争前後の時期からでした

田中正造像 渡良瀬川遊水池HP(http://watarase.or.jp/about/)より

「欧米列強に追いつく」ことを最優先してきた明治の日本。日露戦争の勝利と条約改正、産業革命を経て資本主義も定着しつつあります。
しかし、強引な日本の近代化がもたらした矛盾と近代資本主義社会がもともと持っていた矛盾が相乗作用をおこしながら、この時期、はっきりとあらわれてきたのです。
そして新しい時代が始まります。
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