開国前夜~近代の台頭と対外情勢の緊迫化


<前の時間:江戸時代の経済と政治>

Contents

開国前夜~19世紀前半の日本

<授業用プリント>

このあたりから、教科書にものっているため、内容はやや細かくなってくる。

教育・学問、対外関係の緊張、社会の行き詰まりと幕政・藩政の改革の3つでまとめた。

これも「教科書よりやさしい日本史ノート」(旺文社)をもとに整理している。

<生徒のノート・板書>

板書内容がやや細かくなり始めているのは、上記のプリントと同様の理由から。

この生徒のノートは非常にうまく、わかりやすく整理している。

生徒のノートより 開国前夜

生徒のノートより
開国前夜

生徒のノートより

生徒のノートより

 <11時間目>

19世紀、激動の世紀が始まる

19世紀前半、幕府が滅びるなんて考えてもいなかったが…

これまでは、教科書の記述が以前だったけど、今日から教科書にのっている部分となる。
時期は、18世紀末から19世紀の前半
これに続く19世紀中期、ペリーがやってきたことをきっかけに幕末の混乱期になる。
そして、1868年には明治時代。「文明開化」の時代だ。
世紀末の1894年には日清戦争が起こる。
鎖国のもとでまどろみ、だれも幕府がつぶれるなんて予想もしなかった時代。そして、急流にまきこまれるように欧米化し、列強の一角に食い込む時代に入っていく
まさに激動の世紀だ。

「学び」が必要とされ、裾野が広がる。

庶民の教育機関「寺子屋」

この時期、貨幣経済(「ゼニ」の経済)がいっそう深まる。
農業も今までのやり方では通用しなくなる。
百姓も、農業書を読み、コスト計算が必要となる。
そのためには、「よみ・かき・そろばん」が必要になってくる。そして、爆発的な勢いで、庶民のための学校…、寺子屋ができる。
もともと、日本では文字を読める人の割合が高かった。
この時期においても、識字率は世界のトップクラスであったと思う。こうした力が日本の近代化に大きな意味を持つ。

まじめに生き、働くことの強調「通俗道徳」

さらに、町人や有力農民の間でも学問熱が高まる

生徒のノートより

倹約に励み、まじめにこつこつと勤勉に働けば必ず成功するといった心学などの通俗的な道徳がこうした人々の心をとらえる
ちなみに、ヨーロッパでも資本主義が成立する時期に、同様に、勤勉と努力、質素・倹約につとめることを重視する生き方が広がっていた。
近代が始まる時期には共通した生き方のようにも思える。

「国学」が有力な百姓や町人などに

日本古来の文学や歴史などを学ぶことで日本古来のあり方を考える「国学」なども広がりを見せる。
「国学」は、上下関係を大切にする江戸時代の道徳の基本である儒教(とくに朱子学)や、さらに仏教を「からごころ」(外来の学問・精神)として否定し、人間のありのままの感情を大切にし、素直な気持ちで生きることこそが日本人独自の精神・生き方(「やまとごころ」)として重視した
宣長の肖像

本居宣長 日本古来の精神に戻ることを主張し、儒教や仏教を「からごころ」として批判し、国学を大成させた。

 ここには、精神の解放を求める近代的な人間のあり方の萌芽を見ることができる。
しかし、後期になると国学は天皇こそが日本の中心であるという尊王思想とむすびつきを深め、商人や有力百姓などのあいだに影響力を強めていく
武士よりも下の身分と位置づけられていた彼らにとって、天皇と結ぶつくことは、時代を違う視点から見直すきっかけをつくることに結びついたのかもしれない。
「素直な気持ち」を強調したはずの「国学」が、百年後には、人々の精神を締め付け、戦争に押しやったのだから、皮肉な話だ。
初期の特攻隊の隊の名前が、国学者本居宣長の歌からとられているのも有名なエピソードだ。

「蘭学」の発展、世界の中の日本という視点

蘭学

生徒のノートより

蘭学も広がりを見せた。
蘭学とは、オランダ語を学び、それを元に世界の文化に触れようとする学問だ。
蘭学は、実際の人体解剖に立ち会った医師の前野良沢・杉田玄白らが、もっていたオランダ解剖書の挿絵のあまりの正確さに衝撃を受けこの本の翻訳をはじめる。いわば中学校1年の単語帳だけで医学専門書を翻訳する感じだ
解体新書

前野良沢・杉田玄白らによって翻訳された解体新書日本の蘭学の基礎を作った。 (神戸市立博物館蔵)

 そうした努力の上に、オランダ語、さらには西洋文化の知識を蓄積される。その蓄積は辞書や文法書を作るなどの形となり、オランダ人らから直接学ぶといった過程を経ていく。そして世界の知識に飢えていた知識人(おもに医師)の中に急速に広がっていった
18世紀後半には、その興味は医学だけにはとどまらなくなっていく。すでに18世紀中期には平賀源内のようなあらゆる分野に興味を示す人物が出現したが、この時期には林子平のように世界情勢を深く理解し、日本のあり方に警鐘を鳴らす者も現れてきた。
田沼意次はこうした動きに好意的であったが、松平定信は「幕府が世界の知識を独占すべきだ」との立場から、こうした動きを危険視、林のように弾圧されることもあった。

日本を取り巻く国際情勢の緊迫化

「二重革命」の時代~産業革命の持つ意味

T22

産業革命は膨大な原料を必要とし、さらに生産された大量の工業製品を広く売りさばかねばならなかった。 東京書籍「日本史A」p22

蘭学の広がりの背景には、日本を取り巻く情勢の緊迫化に一因がある。
18世紀後半の欧米諸国は、市民革命と産業革命が平行して進む「二重革命の時代」であり、民主主義と資本主義という近代世界の二つの柱が確立してきた時代であった。
 産業革命は、これまでの生産能力を飛躍的に発展させた
 綿紡績機の糸を紡ぐスピ-ド、手で糸を紡ぐスピードの2000倍にも達するといわれる。別の言い方をすれば、同じ時間で2000倍の綿糸ができることになる。それを大量に工場に持ち込み、さらにそんな工場がイギリスにできるのだから、その生産量は想像を絶する

産業革命は世界を変える~「グローバル化」

T25

東京書籍「日本史A」P25

作ったものは、売らなければならない!
どこに。
ヨーロッパの他の国では、こんなものを持ち込まれればたまったものではない。
各国は、いろいろとじゃまをしながら、自国内でも同じような機械を入れ、自国でも産業革命を起こそうとがんばる。
 そこでイギリス、そしてこれにつづく欧米列強が目をつけたのが世界、特に人口が多いアジアだ。
もう少し別の面も見よう。
綿糸を紡ぐといっても、空気から作るわけにはいかない。
原料の綿花が必要だ。
どこから持ってくるのか。急に2000倍もの綿花を売ってくれといったってどこにもない。
だから、必要な綿花を供給する綿花畑が必要だ。
でも綿花は主に熱帯の植物。
エジプトで、インドで、そしてアメリカ南部で。

列強は、「開港」を強要、さらには植民地化を

こうしてイギリス、そしてそれにつづく欧米諸国は、工業製品の売り場(市場)と原料の供給地を求めて、世界へ進出する
アジア内部の中継貿易でもうけていたかつてのポルトガルやスペインとは違って、自国で作ったものを売り、自国の工業製品の原料を得るために
これがうまくいかなければ、イギリスという国は立ちいかなくなる。
だから、乱暴な手段を使ってでもむりやり「自由貿易」をはじめさせ(これが「開港」)、ときには占領して植民地にさえしてしまう。
19世紀の初め、イギリスはインドの植民地化をすすめる真っ最中だった。こうした動きは他の欧米諸国も刺激する。フランスはヴェトナムにねらいをつけはじめる。

ロシア船の出没と蝦夷地探検

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ロシアのシベリア進出と大黒屋光太夫のシベリア横断 帝国書院「図録日本史総覧」P183

日本に対して、最も活発なアプローチを掛けてきたのが、日本の隣国でもあるヨーロッパの大国…
そう、ロシア
ロシアは17世紀以降、東方のシベリアへの進出を開始、18世紀後半にはオホーツク海からベーリング海、さらにはアラスカに達した。
海に出たロシアは、ラッコなど毛皮獣を追って、一方では樺太を、他方ではカムチャツカ半島から千島列島へと南進、先住民のアイヌ民族と接触し、さらに南部の日本人(ヤマト系・和人)との距離も接近する。
日本では工藤平助という人物が「赤蝦夷風説書」という本を書いてこうした事情を報告した。
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北方探検の進行 山川出版社「詳説日本史」P236

当時の幕府のリーダー田沼意次はロシア交易を検討、蝦夷地の探検を始めさせた。
ところが、田沼を嫌う松平定信は探検隊の関係者の多くを罪に陥れ、その命を奪ってしまった。
わずかに身分が低かった最上徳内のみが生き残り、探検と研究をすすめ、その成果を引き継ぐ。状況が緊迫していく中で、近藤重蔵間宮林蔵らによって、蝦夷地、さらには千島列島・樺太という北方の探検がすすられる

大黒屋光太夫~世界を見た日本人

ロシアでも太平洋を南下するなかで文明国、すなわち日本の存在に気づいていた

ロシアは流れついた日本人を保護し、彼らを教師として日本語学校を作り始めた。

こうしたなか、北極圏のロシア領に一艘の日本船が漂着、船長の名を大黒屋光太夫という。彼らはロシア人との接触、ロシア語をマスターした。
余談:外国語をマスターするとき、最初に覚える言葉は?
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帝国書院「図説日本史通覧」P185

ちなみにまったく言葉の分からない人とコミュニケーションをとるとき、これを覚えるといちばん役立つというフレーズがあるんだけど、わかる?
「ハロー、こんにちわ。」「グッドモーニング?」
たしかに大切。でも、それで終わり、発展しない。
実は「”What is this”(これはなんですか?)」だそうだ。
たしかにそうだよな。
いろいろなものを指さして、「これはなんですか?」を連発すれば、あっという間に数十の単語が身につくし、相手も同じ言葉を聞いているのが分かれば、こちらの単語も教えられる。
余談だけど。ちょっと役に立ちそうなので話しておく。
エカチェリーナ二世に謁見する。

大黒屋光太夫(生徒のノートより)

さて光太夫らは漂着した島を離れシベリアに渡る。現地での日本語学校教師就任の誘いを拒否し、日本へ帰ることを要求、話がつかないと分かると、10000キロに及ぶシベリアの大地を横断して、ロシアの首都のサンクトペテルブルクに行き、当時のエカチェリーナ二世と対面、その許可を得て、日本への帰国をめざすこととなる。
ラクスマンとともに、日本に!
ロシア側としては、彼らを土産にして日本との接触を図ろうとしたのだと思う。
1792年、ロシア側使節ラクスマンに伴われた光太夫らが根室に到着、そのときは三人だったが、そこで一人が死亡、函館で日本側に引き渡され日本に戻れたのは、船に乗っていた50数名のうち二名だけだった。世界を見た彼らが日本で幸せだったのかどうか、いろんな思いがわいてくる。
さてラクスマンだが、日本側との交渉の結果、光太夫らを引き渡し、交渉は長崎でするから、やってきたときは長崎港に入港する事ができる許可証をあたえられて帰国している。

レザノフの来航、第一次日露戦争???の勃発

この時点までの日露関係はかなり友好的にも見える。
ラクスマンの交渉の結果を受けて1804年に長崎にやってきたのがレザノフ
許可証を持っているのだから、直ちに交渉ができるのかと思いきや、長崎で半年間も待たされ、一応船からは降ろしてもらえたが、まったく外とは接触できない建物におし込められ、
外国と交易しないのは日本の掟、すぐ出て行け!」といっておいだされる。
みんながレザノフだったらどう思う?
やっぱり頭にくるよな。「ムカつく」いうことで、レザノフの部下たちは樺太やクナシリなんかの日本人居留地を攻撃する
このようなレザノフの行動は、ロシア政府も予測しておらず、ロシア側も頭を抱えたみたい・・・。
こうして、一時的に日本とロシアの間で紛争が発生、両国関係は緊張状態となる。

ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛

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高田屋嘉兵衛 ロシアと交渉し日本とロシアの緊張関係を解消させた

事態は、さらに緊迫の度合いを高める。日本側は1807年にロシア船打払令を出すに至る。
こうしたなか、1811年、ロシア士官ゴローニンが千島列島のクナシリ島で日本側に捕らえられるという事件が起こった。(ゴローニン事件
ロシア側も対抗措置をとる。ロシア側は蝦夷地で幅広く仕事をしていた商人高田屋嘉兵衞をとらえた。
嘉兵衞はロシアと幕府の間を取り持って交渉、レザノフの部下の乱暴はロシア政府の命令でないことを説明することで話がついた。ゴローニンも、もちろん嘉兵衛も釈放された。
この出来事をきっかけに日本とロシア両国間に緊張はほぐれることとなる。

フェートン号事件と外国船の接近

レザノフが長崎を去って、四年後の1808年長崎にイギリス船フェートン号が侵入、出島のオランダ人を一時人質にするという事件を起こす。
フェートン号は、食料や水をもらって出て行くが、日本側は「何もできなかった!」結局、長崎奉行らが切腹することでけじめ?をつける。でも、そんな問題じゃないでしょ!と、ツッコミたくなる。
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山川出版社「詳説日本史」P236

この事件はちょうどヨーロッパで起こっていたナポレオン戦争が日本に波及したもの、ナポレオンは日本にも影響を与えていたんだ。
これ以後、外国船が日本近海に接近、ときには上陸する事件が多発する。上陸して、牛を捕まえて逃げるといった事件も起こる。
とりあえず、日本のそばに外国船が急速に増えてきたことは事実だ。とくに、日本近海は鯨が多く捕れたので、捕鯨船も多く、たまには陸地に上陸したいし、久しぶりに牛を見てビフテキが食いたくて仕方なかったというのが実際かもしれない。

異国船打払令と蛮社の獄

こうした外国船の接近が相次ぐという事態を受けて、1825年幕府は「日本に近づいた外国船は大砲をぶっぱなし、追い出せ」という「異国船打払令(無二念打払令)」という命令を出す。

蘭学の発展(生徒のートより)

この命令が実際に実行されたのが1837年のモリソン号事件日本人の漂流民を乗せて日本に接近したアメリカ船のモリソン号に大砲を撃ち込むという事件
幕府側からすれば、「日本の力を思い知ったか」とでも思うだろうが、世界のことを知っている人々からすれば、それが戦争の引き金となり、日本が植民地にされるという悪夢につながることはすぐわかる。
だから…、黙っていられなかった
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帝国書院「図説日本史通覧」p185

田原藩という弱小藩の家老であり、画家としても有名な蘭学者渡辺崋山「慎機論」という意見書を書き、サークル仲間の医師高野長英は「戊戌夢物語」というSF小説で夢を見たという体裁で世界の情勢を説明した。こうした形で、モリソン号事件での対応のまずさを批判したのだ。
高野の論は高い評価も受けたが、幕府内部には蘭学者に対する反発を持つものも多く、幕府内の渡辺の主催するサークルに参加している幕府官僚への反発もあって、渡辺や髙野ら対する弾圧に踏み切る。この弾圧事件を「蛮社の獄」という。
その後、高野は自分の弟子に牢獄を放火させて、脱走するという恐るべき行動に出る。そして、秘かに兵書などの翻訳にあたる。
崋山は藩で謹慎を命じられた。親思いの彼はもう一つの特技の絵を売って生活に当てようとしたが、このことが問題となり、自らの命を絶ってしまった。
逃走した高野は逃走を続けたが、ペリー来航の二年前、役人に踏み込まれ、逮捕の過程で死亡した。

アヘン戦争の発生と薪水給与令

国内に対しては強気に出た幕府であった。
しかし、1840年、中国でアヘン戦争が発生、清がイギリスの前に完敗すると、「異国船打払令」というマッチョな方法をあっさりと捨て去り薪水給与令というきまりに変更する。
外国船がやってきたら、笑顔で迎え、「薪」すなわち燃料、さらには「水」=飲料水を与える。こうしたときの、日本の役人の反応はすばやい?!

社会のいきづまりと天保の改革

天保の飢饉、一揆・打ちこわしの激発、大塩平八郎の乱

この時期は、社会の行き詰まりが明らかになってきた時期でもあった。

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大塩平八郎の乱 反乱自体はすぐ鎮圧されたが、各地で「大塩の弟子」と称する反乱が発生、大塩の檄文は秘かに流布した。帝国書院「図録日本史総覧」P186

1830年代には天保の大飢饉が発生、大量の餓死者が発生、各地で藩中の百姓が立ち上がるような、あるいは藩の枠を超えたような、巨大な百姓一揆が発生、都市でも打ちこわしが頻発した。
さらに、幕府の元役人であり、陽明学(儒教の一派)の学者であった大塩平八郎が大坂で反乱を起こした
反乱自体は半日で鎮圧されたが、彼の書いた決起文は日本中で回覧され、大塩の門弟と名乗る反乱も発生した。焼き出された大阪の市民も「残念だった」といい、彼を批判したものは少なかったという。

幕府の天保改革

こうした状況の中、新たな改革が行われた。
老中水野忠邦による天保の改革である。
いつもながらの倹約・風紀粛正はもちろんであるが、幕領を江戸と大坂近辺にまとめて使い勝手を良くしようなどと考えた。
しかし、日本中の反発をあびて、あっさりと失脚した。
かれがやめたことを聞いた江戸の庶民は、水野の家に投石をしたりして、鬱憤晴らしをしたと伝えられている。
そこで一句「古石や 瓦飛び込む 水の家」江戸の人、なかなかいうね。

雄藩の成立~改革に成功した薩摩藩・長州藩…

幕府の改革が、失敗したこの時期、いくつかの藩でも改革が行われた。
やったことは「借金の踏み倒し」、今風にいうと「銀行による債務放棄」。いい方が変わるとイメージがまったくちがう。各藩が持っていた借金を事実上チャラにしてもらったんだ。
そして、様々な手段で金儲けの作戦をねる。
薩摩藩は、琉球をつかった密貿易、奄美諸島の人たちにサトウキビを栽培させタダ同然の値段で買い取るなどのやり方。
長州藩西回り航路の折り返し点である下関に藩営の商社を作って、西回り航路の船が持ってきた荷物の売買を行い、多くの収入を得るやりかた。
そのほか、土佐肥前といった藩でも改革に成功、こうした藩は、その後雄藩と呼ばれ、幕末の政局の中心となっていく。
さて、こうして19世紀の中期となる。そして、1853年がやってくることになる。
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