豊臣秀吉の天下統一~戦闘モードから平和モードへ

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<4時間目>

豊臣秀吉の天下統一

<授業プリント>

前回、前々回と同じプリントを使用。まだ半分ぐらいしか進んでいない。

<生徒のノート(板書)>

サイトのトップメニューで使わしてもらっている生徒のノート。授業内容をその場でマンガにするという恐るべき能力の持ち主。
とくにちょっとした雑談風のエピソードを聞き逃さず、見事なストーリー展開とする。「オレ、そんなこといったかな?」ということも平気で書いている。とってもカッコいい!
でも、まだこのころは、遠慮がち?!かな

豊臣秀吉という人間

「貧しい農民」の出身?

じゃ、授業を始めようか。

前回は、戦国大名の政策とスーパー戦国大名ともいえる織田信長についてみてきた。
信長といえば、つぎは秀吉ということになる。
豊臣秀吉について、簡単なプロフィールから。秀吉もやはり尾張の出身。「水呑百姓」(自分の土地をもたない貧しい農民)の家に生まれたと言われる。

「地侍」出身?「地侍」とは?

しかし日本史Bで使っている教科書(山川出版社「詳説日本史」)では、「尾張の地侍(じざむらい)の家に生まれた」(2014年発行)と断言している。しかし、いろいろ読んでいると、本当に断言していいの?という気もする。圧倒的なシェアを誇るこの教科書だけど、かなり大胆な記述をする時がある。ここも、そんな気がすると思って教科書(2015年発行)を見ると「ない?!」。2014年の教科書には「ある!」大きく改訂する年でもないので少し驚いた。
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戦国大名の家臣団の構造 有力家臣の下に有力農民(上層名主)を軍役衆として組み込んで形成されていた。(山川出版社「詳説日本史図説」P133)

都合がいいので地侍について説明する。

地侍とは、武士と農民の中間にいる裕福な農民である。農業をやりながら、農民たちに土地や金に貸し利息をとる。村のリーダーでもある。さらに戦争があれば鎧甲を着て、使用人たちを連れて、「武士」として働く。新たに商工業などに乗り出すものもおり、新しい時代を作り出す中間層である

秀吉が若い頃針を売る行商をしていたというエピソード、遠江(静岡西部)の武士、松下嘉兵衛の下にいて文字や学問を学んだこと。ただの水呑百姓ならこう簡単にはいかない。しかし、それまで文字が読めなかったというが、本当だろうか。いろいろと面白おかしいエピソードの満ちている秀吉であるが、武士へのルートはある程度持っていたようにみえる。

「行商」?で培われた経済感覚と「人たらし」

 ところが、逆に針売りの行商ということに注目して、秀吉は差別される身分(「乞食」「非人」)、あるいはそれに近いところにいたのではという最新の説もある。秀吉は猿に似ていたといわれるので「猿のまねをして針を売る」という乞食(「こつじき」)であったのではというのである。ひょっとするとこの説のせいで、教科書の叙述が変わったのかもしれない。
 独特の経済感覚、地理感覚、よく「人たらし」と称される相手の胸元に飛び込んで人間関係をつくるテクニック、そして人脈、天性のものがあったとしても、行商として磨かれたセンスがあったようにも思える。

信長の下で、異様なまでの出世!

イジメにあって松下嘉兵衞のもとを離れたあと、秀吉は信長の下に仕官する。そして行商時代につちかった?!経済センスと人脈、人間関係構築術などを発揮、新しい時代のニーズを的確につかみ出世していく。その「人たらし」のセンスもあってさまざまな能力を持った人材も集まってくる。そして、信長家臣団の中で急速な出世を遂げる。
他の武士に見られないこういったセンスは「富国強兵」政策を進めようとする信長にとって好ましいものであった。
さらに、実戦でも普通の武士には見られない手法で「勝利」する。さらに、信長の性格も熟知し、怒りを買わないように、買ったとしてもうまく調整する力を持っていた。こうして秀吉は新しい時代を作る唯一無二の能力を持った人物となっていく。

秀吉の天下統一

山崎合戦・賤が岳の戦い~信長の後継者となる

本能寺の変の時、秀吉は現在の岡山県で、中国地方を支配する巨大な戦国大名毛利氏と対峙していた。かれは、知らせを受けるとただちに毛利氏と講和をむすび、超高速で播磨路を戻り、全財産を部下にばらまいて士気を高め、山崎の戦いで明智氏に圧勝、信長の後継候補No1となる
さらに、織田家の相続にさいしても信長の孫を押し立てるという奇策で勝利、さらに織田家の筆頭家臣柴田勝家を賤が岳の戦いで破り、一気にトップの地位に上りつめる。

秀吉を取り巻く状況

こうして秀吉は、信長の後継者という地位を確立、近畿・中部地方、および中国地方の一部を影響下におき、圧倒的な勢力を持つことになった。
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山川出版社「詳説日本史」P161

 しかし、他の地方はまだ戦国時代だ。
戦国大名トーナメント戦」?!も、決勝リーグ!となり地方代表が出そろう。北から、東北代表・伊達政宗、関東代表・後北条氏、北陸代表・上杉氏、中国代表・毛利氏、四国代表・長宗我部氏、九州代表・島津氏。なお、甲信代表・武田氏は信長に敗れ滅亡していたが、混乱に乗じて、東海代表の徳川家がその領地を吸収しつつある。
毛利や上杉は自分の実力と秀吉の力の差を分かっていたのか、秀吉に接近していく。
こういった状況が、秀吉政権の出発点だ。いずれも、大物であり、束になってかかってきたら大変だ。

最大の障害・徳川家康

秀吉の最大のライバル、それが東海地方の徳川家康だ。
家康は、秀吉と対抗する姿勢を見せる。本能寺の変にともなう混乱を利用して長野・山梨といった武田氏の領土をもとの家来ごと吸収していく。
徳川氏の有力家臣はかつての武田家の家来だ。戦国最強軍団といわれた武田氏の軍隊を引き継ぐことで軍事力も急速に伸びている。
後北条氏や長宗我部氏、さらに反秀吉の立場に立つ信長系の部将とも関係をつくり、反秀吉連合を形成しつつある。

小牧・長久手の戦い~家康も天下を狙う!

家康はある時期、自分が天下を取るというつもりでいたと思う。ところが、秀吉に持って行かれる。
「納得できない」と信長の子織田信雄(のぶかつ)を担いで小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いをおこす。
家康はこの戦いで負けなかった。秀吉方の有力な部将を戦死させるなど個々の戦闘では家康が勝利している。
秀吉はやむなく、家康の側の「正義」の源泉を失わせることで戦争を終わらせた。そう、織田信雄と話をつけたのだ。
そして、秀吉は一世一代の「人たらし」で家康を家来とすることに成功する…。一応は。
確認しておこう。家康は負けたわけではない
家康は誠実に家来として仕える。しかし、「いつでも戦えるぞ」という姿勢は持ち続けているし、秀吉も家康を怒らせれば、大変だということを知っている。「腫れ物に触れる」状態が続く。

戦国の平和令~天皇の命令だ。戦争をやめろ!

なんとか家康も取り込んだ。しかし全国の戦国大名をどう屈服させるのか、戦うとすれば「大義名分」も必要だ。変なことをいえば「秀吉?なんぼのもんや!」といわれるのが関の山だ。
そこで秀吉は天皇代理(関白)朝廷の最高地位(太政大臣)を利用して「天皇代理として命令する。勝手な戦争をやめろ!やめないなら天皇に逆らう逆賊として、成敗する」という論理をつきつけた。この命令を「惣無事令」、別名「戦国の平和令」という。
 秀吉は、この命令を実行する形で「九州征伐」を行い島津氏を屈服させる。
のこるは命令を無視し続ける関東代表・北条氏政と東北代表・伊達政宗の二人の大名に絞られる。
そして、1590年、小田原攻めで後北条氏を滅ぼす伊達政宗も小田原にやってきて、秀吉に降参する。伊達政宗は「殺していただいても結構です」とばかりに白装束(切腹の時、着る服)を着ていったということだ。こういう芝居がかったところが、伊達政宗の面白いところだ。
こうして全国統一が実現した

この時期の天皇は

利用価値に気づいた信長

室町時代、天皇は鎌倉時代までもっていた権限を室町幕府に奪われ、存在感を失いつつあった。
その天皇の価値に気づき、は利用できると気がついたのが信長だ。信長は、将軍に代わり自らの「正義」を主張できる存在として天皇に目をつけた。
朝倉氏が比叡山から京都侵入をしようとしたとき、石山本願寺との和睦、天皇の権威は非常に都合の良いものであった。
当然、落ちぶれていた天皇や公家もありがたかった。

<余談 建勲神社って知ってる?>
京都に建勲神社という神社がある。
この神社の祭神は信長!だ。
明治時代になって、政府は天皇の役に立った人物を次々と神社に祀ることにした。こうしてリストアップされた人物の一人が信長だった。そして京都市北部の船岡山にこの神社を作ったんだ。
ちなみに、秀吉を祀った神社もある。豊国神社だ。

天皇の権威を利用する秀吉

秀吉は、天皇を非常にうまく利用した
秀吉は、家柄が家柄だから、藤原氏の養子になったり、天皇の落とし子であるといった荒唐無稽な話を作ったりした。その代わり、天皇や公家の待遇を改善し、大量のお金をばらまき、屋敷などを造ってやる。そして、中臣鎌足が藤原という苗字をもらったように、自分も豊臣という苗字を天皇からもらう…。
天皇代理で藤原氏にしかつくことのできなかった関白となり、官職としては最高位である太政大臣となる。
そして、先に見た惣無事令を出したんだ。
単に「ハクをつける」 だけではなかったんだ。

「戦争」から「平和」へのチャンネル切り替えは大変!

内戦はいったん終わっても、すぐ再開する?!

まったく違う話をしたいと思う。
アフリカなどで主に発展途上国で、国内の人間同士が争う戦争=「内戦がよく発生する。それはそれは悲惨な戦いだ。
 そして、国連を始め、世界の人々が協力して、なんとか停戦に持ち込む。
映画やテレビなどでは「やっと戦争が終わった」と抱き合い、「二度とこんなことはしない」とかいってエンドマークがくる。
しかし現実は残酷だ。
内戦が終わっても、すぐ新たな内戦が始まることが多いのだ。
 なぜ?

「勝つためには何をやっても良い」との衝動

戦争に勝つためには、できるだけ多くの武器をそろえ、できるだけ多くの人を兵士に仕立てる。
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元子ども兵が描いた絵  ゲリラが集落を襲い、人々を殺害している。(テラ・ルネッサンスHPより)

アフリカや中南米などでは小学生ぐらいの子供を誘拐して少年兵に仕立てあげたりもした。
 戦争というのは、勝つためにはどんなことでもやりたいという衝動に駆られるみたいだ。核兵器を使ったり、毒ガスを使ったり、地雷を埋めたり、敵が潜めないように町も村も焼き払ってしまったり。すべての人が敵に見えて皆殺しにしたり。
 多くの場合、戦争後を考えたら戦争なんてやっていられない。

戦争は人間の心もおかしくさせる。

戦場では、人を以下のたくさん殺せる人間が勇敢な人間として認められる。食料不足の戦場では、食料をたくさん集めたものが評価される。奪おうと、その途中で暴行しても殺しても、手段は問われない。食料をたくさん集めた者がえらいのだ。「命は大切」などといって、敵を逃したりすると自分がやられる。
戦場では、「戦場の論理」が人々を動かす。

戦国時代~「戦場の論理」が社会を覆った時代

信玄の話を思い出そう。
信玄は、国内の武士をまとめるためには戦争を行い、戦争で得た土地を国内の武士に配ることで信頼を得てきた
戦争直後、そのあたりの人間を誘拐して奴隷として売ることも、「乱取り」といって、武士への褒美として許されていた。
戦国時代は「戦場の論理」が世間を覆っていた。

平和になっても、戦場の「慣性」は続いていく

戦争がおわり、平和が近づいてくる。
しかし、物理学における「慣性の法則」のようなものが引き続き世間を覆う。人間も社会も簡単には変われない
人を殺すことを義」としていたものが、急に「人命尊重」といえるだろうか。
古今東西、戦争にかかわるものは戦争後遺症に悩まされ続けてきた。源平の争乱で平敦盛を殺した熊谷直実はのちに出家する。現在のアメリカではイラク帰還兵による凶悪事件が発生したり、自ら命を絶つ元兵士があふれている。戦後の日本で戦争の記憶に悩み苦しみつづけた元日本軍兵士がどれぐらいいたのだろうか。
人間は急には変われない。

戦争のシステムを組み替えることはもっと大変

戦争は何も生産しない。何も産まない戦争にその時代の最高の技術と資金が投入される
戦争にかかわる産業は、戦争が終わると、一挙に注文が減るので、もうけ口…戦争をやりそうな所を探す。
なければ、適当な口実をつけて、戦争を始めるように圧力を掛ける…。
さすがにこの時代は、そんなに深刻ではなかっただろうが、現在はこれが最大の問題という人もいる。
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応仁の乱における足軽の暴行(山川出版社「詳説日本史図説」P120)

戦争によって大量に増やされた兵士たち、
戦争が終わると同時に、彼らは失業者となる。
かれらをどのように普通の状態にもどすのか、これが大問題なのだ。
うまくいかないと、さきの 応仁の乱のときにみた足軽の乱暴、ドイツ・三十年戦争時の傭兵の横暴などのようになる
戦争という仕事!を失った兵士が、泥棒に早変わりする。しかもコントロールをなくして…。
発展途上国で内戦が再発するのも同じメカニズムだ。
戦争マシーンとして育てられてきた少年兵をどうすれば普通の子供にもどすのか、いかに生業につけるか。しかし、そのまわりには彼らに肉親の命を奪われた人々がいる、そのなかで。
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NGOによるウガンダでの元子ども兵支援活動の取り組み(テラ・ルネッサンスの例)

その大変さを考えると、「慣れ親しんだ今までの「仕事」=戦争の方がよい。もう一度やろう。」発展途上国の内戦なんかではこうした側面が強いのではないか。
元兵士をどのように、戦争状態にから平時の状態にもどすのか、現在に至るまでの難問なのだ。
日本のNGOの中には、こうした取り組みに積極的に取り組んでいるところもある。古着や古書を集めることで、こうした取り組みに協力することができる。高校生として、世界の平和に貢献できる機会と考えられる。

捕虜をどうするのか?古代からの難題。

大量に捕虜が生まれたりすれば、さらに面倒だ。
かつては敵であり、敵意を持ち続けている兵士たち、
彼らが、反乱を起こさないように武装解除しつつ、食料、さらには仕事などを与えて落ち着かせる
努力しても、感謝をする者は少数で、不満をもてば反乱を起こす
古代中国では数万人の降兵を皆殺しにしたという記述が見られるし、実際にその遺跡の発掘もすすんでいる。
鎌倉時代に日本を襲った蒙古襲来(弘安の役)は、降伏した南宋の捕虜ともいえる軍隊を、日本との戦いに用い、さらには植民させるという形で捨てに来たともいえる。

「平和の時代」へのソフトランディング

ともあれ、戦争の時代から、平和の時代に移行することは洋の東西、過去現在にかかわらず大問題なのだ
授業の時代にもどそう。
秀吉の時代は、戦国時代末期という戦争モードが最大限に拡大された状態から、平和モードへソフトランディングさせることが課題になり始めた時期だ。
平和モードへの移行、そのためのミッションを整理してみよう
第一に、大量に生まれてしまった軍隊をどうするか。リストラが必要になるし、武装解除も必要だ。下手をすると反乱だって起こしかねない。だから失業者への職業斡旋も必要だ。
第二に、「戦って自分の領地を拡大することが先祖に対する最大の使命である」というこれまでの武士のDNAをどのように書き換えるのか。「一所懸命」という原理が南北朝、戦国と戦乱の時代を動かしてきた。信玄でみたように戦国大名はこのDNAを刺激することで、人心掌握をすすめた。
しかし、このDNAを否定しなければ、また戦乱の時代への逆戻りする。いかに否定するかが重要だ・・・。
第三に、軍事上の目的もあり、農民の武士への登用によって生じた中途半端な武士たちの存在。
その背景にある上層農民や流民たちの武士への転職、下級武士の上昇志向。
さらに、これによってもたらされる社会の流動性。実力があれば一国一城の主になれるという「実力主義」。最終的には力で決すればよいというマッチョな風潮よく言われる「下克上」。こういった戦国の風潮を沈静化させる。人間の心を変えていくという課題だ。これを押さえ込んでいかねば社会は安定化しない。

「兵農分離」~秀吉の一つの答え

こうしたなかで、注目されるのが兵農分離という政策だ。

武士の城下町集住

まず武士たちを城下町に集住させる。
純軍事的な意味合いとしては、軍隊を民兵型から常備軍型にすることによって、機動性を増す。これは何度も触れてきた。
人心掌握の面では監視しやすくなるし、武士の家族を集めること人質を取るという側面もある。
農村と切り離し農民とのつながりを薄くするという側面もある。
こうした政策がすすむにつれて、農村をルーツとする武士たちをしだいに農村から切り離し、農民と武士の身分を明らかにしていくことにつながる。
こうした政策は、すで見たように朝倉氏の一乗谷などでみられた。それが戦国大名のニーズから広がっていた。この延長線上に、信長の安土城、秀吉の大坂城・伏見城などの存在がある。そして、そのミニチュア版もそれぞれの大名の領国でも進んでいる。

武士・商人・職人は都市に、百姓は農村に、

武士の城下町集住がすすむと、その旺盛な消費意欲が商人や職人といた広い意味の町人たちを城下町に引き寄せる。大名たちもさまざま優遇策をとって、こういった人々を呼び集める。
こうして
下町は武士身分、町人(商人・職人)身分が住み、
農村には百姓(農民など)が住む
というおおよその身分配置ができる。

「地侍」たちは、厳しい選択が迫られる

「兵農分離」は「地侍」たち、農村に住む有力農民でありかつ民兵型の武士に厳しい選択を迫る。
土地を捨て城下町に移って武士という道を選ぶか、
武士の身分をすて農村に残り(戻り)農村指導者の道を選ぶか
秀吉の時代に始まり、江戸期になると日常化する大名の領地の変更(転封)はこうした決断をこうした人々にいっそう迫った。
数年前の大河ドラマ「天地人」の中で、越後の大名上杉氏が会津に領地替となったとき、ある武士が、長男は越後に残して先祖伝来の土地を守らせ、次男を武士として会津に連れて行くというシーンがあった。
これと似たシーンが全国で多く見られたと思われる。現在でも、農村の旧家に立派な鎧甲が残っていたり、先祖が武士で○○家の家来として活躍したとの言い伝えがあるのは、こうした事情からである。

農村の武装解除~「刀狩り」の実施

そして、こうした方法の流れの中に、刀狩りがある
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刀狩令(1588) 百姓より武器を取り上げたということ以上に、百姓は耕作に専念することを奨励し、百姓の身分としての役割を強調したことが注目される。

武士をやめたのだから、平和な時代となったのだからとして、
職業軍人に純化された武士以外を武装解除したのである。
農民から武器を取り上げることにより一揆などを防止するとともに、もはや武士になる道はなくなったことを示したのである。
とはいえ、実際には武器は農村には多く残されていたらしい。

「人掃令」(身分統制令)による身分固定

さらに朝鮮出兵にさいして出された「人掃令」(身分統制令)と戸口調査が身分の固定化を進めた。その効果、その規模、存在自身についても疑問も出されているが。
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こうして、農民と武士のあいだに大きな壁が作られ、下克上という社会の流動化に対する歯止めがつくられ、さらに武士のリストラもある程度進められた。
時間がきた。中途半端ではあるが、次の時間に引きつぐことにする。
はい、起立、礼。ありがとうございました。
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