韓国の植民地化

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朝鮮の植民地化(「韓国併合」)

<生徒のノートより(板書)>

生徒のノート「韓国の植民地化1」
生徒のノート「韓国の植民地化1」

日露戦争の原因に戻って考える

前回は日露戦争とポーツマス条約なんかの話をしました。
しかし、もう一度元に戻って考えてみることにする。
日露戦争のもともとの原因(対立点)は、何やったかな。
一つは朝鮮半島を勢力下に置くいうこと、
二つ目は中国東北部(「満州」)への勢力拡大。
そうして考えてみると、講和条約としてのポーツマス条約の見方も変わってくる。

日露戦争中の日韓関係

今日は、最初の朝鮮半島のようすを中心にみていくことにする。日清・日露戦争の本当の意味が見えてくるかもしれない。
少し、時代をさかのぼって、日露戦争開戦直後から始める。
韓国(朝鮮)に注目して日露戦争の軍事行動をみるとあることがわかる。
戦争の奇襲攻撃は仁川沖海戦、つまり韓国にいたロシア艦隊の攻撃から始まる。

第一軍は仁川に上陸し、朝鮮半島を縦断する形で満州へ向う。

山川出版社「詳説日本史」p297より
山川出版社「詳説日本史」p297より

つまり、開戦時、日本軍は朝鮮半島・韓国を確保する行動を最初に行っている。
この軍事力を背景に、
日韓議定書で韓国国内での軍事行動の自由を強要、
第一次日韓協約で、韓国政府に日本人または日本政府が推薦する外交・財政顧問を置くこと
をたてつづけに認めさせている。
韓国の独立を脅かす行為である。このように、日露戦争中も、日本側が韓国への勢力拡大を着々と進めていたことが分かる。
同時に、戦争を継続するためには、朝鮮を確保することが重要だったという、軍事的な要請もあった。

戦争の論理は、相手国以外への侵略行為をも加速させる。

当事者抜きの取り決め~ポーツマス条約

そしてポーツマス条約
この条約の中で、一番目が、ロシアは韓国における日本の指導・監督権を承認し、その保護国とするということだ
この条約で、日本がもっとも重視した内容が韓国をめぐる内容だということがわかる。
この条約を仲介したのがアメリカということを考えると、アメリカもこの条項に荷担していたことが分かる。
この直前、日本はアメリカとの間で秘密協定(桂タフト協定)というものを結んでいた。
実はアメリカには悩みがあった。アメリカは1900年、スペインをぼろかすにやっつけて(米西戦争)、アジアに植民地を手に入れた。どこかわかる?・・。日本の植民地であった台湾に近いけど・・・。そう、フィリピン
フィリピンでは19世紀の末からスペインに対する独立運動が盛んで、アメリカが領有権を奪った後も、アギナルドという人物を中心に、アメリカに対抗して独立運動をすすめていたんだ。アメリカは思った。「もしこの独立運動にアジアの雄になりつつある日本と結びついたら・・・。」ということで、分かるよな。
アメリカがフィリピンを領有することを認めるかわりに、韓国を日本が勢力圏に置くことを認める、これが桂タフト協定。
イギリスとは、日英同盟の対象(敵)をロシアからドイツと定義し直す代わりに、韓国での日本の立場を認める
さらにいえば、
ポーツマス条約後にも、日露協定でロシアに日本の対韓国政策を再確認させている。
当時の日本政府の外交は、かなりえげつなく、かつワルい。

第二次日韓協約~外交権を奪う

ポーツマス条約は結んだがこれはあくまで日本とロシアの条約だ。
これを韓国側に認めさせねばならない
この仕事をおこなったのが伊藤博文だ。
伊藤は、韓国の外交権を奪い保護国とするとともに韓国統監を置くという内容の第二次日韓協約を押しつけた
伊藤は日本の軍事力を背景に韓国の閣議に乗り込み、いうことを聞かない大臣を排除するという露骨な圧力によって。
日本政府や一部の学者は、やりかたはともあれ韓国側が認めたから正式な条約だといい、韓国側や日本の多くの学者は、このようなやり方は無効だという見解にたつ。
竹島を日本領に編入したのはこの年、1905年
なお、日本と韓国(北朝鮮も)との間で国境問題になっている竹島(韓国名「独島」)だが、竹島を日本領に編入したのが
この1905年のことだ。
こんな時期に日本領に編入したといっても、韓国が文句を言えるはずがないじゃないか」というのが韓国側の見解だ。

高宗皇帝のたたかい~ハーグ密使事件

このような日本政府のやり方に対し、韓国側も黙っていない。
こうした中、韓国皇帝の高宗(お后を日本に殺された皇帝)に一つの情報がもたらされた。オランダのハーグでロシア皇帝の提唱で万国平和会議というものが開催されるという話だ。高宗は一人の人物を呼び出し、「この会議に参加し、現地にいる人物と協力して、日本の非道を世界に伝えてほしい。そして韓国への協力を呼びかけてほしい。」と依頼した。
それをうけ、彼は日本側の目をかいくぐり、オランダにいき、皇帝の信任状を出して正式代表としての参加を要請した。
・・・しかし、さっきみたよな。すでに有力国ーアメリカも、イギリスも、主催国であるロシアも、日本によって丸め込まれている。「参加は認められない」と。
彼らは、会場の入り口で日本のやり方を批判した文書を配布し、その地でなくなることになる。
かつては、抗議の自殺(切腹?!)と聞いた記憶があるが、最近みたテレビはそういった言い方はしていなかった。
この出来事をハーグ密使事件という

皇帝の退位と第三次日韓協約

会議への参加は阻止したものの、日本が世界の前で恥をかかされた事実は変わらない。
さっそく、伊藤は皇帝に面会、「よくもやってくださいましたな!」とばかり、皇帝の退位、さらに第三次日韓協約を強要した。この内容もひどい。
韓国の内政権を奪い、軍隊を解散するというものだ。内政権、つまり国民を治める権限を奪えば、いったい何が残るのか?すでに外交権も奪っているのだから。
韓国政府は名ばかりになったともいえる

抵抗の激化~抗日義兵闘争

さて、解散と言われた軍隊、どうする?
解散といわれて、ふるさとに帰るものもいたかもしれない。
しかし、軍隊の基本は国を守る役割?のはずだ。
国が奪われようとしているのだから、彼らの多くは武器を持って兵舎から立ち去った。
どこにか?
韓国では、まえの閔妃殺害事件以来、各地で日本に対するゲリラ戦が続いていた。これを(抗日)義兵運動という。義兵とは義勇兵、ボランティア軍ということになる、これに参加したんだ。
こうして1907年以降、義兵運動は一挙に本格化した。
抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より
抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」p93より
ここに有名な写真があるが、このなかには10代前半としか見えない少年の姿もある。このように全国民的な運動へと発展していった。
しかし、彼らの持つ武器の多くは火縄銃など旧式な武器であり、日露戦争を戦った日本側とは比べものにならない。その死者の数をみれば、その結果はあきらかである。彼らは、日本軍の前に次々と鎮圧されていった。
彼らを鎮圧するために、日本軍が韓国各地に駐屯していく

伊藤博文暗殺事件~愛国者?テロリスト?

韓国側の抵抗はつづく
ゲリラの戦い方は軍を攻撃するとともに、敵側のリーダーへのテロという手段もある。
1908年、朝鮮の支配の中心であった伊藤博文がシベリア鉄道を使ってヨーロッパへ向かおうと東北部のハルピン駅で乗り換えようとしていたところを、韓国側の民族主義者安重根が狙撃、暗殺した。(伊藤博文暗殺
安はその場でとらえられた。彼は、「伊藤には個人的な恨みはなく、あくまでも軍事行動の一環として行った」と主張している。安は教養人で非常に優れた人物であったとされる。
旅順監獄の看守はその人柄に感銘を受け、処刑直前の彼に頼んで書を書いてもらった。その書は、のちに西本願寺に寄贈され、現在は龍谷大学博物館に収められている。
それを聞いた韓国側の依頼で韓国に一時里帰りもしたそうである。
安は、日本では、明治憲法を制定しかつては千円札の肖像にすらなった日本の偉人伊藤博文を暗殺したテロリスト、極悪人。
韓国(北朝鮮においても)では国を奪った悪人である伊藤を殺害した英雄であり、ソウルの安重根記念館には多くの人が訪れている。
歴史を見るときは、立場を変えると全く別の姿が見えてくる。
一方からのみ見ることは避けるべきであることをいっておきたい。 

「韓国併合」~朝鮮の植民地化

こうした抵抗が続く中、日本政府はついに韓国を植民地化することを決意、1910年、韓国併合条約を強要、ついに韓国は国を奪われ、日本の植民地とされた
山県らは、祝賀会を開き、初代朝鮮総督となった寺内正毅は「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と露骨な歌を詠んだ。他方、こうしたやり方への日本国内での批判もあり、石川啄木は「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」と日本のやり方にショックを隠そうとはしなかった。
なお伊藤はこのような植民地化に対しては否定的であったとの議論もある。
歴史の流れをみてくると、日露戦争の最大の結果が韓国(朝鮮)の植民地化であったといえるのかもしれない
韓国併合についても、日韓協約と同様、有効性について日韓政府、研究者の間での大きな意見の隔たりがあることも指摘しておく。

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