スーパー戦国大名、織田信長 ~ 戦闘モードは全開に

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<4時間目>

Contents

スーパー戦国大名「信長」登場

<授業プリント>

前回と同じプリントを用いている。というか、前回、このプリントで進んだのは最初の数行(南蛮文化もいれるともう少しになるが)しゃべりすぎてはいるが、基本的には二重の意味で、メインの範囲ではないので。

 

<生徒のノート(板書)>

前回と同じ生徒のノート。

実は信長についての板書事項は多くない。大部分が次の時間の内容である。エピソードばかり多かったので、生徒は少し困っているようである。

織田信長の台頭

 信長、じつは神主さんの家柄

さておなじみの織田信長です

織田信長

一応、そのプィール。信長は現在の愛知県西部・尾張(おわり)の出身。守護の斯波氏の代理として尾張を治める守護代の家柄である。

先祖は越前(福井県)の神主さんの一族らしい。現在も、福井には織田神社(劔神社)というのがある。
信長の父親の信秀の時、急速に力を伸ばし、一族の中で最も有力となり、尾張の戦国大名といえるようになっている。

乱暴者?それとも、革新者?

信長は、小説やドラマでは、変わり者、乱暴者で、周りのいうことを聴かず、領内をうろつき回っていたとされる。
かなり誇張されていると思われるが、これまでの権威に疑問をもち、新しい知識を貪欲に欲し、新しいものに挑戦していく、革新的な姿勢が見えてくるような気がする。
こんなエピソードがある。信長は集団戦を重視したため、「長い槍が有効である」のではと考えた。これまでの常識では「長い槍は扱いにくく不利であり短い方がいい、やはり信長殿は…」と家臣たちは一笑に付した。
そこで、信長は、実際に双方の槍を持たした武士たちに実際にゲームをさせ、自分の考えの方が正しいことを実証したという。
このように、常識を疑い、時には実験も行いながら、進めたのが信長である。かれは、新しい知識や人材を取り入れることに躊躇しなかった

桶狭間の戦い、美濃進出、徳川との同盟

1560年、信長は、現在の静岡県(駿河・遠江)に強大な勢力をもっていた戦国大名今川義元を桶狭間の戦いで破り、一挙に全国に名をとどろかせた。
天下布武の印

信長が用いた天下布武の印「詳説日本史」p159

さらに、義父である美濃の戦国大名斎藤道三がその子に殺されると、義父の仇で自分の父を殺した悪人を討つとして美濃へ侵攻を開始、長い戦いを経て美濃を獲得した。
このころから、信長はとき、井之口と呼ばれていた城下町を中国の都に由来する岐阜と改め、「天下布武」(「天下に武をしく」)という印章を用いるなど、天下統一への野望を見せだしたといわれる。
しかし、この時代の「天下」とは近畿地方をさし、日本全国という意識はなかったという説もある。
とりあえず、信長は三河を押さえていた徳川家康の協力も得て、東海地方を掌握する有力戦国大名となった。

足利義昭の登場~「大義名分」を得る

こうした信長のもとに、一人の人物が転がり込んでくる。
足利義昭だ。
足利義昭 京都の等持院には歴代の足利将軍の像が残されている。
名前から分かるように義昭は足利将軍の一族で、将軍を自称していた。越前の朝倉氏の元にいたが、朝倉氏が動こうとしないので、頭角を現してきた信長に接近をしてきたのだ。つなぎ役をしたのが、明智光秀と言われる。
信長からしたら、ビッグチャンスだ。
なぜなら、将軍が「自分に力を貸してくれ」といっている。「将軍を助けて京都に上洛するという大義名分」ができ、他の戦国大名には「自分に逆らうことは将軍に逆らうことだ」と主張できるのだ。
水戸黄門の印籠みたいなものだな。水戸黄門、知らん?あそう。
<ちょっと余談>戦争でもっとも必要なものは…?

ちょっと余談をする。テレビ番組で、軍事評論家が面白いことを言っていた。「戦争をするために、絶対に必要なものがある」ていうんだけど、分かる?

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イラク戦争(2003) 大量破壊兵器を保有し査察に応じないとしてアメリカなど多国籍軍がイラク・サダムフセイン政権を倒した。その後大量破壊兵器が存在しなかったことが判明した。

軍隊、金、・・・。まあそれもそうだけど。
答えは、「正義」、この時代のいい方では「大義名分」。
これがなければ戦争はできないし、勝つことはできない、といっていた。
こどものけんかでも「あいつがあんな悪いことした、だからやっつけたんだ」という言い方をする。
他から見れば、どんな屁理屈であっても、とりあえず「自分は正義で、敵は悪」という図式を作らなければ、戦争なんてできないというのだ。
そして、怪しげなドラマをでっち上げる。「相手はテロ国家だから」「相手が自国の領土を侵した…」「かつて自分たちの先祖がひどいめにあわされたから」「相手の国内が不安定で、自国民が殺されたから、その国にいる自国民を保護するために」「自分の民族が生存するために」エトセトラ、エトセトラ・・・。もっともよくあり、みんながのせられやすいのが、「平和をつくるため」。このセリフは、よっぽど気をつけないと引っかかるしね。

しかし、自国が正義を主張するのと同じだけ、相手方も自分の正義を主張していることを忘れていけない。正義というのは、常に見る立場によって大きく変るのだ

信長、天下統一への動きと挫折

「室町幕府」の復活~信長の「大義」

将軍を保護する「正義」「大義名分」を得た信長は、「かわいそうな将軍義昭を本来あるべき将軍の地位につけてあげるのだ」というドラマを演出し、京都に進出、義昭を正式な将軍の地位につけた。
こうして、信長は「将軍を助けた功労者」という立場と「天下の第一人者」という名声を得る。

 信長が、将軍にもらったものは?

義昭が正式な将軍についたときのエピソードが有名だ。(でも事実かどうかはちょっと怪しい)
将軍になって喜んだ義昭は、信長に欲しいものを聞いた。「管領はどうか」「副将軍は」といろいろな打診したが、信長は次々と拒否する、仕方なしに「義昭は信長を父と思うぞ」といったという。
Z137

帝国書院「図録日本史総覧」P137

さらに欲しいものを聞く義昭に、信長は「堺と近江の国友村に代官所を置かせてほしい」といったという。
堺はいうまでもなく国際貿易都市で、一種の都市国家であった。これを支配することは、貿易や商業をコントロールできる事を意味する。しかし堺の意味はそれだけではない。
ちなみに国友村って知っている?現在の滋賀県長浜市の郊外にある小さな集落、実際いってみると、戦国時代に創業した個人商店がいくつもある。戦国時代に使われた技術が現在まで引き継がれている…。信長が将軍におねだりおしてもほしがったものって何かわかる?…当時の戦争のやり方を大きく変えた…そう、鉄砲国友村は、大阪の堺とともに、鉄砲の産地だったんだ
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国友鉄砲の里博物館の展示のより

だから、この二カ所に代官を置くことは、鉄砲を独占的に手に入れるという側面も持っていたんだ。戦国大名は富国強兵をすすめるといったが、信長は特に商工業をおさえ、新兵器を掌握するということの意味をよく分かっていたことがわかる。ただ、国友村でなく大津であったともいわれる。大津は琵琶湖の湖上貿易の最大の拠点であったのだから、この方が妥当なような気がする。
ついでにいえば、文句ばっかりいっている京都の町衆も屈服させた。こうして経済の拠点を手にいれることで、日本の商工業を把握しようとしたことが分かる。

信長と義昭

さて、信長はなぜ管領(幕府の総理大臣ともいうべき地位)や副将軍という地位を拒否したのだろうか。
そんな地位に就けば、幕府という枠組み、将軍の家臣という枠組みの中に組み込まれてしまう、それでは、自由な行動ができない、だから拒否したのだ、信長は義昭をロボット、操り人形にしたかったのだ」という。この段階ではそこまで考えていなかったという意見もある。
しかし、「自分が将軍である」という自覚が強まるにつれて義昭は、信長がじゃまになる。
信長からすれば、義昭が自分を無視して勝手なことをしていると見える、こうして両者の対立は深まっていった。

反信長包囲網の形成と三方ヶ原の戦い

こうしたなか、義昭は将軍の立場で日本中の戦国大名・宗教勢力などさまざまな人物や勢力に次々と手紙を出し決起を促した
義昭がもっとも期待をかけたのが、甲斐の武田信玄だった。
その信玄が動き出す。さらに浅井・朝倉といった大名比叡山延暦寺など旧仏教勢力呼応、日本中に巨大なネットワークを持つ本願寺(一向宗・浄土真宗本願寺派)も動き出す。こうして、「将軍を粗末に扱う信長は『正義』に反する『悪』だ。正義のため立ち上がり、信長を倒せ」反信長連合が結成され、信長は苦しい立場に追い込まれる
信玄がついに動く。信玄は現在の静岡県浜松の郊外にある三方原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍を一蹴した。家康はよっぽど怖かったと見えて、馬の上で脱糞(下品でごめん)してしまったという。ただ家康の面白いところは、そのときの自分の恐怖の表情を絵描きに書かせて、それ以後の教訓にしたということかな。それが下の絵。

三方原で大敗を喫した家康は、その姿を絵師に描かせたという。

室町幕府の滅亡

三方ヶ原での信玄の勝利の報を聞いて、義昭は思った。「そのときが来た!」。義昭は信長に対して挙兵する。しかし最強の信玄がなぜか、足踏みをしてうんともすんとも動かない。実は信玄は三方原の直後に病気(結核らしいが)を発症し、亡くなったんだ。
義昭さん、おかわいそうに。
信長は、信玄の死を知ると、一挙に大軍を京都に派遣、義昭から将軍の地位を取り上げ、追放した。こうして、室町幕府は滅亡、名前だけであるけど続いていた室町時代も正式に終わる。それが1573年のことだ。

反信長包囲網の壊滅

最大の試練を脱した信長は、次々とライバルを倒していく。
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山川出版社「詳説日本史」P161

逆らった者は容赦しない。
比叡山延暦寺も焼き打ちにする。朝倉軍をかくまったとして。
古い権威などに対して彼は躊躇しない。
朝倉氏や浅井氏もつづけて滅ぼす。その頭蓋骨に金箔を塗ってとっくりにしたという話も残っている。怪しい話だが、彼ならやりそうという気もする。
伊勢長島の一向一揆では十万人以上を皆殺しにしたといわれている。

「魔王」信長~恐怖による支配の結果は

こうした気性の激しさが、人々を恐怖に陥れた事は間違いない。こうした激しさは家臣たちにも向けられる。豊臣秀吉や明智光秀といった有能な人材はどんどん登用するが、無能であるとされた人物は容赦しない。佐々木信盛という部将は石山本願寺の戦いで無能であったなどとして追放される。
信長は、抜群の「実力」を持っていたが、ある「実力」だけには疑問符がつくような気がする。
そう「人心掌握」という実力だ。
人を恐怖で支配するということは、支配されている人物を不安に陥れる。信玄の親父の話を覚えているかな。
恐怖におびえる人物は「信長から、嫌われたり、憎まれたりしていないだろうか、信長ならあっさりと裏切りの汚名をかぶせて殺してしまうのでは」との疑心暗鬼に陥る。不安は不安を呼ぶ。ちょっとした言動すら気を遣う。失敗しようものなら、「もうだめだ」とおちこむ。もし不用意な言葉でも口にしてしたら、取り返しがつかない。
信長の周りにはこうした神経症的な空気が広がっていたような気がする。

「本能寺の変」~信長の死、黒幕はいるのか?

こうした緊張が爆発したのが本能寺の変だ。
家臣であった明智光秀の裏切りで信長が襲われ、命を失う
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明智光秀(岸和田市 本徳寺所蔵 慶長18年(1613年)()

雑談 信長殺し(の気配)を秀吉は知っていたのか?
推理小説的にいうと、動機はいろんな人にある。
もっとも強い動機があるのが徳川家康。長男に嫁いでいた信長の娘が父親にグチをいったことをきっかけに、自分の妻を殺させられ、おきにいりの長男を切腹させる。
京都から堺への旅行に来ていたのでアリバイ工作にはちょうどよい。
また、推理小説の犯人は、死によって遺産相続の権利をえたのはだれかということから、意外な犯人の逮捕にむすびつく。
では、本能寺の変で信長の遺産を相続したの…そう秀吉だ。
しかし、秀吉が裏にいたと考えるのはやはり無理がある。
しかし、知っていた、うすうす感じていたが知らんふりをしていたというのなら、ありそうではある。
信長が死ねば自分が天下を狙えると
疑いをだすと、いろいろでてくる。あまりにタイミングよく毛利との講和が実現したこと。あまりに早く山崎まで戻れたこと。
しかし、知っていて、密かに準備していたとなれば・・・。
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NHK「太閤記」(1965)小学校の頃だがこのシーンが鮮明に記憶に残っている。秀吉は緒形拳、黒田官兵衛は田村高廣。なお信長は高橋幸治。

大河ドラマでよく使われるシーンがある。信長の死を聞いて、秀吉が激しく泣いている。やってきた参謀格の黒田官兵衛が「天下を狙うチャンスでございますぞ」と声をかけると、秀吉は一瞬泣き止んで、大きくうなずき、また泣き始める。ドラマではあるが、なんとなくそんな感じだろうなとわかる。

ついでにいえば、これ以後、秀吉は官兵衛を冷遇する。うがった見方をするなら、「ばれたか?」と思ったから・・。
以上、雑談なので、あまり信じないでください?!

スーパー戦国大名としての織田信長

天下統一の道筋が見え始めた段階で、信長は命を落す。
信長は新しいことを次々と始めた天才であるとよくいわれる。
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山川出版社「詳説日本史図説」P137

しかし、かれがはじめて行ったことはあまりないと言われる。すでに楽市楽座はおこなわれていたし、指出検地なども他の戦国大名が行っている。巨大な城郭の建設、そして城下町への家臣の集住と経済の拠点化なども、他の戦国大名にも見られる政策だ。信長の独創とはいえない。
ただ信長は、時代の最先端にたいしアンテナを張り巡らし、よいと思ったことは次々と取り入れ、それを結びつけていく。その革新性が最大の武器であったし、キリスト教保護を通しての南蛮文化の導入であった。その点については天才的といってもいいのかなと思う。
信長は、戦国大名の行ってきた政策をうけいれ、結びつけ、より大きなスケールで、より全面的に、より大胆に、実験した。さらに日本のなかの経済先進地帯を掌握したことによって、その経済有利性を組み込むことができた。
信長をどう評価するかという点だが、信長はスーパー戦国大名ととらえるのがよいような気がする。
戦争でどうすれば勝てるのか、どうすればより強い権力を持てるのかを考え抜いた、いわば戦国大名の「戦闘モード」を最大限にまでつきつめた、それが信長だったかもしれない
ついついオタク話をしているうちに時間がたってしまった。というわけで、次の時間は秀吉の時代。
じゃ、あいさつして終わろうか。礼、ありがとうございました。
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