日露戦争への道(1)朝鮮王国とロシア

ロシア公使館に逃れた高宗
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日露戦争への道(1)大韓帝国とロシア

日露戦争の概略を知ろう。

おはようございます。
それでは授業を始めます。
今日からは日露戦争がどのようにして起こったのかを見ていきたいとおもいます。
まずは日清戦争の時のように、今回も戦争の概要をまとめておきたいと思います。
戦争の期間は 1904年~05年の2年間です。
ちょうど日清戦争に10を足せばこの数字になります。明治37年から38年となります。ちなみに私の祖父が明治22年生まれなので当時15歳、26年生まれの祖母は11歳のときのことです。
戦った相手はロシア
この点では日清戦争のように複雑ではありません。
日本とロシアが戦ったのにもかかわらず、
戦場は中国東北部(以後、満州と表記)南部の遼寧省、遼東半島とその北部です
つけくわえれば朝鮮半島が補給路として位置づけられ、日本軍に事実上占領され、戦場に準じた場所となりました。
なお海軍の戦場は日本海と朝鮮海峡、朝鮮半島西側の黄海が中心です。

日本とロシア関係史

日本とロシアとの関係から見ていきましょう。
kagawatakaakiさんという方が、とても使いやすい地図を作っておられたので借用しました。

ロシアの沿海州エリア

ロシアにとっての対馬海峡(朝鮮海峡)、さらに宗谷海峡、津軽海峡の重要性がよくわかる。またウラジオストクの位置も確認しておきたい。 http://blog.livedoor.jp/kagawatakaaki/archives/50766672.html

17世紀以来、ロシアはシベリアを東進、18世紀には北太平洋地域に進出、日本と接触をもちはじめます。ロシアはなぞの国・日本に興味を持ち、漂流民などを講師に、かなり早い時期から日本語学校を設立しています。そして、1792年ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫らを伴って根室にやってきたのが公的な接触のはじまりです。
このときもらった入港許可書(「信牌」)をレザノフが長崎を訪れました。にもかかわらず、日本の態度に憤慨したレザノフの部下たちが樺太や千島の日本人居留地を襲撃するという事件を起こし、両国関係は一時緊張状態となりました。
この事件は、一部の人間による勝手な行動であったのですが、これ以後も、ロシアでは現場が勝手に動くというケースが多く、他国とくに日本にとってロシアが危険な国と考えさせる原因にもなります。

幕末期にもこうした事態が起きます。
日本を訪問したプチャーチンは友好的なアプローチで好印象を与え、国境問題では激しく対立したものの関係は良好でした。
ところが、1861年になると、軍艦ポサドニック号が独断で対馬芋崎を占拠、海軍基地建設を図ろうとします。海軍の一部と船長の独断でした。こうしたことが、ロシアへの警戒感が強めます。
なお、この時期はロシアの極東政策が大きく変化した時期でした。1858年のアイグン条約・1860年の北京条約でロシアは日本海沿岸(沿海州)に領土を確保し、「東方を征服せよ」という物騒な名前のウラジオストク(以後、ウラジオと記します)を建設します。他方、1867年ロシア領アラスカをアメリカに売却します。勢力を極東に集中したのです。

和田春樹『日露戦争 起源と開戦(上・下)』(岩波書店2009・10) ロシア語の未公刊文献などをもとに緻密な研究を行い、日露戦争研究を一新させた労作。本稿もこの本に多くを教えられました。

明治に入っても、他の欧米諸国と少し色合いの違うロシアは警戒すべき列強の中心とされます。山県有朋は、ロシアの朝鮮半島進出を警戒し朝鮮の独立が失われれば対馬諸島の頭上に刃が向けられた状態になると主張しました。
ところが、ロシア史家の和田春樹さんによると、ロシア極東部はこのころ人口不足で、出稼ぎ朝鮮人労働者の手を借りねば開発が進まない状態でした。朝鮮と条約を結べば出稼ぎ労働者が集まらないので困るとの心配が出されるありさまでした。

この一方で、海軍は冬には凍るウラジオ港にかわる港、さらに中国や北太平洋に抜けるルート確保をめざしており、それがロシア警戒論の背景になっていました。
 ちなみに冬期のロシア太平洋艦隊は長崎港を拠点としていました。

「イギリスの目」で見ていたロシア

『これだけは知っておきたい日露戦争の真実―日本陸海軍の「成功」と「失敗」』 2010高文研

一般に、南進政策をとって日本の独立を脅かされるとされがちのロシアですが、本当にそれほどまでに警戒すべき存在だったのでしょうか。
歴史家の山田朗さんは、イギリスの目でロシアを見ていたからといいます。
当時の国際情報は主にイギリスの新聞・通信社からもたらされており、当時ロシアと各地で衝突を繰り返していたイギリスの立場が反映していたというのです。
中央アジアでロシアと対立していた「清」の目も影響してしたでしょう。
さらにいえば、明治期の日本は、「万国対峙」=対外侵略から日本を守るという危機感をエネルギーに文明開化などの改革を進めてきました。そうした仮想敵国にもってこいの国がロシアでした。そのためロシアの脅威は実態を越えて喧伝された面があります。

ロシアを朝鮮に引き入れたふたりの外国人

メレンドルフ(1847~1901)ドイツ人。李鴻章の推薦で朝鮮の外交・財務顧問となる。のちロシア接近をすすめる。(WIKIPEDIA「メレンドルフ」より)

山県の言葉からもわかるように、ロシアは朝鮮情勢と結びついて語られます。朝鮮はロシアと国境を接していることもあり、その影響力拡大がつねに警戒されていました。
しかし消極的なロシアを朝鮮半島情勢のなかに引き込んだのはほかならぬ朝鮮でした。
壬午軍乱(1882)甲申事変(1884)の事件後、朝鮮への清の介入が急速にすすんでいました。この状況下、朝鮮政府の外交顧問メレンドルフは、国王高宗にロシアの協力をあおぐことを助言、国王はロシアに期待をもち、接近を命じます。
ロシアは基地建設などには興味を示しますが、軍事的負担と国際な緊張激化につながる割にメリットが少ない朝鮮への進出にたいしてはやはり消極的でした。
しかし、こうしたなか臨時公使として赴任してきたウェーバーは、朝鮮を気に入り、国王一家との個人的な交友関係を得て、本国の意向とは少し外れた形で朝鮮進出を進めようとします。

シベリア鉄道建設の脅威

ロシア脅威論を一挙に高めたのが、1885年に発表されたシベリア鉄道建設計画です。(1891年着工)。

山県有朋は「朝鮮」を日本の「利益線の焦点」と表現した。

シベリア鉄道はユーラシア内部のモノや人の流れを劇的に変化させます。
イギリスは中国周辺での軍事的・経済的な力関係の変化につながると警戒、日本もロシアの軍事力増強を警戒しました。
1890年山県首相は、国家には「主権線」のほかに、安全に重大な役割をもつ「利益線」があることを強調、「利益線」たる朝鮮にロシア進出の危機があるとシベリア鉄道建設と結びつけて危機を強調しました。

三国干渉と高宗夫妻

1894年、日清戦争が始まります。日清戦争も、その背景にはロシアと対抗しうる政権が朝鮮半島に樹立される必要があるとの日本側の思惑があり、そのためには朝鮮に介入をつづける清が邪魔でした。
ロシアは日・清両国間の調停を試みますが、日本の強硬姿勢をみて様子見に転じました。ロシアが恐れたのは、日本が朝鮮半島を支配下におけばウラジオから中国に抜けるルートを日本が封鎖することでした。

海野福寿『日清・日露戦争』(集英社)より

日清戦争は日本側の圧勝におわり、清は朝鮮から去ります。しかしこの戦争の大勝利が日本の方針をを狂わせました。
それが下関条約での非常識な要求です。
下関条約は東アジアの勢力バランスを不安定とし、強い国際緊張を生みだしました。とくに遼東半島の割譲は、日本が南満州に進出することを意味しており、ロシアをいらだた、強硬派が関係悪化を懸念する声を圧しました。こうしてロシアはドイツ・フランスと共に三国干渉に参加、遼東半島返還を認めさせました。
この結果、日本での対露感情は極端に悪化、「臥薪嘗胆」とのスローガンが叫ばれ、ロシアを仮想敵とした軍備拡張が加速することになります。

閔妃殺害事件

閔妃(明成皇后 1851~1895)のものとされてきた写真

「三国干渉」は朝鮮情勢も一変させました。
日清戦争と並行し、朝鮮では親日開化派政権が日本に依存しつつ、急激なスピードで改革を進めていました。その内容は、日本が江戸末期以来すすめてきた改革を、1年に凝縮したような内容で、朝鮮が近代化を進める上では必要な内容も多かったのですが、朝鮮の日本への依存を深め、国王夫妻の政治関与を制限する内容も含むものでした。日本は伊藤の盟友井上馨を駐朝公使として送り込み、国王夫妻に圧力をかけ、こうした「改革」を進めようとしていました。そして日清戦争での日本の勝利がこうした改革を定着させるはずでした。
ところが三国干渉がこの流れを一変させました。
日本がロシアに屈服したことを知ると、国王夫妻はロシアに接近しその影響力を背景に、日本=親日派がすすめる改革を拒否しようとしました。こうして朝鮮では親露派が勢力を拡大しました。
こうした動きに推される形で、日本政府も「朝鮮は独立国であり内政に対し不干渉を貫く」との声明を出し、井上公使も失敗を認め職を辞さざる得ない状態となりました。
他方、朝鮮を大陸進出への道筋であると考える軍部は、半島内の鉄道敷設と戦争中に設置した電信線などの施設を確保するため、日本軍の朝鮮駐留の維持などを求めつづけました。

東京書籍「日本史A」p778

こうした中で、井上に変わって新たな公使なったのが外交経験ゼロの軍人・三浦梧楼みうらごろうでした。三浦らは王妃である閔妃がロシアを後ろ盾に日本を排除しようとしていると考え、閔妃を排除し、親日派政権を復活させようと考えました。
1895年10月8日未明、日本軍民と朝鮮兵の一部が、クーデタを装って王宮に乱入、閔妃らを殺害し、死体を焼却したのです。
またも大院君が引き出され、高宗は心ならずも閔妃を離縁し、庶民の地位に落とした、との布告を出さされます。その無念はいかほどのことか。

親日派政権が成立、急進的な改革が再開します。しかし、彼らへの支持は完全に失われていました。
凶行は瞬時に世界に伝えられました。慌てた日本側は、三浦ら関係者をすべて日本に召喚しますが、全員が証拠不十分で無罪、国民はかれらを英雄のように歓迎しました。常識を欠落させていたのは、三浦だけではありませんでした。

露館播遷とロシアの勢力拡大

海野福寿『日清・日露戦争』(集英社)より

日本側は現地で事後処理に奔走しますが、ソウルにとどまっていたウェーバーらの厳しい追求の前に防戦一方となり、後退を余儀なくされます。
他方、親日派政権は反対派の朝鮮人を犯人として処刑するなど日本側の責任を曖昧にする一方、断髪令など急進的な改革をすすめたため、ついに人びとの怒りが爆発、「国母復讎こくぼふくしゅう」・断髪令反対を唱える(初期)義兵運動と呼ばれる激しい武装闘争が各地で発生、日本と朝鮮の軍隊はその対応に忙殺されました。

1896年2月こうした騒然とした状況下、高宗一家がロシア水兵や親露派に守られてロシア公使館へ逃げこみました。国王が外国の公館に逃げ込むという前代未聞の事件です。これを「露館播遷ろかんはせん」といい、この不正常の状態が約一年間続きます。これにロシア政府がどの程度関与していたか、ソウルのウェーバーらに独走の傾向があったように思われます。

ロシア公使館に逃れた高宗

国王は公使館から改革の無効と内閣不信任を宣言、公使館に駆けつけようとした首相は群衆に殺害されました。親日派は一掃され、清露派の政権が成立、ロシアの影響力が拡大しました。
現地のウェーバーらはこれを期にロシアの権益を強めようとして、ロシア軍事顧問団の派遣などをすすめます。
ロシア本国は利権獲得には前向きでしたが、日本との対立を激化させるようなやり方には消極的で、露館播遷という不正常な事態の収拾に苦慮していました。
日本も朝鮮での勢力維持に必死でした。日本はソウルを経由せず日露両政府間での直接交渉を進めました。そして、日本軍の削減と国王の王宮帰還を勧告する小村=ウェーバー覚書に調印します。日本は、高宗に近いロシア人ウェーバーの退去を迫り、ロシアも同意、高宗の有力な協力者がソウルを離れ、ロシアの影響力は低下し始めます。

朝鮮分割案と山県=ロバノフ協定

日本は朝鮮での退潮を押しとどめようとさらなる譲歩案を準備し、山県有朋を通じて提示させました。
そこには、日露両国がその独立を前提に、韓国を共同管理下に置きつつ、場合によっては両国が韓国を分割して勢力範囲とする含みをもつ提案が含まれており、山県は境界は平壌をながれる大同江(北緯39度)附近と答えました。
この内容は日露戦争直前のロシアが要求とほぼ同様の内容で、ロシアによっては有利な内容でした。このような案を提示せねばならないほど日本は追い詰められていたのです。
しかし、ロシア側にはこの提案を受け入れる準備も覚悟もありませんでした。結局、朝鮮における財政政策や軍隊・警察組織のための両国の協力、電信線の日本管理、さらに軍隊派遣に際しての中立地帯設置といった内容の山県=ロバノフ協定の締結にとどめました。
こうしたロシアの消極姿勢を見た日本側は、ロシアは決定的な行動を行う意欲をもたず、介入の可能性は少ないと判断、韓国(このころ国名を朝鮮王国から大韓帝国(韓国)へと改称します)への介入強化をすすめる判断材料としました。

独立協会と大韓帝国の成立

ドイツの軍服を着た高宗(WIKIPEDIA「高宗」)

高宗のロシア公使館での生活はほぼ一年間続きました。
97年2月、公使館を出て、すぐ横の宮殿に移った高宗は、国家の姿を変えようとします。清との宗属関係を示す「朝鮮王国」という名を捨て「大韓帝国(韓国)」と国号を改め、自らも皇帝を名乗ります。惨殺された閔妃の国葬もおこないました。
皇帝を名乗ることは清(大清皇帝)・日本(日本皇帝)と肩を並べることであり、皇帝専制の独立国として内外にその存在を示すことでした。直接、国民と向き合うという一君万民的な考えもあったといいます。

海野福寿「日清・日露戦争」

この間、朝鮮では「自主独立・自由民権・自強改革」をかかげ、改革を進めようとする運動が生まれてきました。独立協会です。
ソウルを中心とする都市の人びとを中心に、政治や社会のありかたなどが討論され、政府関係者も参加しました。大韓帝国の成立もこの運動の影響であり、この運動がロシアへの利権供与といった政策をストップさせます。
最初この動きに好意的だった高宗ですが、運動の進展が自らの権力を危うくするとして危機感を持つようになり、ついには弾圧にまわりました。このことは大韓帝国が国民的支持を拡大し、安定させるという流れを自ら断ち切る事を意味していたと言われます。
高宗が制定した憲法に当たる法律は、皇帝がすべての権力を一手に掌握、一切制約されない権限をもつ「万世不変の専制政治」を行うとし、国家の理念も、国民の義務や権利もまったく示さない内容でした。これが高宗らがもとめてきた理想の政治だったのでしょう。形の上だけで強い権限を実現させたものの、国民の支持も、有力な政治家もいない孤立したかのような高宗の下、光武改革とよばれる改革がすすめられ、軍制改革や土地改革などが進められます。
高宗が打ち出した外交政策は韓国の中立化です。その立場からロシアおよび日本に働きかけました。ロシアは賛意を示しますが、満州への急速な進出を図るロシアに対抗し、朝鮮の勢力拡大をいっそう推し進めようとする日本はロシアに有利であるとして拒絶します。

西=ローゼン協定

そのころ、下関条約における日本の態度に失望した清は、ロシアとの接近をはかり、対日軍事同盟(露清密約)の締結を働きかけました。その一環としてロシアは待望の東清鉄道の敷設権を獲得に成功します。しかし、清は翌年には失敗であったことを悟ることになります。1898年ドイツが清から膠州湾を奪おうという露骨な帝国主義的政策を打ち出すと、軍事同盟を結んだはずのロシアは清を援助するのではなく、ドイツの要求を受ける形で自らも遼東半島先端部の旅順大連を租借、中国の半植民地化を一挙にすすめました。(このあたりは次回、説明します)
このことは遼東半島の日本領有を強く非難した三国干渉の論理を自ら踏みにじることに他ならず、日本のロシアに対する敵意を高めたことは当然のことでした。
産業革命が進展する中、日本はこれまでのように欧米製品を朝鮮半島に持ち込むという中継貿易に変え、日本の工場で生産した綿製品を主要な輸出品とし、その収益で韓国の米や大豆を買い取るようになってきました。清を破ったことでそのシャアも獲得、朝鮮(韓国)の輸出額の8~9割、輸入額の6~7割という圧倒的なシェアを得るようになっていました。国内の流通経路にも日本人が介在、紙幣としても日本の第一銀行券が通用するなど、日本の経済的な影響力はロシアとは比べものにならないものでした。
ロシアが
これに対抗することは困難でした。
そこでロシアは朝鮮半島における日本の優越性をある程度認める事で、日本との関係を配慮しようという動きも見せるようになります。
朝鮮(韓国)国内でも、独立協会の運動の高まりによってロシアへの反発が強まっていました。ロシアの国益より高宗との個人的関係を重視したかにもみえるウェーバーがソウルを離れたことも大き買ったと思われます。
ロシアは日本に対し、日本が韓国にもつ「利益」はロシアより「重要」であることを承認し、日本の「経済上の利益」の「増進」をロシアが「幇助」すると認めたのです。
ロシア側としては、強引な介入によって韓国国内の反露感情をいっそう高めるよりは、いったん引き、ある程度の影響力が残ればよいという状態に変わりつつありました。
日本政府はこれをうけいれる形で、1898年4月西=ローゼン協定を締結します。ロシアに認められつつあった軍事・財政顧問派遣も両国の協議事項となり、韓国における日本の経済上の優位もはっきりと認められました。
ロシアは、韓国における日本の優位を認めることで、旅順大連の租借の承認、さらには満州での優位を認めさせようとしていました。だからといって、韓国から全面的に撤退する意思もなかったのですが。
こうしてロシアによる旅順・大連の租借が実施され、日本政府も黙認しました。
しかし北清事変によって、日露関係は再び緊張します。ロシアが満州を事実上の占領下においたのです。日本ではロシアの影響力が朝鮮半島に及ぶとの危機感が拡大、それに対抗すべく「満韓交換」という形で韓国を日本の独占的支配下に置こうという動きが強まりました。
ここで強調しておきたいのはこうした協議の多くが日露両国によって、韓国皇帝・政府の頭越しに進めらていたことです

1904年1月、日露戦争が迫ってくるなか、韓国皇帝は世界に局外中立を宣言、イギリス・フランス・清など多くの国がこれを承認しますが、日・露ともこれを無視、翌2月、日本は開戦に先だって韓国領内に軍隊を派遣、中立を無視し、事実上の占領下に置きます。
この点は、後にまとめて説明しましょう。

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本稿は2020年6月にUPした新版です。
 2017年度版「日露戦争(1)閔妃殺害事件と北清事変」(旧版)は以下のリンクから見ることができます。
※2022年7月、加筆訂正しました。

 

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