Contents
<6時間目>
<前の時間 太閤検地と朝鮮侵略>
幕藩体制の成立~「平和モード」完成へ
<授業用プリント>
やっと、二枚目のプリントとなる。というか、授業の前半はやはり、一枚目のプリント。
旺文社「教科書よりやさしい日本史ノート」を参考に作成した。
<授業ノート(板書事項)>
トップページにも使わせてもらった生徒のノート。見にくいけどご容赦いただきたい。
この生徒のエピソードをまとめ、イラスト化する能力はすばらしい。
この時間は、エピソードが中心になったため、板書自体の量は少ない。
関ヶ原の戦いへ
秀吉の死と五大老の筆頭としての家康
天下統一を実現し、「平和モード」の方向におおきく日本をすすめた秀吉ではあった。しかし、朝鮮侵略という「正義」のない戦いに失敗、見苦しいまでの親ばかを発揮し、1598年病死する。
秀吉は、死の直前になって五人の大大名を五大老として自分の子供秀頼の将来を頼んだ。五大老の筆頭として、秀頼の後見人となったのが徳川家康である。
徳川家康という人物
徳川家康をみていく。
家康も信長・秀吉と同じ愛知県、ただし東部・三河の出身。
三河の小大名の家に生まれたが、織田氏つづいて今川氏に人質として送られ、今川軍の下で桶狭間の戦いにも参加した。この戦いの後、今川氏から自立、織田信長と同盟関係を結び、その目下の同盟者としてふるまうことで、おもに東に勢力を伸ばした。
今川氏が弱体化すると静岡県西部の遠江を奪い、信長の死とともに旧武田領の甲斐・信濃に勢力を伸ばした。実はこの段階で、かなり天下に近い人物であった。
小牧長久手の戦い~敗れなかった家康
家康自身も、天下を狙う野心をかなりもっていたと思われる。
ところが、現実の歴史は、秀吉を信長の後継者とした。
家康自身はかなり不平であったであろう。
こうして発生したのが、小牧長久手の戦い、どちらかというと家康優勢のまま戦局は推移した。秀吉は家康陣営の切り崩しを謀り、とりあえず停戦に持ち込む。
家康は納得がいかなかったのであろう。秀吉の再三の上洛要請を拒否し続ける。家康は、秀吉にとっての自分の存在が何かをよく分かっていたのかもしれない。最も手強い相手、戦いで勝てなかった家康の存在が持つ意味を。
だからこそ、秀吉は様々な手段で家康に恭順を求め、家康は「自分なら最も危険なライバルの命を奪おうとするだろう」との思いから恭順を拒否し続けたようにさえ思える。
しかし、こうした駆け引きは圧倒的に秀吉のジャンルである。秀吉は、自分の妹を農民出身の夫と離婚させて家康の妻に押し込む。家康は拒む理由を持たない。しかし家康は来ない。やむなく秀吉は自分の母親を人質として家康の元に送り込む。娘の様子を見に行くという形で。秀吉の親孝行ぶりを知っていた家康はさすがに潮時と思ったのであろう。秀吉の元に行き、恭順を誓う。
家康は思ったであろう。「これからは、表面的には秀吉に徹底的に恭順を誓おう」しかし、健康フェチの性格をいっそう強めて。
家康は思ったであろう。「これからは、表面的には秀吉に徹底的に恭順を誓おう」しかし、健康フェチの性格をいっそう強めて。
「何があっても秀吉よりも長生きする。ボケず体力を保って」
秀吉の晩年、五大老の筆頭の地位に
家康は誠実な家臣をよそおう。先祖代々の地三河など東海地方から関東地方へ移ることさえも受け入れる。このことは家康に幸運をもたらした。領地替えを口実に、朝鮮出兵を拒むことができたのであるから。
秀吉は、晩年になって急速に衰えを見せる。後の秀頼が生まれると、異常な親バカぶりを発揮し、冷静な判断力は影を潜める。
幼児である秀頼のことが心配で心配で何も見えなくなり、後継者の秀次を殺す。自身の死期が迫ったことを悟ると、秀頼保護のために、家康以下五人の大名(多くは戦国大名出身)を五大老に任命、その合議による死後の豊臣氏を託する。
家康は、どのような目で秀吉の醜態を見ていたのであろうか。家康のすごみは、本気で秀頼のことを心配しているように見せたことである。この芝居にまんまと乗せられた秀吉は、家康を五大老の筆頭、つまり豊臣家の社長代理(あるいは「やとわれ社長」)とした。
秀吉の死。豊臣派大名の分裂をはかる
秀吉の死、家康は「あのじじい、やっと死んだか。長かったな」といった気持ちだったのではないか。
本来なら自分の物であった天下を奪い取った秀吉、家康はこのときを待ち続けていた。正直で、誠実な人物という仮面をかぶりながら。健康に人一倍、気を遣いながら。それも終わったのだ。そして、家康は自分の仮面を少しずつ外し始める。
しかし、状況を見ながら、ときには小出しに、ときには大胆に。
最初に家康が進めたのは、秀吉配下の軍人グループを自分のもとに引きつけ、秀吉の改革を担ってきた石田三成ら文人官僚グループとの対立をあおること。
さらに、何人かの大名を秀吉の代理という立場から脅す。こうした作戦はまんまと功を奏し、豊臣家の分裂は明らかになる。そして「まじめすぎる」文人官僚グループを挑発し、戦闘に持ち込む。
「関ヶ原の合戦」
こうして、徳川家康率いる勢力(東軍)と石田三成ら西軍が岐阜県の滋賀県との境界付近の盆地で戦った戦いが関ヶ原の合戦である。
この戦いの参加メンバーをみれば、豊臣家の文人官僚グループと、軍人グループの戦いという性格が濃厚である。家康の直属部隊は長野・上田城で真田信幸によって足止めを食って、遅刻したのだから。
余談:島津氏の正面突破、島津は負けていない?!
関ヶ原の戦いでは、一人の武将のみ注目しておく。島津義弘だ。
義弘は西軍ー石田方に参加したが、自分の意見がいれられないと知るや、戦場のど真中にいながら戦闘に参加しなかった!近づく両軍を排除して。
西軍が潰走したあと、唯一戦場に残ったのが島津軍、そこから、島津の退却が始まる。普通、退却というのは後に逃げるのであるが、島津は正面に逃げた!家康の本陣の真横を通って、猛烈な勢いで、前に向かって退却する。多大の犠牲がでた。しかし逃げ切る。大将島津義弘はわずかな兵とともに鹿児島に到着した。
これが、大きな意味を持つ。
以後、島津氏は形式的な謝罪はしながらも、徹底抗戦の構えを崩さず、攻めてくれば関ヶ原の戦いを再現するとの姿勢を貫く。
結局、家康は折れた。
島津氏は、関ヶ原で、勝てなかったが負けもしなかった!
この関係は、かつての小牧長久手の秀吉と家康の関係に似ている。こうして、徳川氏・江戸幕府は、日本列島の最南端に力では圧倒しきれなかった勢力を残してしまう。
江戸幕府の成立
関ヶ原の戦いは、豊臣家の軍人グループをも組織した家康の勝利に終わった。
三成派の拠点であった大坂城に家康は乗り込み、秀吉の代理人として戦後処理を行う。ついでに大坂城内の詳細な調査を行ったという。ありそうなことだ。
秀吉の代理人という役割を家康は三年後に脱ぎ捨てる。
秀吉の代理人という役割を家康は三年後に脱ぎ捨てる。
1603年、家康は武家の棟梁ともいえる征夷大将軍の地位を得る。こうして江戸幕府が成立し、江戸時代が始まる。
家康はぬかりない。
豊臣家は太政大臣という国家の仕事を受け持ち、武家は家康が受け持つ、さらに豊臣秀頼が成人すれば、征夷大将軍の地位を秀頼に譲るという未確認情報を流し、豊臣家やこの時代にはまだ多くいた豊臣系の大名に期待をいだかせ、反徳川の切っ先を鈍らせる。
しかし、二年後には、子供の秀忠に征夷大将軍の地位を譲り、「将軍の地位は徳川家が世襲する」とアピールする。
<幕府とは>
ちなみに幕府というのは、中国では、戦争にでている将軍がい る役所的機関(キャンプ?!)をさす言葉で、鎌倉時代以来、征夷大将軍の政権や政治する役所を指す言葉だ。
「平和モード」の進行
人間、戦争などで頭に血が上っているときは好戦的になる。
しかし、時間がたって、頭から血が引いてきて、いわゆる里心がでると、人々を戦争に向かわせることは困難だ。
とくに領土や財産、多くの家臣を集めてしまった大名らは、リスクの大きい戦争をしようとは思わなくなる。
とくに豊臣氏を守るなどという大義では動けなくなる。間違った判断をしてしまえば、自分の家臣たちが牢人となり、先祖にも申し訳ないし、家臣にもつらい思いをさせる。
こうして戦争は早くも昔の話になり始めていた。
そもそも、「命をかけて秀頼を守ろう」という武士たちの「生物としての寿命」もつき始めていた。
高齢の家康と青年秀頼
家康は迷っていたのかもしれない。
家康は1611年に秀頼を二条城に呼び出している。
この場で家康は覚悟をしたとの説がある。
一つは福島正則ら軍人派大名の動き、さらに秀頼がただの「マザコン坊や」ではなかったこと。
家康はある恐怖を感じざるを得ない。
すなわち、老いて死が近づいてくる自分と、秀吉さらには織田・浅井という戦国大名のDNAを受け継ぎ、成長しつつある若い秀頼、彼を守ろうとする有力大名。
息子の秀忠は今ひとつ信頼できない。
「徳川の平和」(家康を信奉する人々は、この「平和」を「日本の平和」と一体化する傾向がある)を実現するためには、豊臣家をなんとかせねばならない、と。
「大坂の陣」~「平和モード」の完成
家康は動き出す。
家康はきっかけを探していた。そこに一つの情報がはいってくる。家康のすすめで豊臣家が作っていた方広寺というお寺の梵鐘の銘だ。
そこに「国家安康 君臣豊楽」との銘文があった。
家康はいう「国家安康とは家康という名を切り離し、豊臣とともに楽しむと読める。これは呪いの文句だ。謝罪して大阪城を出て行け。」これは、明らかに、いちゃもんだ。
その証拠は、京都の国立博物館の北にあるこの方広寺に、この鐘がしっかり残っている。この部分を枠をつけて、わかりやすくして。
呪いだったら、溶かすはずだが。
1614年についに戦いが始まる。大坂の陣とか大坂の役とかいう戦いだ。結局、豊臣側には一人の大名もつかなかった。集まったのは関ヶ原でつぶされた元大名と武士くらいだ。それでも10万人の兵が集まったと言われる。豊臣側は激しく抵抗したが、家康側の作戦に敗れ、滅亡する。豊臣方に参加した武士たちも一緒に?!
こうして、家康は災いの種を取り除いた。
「戦争の時代」の終了
大坂の陣は、戦国以来の「戦闘モード」が終わり「平和モード」の時代に移行した画期といえる。
当時、「元和偃武(げんなえんぶ)」といういい方があった。
「元和という新しい時代で「武」の時代を堰(せ)き止めるのだ」。当時の人にもこうした意識があったとおもわれるし、積極的にこうした宣伝がされたと思われる。
ほっとしたのか、家康は翌年の1616年息を引き取る。
怪しい俗説では、大坂の陣で、家康は真田幸村に討ち取られて死亡した。その後は影武者が家康のふりをしていた。家康の亡骸が一時的に葬られていた寺が堺市にある、なんていう話がある。
お話としては面白い。そうであっても歴史の大勢は変わらない。豊臣家が滅んだ時点で歴史は新たなページに入ったんだから。
「武断政治」~「徳川の平和」を確固たるものに
武家諸法度~徳川の時代の理解させる。
時代が変わったからといっても、簡単に世の中のあり方、そして人々の考えが変わるわけもない。いわば、時代の「慣性力」(これまで通りのことを続けようとする力)がある。
だから家康の後を継いだ秀忠、家光の時代は、「戦争モード」の「慣性」を押しとどめ、「平和モード」確立に力を注ぐ。
「戦争モードの終焉」、大坂の陣の直後、多くの大名たちはこの意味を知ることになる。大名たちは京都の二条城に集められる。大名の中には、関ヶ原合戦後のように恩賞がもらえると思っていた者もいたのかもしれない。
しかし、秀忠(後に家康も座っているのだが)から大名たちが与えられたのは…「大名たちを厳しく取り締まる決まり」
決まりの名は武家諸法度。
聞いたことある?武家て書いてあるけど、実際には大名が対象。大名はきばって武芸に励めとか、私婚の禁止とか、勝手に喧嘩するなとか、自分の領地はしっかり守れとか、うるさいこと書いてある。
大名たちは、高飛車にこんな命令を出してきてイラッとしたかもしれない。
しかし秀忠(と家康)は「文句があるのならいつでも戦ってやるぞ」「幕府=徳川家に刃向かえばどうなるか分かっているな」といった様子を見せつけ、屈服させる。
多くの大名はこのとき、豊臣家が滅ぼされた意味が分かったのかもしれない。
幕府にたいし異議を唱えることは不可能な時代になったことを。
「武断政治」の時代~力で大名を押さえ込む時代
何人かの大名が、人身御供(ひとみごくう)として見せしめにつぶされる。
見せしめに最適なのは…?豊臣に忠誠心を持っていた大名!
豊臣秀頼を守って二条城にいった軍人派大名。 最も有力なのが、広島にいた福島正則。
大坂の陣から4年後、大水害で広島城の石垣が壊れた。福島正則は武家諸法度に基づいて、幕府に、城の修繕を届けたけれども、正式な許可が出ない。「まあ、いいか?」とばかり、修繕すると武家諸法度違反に問われ、50万石を4万五千石まで減らされた。さらに坊さんになった正則が死んだときに、幕府の使者が来る前に火葬したという口実で石高をさらに減らされ、福島家は旗本に降格、大名でさえなくなる。
福島正則からしたら、関ヶ原で「あれだけ徳川氏に協力したのに」という気持ちかな、「まあこれも時代かな、それだけビビられてたんなら本望や」いう気持ちかな。
同じように、武闘派大名の筆頭であった加藤清正の子孫も54万石から1万石に削られる。
こうして武家諸法度などを口実に、次々とめざわりな大名をつぶしていく。その数は100人近くにものぼる。
こうした、大名いじめが2代将軍秀忠、3代家光のころ40年近くつづく。
軍事力を背景にして、大名をつぶして領地を取り上げる(これを改易という)、石高を減らしたり(減封)、領地替えしたり(移封)して、いろんな形で押さえ込んでいく。
こうしたやり方を武断政治と呼んでいる。
「末期養子の禁」~跡継ぎがないと取りつぶし!
大名はびびって、武家諸法度の違反なんかはあまりしないだろうって?まあそう思うわな。
そこで幕府が用いたのが「末期養子の禁」というルール。末期、「まつご」と呼ぶ。
何のことか分かる?「末期の水をとる」なんて縁起でもない言葉もあるけど、わかる?そう死ぬことや。
<余談>近代以前、人は簡単に死んだ。インフル、出産…
このころは、人間は簡単に死んだ。今やったらどうって事のない盲腸炎でアウト、インフルエンザはかなりヤバい。
インフルエンザにかかった人、このクラスにもかなりいたけど、このころやったら、かなりの人があっち?!にいってたやろな、江戸時代には。
ついでやからいうとくけど、出産のとき、赤ちゃんやお母さんが死んでしまういうことが非常に多かった。早産やったらきつい、逆子なんかやったらアウト、帝王切開しなあかんようなときの多くは、どっちか一方、あるいは両方ともあかんかった。
なんとか、子供を産んでも、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」ということで衰弱し亡くなったお母さんも多い。
今でも、出産は大変やけど、このころは命がけのイベントやったんや。
大名が急死、どうする…?
余計な話してしもたけど、そんなわけで、当時の大名も急死するいうことがざらにあった。今まで元気やったんやから、跡継ぎが決めてないことも多かった…。
さて、君たちが家来で、もしこういう場面に遭遇したらどうする?跡継ぎがいなかったら大名家は取りつぶされ、牢人になる。簡単に言えば失業や。なんとかせな。・・・
そこで考えたんが、前の殿様が生きていることにして、養子を決め、それから後、やっと死なせてもらう。大名の死亡届をだすというやり方や。こういう風な養子を末期養子とよぶ。
しかし幕府は、これを認めないという方針を強く打ち出した。
跡継ぎを決めないまま、大名が急死すれば、その大名家は、取りつぶし(改易)となる。武家諸法度違反よりこっちが多い。
これによって、多くの大名が消えていく。
改易になった大名~外様だけでなく、親藩・譜代も
豊臣系の大名が多いが、徳川家の親戚筋の大名(これを親藩という)も、徳川家の古くからの家来(これを譜代とよぶ)も、かなり多い。
江戸時代初期の、幕府内の権力争いも絡んでいたことも確かだ。
勝手な想像をすると、じゃまな大名をつぶそうと思ったら、
「跡継ぎがいないうちに毒を一服」、
なんて想像も働く、ぼくの勝手な妄想だから無視してね。
それでも、元気な元「戦国大名」も!
まだ元気のよい大名もいる。実は、きっともう一波乱あるだろうから、天下を狙うチャンスもあると考えていた大名もいる。
そのための布石をうっていた。かつては戦国大名としてブイブイ言わせており、天下も狙っていた大名がまだ生きていた。
めっちゃおしゃれで、いまだに「おしゃれ」とか派手とかいうことに名前が残っている。
秀吉に、小田原で降参したんやけど、
そう、伊達政宗。「伊達者(だてもの)」なんて言葉が残っている。
伊達政宗は、大坂の陣の後も生きていて、まだ天下を狙っていた。
仙台にあえて山城を作り、支倉常長という家来をメキシコ経由でヨーロッパに派遣して、スペインとの通商、さらには軍事同盟をむすぼうとした。
ただ、伊達政宗はかっこいい人だったみたいで、秀忠も家光もファンだったので、見て見ぬふりもあったかもしれない。
なお、政宗の死後に伊達騒動というお家騒動が発生したが、それは幕府が伊達家を引っかけて改易に追い込もうとしたという説は昔からよく言われている。
大名へのさらなる難題~築城と大土木工事
徳川家からすると「こりない大名もいそうだ」ということで、さらなる大名いじめ(「武断政治」)もすすめる。
幕府が、幕府側の城を作るから、堤防を作るから、江戸の町を拡大するからなど、さまざまな工事を大名たちに押しつけた。
これは、大坂の陣以前から始められていて、豊臣家ではなく徳川家に忠誠を尽くす、いわば「踏み絵」に使われていたらしい。
幕府による「マウンティング」
テレビで見てたら、ある学者がおもろいこといっていた。この時期の幕府のやりかたは、猿なんかによく見られる「マウンティング」だって。
マウンティングというのは、多くの猿にみられ、ボス猿が他の弱い猿の上に馬乗りになり、自分の方が上であることを認めさせる行動だ。あることの類似行為だな…。わかる?分からんなら、誰かに聞け…。
江戸、現在の東京では、大規模な埋立工事(江戸城の前に広がっていた日比谷入り江を埋め立てた)や江戸城建築、江戸の城下町建設などに大名たちが動員された。
江戸、現在の東京では、大規模な埋立工事(江戸城の前に広がっていた日比谷入り江を埋め立てた)や江戸城建築、江戸の城下町建設などに大名たちが動員された。
二条城や大坂城も。秀吉の大坂城は丸焼けになったので、新たに建て替えた。ご丁寧に古い大坂城の上に数メートルもの土盛りをし、石垣を積み直して…。この行為自体が「マウンティング」風だな。
さらに、彦根城、和歌山城、姫路城などの工事にも動員される。
大名は「やめて!」と思いながらも「ありがたき幸せ」といわなあかん。「そのための費用はもらえるの?」なんてことは口が裂けても言えない。「そのために石高をもらっているのだろ」といわれ、不届きなこととして最悪「改易」だ。大名の財産が湯水のように使われる。
ふと考えると、大工事への動員は、秀吉の朝鮮出兵を平和的な方法でやっていたと見えなくもない。
参勤交代は平時の「朝鮮出兵」?
幕府は、江戸に大名の妻子を人質として置いておき、大名の領国とのあいだの往復をさせる。
これが一年ごとに江戸と領国を往復する…参勤交代として定着する。この巨額の費用が大名を苦しめる。
家光時代には、武家諸法度に書き込まれる。大名は江戸においても家柄・石高に見合った生活をしなければならないし、移動中は石高に応じた装備をしなければならない。こうして膨大な費用を、毎年使わされる。
幕府は、大名に金を持たせない事で、幕府への反抗の気持ちを持たせないようにしようとしたのだ。
金を使わせるだけでなく、大名の収入も締め上げる。
このことについては、別の機会に話すことにする。
元禄時代~「平和モード」完成。文治政治に
関ヶ原の戦いと大坂の陣、さらに江戸時代初期は、秀吉以来つづいた「平和モード」への移行が完成しつつある時期といえる。
そして、秀吉が「移行」のストレスを朝鮮出兵という形で国外に向けたのにたいし、徳川家は、圧倒的な軍事力を背景に、武家諸法度と改易権の乱発、大土木事業などによる経済的な締め付けによっておさえこんだ。その間に、戦国時代以来の「戦闘モード」を生きてきた人たちがが死んだ。こうして「平和モード」が確立する。
戦争は過去のものとされ、武士は「戦う人」=軍人から「治める人」=役人・サラリーマンへとかわっていく。
こうなると「武断政治」は時代遅れになる。
四代将軍家綱の時代以降、道徳と法によって官僚が政治をおこなう「文治政治」へと移行していく。
こうして、江戸時代は五代将軍綱吉のもとで「元禄時代」という全盛期を迎える。
こうした中、武士は「戦争モード」時代の倫理観に変わる新たな倫理観、「自分の存在意義とは何か」を考え始める。
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