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「経済大国」へ~日中国交正常化、ニクソンショック、革新自治体
泥沼化したベトナム戦争
おはようございます。
1965年以降本格化したベトナム戦争はしだいに泥沼化の様相を示すようになります。戦争の様子がテレビなどのメディアを通じて世界に伝えられ、「自由のためのたたかい」の「実態」が丸見えとなり、「アメリカの正義」を信じない人が増えてきます。アメリカで、世界で、ベトナム戦争反対の声が広がりました。
他方、続々と増える戦死者は政府への批判を高めます、ますます増加する戦費はアメリカの財政を悪化させ、ジョンソン大統領の唱えた「貧困とのたたかい」は幻と消えます。ジョンソンは再選出馬を断念し、「名誉ある撤退」を掲げ後を継いだニクソン大統領もずるずると戦争を続け国内外の非難を浴びます。アメリカは、やめるにやめられないまま、泥沼のような戦争をつづけます。
ニクソンはどのように戦争を終わらせようとしたのか?
ニクソンはどのように戦争を終わらせようとしたのでしょうか。
一つ目は「肩代わり」により「アメリカの戦争」を終わらせることです。「南ベトナム政府」軍や韓国など同盟軍にたたかわせ、米軍は撤退するというやり方です。たしかにアメリカの戦死者はなくなりますね。「ベトナム化」戦略ともいいます。1973年の米軍撤退はこの路線上になされました。自衛隊を戦場に送りはしませんでしたが、資金面などでは「肩代わり」に応じました。
二つ目は、解放戦線・北ベトナムを援助する勢力の分断でした。ニクソンは世界を驚愕させる行動を取ります。ターゲットは中国です。当時の中国の様子から見ていきましょう。
中ソ対立の深刻化
1949(昭和24)年、国共内戦を制した中国共産党が中華人民共和国建国を宣言、それまでの国民政府は台湾に逃れました。中国は、ソ連との間で軍事同盟をむすび、東側社会主義陣営に参加しました。
これを嫌ったアメリカは中国の存在を否定し、台湾の国民政府こそが「中国」を代表すると主張しつづけました。
他方、1953(昭和28)年ソ連の独裁者スターリンが死亡、スターリンの評価見直し(スターリン批判)が始まると、中国の指導者毛沢東は強くこれに反発、1960(昭和35)年中ソ論争へと発展しました。
1965(昭和40)年、現実主義路線をすすめる指導部からの権力奪還を目的に、毛らが若者たちの蜂起を極左的に扇動し開始された文化大革命が本格化するなか、毛ら中国指導部は「ソ連修正主義」を「アメリカ帝国主義」とならぶ「二つの敵」と位置づけ、挑発をくりかえします。そして1969(昭和44)年軍事衝突が発生しました。珍宝島(ダマンスキー島)事件、中ソ国境を流れるウスリー川の中州にある島での国境紛争です。
この直後、中国では「深く地下道を掘れ」というスローガンが掲げられました。深い意味がありそうですが、実は「ソ連の核攻撃に備えるために、中国全土で防空壕を掘れ」という意味でした。長い国境を接するソ連への恐怖感は我々が思っていた以上に大きかったのです。
忍者?キッシンジャーの暗躍とニクソン訪中、パリ和平協定
国際的に、中国と国交を結ぶ国は増加しており、「国連代表権も中国へ」という声が過半数にたっし、国連総会ごとに中華人民共和国が「中国を代表する」という議案が過半数を占め続けるようになり、アメリカは日本などの協力も得て、これを却下することに苦労していました。しかし、他方で、文化大革命のあまりの過激さなどから、有力な国で、中国を信頼し支持する国はなく、実態として孤立化していました。中国政府にとって、ソ連との対立は、深刻な危機として受け止められていました。
こうした中国側の弱点を知って大胆な政策をうちだしたのがニクソンの特別補佐官キッシンジャーです。彼は1971(昭和46)年7月病気を装って外交団を離れ、秘かに中国を訪問、帰国後「ニクソンが中国を訪問する」という発表を行いました。世界が驚愕しました。なにしろ、最も強硬な「反米国家」中国が、「帝国主義国」アメリカが接近したのですから。厳しい国際環境にある両大国が、共通の敵ソ連に対して手を結びんだのです。
恥をかかされたのがアメリカ国務省、そして日本政府でした。
日本では、かつて最大の輸出相手国の中心であった中国との貿易再開を望む声は財界などで強かったのですが、台湾重視策をとるアメリカの圧力をうけ、細々とした半官半民の貿易(LT外交)を維持するのが精一杯、それもアメリカの嫌がらせをうける、それが当時の日本の状況でした。中国の国連加盟への邪魔にも動員されました。その日本に「ニクソン訪中」の第一報が知らされたのは当日、それもわずか数分前!でした。沖縄返還交渉で合意した繊維輸出の自主規制がすすまないことへの報復だったといわれます。日本政府はパニック状態に陥りました。
世界は一挙に動き出しました。10月には国連総会での圧倒的な支持を得て中国が代表権を獲得、台湾政府は国連から追放されます。
1972(昭和47)年2月約束通り、ニクソンは北京を訪問し、米中接近が実現しました。
ベトナム戦争も動きます。強硬路線をベトナムに迫っていた中国が、手のひらを返したように和平成立を働きかけたのです。1973(昭和48)年1月パリ和平協定が成立、アメリカ軍はベトナムから撤退します。北ベトナムからすれば不本意だったのでしょう。中国との関係は急速に悪化します。
ベトナム戦争の終結と中越戦争
ベトナム戦争のその後を見ておきましょう。
ベトナム戦争が終わったのは、1975(昭和50)年のことです。1973(昭和48)年、アメリカは「南ベトナム政府軍」に後を託し撤退します。しかし、この年、北ベトナム正規軍を主体とする勢力が大攻勢をかけ、南ベトナム政府はあっけなく滅亡、ベトナム戦争が終結しました。アメリカ・フォード大統領はアクションを起こしませんでした。こうしてベトナム戦争は終わります。そのときのニュースを見てみましょう。
ぼくは、大学生になっていました。「やっと終わった」という印象くらいしか思い起こせません。あまりに長かったからです。右翼の宣伝カーが「ベトナム解放という名の共産主義の侵略」というフレーズをくり返していたのを鮮明に覚えています。幼稚園のころからいつもそばにありつづけていた戦争がこうして終わりました。
実は「ベトコン」と蔑称されたゲリラ=南ベトナム解放民族戦線には共産主義者だけでない多様な人々が参加していました。しかしこうした人々の多くは戦争中に戦死しており、最終的には北ベトナムの軍事力による併合と社会主義化という形になりました。アメリカの介入がなければ、もっとちがったベトナムがあったのかもしれません。
その後、北ベトナム主導の社会主義化を嫌った人々が小さな船に乗って出国する「ボートピープル」が大量に生まれました。ボートピープルの中心は中国系住民であり、米中接近以来の中国とベトナムとの対立が背景にあったともいわれます。そして大量虐殺が続くカンボジアにベトナム軍が介入すると、懲罰と称して中国がベトナムに侵攻、撃退されるという中越戦争も発生しました。
なお、ベトナム戦争に際し、アメリカを支持する反共的国際組織として結成された東南アジア諸国連合(ASEAN)はその後非軍事化をつよめ、きっかけとなったベトナムなども参加する地域連合として成長、世界の中で大きな影響力を持つようになっていることは、皆さんもご存じだと思います。
話を元にもどしましょう。
2つのニクソンショック
ニクソン大統領はいくつかの点で世界史の流れを変える役割をしています。1971(昭和46)年夏、彼は二度にわたって世界に衝撃を与え、ニクソンショックといわれました。ついでにいうなら、在任中の1973(昭和48)には石油ショックが発生、最後は1974(昭和49)年にはウォーターゲート事件という不祥事でアメリカ史上初の不祥事による辞任という形でその地位を去ります。これまでの「強い大統領」ではすまない、時代の転換を象徴する大統領でした。
1つ目のニクソンショックは米中接近です。そして、二つ目は8月のドルショックでした。ニクソンは、突然、金とドルの交換を停止するなどの政策を発表、これにより戦後経済を支えてきたブレトンウッズ体制と呼ばれる国際経済体制が崩壊しました。この時も、日本への根回しはありませんでした。
ブレトンウッズ体制の成立~金ドル本位制の成立
ブレトンウッズ体制とは何か、その成立から見ていきましょう。
経済面において、第二次世界大戦はアメリカの一人勝ちでした。ソ連や中国も含む連合軍諸国に巨額の軍事援助や借款の供与を行い、大量の武器や軍需品などを輸出しました。膨大な貿易黒字が生じ、世界中の「金(きん)」が集まりました。ヨーロッパなどで産業破壊が進んだのとは逆に、軍需産業をはじめとする国内産業が飛躍的な発展を遂げました。
1944(昭和19)年、戦争が終盤に入り、連合国は戦後世界のデザインを考えはじめます。その結果、国際連合が設立されます。国際経済・金融でも新たな国際秩序がつくられました。これをブレトンウッズ体制といいます。戦争の原因を経済面から取り除くことが検討されます。とくに
貿易などにおける国際収支の決済(為替決済)をどうするかが主要な議題となりました。これまでの決済通貨「金」をアメリカがほぼ独占している現実を背景に、アメリカ代表は提案します。「金貨の代わりに米ドルを使いませんか。アメリカがドルと金貨を交換する金本位制をとりますから」。他の国は従わざるを得ませんでした。アメリカが金1オンスを35ドルと交換できる金兌換制度をとり、それを「金」の代わりとすることでポンド(イギリス)やフラン(フランス)など世界中の通貨がドルとの間で交換レートを定めました。こうしてドルが国際的な通貨決済を行える通貨を基軸通貨となりました。戦後の混乱ののち、日本円は1ドル=360円というかなりの円安のレートで固定されました。私は今でも「1ドル360円」といってしまうことがあります。「円は360度」から来ているという噂もありますが、本当かどうか。実勢よりも円安とすることで日本の輸出を促進し、経済復興をすすめようとしたといわれます。
そして、こうした仕組みを維持するため設立された機関が国際通貨基金(GATT)です。日本は1952(昭和27)年加入します。
こうして、これまで金が持っていた役割をドルが担う「金ドル本位制」が成立します。このことがアメリカによる戦後世界経済の支配を決定づけたとされます。そりゃそうでしょう。自国通貨のドルが、金にかわって使える。金との兌換をある程度配慮すれば、あとは必要に応じどんどんとドルを発行し世界に供給できるのです。また国際復興開発銀行(世界銀行)も設立され、連合国のちには発展途上国などへのドル資金の貸し付けを行いました。
こうした世界の経済システムによってアメリカによる世界経済支配が確立し、パクスアメリカーナ(「アメリカの覇権に基づく平和」)を経済面で支えました。
ドルショック~ブレトンウッズ体制の崩壊
1960年代になると西側諸国の経済復興、とくに日本とドイツの復興により、アメリカの一人勝ち状態は終わりつつありました。各国は多額のドルを保有、他方でアメリカの産業には翳りが見られ、さらに核軍拡競争などによる軍事費の膨張と多額の経済援助などによる財政ひっ迫などで、アメリカ経済は力を失ってきました。日本を除く各国はドルとの交換レートを少しずつ変更して調整しつつ、ドルの一部を金(きん)にかえはじめます。ベトナム戦争の本格化はこうして動きを一挙に加速、アメリカの準備金はどんどん流出、次第に危険水域に入っていきました。
こうした中、1971(昭和46)年8月ニクソン政権が打ち出したのが、金とドルの交換を停止するという「掟破り」の一手でした。ブレトンウッズ体制は崩壊します。アメリカから言えば屈辱でもありました。実態として経済面での「アメリカ一強」は終了していたのです。この時のニュース映像です。
ドルショックと日本
ドルと金が交換できなくなり、混乱への対応である何段かのステップが試されたのち、1973(昭和48)年世界は本格的な変動相場制を採用するようになりました。通貨の需要と供給により交換レートが日々変動するようになります。産業が発達した貿易黒字の国や利率の高い国の通貨が「買われ」て「通貨高」に、
産業不振であったり利率の低い国は「売り」が増えて「通貨安」に、
というふうに、市場ルールで為替レートが変動します。通貨高になると外国市場での価格が上昇するので輸出が不振となり、通貨安になれば価格が安くなって輸出が伸びる、輸入では逆の現象が起きる。
このように為替レートには各国の経済力や経済政策が反映され、貿易の抑制や促進などを調整します。
ドルショックによる、1ドル360円の固定相場崩壊によって「円」はいっきに急騰し、308円での固定が図られますが失敗、1970年代末から1980年代前半に200円台前半付近で止まります。このあたりが妥当なレートだったのでしょう。
円高は経済大国となっていた日本の姿を浮かび上がらせました。
ドルショックは、1ドル360円という超円安相場を背景に「安かろう、悪かろう」(1950~60年代は当時こんな自嘲的な言い方がされていたのですよ)の日本商品を売り出すビジネスモデルり崩壊させます。企業努力でいくら安く作っても、輸出の伸びにより為替レートが円高に振れれば値の高い商品へと変わってしまうからです。
こうして、大量の安い労働力を投入して付加価値の低い製品を大量生産し、大量に輸出するというビジネスモデルは過去のものとなりました。明治以来、日本経済を支えた繊維産業では、化学製品などを中心とするハイテク産業へと変身する少数の大企業と、退場や転身を余儀なくされる大量の中小企業が生まれました。労働集約型の工場は賃金の安い東南アジアなどに移転しはじめます。アメリカなどでの現地生産も始まります。生産拠点の海外移転は規模・分野ともに拡大、90年代になると多くの産業の拠点が、国内から海外がメインとなっていきます。かわって国内では、高品質で付加価値の高い商品生産、さらに第三次産業へと重点を移します。
ドルショックは、こうした国内産業のあり方をかえ、工場の海外流出、国内の産業空洞化への出発点となりました。
ドルショックと沖縄
ドル・ショックのとばっちりを受けかけたのが、返還を間近に控えた沖縄でした。
翌1972(昭和47)年5月の日本返還によって、通貨がドルから円に変わります。その交換レートが1ドル360円でなくなったのです。(12月、1ドル308円でいったん固定されます。)何が起こったかわかりますか?1万ドルの資産をもっていたひとは360万円もらえるはずだったのが、308万円しかもらえなくなったのです。52万円も損をすることになります。当然、沖縄の人たちは1ドル360円での交換を求めます。他方、大蔵省(現在の財務省)は難色を示します。丸々持ち出しになるし、これを利用して儲けてやろうという人たちも現れかねないからです。しかし、当時の日本政府は頑張りました。最終的には1ドル360円のレートでの交換に応じ、交換額に上限もつけませんでした。
このときのエピソードが2017年7月に放送されたNHK「アナザーストーリーズ~沖縄返還・運命の日」で紹介されていました。非常に興味深いものでした。
オイルショック
少し、先回りをして話をすすめます。日本経済にさらなる試練がやってきました。
1973(昭和48)年のオイルショックです。まず当時のニュースを見てみましょう。アメリカなど先進国の石油資本(メジャー)に価格と供給を押さえられていた石油生産国が、イスラエルと中東諸国の間で発生した第4次中東戦争をきっかけに、石油を武器とする外交に踏み切りました。このため石油価格は一挙に4倍にはねあがりました。敵国イスラエルとの関係で貿易相手国を選別し輸出を減らしていくとも宣言しました。人々の間に「灯油が手に入らなくなる」という話は、「トイレットペーパーがなくなる」「洗剤が買えなくなる」といった根拠のない流言飛語へとつながり、パニックが発生、人々がスーパーに殺到しました。
「水より安い」とさえ言われた石油価格の急上昇は、ドルショックとあわせ、高度経済成長の前提を破壊すると考えられました。石油価格の上昇は、電力料金などの上昇へつながり、さらにそれらを原料とするさまざまな製品の価格の急騰へとつながります。
さらに「便乗値上げ」や買い占め売り惜しみなどもあり、1974(昭和49)年の物価上昇率は卸売物価で32%にものぼり、狂乱物価と呼ばれました。賃金上昇率は33%に上り、年末に支払われた公務員の給料の差額は、ボーナスをはるかに上回りました。深夜のテレビなどは中止となり、ネオンサインなども消されるなど、異様な状態となりました。
こうして、高度経済成長は終了し、いわゆる「低成長」の時代に入っていきます。
田中角栄という人物
話を佐藤政権末期の、1971(昭和46)年に戻します。
この年の6月、沖縄返還協定が調印されました。翌7月ニクソン訪中発表、翌8月の金ドル交換中止のドルショックとニクソンショックが日本を覆います。沖縄返還交渉合意で沖縄基地が安泰となったことがニクソンの大胆な政策を後押ししたという論者もいます。翌1972(昭和47)年5月沖縄復帰が実現すると、佐藤は内閣総辞職を発表しました。佐藤は、福田赳夫(ふくだ・たけお)に跡を託そうと考えていました。しかし、これに異を唱え、カネの力で首相の座をもぎ取ったのが「今太閤」とよばれた田中角栄(たなか・かくえい)でした。
田中は新潟の極貧の農家の生まれで、高等小学校しか出ていません。しかし、一度出会った人間は二度と忘れないという恐るべき記憶力をもととした並外れた人心掌握術、持ち前の才覚と努力を武器として、若くして会社を興して財をなします。そこで得たカネの力を元手に1947(昭和22)年、20代の若さで政界に進出、資金力をバックに政界でも存在感を増していきました。
田中のすごみを示すのが30代の若さで就任した郵政大臣でのことです。当時、郵政省は地味な官庁の代表でした。しかし田中はテレビ業界の将来性を見抜き、許認可権をテコに放送業界をおさえ、利権官庁へと変身させました。その後、池田・佐藤内閣でも、大蔵大臣、幹事長、通産大臣と要職を歴任、佐藤内閣の「汚れ役」を担い、気がつけば福田と並ぶ有力者となっていました。
田中は佐藤退陣が近づくと、佐藤派を乗っ取って田中派を打ち立て、カネの力で福田支持派すら寝返らせ、首相の座をもぎ取りました。1972(昭和47)年7月のことです。このときの金権政治ぶりはいまだに語りぐさです。群馬からの中継で、総裁選で敗れた福田の母親がマイクに向かって「田中じゃない。Nがにくい」と絶叫、号泣したのを思い出します。同郷のNがカネで田中についたのがよほど悔しかったのでしょうね。
佐藤内閣の終焉と「今太閤」田中角栄
他方、無残な姿をさらしたのが、佐藤です。沖縄返還という大事業を成し遂げたにも関わらずあまり評価はされず、米中接近やドルショックでアメリカから見捨てられ、自派を田中に食い荒らされ、後継者・福田も総裁選で敗れました。失意の中、首相の座を降ります。辞任会見の席上で佐藤はうっぷんを爆発させます。
「テレビカメラがない。偏向した新聞は嫌い」だと騒ぎ出し、記者たちが抗議すると、退席を促します。誰一人記者がいない会場で一人テレビに向かって語ります。戦後最長を誇った首相の哀れな末路でした。その様子、ちょっと見てみましょう。さっきの福田の母親のニュースも含め、この時期の政治ニュースはなかなかエキサイティング?!で、すこし「哀しい」ものでした。
こうして田中角栄の時代に入ります。「待ちの政治」の佐藤に変わって「決断と実行」の田中は佐藤時代の停滞した重苦しい政治を一挙にくつがえすかのようでした。
苦手なことは信頼できる人間に任せ、自分が責任を取るという度量があり、「恥ずかしいくらいに」エネルギッシュで人間くさい、なかなか憎みきれない「かわいいオヤジ」で、日本中の人間が「ものまね」をしました。今でも、そのへんのおじさんに「田中の物まねをして!」というと、かなりの割合でやってくれますよ。支持者は「コンピュータつきのブルドーザー」とほめ、批判派は「そろばんづくのブルドーザー(またはシャベル)」と呼びました。新しい国家計画をめざす「コンピュータ」と、利権あさりと「カネの力」を示す「そろばん」。実行力や国土「開発」・経済発展の象徴であり、環境や国土・伝統などの「破壊」をも象徴するブルドーザー、土建業的センスを示すシャベル。とそ田中の人柄と政策を示していました。
佐藤の「重苦しさ」に辟易していた人々は、「決断と実行」、突っ込みどころ満載の「明るいトーン」を歓迎しました。しかし開発と破壊というブルドーザーにたいしては「もう高度成長の時代とちがうやろ!」という違和感を感じる人が多くなっていました。
しかし、田中は違和感を持つ人の感覚はつかめませんでした。田中は開発とカネの信奉者でした。田中が過疎と貧困に苦しむ人々とくに東北や日本海側に住む人間の生活をよくすることに心を砕いていたことは事実でしょう。「無意識の社会主義者」という人もいます。しかしこうした政策が、地方「票」を増やし、自民党や自分の後援会の拡大につながり、さらに自分のフトコロも潤うということと矛盾なくつながっている人物でした。利益誘導型と言われる日本の政党政治家の権化ともいうべき人物でした。
日中国交改革とアラブ外交
田中の「決断と実行」という姿勢が最もよい形で現れたのが日中国交回復でした。
田中は、交渉の多くの部分を外務大臣の大平正芳にゆだねました。しかし首脳会議では交渉上手の周恩来らに対し、臆せず率直な姿勢で交渉に臨み、信頼を勝ち取りました。「尖閣」問題も「のちの人に任せましょう」と棚上げする度量も持つなど「決断と実行」の政治家として、千両役者ぶりを発揮しました。周恩来はよっぽどうれしかったと見えて、田中の手をにぎり、ぶんぶんと振り回し、離そうとしませんでした。この映像も見てみましょう。
日中国交回復について、もう少し見ていきます。
佐藤が米中接近が明らかになってからも消極的な台湾寄りの姿勢を続けたのに対し、田中の動きは敏捷でした。内閣が成立して2月後の9月、早くも北京を訪問しています。日中間の戦争状態終結、中国(北京)政府を唯一の合法政府と認める、アジア・太平洋地域の覇権を求めないという日中共同声明で、日中国交回復を実現、台湾とは国交を断絶しました。
アメリカと中国の間の米中接近が台湾の扱いをめぐって「イマイチ」だったのにたいし、日中の国交回復が鮮やかだったことに、アメリカ、とくに外交政策を担うキッシンジャーは怒りを覚えたともいわれています。自分の成果を日本に横取りされたという意識もあったみたいです。
石油ショックでの対応でも、アメリカとの距離が生まれました。田中は石油の安定供給のため、キッシンジャーらの圧力をはねのけ、アラブ諸国に特使を派遣、親アラブの姿勢を明確にしてアラブの友好国と認められ、石油割り当ての削減を免れました。中東諸国はこれ以降、日本への友好的な感情を持ち続けます。
1974(昭和49)年1月、東南アジアを訪問、新たな資源安定供給の道をさぐりました。しかし、このときは開発独裁の政権をささえる日本への反発が強く、田中は各地で激しい反日デモの洗礼を受けました・・・。
田中の失脚はアメリカの「陰謀」という「都市伝説」?!
田中の外交は、米中接近というアジアの秩序の変動、さらにドルショック・オイルショックという二つの経済危機に際して、アメリカ経由のみでない資源供給の道を探るものであり、自主外交をめざすという性格を持ちました。そのことはアメリカにとっては意に反した独自外交に踏み出そうとしていたと見えたことは明らかです。
そこで「都市伝説」が生まれます。田中が金脈問題で失脚し、さらにはロッキード問題で政治生命を絶たれたのはアメリカの陰謀だったというのです。たしかにロッキード事件の発端はアメリカからでした・・。そしてキッシンジャーは、のちに「やり過ぎたな」と口にしたというのですが・・・。
高度経済成長の矛盾~農村人口の流出と過疎化の進展
この時期、自民党には悩みがありました。得票率の低落傾向です。大都市を中心に自民党支持者が減少、かわって社会党・共産党の共闘を背景とした革新自治体が急増していました。
農村では、農地改革によって小規模農民の力が増し、購買力も上昇、民主化もすすました。自作農にはなったものの規模は小さく経営的な困難は残ります。さらに農業の近代化により農村の労働力過剰が明らかとなります。しかし、戦前と違ったのは、この過剰人口を都市がすべて吸収したのです。農村から都市への巨大な人口の流れが生まれました。子どもたちは「集団就職」を、大人たちは「出稼ぎ」などで、都会へ流出していきます。
新憲法体制が家父長制的な「家」制度を破壊し、職業選択の自由が定着すると、農家の「後継ぎ」さえ都市へと流れていき、豊かな農家も含め後継者問題が深刻化します。
農村では過疎化がすすみます。兼業農家も増加、老人と女性が農業を担う「三ちゃん農業」が一般化しました。
自民党は農家の所得を保障するため、市場価格と乖離した高い値段で米を買い取ります。(後には消費者米価よりも高くなる「逆ざや」が問題となりました)。こうした手法は、パン食の普及などによる「米離れ」が進んだにもかかわらず、農家を小規模な米つくりに引き留め、農業規模の拡大や多角化といった近代化を妨げる原因となりました。
都市問題の深刻化
他方、工業化・都市化にともなって三大都市圏には人口が集中し、過密化が進行しました。しかも経済効率を第一に考える風潮の中、そこに住む人への配慮は後回しとされ、都市問題が深刻化しました。
市街地は無秩序に拡大、「ウサギ小屋」と揶揄される劣悪な住宅が郊外にまで広がります。満員電車で長時間の「痛勤」を余儀なくされるサラリーマンたちはそれだけでヘトヘトに疲れていました。下水の整備の遅れにより河川には生活・産業汚水が流れ込み、多摩川や隅田川は悪臭とヘドロに覆われた死の川へとなりました。隅田川の復活の様子を示した動画を見てみましょう。スモッグが空を覆い東京から富士山が見えるのは正月三が日だけでした。小児ぜんそくの子どもへの診断は「この町を離れなさい」というものでした。光化学スモッグ警報が出ると屋外での体育の授業は中断されました。
道路が未整備のまま自動車が増加、交通渋滞が多発、車が狭い道路にまで入り込み、子どもたちは遊び場を奪われました。交通事故が急増、「交通戦争」の「戦死者」はワーストを更新し続けました。オリンピックのため突貫工事でつくられた高速道路は「お江戸日本橋」から空を奪いました。廃校が相次ぐ農村とは対照的に大都市では学校建築が追いつかず、マンモス校、プレハブ校舎が大量に生まれました。
経済成長政策を第一に考え、公共事業や福祉政策を後回しにしたツケがこうした事態を招いたのです。さらに、福利厚生を家族や企業に丸投げしてきたことからくる福祉政策の不在は老人や子ども、女性などにしわ寄せされていました。
「革新自治体」と「福祉元年」
こうした状況に対し、1960年代後半になると、こうしたことへの異議申し立てともいえる住民運動が活発化します。
特に深刻な被害を出している公害は大きな怒りを巻き起こしました。水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市ぜんそくの四大公害訴訟ではすべてが住民側の勝訴となり、政府側も公害対策基本法を整備するなど対策に追われます。
こうした住民運動の活発化を背景に、経済発展や開発より生活・福祉の充実や環境保護を訴えた革新勢力の主張が受け入れられてきます。
1965(昭和40)年には東京都で社会党と共産党が推薦した美濃部亮吉が当選するなど、両党の共闘を基本に反公害や福祉政策・憲法擁護をもとめる革新自治体が大都市圏を中心に急増していき、最盛期には日本の人口の過半数が覆うに至りました。
環境基準を設けたり、都市整備計画による無秩序な開発の規制を進める一方、教育制度、老人医療や児童手当、生活保護の充実などの福祉政策の充実などが図られました。
こうした動きに危機感を感じた自民党による巻き返しの一つが、革新自治体が進める諸政策、とくに福祉政策を取り込むことでした。1973(昭和48)年、田中内閣は「福祉元年」とのスローガンを打ち出し、高齢者医療の自己負担無償化、医療保険の給付率の改善、年金給付水準の引き上げといった政策が予算に盛り込まれました。日本は福祉国家への第一歩を踏み出したように見えました。
しかし、今から見ると、将来を見据えて検討すべき内容を、予算が潤沢だから、選挙で票になるからと安易に踏み出してしまった印象も受けます。人口動勢、歳入や収入の予算の収益予想などの将来設計、法的整合性、給付だけではない福祉国家のトータルデザインなど国民的議論が不十分のまま進められた印象をうけます。そして翌年の石油ショックで早くも予算面で破綻をみせはじめます。そして21世紀「高齢化社会」が現実化する中、最大の政治課題の一つになります。
「日本列島改造論」
田中の政策の目玉は「日本列島改造論」でした。雪国新潟に育った田中は、過疎化が進む地域に新幹線や高速道路といったインフラを整備、工場などを分散することで、過疎地をなくし過密を解消、日本全体の経済発展をめざすという「コンピュータ(そろばん?!)つきのブルドーザー」の真骨頂ともいえる政策でした。これに伴う財政緩和によってドルショックで打撃を受けた経済にさらなる刺激を与えようとしたのです。これは自民党の最大の支持基盤である土木・建築業(多くの兼業農家もかかわっている)に仕事をまわすことで「票」と「議席」を手に入れ、土建業を営む自分自身も利益が得られるものでした。
このため田中政権ができると、日本中の地価が急上昇、都市住民は「マイホーム」が夢と消え去ると感じました。これ以上に無計画な開発が促進され、いっそうの環境破壊を進むとも感じました。調和ある発展を望む人々の思いとは距離があるものでした。
田中内閣の崩壊とロッキード事件
「日本列島改造論」で経済を立て直し、福祉政策などで国民生活を保障し、さらに日中国交正常化にも成功、おりからの「田中ブーム」、田中は万全の体制で1972(昭和47)年総選挙に臨みました。臨んだはずでした。
しかし結果は厳しいものでした。かろうじて過半数を確保したものの得票率では過半数を割り込み、公明党・民社党など中間政党も議席を減らし、共産党が史上初の39議席を獲得するなど、革新自治体を支える社会党・共産党が大きく力を伸ばし、田中の「開発」路線への批判の強さを示しました。
1973(昭和48)年の石油ショックはこれまでの日本の姿を大きく変えました。狂乱物価が日本をおおいました。この対応を託されたのが大蔵大臣となったのが福田赳夫でした。
福田は田中に「総需要抑制策」という厳しい引き締め政策を呑ませます。こうして日本は戦後最大とも言われた不況に突入、福祉元年は初年度からケチがつきました。物価上昇は止まりましたが、生産も急落しました。不況下にインフレが進行するスタグフレーションとよばれる事態が生じました。田中内閣への批判も高まり支持率も低下します。そうしたなか、田中は自らの地位を利用した利権あさり(「田中金脈」問題)を追求されて、1974(昭和49)年11月首相を辞任しました。
その二年後の1976(昭和51)年、アメリカの飛行機メーカー・ロッキード社が田中ら政治家に金を渡したという事件が明るみに出て、ついには田中自身が逮捕されます。
「スト権スト」の失敗と労働運動の変化
革新勢力の発展の背景には、生活者・消費者としての市民の力が背景にありました。しかし、人々が働いている現場では違った風景が広がっていました。
ドルショックやオイルショックという「日本の危機」「会社の危機」にたいし、会社はさまざまな企業防衛策を取りました。働く人を減らしたり、スピードアップやミスを減らすといった作業能率向上を重視します。当然、仕事内容は厳しくなり、従業員の帰宅時間は遅くなり、家族への負担も高まりました。
本来なら、労働組合が抵抗すべき場面です。しかし、そうはなりませんでした。会社を守る方が大切だという考えが働く人の間で強くなっていたのです。
1970年代前半、総評は「国民春闘路線」を打ち出し、賃上げだけでなく年金の引きあげなど、春闘を通じて国民生活の向上をはかると主張しました。しかし国民との共闘といえる実態があったとはいいがたく、「国民の願い」ということを掲げただけの「自分たちの要求実現するためのタテマエでしかない」という批判もありました。
1974(昭和49)年、オイルショックにつづく不況の中、財界は「賃上げ自粛」を打ちだし、労働組合のなかからも「組合の社会的責任」として賛同するところも現われます。春闘は低額回答で妥結、賃上げの流れを止めました。
労働者の中での、労働組合の存在感がうすれていました。「勤労者・労働者は「革新」勢力を支持する」という図式も通用しなくなりました。早い時期から「企業ぐるみ選挙」に協力してきた労働組合も多かったのです。
社会全体に日々の生活を守ることが第一という「生活保守主義」的な生き方が広がりをみせてきました。
「スト権スト」の敗北
革新自治体を組織的に支えたのは総評参加の労働組合でした。その総評内部でも、民間の労組を中心に労資協調の流れが強まり、官公関係の労働組合との間に意見の対立が生まれていました。
総評を支える官公労働組合の中心が国鉄労働組合(国労)でした。この当時、国鉄(現JRグループ)、専売公社(現JT)、電電公社(現NTT)の三つの企業体および郵政省(現日本郵政グループ)や林野庁などの5つの現業的仕事(三公社五現業)の労働者は、占領下のアメリカの指令でストライキなど争議権を奪われたままになっており、これをとりもどすのが官公労働者の悲願でした。
ストライキの力でスト権を一挙に回復しようとしたのが、1975(昭和50)年11月末から8日間にもわたったスト権ストでした。まずこの時のニュースを見てみましょう。これにより、国鉄の多くの列車がストップし、交通は大混乱に陥りました。しかし、商品流通などでは思ったほど影響がなかったという印象を持った人も多かったのです。流通の中心は鉄道とくに国鉄から、高速道路などを利用したトラック輸送に変化していたのです。
戦後史の中でも、これだけ大規模な労働者のストはなかったでしょう。しかし、多くの人の記憶にはあまり残されていません。規模の大きさにもかかわらず、なんの成果もありません、失敗に終わったのです。それにとどまらず、スト権ストで、総評の側が、これまでの労働運動が国民の支持を失い、自滅していくきっかけとなりました。
スト権ストが引き起こした影響~国鉄民営化へ
ぼくの大学も、休講になりました。家でずっと本を読んでいました。
スト権ストは、国民の間に十分な経過も知らされず、スト権回復の道筋も不透明なまま、唐突に始まったという印象でした。「国民が求めていることとずれている」というのが率直な印象でした。ストは行われたもののそれを国民的課題とするような大集会も行われず、十分な宣伝もありませんし、支持を表明しようにも窓口も見当たりません。多くの人にとって、組合側が力づくでルールに反した無茶を通そうとしているかのように見えました。
「何やわからんけど、迷惑な話や」という声が世間をおおい、「魚が腐ったので賠償しろ」といった請求も国労に届けられます。民間、とくに中小企業で働く人からは「親方日の丸だから、こんなことができるのや!」という声も出てきます。
官公労働者、さらに労働組合へのバッシングが強まりました。「スト迷惑論」が力を増し、労働者の正当な権利行使であるストライキが「悪いこと」のように扱われました。このせいか、これ以後、春闘にかかわる恒例行事である交通ストも減少し、ストライキでたたかって賃上げをかちとるという流れは忘れられました。今や、ストライキという言葉自体が死語になりつつあります。その後、就職したぼくがストにかかわったのは一回だけ、それも新採直後だったので参加できず、ほかの人たちの様子を見ているだけでした。
スト権ストは、労働組合運動の自滅のように感じられます。官公労働者と民間労働者との距離感も広がりました。官公労働者や公務員への「親方日の丸」論などさまざまなバッシングが浴びせかけられます。とくに国鉄労働組合に対してはきびしいものでした。議員さんの「票」のために敷かれた不採算路線のツケや官僚的な国鉄の体質から生じた赤字までが国鉄労働者や国労など労働組合の責任とされ、80年代の「国鉄分割民営化」への道が開かれます。その過程で総評をささえてきた国労は集中攻撃を浴び弱体化しました。
労働運動の変化と「連合」の成立
スト権ストの失敗によって国労をはじめとする総評内の左派の勢力が力を失いました。公務関係の労働組合内部でも労資協調などを主張する右派の力が強まり、同盟などとの合流をめざす「労働戦線統一(「労戦統一」)」の動きが本格化、反対する共産党の影響をうけた組合や組合員との対立も激化しました。
さらに選挙での政党支持をめぐる共産党支持者たちとの確執もあって、社会党・共産党を中軸とする革新統一よりも、社会党・公明党・民主党の中道路線を支持すべきだという声が高まります。これを受け、社会党内でも社公中軸路線が強まり、社共中軸の革新自治体のあり方についても否定的な声が出始めました。
スト権ストが行われた1975(昭和50)年が労働運動の分岐点でした。しかし、それは1960年代以来の民間企業ですすんできた動きが、スト権ストの敗北をきっかけに一挙に表に出たといえるのかもしれません。
1980年代になると、総評の力は一挙に衰え、全国的な労働組合組織をどうするかという議論(「労戦統一」)が議論の中心となります。国鉄分割民営化に伴う国労などの弱体化、をへて、総評は1989(平成元)年にはついに解散、主流派は労資協調を唱える旧同盟系組合などと合流して日本労働組合総連合会(「連合」)に、これに反対する労働組合は全国労働組合総連合(「全労連」)などに結集しました。これに合わせて、国労と並ぶ総評の中心的な組合(自治労・日教組など)も分裂を余儀なくされます。
こうした流れはスト権ストの前後からすすみました。
革新自治体をめぐる対立
1960年代後半から70年代にかけて革新自治体が躍進した背景には、生活者・消費者としての市民・住民の力がありました。
都市問題の無策や福祉政策の不十分さへの生活者・消費者として、「市民」「住民」としての怒りが、革新自治体を支えていたのです。
しかし、石油ショックなどによる不況は人々の中に「生活保守主義」を広げていきました。
また自治体財政は切迫し、積極的な政策を展開する余地を失わせました。中央からの交付金などに期待できる「政府との太いパイプ」をもつ候補者の方が魅力的に見えはじめます。
さらに政府や保守系の自治体も、革新自治体の政策を受け入れたため、政策的な特徴も見えにくくなってきました。
こうしたなかで総評や社会党では社共路線よりも社公民の中道路線を選択すべきとの声が高まったのです。
社共対立で、特に深刻だったのが部落解放運動をめぐる対立でした。
同和行政の進展と部落解放運動をめぐる対立
部落問題(「同和」問題)は、江戸時代の特定の身分への差別が、明治になって身分としては解消されたにもかかわらず残り、近代化にともなう貧困と疎外とも結びついて生まれた社会問題でした。明治期には、生活環境などの改善による解決を目指す融和運動が生まれ、1922(大正11)年には部落住民自体の力で差別解消をめざすという全国水平社が設立され、大きな役割を果たしましたが、戦争が激化する中で消滅させられました。
戦後の1946(昭和21)年、かつての水平社などの活動家は部落解放全国委員会を結成、1955(昭和30)年には部落解放同盟へと姿を変え、部落解放運動の中心として活動を活発化しました。とくに力を入れたのが、部落差別の背景にある、部落の劣悪な生活環境や進学・就職の困難さなどです。こうしたものが差別を再生産させているとして、政府が責任を持って改善するよう主張したのです。
政府も1961(昭和36)年には同和対策審議会を設置、1965(昭和40)年にだされた答申(「同対審答申」)をもとに劣悪な環境の改善や進学・就職の機会保障などさまざまな角度からの対策が打ち出されました。こうした取り組みは姿を変えながら、2002(平成14)年まで続きます。これと相まって、基本的人権を求める憲法の精神にもとづく部落内外の取り組みも活発化、部落問題を理由とする差別は社会から受け入れられないという社会になりました。
しかし1960年代後半以降、同和対策事業の進め方や政党支持をめぐって部落解放同盟内部で深刻な対立が発生していました。同和対策事業は自治体の主体性で進めるべきとする反主流派と、自治体は解放同盟の意見を尊重すべきとの主流派の対立が行政に持ち込まれました。
こうして多くの自治体で社会党と共産党の共闘が解消され、革新自治体は力を失っていきました。1979(昭和54)年東京・大阪で革新自治体が崩壊、1980年代になると主要な自治体での革新自治体はなくなります。
「経済大国」~日米経済対立の開始
ドルショックによる円高とオイルショックによる石油不足で日本経済は失速すると考えられていました。
しかしこうした失速は一時的なものでした。こうした逆境を背景に、日本経済は新たな形で発展していきます。労働集約型(「重厚長大型」)の産業は苦戦を強いられた一方、知識集約型・高付加価値型のハイテク産業(「軽薄短小型」)の隆盛をもたらしました。とくに高度成長の負の側面を乗り越えた経験が大きな力となりました。石油不足は「省エネ」技術を、公害問題は「低公害」の技術というように。
また革新自治体が提起した都市対策や福祉政策も多くが引き継がれ、日本的福祉国家が定着したかに見られました。「世界で唯一成功した社会主義が戦後日本だ」という人もいわれました。
こうして、円高が進み、かつての対ドルレート2/3程度の二〇〇円台前半でも十分対応できる力をもっていることが明らかとなり、「経済大国」と呼ばれるようになっていきます。「低成長」のなかで、安さではなく品質によって日本製品は輸出を伸ばします。貿易黒字も増加していきます。しかし、こうした動きは、パクスアメリカーナといわれたアメリカでの産業の地盤沈下などと連動したものでした。アメリカは、日本をパートナーとしてみる一方、経済面では敵対的な存在とみるようになってきます。
最初に見たニクソンショックにおけるアメリカの「いじめ」は「日米繊維交渉」の遅れに対する報復でした。実は、日米が経済で対立するという構図はこのころから始まっていたのです。
日本の経済発展とともに、アメリカとの利害対立も生じ始めてきていました。田中外交にはこうした一端が隠れているとも考えられます。これまでとは違うアメリカとのつきあい方も問題となってきます。
そのアメリカは1980年代ベトナムの敗北から立ち直り、ふたたびその巨大な姿を見せつけます。
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※2017年7月に放映されたNHK「アナザーストーリーズ・オイルショック、列島が翻弄された71日」では、どのようにしてパニックが起こったのかの検証や、キッシンジャーが田中首相にかけた圧力と田中の対応、三木特使のアラブ外交など当事者などの証言も含めた興味深い内容となっていました。