<前のてち時間:ノモンハン事件と第二次世界大戦の発生>
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アジア太平洋戦争開戦へ
日独伊ソ四国同盟と日ソ中立同盟
1940(昭和15)年7月に成立した第二次近衛内閣は、9月、二つの重要な決断をしました。・・・日独伊三国同盟の締結と、北部仏印への進駐でした。
これをみたアメリカが「日本は、ドイツと結び東南アジアへの進出する道、アメリカ・イギリスと対立する道を選んだのだ」と理解し経済制裁に踏み切ったことはすでに見たとおりです。
松岡洋右外務大臣(国際連盟脱退のときの外務大臣)は、三国同盟にソ連を参加させること、つまり「三国同盟を四国同盟に発展させる」ことでアメリカをけん制しようと考え、松岡はドイツに向かいました。ところがヒトラーは冷たい態度です。
モスクワに向かった松岡をスターリンは歓迎、日ソ中立同盟を締結する事としました。
松岡はこれで心おきなく南進を進めることができると考えました。意気揚々と帰国した彼を待っていたのは、またしてもヒトラーの態度急変でした。
独ソ戦の開始と「関特演」
独ソ戦開始をうけ、日本はどのような方針をとるか、調整が必要になります。7月「御前会議(天皇が出席する最高意志決定会議)」が開催されます。「ドイツと結んで、すぐソ連に攻め込むべきだ」と強硬策を主張したのは日ソ中立条約を結んできたばかりの松岡でした。
そして結論がでました。「予定通り南進政策を強化すすめる。資源を確保して『自存自衛』体制をつくるためにはアメリカやイギリスとの戦争への準備をすすめ、戦争も辞さない。ソ連との戦いの準備もすすめ、必要により軍事力を行使する(戦争を行う)」
米英戦争が日程にあげられ、さらにはソ連との戦争すら検討されるようになります。
思い出して下さい。中国とのドロ沼のような戦争の真っ最中のことですからね。
この決定にしたがって、陸軍は85万人という日本陸軍始まって以来の大軍を秘かにソ連との国境に集めました。これを関東軍特種演習(関特演)と称しますが、戦争準備以外の何者でもありませんでした。
そして、年内にドイツがソ連を屈服させることが不可能とわかると、ソ連との戦いをいったん断念します。
スパイ・ゾルゲの暗躍
スターリンは思ったでしょうね。「ノモンハンでコテンパンにやっつけた効果が出た」と。ゾルゲらの情報は世界を変えました。そのことはあとで話しましょう。
南部仏印への進駐
この方針に従って、陸軍は南部仏領インドシナ(ベトナム南部)へ進駐します。地図の赤い色が現在のベトナムの場所で、南部仏印はその南部、現在のホーチミン市(当時はサイゴンとよびました)を中心とした地域です。まっすぐ東に向かうとアメリカ領フィリピン、西南に向かうとイギリス領マレー半島、南に向かうとオランダ領東インド諸島(インドネシア)です。
こんなことをすれば何が起こるのか、冷静な判断をする人もいなくなっていました。「アメリカに日本と戦争をするような根性はない、大丈夫、大丈夫」。こんな全くの根拠のない希望的観測がまかり通っていました。
石油禁輸政策の実行
石油が切れるとどうなりますか?飛行機は飛ばず、戦車は動かず、海軍の基本である船もただの箱に変わります。
当時、日本の石油約8割をアメリカから輸入していました。その石油の輸出が全面禁止にされたのです。対米英蘭戦争の開戦は俄然、リアルなものになってきました。
たしかに日本は、原油を溜められるだけ溜めてきました。しかし、それは1年分にすぎません。「対米英戦争止むなし」とかいいながら、心の底ではそんなことはあり得ないとでも思っていたのでしょう。しかし、それが現実のものになってくると軍部や政府はオタオタし、リアルに戦争を考えざるを得なくなってきました。
石油の供給が止まったということは、貯蔵されている石油がどんどん減っていくことです。決意が遅れれば遅れるだけ石油は減る、いわば、戦争へのカウントダウンがはじまったようなものです。
アメリカと妥協し石油を再び売って貰うか、アメリカ以外から石油を手に入れるために戦争をはじめるか。決断を迫られるようになったのです。
それもできるだけ早く、残っている石油と相談しながら・・・。
日米交渉の開始
しかし、アメリカにも弱点がありました。戦争準備が整っていないのです。アメリカは、軍需工業をフル回転させる一方、時間稼ぎとして日米交渉を利用します。そのため、日本側の要求をもとに交渉するなど日本側に期待を抱かせるような手段もとりました。だからといって、安易な妥協はしません。南北仏印からの撤退は当然のこと、中国からの撤退も求めたのです。その背景には、中国・国民政府からの強い働きかけもありました。
アメリカとしては当然のことでしょうが、日本としては日中戦争自体を無にすることはなかなか受け入れがたい内容でした。こうして交渉は難航します。
「ABCD包囲網」という主張
日本国内ではアメリカに対する反発が強まっていきます。軍部や右翼たちは、日本が進めている「正義」の行動に対して、アメリカ・イギリス(ブリテン)・中国(「チャイナ」)・オランダ(「ダッチ」)の4カ国が共同して日本へ迫害を加えているという「ABCD包囲網」といういい方が声高に叫ばれます。
なぜこういった行動をアメリカなどがとったのか、侵略を受けた中国に非はあったのかなど。そもそも「石油を売ってくれないから戦争だ」といういい方、まるで子どもが「自分の言うことを聞いてくれない」といって騒いだり暴れたりするみたい。この時期の日本指導層、軍部や政府首脳、彼らの幼児性は驚くばかりです。いまだに真に受ける人も含めて。
ちなみに日本が一番必要としていた石油などの天然資源、蘭印(現インドネシア)の宗主国であるオランダ亡命政府は1940年の段階で、日本側からの提供の要請の大部分を認めています。
ABCD包囲網の「D(オランダ)」が日本を包囲する強硬論者であったというのは「濡れ衣」です。オランダ当局は何としても日本の侵攻を避けようとしていたのです。
9月6日の御前会議
こうして開催されたのが9月6日の御前会議です。天皇が出席する最高意志決定会議ですよ。そこでいろいろと話合いがあったのち、結論が出されます。
「10月上旬を目標に、対アメリカ・イギリス・オランダとの戦争を辞さないという覚悟で、戦争準備を完成する。その一方で、外交交渉もつづけ要求実現をはかる」という内容です。
交渉を進めるなら、どこまで妥協するかが重要なのですが、その余地は「仏印からの撤退」だけとされていました。やる気がないとしか言えない内容です。そして戦争準備は着々と進んでいきます。
事態はチキンレース状態になってきました。
日本側はそんなつもりだったかもしれません。しかし、アメリカ大統領のF・ローズヴェルトは最初から参戦を覚悟していたので、チキンレースはなりたたないものでした。
開戦をめぐる陸軍と海軍
なぜかわかりますか?これまで、海軍は何と云っていましたか?「アメリカと戦えるだけの装備が欲しい」と騒ぎ続け、無理を言って太平洋で最強の大艦隊を作り上げたのです。今さら「アメリカには勝てません」とはプライド上言えないのです。
いつもは悪役の陸軍を少し弁護しましょう。
ただ、陸軍も、海軍も、政府も、天皇や側近も、ほぼ全員が共通して分かっていたことは、アメリカに完全に勝つことはでありえないということでした。アメリカ本土侵攻作戦などは計画にもありません。
近衛内閣の崩壊
近衛内閣は、7月には「対英米戦争は辞せず」と決定し、9月には「10月上旬に開戦を決意する」などといった景気のよいたんかを切りながら、結局は最終段階で責任を回避したのです。
しかし戦争を回避する「中国からの即時無条件撤兵」という絶対条件を責任を取って受け入れるという覚悟を誰もしなかった。この道を選択した時の混乱の方を恐れたのです。戦争による破滅よりも、責任を問われることを避ける選択をしたのです。
こうして、当時の日本の指導者たちは、方向転換による非難を浴びない為に、より危険な「火遊び」、誰一人として勝利の目算のない戦争へと踏み切り、日本を破滅に追い込んでいったのです。
東条英機内閣の成立
しかし、これをつぶしたのは昭和天皇と木戸でした。
そして、木戸が推薦したのは東条でした。天皇や木戸は、強硬でわがままな陸軍を抑えきれるのは陸軍で開戦派の東条であると考えました。この案を天皇に伝えたところ、天皇は「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」といったといいます。戦争回避を東条に託したということでしょう。たしかに、東条は、「開戦について再検討せよ」という天皇の意思に従って戦争回避の策を一応検討はしました。また開戦に消極的な東郷茂徳を外相につけもしました。しかし「中国からの即時全面撤退」という条件を認めない以上、結論は9月の会議と変わることはありませんでした。
「開戦派の東条が総理大臣になったということは天皇が開戦を認めた」と、国民も、アメリカもそのように考えました。
11月5日の御前会議は「12月1日までに対米交渉が成功しなければ、12月初頭に開戦する、それを見越した準備をする」ことを決定、この日程にしたがって、陸軍も海軍も動き始めました。海軍は機動艦隊を千島・単冠湾に集結、26日秘かに出航していきますし、陸軍各部隊に攻略準備命令がだされています。この会議が、戦争開始へのスイッチを押したと考えられます。
しかも「ここまできた以上仕方がない」という無責任な判断で、勝つ見込みもないのに。
「大義のために死す」というのならカッコいいのですが、その大義すらもない、指導者である自分たちが責任を取りたくない、自分だけがリスクを取りたくないという各種のエゴの結果でした。
ハル=ノート
その内容は中国からの無条件撤退のみならず、満州事変以来の状態への復帰、つまり「満州国」を否定する事すら求めていると読めるものでした。日本側は、中国からの撤兵までは想定したものの、それ以上の厳しさであったことに衝撃を受けます。そしてこれが最終通牒、アメリカのファイナルアンサーであると考えました。そして思います。予定通り戦争をするしかないと。
多くの研究者はアメリカが日本を戦争に踏み切らせようとしたものであると考えてきました。ところが、この文書自体、最終通牒ではなく、作業中の不十分な文書がはずみで日本側に渡ってしまったという研究も出てきました。アメリカはより柔軟な回答を用意したところ、中国側の強い反対もあり、検討案のつもりで日本側に提示したというのです。
ともあれ、ハルノートを受け取った日本側は、12月1日、御前会議を開催、対米英蘭戦争の開戦を正式の決定、そのことを作戦準備中の部隊に連絡します。北太平洋上には連合艦隊がハワイに向かって進んでおり、マレー半島とフィリピン上陸作戦のため陸軍部隊が待機していました。
アジア太平洋戦争の開始
また太平洋上の空母から飛び立った艦上機が日本時間午前3時(ハワイ時間7日午前8時)ハワイ真珠湾にいたアメリカ艦船を奇襲、大きな被害を与えました。
満州事変に始まった十五年戦争はついに世界最強のアメリカ・イギリス、さらにオランダとの間の戦争へと発展していきました。当時の政府は大東亜戦争と称しました。戦後、アメリカの指示もあり太平洋戦争といういい方が定着しました。しかし、戦場が東南アジアに広がっていたを考慮して、アジア太平洋戦争と呼ぶべきという意見がふえています。
日本が戦争をはじめ、攻撃を受けたアメリカも参戦し、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦を布告したことで、ヨーロッパで戦われていた戦争は名実ともに世界大戦となりました。