アジア太平洋戦争(3)敗戦

帝国書院「図説日本史通覧」P285
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アジア太平洋戦争(3)敗戦

学童疎開と建物疎開

おはようございます。なんとか今日で戦争を終わらせたいと思っています。

前回、絶対国防圏と考えていたサイパン島が陥落した話をしました。1944年7月のことです。

本土空襲の拡大  山川出版社「詳説日本史図録」P282

指導層の中では「もう難しい」という空気が流れ、東条英機内閣が退陣においこまれました。
空襲が現実問題となり、各家や地域の防空壕の整備がすすみ、バケツリレーなど防空演習が繰りかえされます。空襲も人海戦術で対応できると考えていました。

学童疎開 帝国書院「図説日本史通覧」P287

その際に邪魔になると考えられたのが子どもたちです。子どもに手を取られ防火作業がおろそかになると考えた政府は、子どもたちを都市から出て行かせました。学童疎開です。まず地方に親戚がある子どもを疎開(縁故疎開)させ、残ったこどもたちを集団で疎開させました。集団疎開です。

山川出版社「詳説日本史図録」p281

子どもたちは、親のいない心細い生活、規則ずくめの日々、乏しい食糧、地元の大人や子どもたちとの軋轢など、辛い日々を過ごし、両親などに手紙をだしつづけました。
都心部の住宅密集地帯では建物疎開がすすめられました。

帝国書院「図説日本史通覧」P283

延焼を防ぎ、防火作業を行いやすくするため、家屋を撤去するのです。自分の家が恐ろしく安い値段で「買い取られ」、取り壊されてしまうのです。いったん決まってしまえば、文句は言えません。
中学校の生徒だったぼくの叔父も、建物疎開の仕事にかり出されたそうです。
各地にその名残があります。たとえば、京都には不似合いなほど広い通りがあります。それが建物疎開の名残です。
しかし実際の空襲は甘くはありませんでした。あえて消火しようとしたことが逃げ遅れによる被害を大きくしたともいわれます。

 

特攻隊による自爆攻撃

アメリカ軍はフィリピンに向かいました。日本軍に奪われたアメリカの植民地・フィリピンの奪還はアメリカの、そして現地司令官マッカーサーのプライドの問題でもありました。

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー(Wikipedia「マッカーサー」)

1944年10月、アメリカ軍はレイテ島に上陸、激しい地上戦が始まります。海軍は残っている戦力のほぼ全部をつぎ込んで海戦に臨みました。この戦い、空母の数で後れをとった海軍が採用したのが、爆弾を積んだまま飛行機ごと敵艦に突っ込んでいく特攻攻撃でした。
そして、この攻撃で空母など数隻を沈没させたことに気をよくした軍首脳部は、この自爆攻撃を戦術のメインにします。陸軍にも特攻部隊が作られます。

関行雄大尉(Wikipedia「神風特攻隊」より)

しかし、最初の特攻隊長・関大尉が「自分のような優秀なパイロットを特攻に使うようじゃ日本はおしまいだ」と語ったといわれるように、この作戦は、飛行機とパイロットを次々と消費し、日本軍の体力を消耗させました
特攻が主要な作戦として採用される中、訓練も不十分な学徒兵などが性能の劣る特攻機に乗って特攻に向かいます。これにたいし、アメリカ側の対策もすすみ、思うような成果も上がらなくなりました。
ある本によると特攻の効果は次のようだったといいます。
出撃して戦死した者3724人以上、命中率は18.6%。アメリカ側資料ではこれにより沈没した艦船は48隻(小型空母3・駆逐艦13、あとは小型艦艇や輸送用上陸用艦艇など)です。破損した艦船は310隻。
犠牲に見合う戦果だったのでしょうか。

1944年11月25日、アメリカ海軍空母エセックスに突入直前の艦上爆撃機彗星。(Wikipedia「特別攻撃隊」)

自分の命を捨ててつぎつぎと突入してくる特攻隊は、アメリカ人の常識からは想像できないものであり、精神的に変調を来した米兵もいたという記録も残っています。
昔から特攻隊員は志願者のみで編成されたという「神話」があります。しかし、断わりきれない状態で、断ることを許されないような言い方で、意志確認がなされ、実際は強制であったという証言が多くあります。
特攻兵である自分は、飛行機の一部品に過ぎない。この戦争自体、このような戦術自体が愚劣だとわかりながら作戦に参加した兵士もいました。逆に、家族や「国」をまもるためにと純粋な気持ちで志願した人もいたでしょう。しかし、かれらにしても、戦争で次々と周りのものが死んでいくという特別な状態、生命の価値が恐ろしく低く見積もられたなかでの志願でした。今の価値観で考えないこと、そして必要以上に英雄視すべきでないと考えます。

出撃する特攻機を見送る女学生たち(Wikipedia「特別攻撃隊」)

かれらの飛び立った基地には記念館があり、遺書も展示されています。その多くは心のままに書くことができない状態で記されたものです。こうした点も頭に入れて見てください。
特攻死した隊員は「軍神」とされ、その隊員の実家を「誉れ高い家」として多くの人が訪問しました。「このたびはおめでとうございます」というあいさつに「盆と正月が一緒に来たようで」と笑顔で答えさせられたのです。

NHKスペシャル 学徒兵 許されざる帰還 ~陸軍特攻隊の悲劇~ [DVD]

「学徒兵 許されざる帰還」整備不良などで特攻の任務を果たせなかった学徒兵たちは福岡にあった「震武寮」に幽閉 、隔離された事実に迫ったドキュメント作品

最後の言葉も配慮しながら記さなければならない、家族の死に涙も許されず、「うれしい」とまでいわせる、特攻は、戦争は、本当にむごいものでした。
ところが、戦争が終わると周囲の態度は一変します。家族たちは二重の意味で傷つけられました。
劣悪な飛行機が用いられるようになったため、装備不良などで引き返したり、故障で不時着したものも多く出ました。不時着して生還した特攻隊員たちが、特別の施設に軟禁されていた事実も明らかになっいます。軍としては、軍神が生き残っていては困るのです。
戦争とは、かくも無残なものでした。
特攻隊と同様な行為が、さまざまな戦場で発生しています。爆弾を抱いて敵戦車の下に飛び込むという行為は、ノモンハン事件以来、各地で発生しました。志願ではなく命令として。

人間魚雷回天

特攻攻撃は、航空機だけではありませんでした。

特攻兵器「震洋」 ベニア製の粗末なモーターボートに爆薬を積み込み、敵艦への突入をめざした。(Wikipedia「震洋」)

爆薬を積んだロケット型グライダー「桜花」、魚雷に人間を乗せた人間魚雷「回天」、爆弾を乗せたモーターボート「震洋」などが開発、使用されました。最後には空気を補給されながら海のなかを歩いていって敵・上陸用舟艇に爆薬を取り付けるといった特攻の計画され、訓練中の事故で戦死した人もいました。
隊員に選ばれながらも出撃命令をうけないまま終わった、機の故障などで生き残った人たちは、どうだったのでしょうか。助かったと思った人もいましたが、死に損なったと思った人、なぜあの友人が死に自分が生き残ってしまったのかと悩み続けた人、様々でした。この体験を胸に前向きに生きた人もいましたが、荒んだ生活を過ごしつづけた人もいました。戦争は生き残った人をも不幸にしました。

フィリピンや硫黄島での戦い

特攻作戦の甲斐もなくレイテ沖海戦は敗北、海軍はほぼ壊滅しました。レイテの地上戦はガダルカナル島の二の舞ともいえる悲惨な状態となりました。

「野火」(原作:大岡昇平 監督・主演:塚本晋也 2016作品)

作家大岡昇平は「野火」でこの戦いの中の兵士の姿を描き、それを塚本晋也監督が2015年映画化しました。気の弱い人にはお勧めできませんが、できれば見て欲しい作品です。スピルバーグ監督の「プライベートライアン」の最初の20分間とともに、戦争の実際を感じることのできる作品です。
母の兄もレイテで戦死しました。祖母も涙を見せませんでした。母はいつもその話をしてくれました。「明治の女だった」と、そのこと自体の評価はせずに。
アメリカ軍は、フィリピンの中心であるルソン島にも上陸、首都マニラでは壮絶な市街戦が繰り広げられ、街は破壊され多数の市民が巻き添えになりました。
ジャングルに逃れた日本兵は、アメリカ軍だけでなく、日本軍支配下で迫害を受けたフィリピン人からなるゲリラとの戦いも強いられました。

アーリントン墓地に立てられた米海兵隊記念碑。硫黄島・すり鉢山での星条旗掲揚をモデルとしている。(Wikipedia「硫黄島の星条旗」)

1945(昭和20)年2月、アメリカは小笠原諸島南端に位置する硫黄島に上陸、徹底抗戦をつづける日本軍との間で1か月以上にわたる激闘がつづきました。この戦闘での死傷者の多さがアメリカの政策に影響をあたえたといわれています。
なお6人の海兵隊員が硫黄島・すり鉢山に星条旗を掲げる姿は、海兵隊戦争記念碑として復元され、アメリカの第二次大戦を象徴するものとなりました。
硫黄島は日本本土から約1000キロに位置しており、損傷したB29の不時着飛行場として、燃料基地として、さらに本土空襲をするB29の護衛機の発着などにも用いられました。

沖縄戦の開始

次の目標とされたのが沖縄でした。沖縄防衛軍は沖縄県民に「共生共死」の合い言葉で、軍隊への協力と死ぬ覚悟を求めます。多くの県民が飛行場建設などに動員され、男性の多くも軍隊に編入されました。

小桜の塔(対馬丸犠牲者の慰霊碑)対馬丸記念館HPより

師範学校や中等学校の生徒たちは鉄血勤皇隊として各部隊に配属され、女学生たちも従軍看護婦に組織されました。他方、足手まといと考えられた小学校の子どもたちの日本本土への疎開をすすめました。このような多数の学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められ、1500人近くの人が犠牲になったことは有名です。対馬丸事件を描いた「海よ、いのちよ」(対馬丸記念館HPにつながります)もあります。是非見てください。

実教出版「高校日本史」P224

アメリカ軍は4月1日、アメリカ軍は、これといった抵抗もなく沖縄本島に上陸、数日で沖縄本島中央部を占領して沖縄を分断、飛行場を奪いました。これは、沖縄を本土防衛のための時間稼ぎとする日本軍の作戦であり、直前に有力な師団を引き抜かれたことによって生じた戦力不足を補う手段でもありました。
アメリカに占領された地域の住民たちは、収容所に収容されていきます。こうして沖縄県民の長い戦後が始まるのです。
しかし米軍が南進を開始すると、猛烈な日本軍の抵抗に遭いました。日本軍は、地下に潜み、猛烈な砲撃を浴びせかけます。爆弾を抱えてキャタピラーの下に飛び込んでくる日本兵の自爆攻撃で戦車も次々と破壊されました。自爆攻撃には鉄血勤皇隊の少年たちもかり出されました。

「ありったけの地獄をぶちまけた」戦場

他方、上陸をたやすく許し、飛行場を失ったことを東京では「不甲斐ない」と見ていました。同じ感想を持った人物がいいます。「現地軍はなぜ攻勢に出ぬのか」。天皇でした。天皇は、沖縄でアメリカに一撃を与えて、有利な形での講和を考えていました。
日本軍は一挙に攻勢に出ます。地下に潜んでいた敵が出てきてくれたのだから米軍からはありがたい話です。攻勢に出た部隊は数日で壊滅、再び地下に潜んでの戦いに戻ります。
天皇はこんなこともいいました。「飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?」。このひとことが戦艦大和を無謀な海上特攻隊へとかり出しました。大和はアメリカ航空機の猛攻をうけ、わずか数時間の戦闘で、戦果も上げずに2,740名の兵士とともに沈没しました。
激戦は、なおもつづきます。

那覇新都心「おもろまち」~かつての「シュガーローフヒル」と呼ばれた丘からの撮影とおもわれる(Wikipedia「おもろまち」)

現在、ブランドショップが建ち並ぶ「おもろまち」という那覇の副都心のおしゃれな街があります。この街の一角に巨大な貯水槽がある低い丘があります。
この丘は、戦争中、アメリカ軍がシュガーローフヒルと呼んだ沖縄戦最大の激戦地でした。アメリカ兵は「ありったけの地獄をぶちまけた戦い」だったといいます。この「地獄」の跡に、現在のおしゃれな街が広がります。不思議な気持ちがします。

東京書籍「日本史A」P144

このように各地で「地獄をぶちまけながら」、アメリカ軍は日本軍の司令部首里城に迫りました。すでに首里城は完全に破壊されていました。
現在の首里城は各種の記録を元に戦後再建されたものです。なお、首里城の下に地下壕の入り口がいくつも口を開けていますので、首里城に行ったときは気をつけて見てください。
米軍が首里に迫るなか、現地司令部は選択を迫られます。本来、もっとも正しい選択は名誉の降伏でした。そうすれば、のちの沖縄の運命もはるかにましなものに変わったでしょう。しかし、当時の日本軍にそうした選択肢はありませんでした。次がひとつは首里を死守し「玉砕」する道です。これで戦闘は終結し、民間人の被害は抑えられ、まだマシな戦後につながったでしょう。しかし、現地司令部はこの作戦はとりませんでした。沖縄戦の目標は、沖縄県民を守ることになく、「本土決戦までの時間稼ぎ」だったからです。そして、司令部は、本島南部に移動し徹底抗戦するという道を選びました。この選択が、沖縄戦の悲劇をいっそう過酷なものとしました。そして戦後の沖縄の歴史をより悲惨なものにしました。

戦場に投げ出された住民と集団死

大雨の中、軍主力は島の南部に移動、戦場は本島南部へと移りました。移動していったのは兵隊だけではありません。
沖縄住民も、傷つき、家族らを砲撃などで失いながら南へ南へと向かっていました。そして身を隠せるようなガマ(珊瑚礁でできた鍾乳洞)や亀甲墓をみつけ、戦火を逃れていました。 そこに軍隊がやってきたのです。「陣地とするから出ていけ!」。民間人が砲弾が飛び交う戦場に投げ出されました。

実教出版「高校日本史A」p225

兵士と民間人が一緒に潜んだガマもありました。県民たちはついつい方言で話すこともあったでしょう。兵隊にとってみればまったく分からない方言で・・・。
このような命令が出ていました。「標準語を用いず、方言を用いるものは間諜(スパイ)とみなし、処分すべし」と。沖縄方言を用いれば、殺してもいいというのです。
赤ん坊を連れている母親もいます。赤ん坊はところ構わず泣き叫びます。「みつかってしまう!」。兵士や周囲の人間が言います。「黙らせろ!」でも泣き止まない・・・。恐ろしいことがおきてしまいました。

集団死と考えられる写真(渡嘉敷島)

こういった事態が各地で発生していたのです。
こんなうわさも流れます。「アメリカ人に捕まれば、男は戦車で踏みつぶされ、女は強姦される」。だからいっそのこと死んだ方がよいと。家族が家族を殺し合うという地獄絵図が繰り広げられました。軍隊から「捕虜になるよりもいさぎよく死ぬのが日本人だ」と自決用の手榴弾が与えられ、命を絶った人たちもいました。
アメリカ人はそんなことはしない。降参したものを保護するのは世界の常識だ」という人がいて全員が生き残ったこともありました。

日本国内で唯一の地上戦が行われた沖縄

沖縄は、地上戦がおこなわれた国内で唯一の場所でした。

浜島書店「アカデミア世界史」p277

戦場に民間人が取り残され、戦闘にまきこまれ、被害が拡大しました。日本軍は、一般住民を保護しようとせず、捕虜を禁じるという軍隊の「ルール」を一般住民に求めることもあったため、被害が拡大しました。
すくなくとも沖縄戦において、軍隊は国民を守るものではありませんでした
では、軍隊が守ろうとしたのは何だったのでしょうか?沖縄戦の前後から陸軍は「本土決戦」「一億玉砕」を叫びます。では、「一億玉砕」してまで、日本人を全滅させてまで守るものがあったのでしょうか。

映画「渚にて」(1960)第3次世界大戦-核戦争-が勃発。世界全土に放射能汚染が広がり南半球のオーストラリア周辺の一部を除いて、人類は絶滅。帰還できなくなった米原子力潜水艦はメルボルンに入港するが、その地にも死の灰は迫っていた……。

SF小説だったか、漫画だったか、忘れました。全面核戦争が発生し、誰もいなくなった地上に、地下深くのシェルターから指揮官がでてきます。「わが国の勝利だ。自分が生き残ったのだから」と叫ぶ。
違う結末もあります。他の国にも自分と同様に生き残ったものがいると聞いて、さらに残っている核兵器の発射ボタンを押す・・。
この馬鹿馬鹿しさ、これが戦争なのでしょう。戦争は、いつのまにか目的も、本来守るべきものも何もかもなくなり、完全な破滅へと自己運動を進めていく傾向があります
考えてみれば、いつまで戦争が続こうが実際には関係ないのかもしれません。自分が、家族が、大切な人が、戦争で殺されれば、それは敗戦であり、ゲームオーバーですから。自分たちや大切な人を守らないで、いったい何を守るというのでしょうか?

話をもどします。
沖縄県では、民間人や軍に協力させられた人の死者は約15万人にのぼりました。さらにいえば、兵士のなかに鉄血勤皇隊のような緊急に召集された沖縄県民が含まれており、県民の死者は18万人にも及ぶといわれています。

沖縄戦の被害 帝国書院「図説日本史通覧」P285

生き残った県民や兵士は収容所に入れられました。
収容所から解放された県民たちが見たのは、荒廃した沖縄と米軍基地に姿を変えた広大な土地でした。県民の自由な外出が求められるのは1947年3月、このときは昼間だけであり、夜間の外出禁止が解かれるのはさらに1年後のことでした。
本土とは全く別の「日本の戦後」が始まっていました。

近衛上奏文と対ソ和平工作

戦況はいっそう末期的になっていました。

本土空襲の拡大  山川出版社「詳説日本史図録」P282

空襲は大都市から地方都市へと広がり、空母などから出撃した米戦闘機が機銃掃射で人びとを追い回し、一般の国民にも多くの犠牲者が出ます
近海に潜水艦が出没し、投下された機雷とともに、輸送船などを次々と沈められ、食糧不足はいっそうひどくなります。配給は遅配続き、闇物資に頼らざるを得ません。女性や生徒たちは、昼は勤労動員、夜は空襲警報という生活で疲労困憊していきます。
この間、指導者たちはどうしていたのでしょうか。すでにこの年の2月、元首相の近衛文麿が「日本の敗戦は必至であり、このままでは共産革命が起こる」との意見書(近衛上奏文)を天皇に提出しています。

東京書籍「日本史A」P145

敗戦は必至という認識は指導者間では共有されつつありました。問題は「徹底抗戦」「一億玉砕」を叫び、戦争をやめるくらいなら、天皇にだって危害を加えかねない軍部、その強硬派の存在でした。
4月、小磯内閣が総辞職し、天皇側近の鈴木貫太郎海軍大将が天皇と和平派の後押しで組閣します。しかし鈴木らは徹底抗戦をもとめる陸軍などが受け入れられる和平案しか出せません。仲介を期待したのはソ連でした。常識的に考えてもソ連が応じるわけないでしょう。例によって自分にだけ都合のよい希望的観測です。にもかかわらず、内閣はソ連に期待し、時間を浪費しました。
その間、戦局はいっそう激化、六月沖縄が陥落、天皇や側近らは「国体護持」=天皇を中心とする日本のありかた(天皇制)がまもらればそれでよいという1条件のみを求めるようになります。
それにたいし、軍部とくに陸軍は、①国体護持に加え②連合軍による占領は小規模・短期間にすること③武装解除は日本が自主的に行うこと④戦争犯罪人の処分は日本が自主的に行うこと、の4条件に固執、話は進みませんでした。
なんか、自分たちの保身にしか見えないのですけど・・・。

ヤルタ会談とドイツ降伏

この間、世界は大きく動いていました。
1943(昭和18)年2月、ソ連は前年からつづいていたスターリングラート攻防戦を制し、戦局は連合軍の優位へとかわります。同年9月には三国同盟の一角イタリアが降伏、逆にドイツなどに宣戦を布告、侵入してきたドイツ軍との間で激しいたたかいとなり、イタリアは戦場となりました。1944年6月のノルマンディー上陸作戦の成功でドイツの敗勢は確かなものとなりました。
その間、1943年11月カイロ会談が開催され、米英中の首脳が日本の無条件降伏するまで戦いつづけることを約しました。ドイツの降伏が濃厚となった1945年3月には、米英ソ三首脳がヤルタ会談が開催されました。

浜島書店「アカデミア世界史」P276

そこで、ローズヴェルト米大統領はソ連のスターリンに、ドイツ降伏3か月後の対日参戦を約束させます。もちろん日本はこの密約については知りません。ただモスクワの駐ソ大使はこうした空気を感じたのでしょう。日本政府の対ソ和平工作への固執を厳しい言葉で批判しています。
5月、ついにドイツが降伏、ヒトラーも自殺しました。ドイツの勝利を見越して戦争を始めた以上、日本には勝ち目はありません。これ以上戦うのは無駄でした。しかし「ドイツが敗れても戦争遂行には変更はない」という態度をとります。
そして、この間も可能性のない対ソ工作をつづけます。被害は、犠牲は、さらに拡大しています。

ポツダム宣言と「黙殺」

7月、米英ソ三国の首脳がドイツ・ベルリン郊外のポツダムに集まりました。

浜島書店「アカデミア世界史」P276

戦い続けている日本への対策も議題となり、7月26日にはポツダム宣言が米英中三国の名前で発せられました。その内容は①日本軍国主義の除去②領土制限③軍隊の武装解除④戦争犯罪人の処罰⑤民主主義の復活強化⑥目的が達成するまでの占領、どです。
原案を作成したアメリカ国務省内部では「立憲君主制を排除しない」という一言をいれるかで暗闘が繰り広げられていました。これが入れば天皇制維持を許容する、日本流にいえば「国体護持」を認めるということになります。しかし、この一文は入りませんでした。しかしニュアンスはのこされています。外交というのは、このように実に微妙なものです。日本側にも気づいた人もいたでしょうが、確信がえられなかったでしょうね。もし正式に入っていたら、日本側もかなり動揺したでしょうね。実は日本側でも敗戦を受け入れるきっかけを必死で探していたのですから。

鈴木貫太郎首相(首相当時)Wikipedia「鈴木貫太郎」

ポツダム宣言について、記者たちが鈴木に聞きます。「この宣言にどうこたえるのですか?」・・・「受け入れます」といえるわけないですよね。気の利いた記者なら避けるべき質問だったかもしれませんが・・。鈴木は答えます。
黙殺あるのみ」。ひょっとしたらニュアンスを分かって欲しいという日本的な感覚があったのかな。「論外」とか「断固拒否」という強いことばでないのですから。「黙殺」。「全面拒否ではない気持ち、わかってくれないかな・・」というニュアンスがあったのかもしれませんね。そんなもの分かるわけないよな。トルーマンはアメリカ的に理解します。「「黙殺」つまり「拒否」だな」と。そして、一つの命令を発します。・・・。原子爆弾の投下命令です。

原子爆弾をめぐるアメリカの動き

原子爆弾の原理は早くから知られており、ドイツも、日本も研究をはじめていました。しかしあまりに膨大な費用と高度な技術が必要なため、中止されています。他方、ナチスが原爆をもつことに危機感をいだいた物理学者たちはアインシュタインの名も借りてアメリカ大統領に手紙を送り、原爆開発を提案しました。こうして巨大プロジェクトが秘かに始まりました。原爆は1945年7月完成、アラモゴードで原爆実験成功のニュースがポツダムにいたトルーマン大統領に伝えられました。
ローズヴェルトの急死で大統領となったトルーマンは、その死後はじめて原爆開発を知ります。さらにヤルタ会談での密約も。そして驚きます。「ドイツの降伏の3か月後のソ連の対日参戦!」。トルーマンは考えます。ソ連が参戦すれば、弱体化している日本軍はひとたまりもない。アメリカが長い間苦労してやっとここまで来たのに、ソ連においしいところだけ持って行かれる何としてもソ連が参戦するまでに日本を降伏させなければ・・。
そのための手段が日本本土への原爆投下でした。「原爆の力でできるだけ早く日本を降伏させよう」。命令が出されます。「8月上旬、日本の都市に原爆を投下せよ
軍部はこんな事を考えています。アメリカは民主主義の国です。戦後、戦時予算の再検討がされるでしょう。信じがたいほどの巨額の予算をかけて開発した原子爆弾も検討対象となる。膨大な無駄遣いといわれかねないし、今後の開発は難しい。そこで考えます。「実際に使用して効果を見せつけることが大切だ」と。
原爆の力を誇示する対象は日本や米国内世論だけではありません。力をつけてきたソ連に対して軍事的優位を見せつけることもできる・・・。
こうして原爆投下が決定します。

原爆投下

原爆の第一目標は京都でした。京都に対する大規模な空襲が停止されていました。広島もそう。原爆にどれだけの効果があるか、データを得やすいためです。人口が多く、平地があり、周囲が山という地形がちょうどよいと考えました。日本の都市や人間が実験材料、モルモットがわりにされようとしたのです。
有力な目標とされて、空襲を免れていた横浜は、原爆の目標から外れた直後、大空襲をうけました。
このように考えていた軍部に対して、国務省などは違うことを考えました。後先を考えず勝利だけを考えるならそれでいいでしょう。しかし、すでに日本が降伏し、占領政策をすすめることも考える時期になっていました。占領に際してのアメリカに対しての国民感情を考慮すればあまりに大きなダメージを与える京都は避けたほうがよい。被害が大きすぎる。
戦後の統治に使う目的で、皇居や政治の中枢部が空襲されなかったのと同様の理由です。対日放送でも、天皇の悪口は言わないようにしていました。真珠湾攻撃がアメリカ国民の怒りを生んだことの裏返しとなることを恐れたといえるのかもしれません。
しかし軍部はあきらめきれませんでした。7月になって再度京都への原爆投下を要求しますが却下されます。軍部は人口の多い広島がリストから外されることを恐れました。そこで軍部は広島は工業都市で昼夜の人口差が大きいので人的被害は少ないと主張し、許可をえます・・・。こうして、京都ははずれ、広島は残されました。

8月6日、広島に原爆が投下されました。

帝国書院「図説日本史通覧」P284

長崎は原爆投下の優先順位はかなり下位でした。平地が狭いため、効果が小さいと考えたのです。次の目標は北九州市小倉でした。2発目の原爆を積んだB29は8月9日朝に小倉上空に達しました。しかし何度か旋回したものの厚い雲に妨げられ、目標地点を確認できませんでした。そこで機は第二目標長崎に向かいました。ここでも雲に遮られ、あきらめかけたとき、一瞬、雲の間に長崎・浦上地区が確認でき、原爆を投下しました。

帝国書院「図説日本史通覧」P284

原爆は一瞬にして大量の人間の命を奪いました。さらに放射能被ばくはその後も被爆者の命と健康を冒し続け、現在に至る苦しみを背負わされました。

ソ連の対日参戦

満州事変以来、「満州国」には155万人もの日本人が移り住んでいました。

山川出版社「詳説日本史図録」P284

とくに、北方の守りを固めるという意味合いもあって、ソ連との国境近くには日本から多くの農民たちが移住、満蒙開拓団の村がつくられました。「満州」は、戦争が激化しても比較的平和な状態がつづいていました。8月9日、その「満州」に突如ソ連軍が侵攻してきたのです。
ソ連軍の動きを察していた関東軍はわずかの兵を残して秘かに南部へ移動していました。おまけに鉄道や橋などの一部を破壊しながら。開拓団などの日本人は見殺しにされました。ここでも日本軍は日本人を守ろうとはしませんでした。
ドイツ降伏から3か月後、すでに日ソ中立条約の破棄を宣言していたソ連は8月8日日本に宣戦を布告、翌9日未明、一挙に中国東北部=「満州」、および朝鮮北部や南樺太へと侵攻しました。「満州」へ侵入したソ連軍は、日本人への掠奪、暴行、強姦などを繰り返しつつ南下します。土地を奪われたことなど日本人に反感をもっていた中国人たちはソ連軍を歓迎し、日本人を襲ったこともあって、日本人難民たちは苦しい逃避行を余儀なくされました。
そうした中、あきらめて集団自決を選んだ村が数多くありました。何かお祭りをしているなと思って翌朝いってみると村人全員が死んでいるのを発見した中国人もいました。逃避行の途中で力尽きたり、襲撃されて死亡する人もたくさんでました。子どもを現地の人びとに預けるという苦渋の選択をした親たちもいました。こうして引揚までに17万人もの人が命を失い、多くの子どもたちや女性が現地に残されました。のちに残留孤児や残留婦人とよばれる人たちです。

 

帝国書院「図説日本史通覧」P285

戦争終了後、ソ連は日本軍兵士たちを帰国させようとはせず、60万人近くの武装解除した兵士たちをソ連領内のシベリアや中央アジアへ連行、この地で強制労働に従事させました。かれらは極寒の地で、食糧も十分に与えられないまま、厳しい労働を強いられ、多くの人びとが命を失いました。
これをシベリア抑留といいます。
彼らが帰国が認められたのは、早くて1947年、遅れた人は1956年に及びました。

「御前会議」「玉音放送」そして敗戦

原爆の投下とソ連参戦は、「国体護持」のみを条件に和平しようという鈴木ら天皇側近らの動きを一挙に加速しました。8月9日に開始された御前会議では、4条件に固執する陸軍などの反対を10日になって天皇の裁断で押し切り、連合軍に降伏条件を照会します。これをうけアメリカは新潟への原爆投下命令をキャンセルしました。
しかし、連合軍からの返答は先に見たアメリカ内部の暗闘もあって玉虫色とも言うべき、どのようにも理解できる内容でした。本当に「国体護持」=天皇制存続が認められるのか、再び議論が紛糾、再度御前会議が開催されました。やむなく鈴木は再度の天皇の裁断をもとめ、それによって降伏を決定、天皇の声を録音した「終戦の詔勅」をラジオで放送する事としました。
しかし陸軍内部には、徹底抗戦を主張する勢力も根強く、若手将校が司令官を殺害し、皇居に乱入して録音盤を奪おうとするクーデタ未遂事件も発生しました。しかしそれも鎮圧されました。「日本で一番長い日」というノンフィクションが書かれ、二度も映画化されました。
こうして、1945(昭和20)年8月15日正午から天皇が終戦の詔勅を読み上げる放送(「玉音放送」)が流され、国内的には戦争が終結しました。

東京書籍「新選日本史B」P27

ぼくの両親も実際に放送を聞いたそうですが、雑音が多く、難しい言い回しもあって、何のことか分からなかったといっています。両親も含めて、みんなが口にするのは、雲一つない青空が広がる暑い日だったということです。
正式に戦争がおわるのは、日本が降伏文書に調印した9月2日です。国際法上はこの間も戦争はつづいており、ソ連軍は樺太南部での戦闘をつづけ、さらに千島列島を南下していきました。
それでは、きょうはここまでにしましょう。

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