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Contents
ノモンハン事件と第二次世界大戦の開始
「点と線」の支配 ~「面」を支配できない日本軍
考えてみてください。当時の中国の人口は5~6億人の間、日本軍がいくら大量に派兵したとしても百万人を越えることは難しい。
日本軍は南京攻略戦ののち、華北と華中を結ぶ要衝徐州攻略戦、長江中流域の武漢攻略線を展開しますが、その後、日本側は目標を失い、他方、中国側は正規兵での戦いを避け「持久戦」へと作戦を変更していきます。攻撃すれば逃れ、止まれば攻撃するという形です。1940(昭和15)年になると、華北では中国共産党の指導下にあるゲリラが農村(「面」)の多くを掌握、「線」(鉄道や主要道路)の各所におかれた小部隊への襲撃を本格化します。昼間は日の丸を振って協力を約束していた村が、夜になると態度を一変し日本軍を襲撃するのです。小部隊の全滅が相次ぎます。他方、敵が出現したと聞いて「それ!」とばかり出撃しても敵の姿は見えません。地下道などが張り巡らせていて、それに潜む。こうしたことがつづきました。中国人すべてが敵と思われるようになっていきます。
三光作戦
笑顔を振りまいていた人間も敵かもしれない。いつ襲ってくるかもしれない。さらに共産党軍は神経戦を展開します。夜になると襲撃するかのような動きを見せ、日本兵を眠れなくして兵士のストレスを高めます。
こうした状況下、日本軍が共産党勢力の影響の強かった華北(中国北部)の農村部ですすめたのが「燼滅(じんめつ)作戦」です。「敵の根拠地を完全に破壊(「燼滅掃蕩(じんめつそうとう)」)し、将来も生きることができなくする」という内容で 「土民を仮装する敵や「敵性があると認められる15才以上60才までの男子」を「殺戮(さつりく)」し「敵性部落」を「焼却破壊せよ」と命じられました。
さらに、堀や石垣で囲った村の中に一般住民を移住させ、多くの地域にはだれもいない「無人区」を設定しようとしました。誰もいないところをうろついていればゲリラとみなされました。
この作戦に基づいて、日本軍は、共産党側の支配領域であると考えられた地域にある村々をつぎつぎと襲撃、物資を奪い、村を焼き払い、敵である可能性を持つ住民を殺す。あるいは外に出られない所へ村を作り、村人を押し込める作戦でした。
ときには兵士は、戦闘員とは到底思えない子どもなどの命も奪いました。「命令を受けてやったこと」とは思いながらも、死ぬまで罪悪感に悩まされた元兵士たちもいました。
こうした日本のやり方を、中国では「三光作戦」といっています。「奪い尽くし(「略光」)、焼き尽くし(焼光」)、殺し尽くす(「殺光」)」という意味です。また「ウサギ狩り」といって、住民を捕らえて、労働者として日本へ強制連行、鉱山労働に従事させるといったこともおこなわれました。
こうまでしなければ、日本は支配を維持できなくなっていました。
こうしたやり方自体が日本への反発をいっそう強め、共産党の支持者を増やし、抗日ゲリラの力を増していきました。
ソンミ村事件~侵略戦争というもの
イラクやアフガニスタンでの戦闘でも似たような事件が発生しました。イラクで、アメリカ兵は訓練と恐怖から、少しでも不審な動きがあれば反射的に発砲するようなっていました。戦場では大切なことだったのかもしれません。しかし困った事がおこりました。彼らの除隊してアメリカ帰国しても、何かの弾みに、反射的に発砲するという行動が身についていたのです。アメリカで帰還兵による銃の乱射事件が発生、アルコールや薬物中毒になったり自殺してしまう帰還兵も多くいました。兵士たちは、本国に戦場を持ち帰ってしまったのです。
こうした行為のなかに共通項があると思えてなりません。わかりますか?それは、他国の領土内に攻め込んだ、多くは侵略戦争であったことです。
言葉も分からず、不信の目で見る地元の住民、いつ寝首をかかれるかわからないという恐怖、それがこうした残虐行為の背景にありました。
「アメリカも同じ事をやった」と日本兵の残虐行為を弁護するつもりはありません。侵略が残虐行為の背景となっていることは共通です。
話を日中戦争に戻します。日本軍は多くの残虐行為を繰り返し、それが中国軍民の日本への反発をいっそう高めました。双方の死者はどんどん増加します。政府も軍部も、戦争を終わらせる方策を持たないまま、泥沼のような戦争を1945(昭和20)年の敗戦までつづけました。
重慶爆撃と本土空襲・原爆投下~戦時国際法違反
世界史上、最初の無差別爆撃は1937年ナチスドイツが北スペインの小都市ゲルニカで行ったものだとされます。ピカソの絵で有名ですね。1938(昭和13)年にはじまった重慶爆撃はそれにつづくものです。その後、無差別爆撃というやり方は連合軍側により、いっそう組織化・大規模化させられました。連合軍は、1944年からはドイツの諸都市で、1945(昭和20)年になると3月10日の東京を手始めに日本全土で行われ、同年8月の広島・長崎への原爆投下へとつながります。
無差別爆撃は「非戦闘員への攻撃」という、あきらかな戦時国際法違反の行動です。
戦争犯罪を裁いた東京裁判で、アメリカ人弁護士がアメリカ軍の本土空襲は国際法違反であるという弁論を行い、そのためか日本軍の重慶爆撃は起訴対象となりませんでした。
重慶爆撃と、東京大空襲や原爆投下は表裏の関係にありました。
米英の中国援助と中国官民の抵抗
こうして米・英とくにイギリスに対する強硬な態度が目立ちはじめます。1939(昭和14)年、イギリスが租界内に犯人をかくまって引き渡さなかった事件では、日本軍が天津のイギリス租界を鉄条網(トゲトゲの針金です)で取り囲み屈服させるという強硬策もとりました。この事件は、アメリカをも怒らせました。アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告してきます。
中国の強さは、アメリカやイギリスがついていたからでしょうか。それ以上に、日本のやり方、侵略行為そのものが、中国の人びとを怒らせ、団結して戦わせてたのです。
ノモンハン事件
陸軍の従来の戦略、覚えていますか?シベリアへ進出しソ連と戦うという北進論です。かれらはこの計画を密かに進めていました。1938(昭和13)年ソ連と「満州国」の国境地帯に軍隊を派遣し、戦闘となりました。張鼓峰事件です。
翌1939(昭和14)年10月、「満州国」西部と、ソ連の影響下にあった外モンゴル(現モンゴル国)との国境地帯ノモンハンでソ連軍との衝突が発生、日本軍は大規模な軍事行動にうってでました。これをノモンハン事件といい、ノモンハン戦争とも呼びます。
政府や参謀本部では「中国との戦いがつづいているのに馬鹿なことはやめろ」というまともな声があったのですが、参謀本部は「ちょっとだけやらせてみよう」と辻や服部の火遊びにつきあいます。信じられないような性格の持ち主たちです。
ソ連軍の力を見せつけろ!~スターリンの作戦
こうしたなか、日本軍が侵入してきたのです。スターリンは「日本をコテンパンにやっつけよう」と決意します。痛い目にあわせて、ソ連に侵入するという考えをすてさせようと考えたのです。ソ連軍は最新鋭の飛行機や戦車など圧倒的な兵力を投入しました。ソ連軍の前に日本の戦車はあっけなく破壊されました。日本側も兵士が爆弾を抱えて戦車の下に飛び込むという特攻作戦で大きな打撃を与えました。しかし、最新鋭のソ連の前に日本軍は完璧に敗れ、一個師団、壊滅という状態となりました。
私の高校時代の日本史の先生の胸にはこのときの銃弾の破片が入ったままだったという話を聞きました。日本軍は大敗し、やむなく停戦協定を結びました。
辻や服部はさらに兵力をつぎ込もうとしますが、さすがに東京の大本営もそれを許さず、関東軍の指導部を総入れ替えする形で阻止しました。
この大敗の結果、日本軍は北進論を一時あきらめ、南進をすすめるようになります。(「北守南進」)。こうして、スターリンの作戦は図に当たり、安心して対ドイツ戦略に臨むことができるようになりました。
さて作戦を計画した辻や服部はどうなったのでしょうか。かれらは、責任を現場の司令官に押しつけ、司令官たちは相次いで自決させられます。他方、二人はいったんは閑職につきますがが、すぐ何事もなかったように参謀として活動を続け、太平洋戦争の各段階で無謀な作戦を立案、多くの兵士の命を無駄に奪い続けました。戦後になっても恥じることがありません。服部は自衛隊創設にもかかわり、辻は国会議員になります。こんな連中が、陸軍を動かしていたのです。
「欧州情勢、複雑怪奇!」 ~独ソ不可侵条約と平沼内閣
第二次世界大戦の発生~「不干渉政策」
ドイツはイギリスの戦意をくじき、アメリカの参戦を思いとどませるために、日本の三国同盟への参加を強く求めます。しかし、あらたに首相となった海軍出身の阿部信行は不介入政策をとり、これを避けます。阿部につづく米内光政内閣もその方針を踏襲しました。中国との戦争の決着がつかない以上、あらたな動きにはかかわらない、当然といえば当然の対応でした。
ヨーロッパでの戦争は奇妙なものでした。ソ連と協力してポーランドを分割したドイツは、それ以降、不気味な沈黙を保ったのです。フランスとイギリスは独仏国境に兵力を集め、ドイツの来襲を待ち構えます。
この間、活発な動きを見せたのはソ連でした。ドイツへの警戒を持ちつづけるソ連は、国境を接するバルト三国とフィンランドに圧力をかけます。バルト三国は基地を置くことを認めましたが、翌年には併合されます。要求を拒否したフィンランドとの戦争を始めます。明らかな侵略戦争でした。ソ連はやっと加入ができた国際連盟から追放されてしまいます。
ドイツによる大陸支配~フランス降伏とイギリスの抵抗
孤立したイギリスを全力で援助したのがアメリカでした。
「バスに乗り遅れるな」~第二次近衛内閣成立
ヨーロッパでの状況をアジア東部に落とし込んでみましょう。地図をみてください。水色のベトナムなどインドシナはフランス領でありフランスの傀儡政権の下にあります。濃い橙色は現在のインドネシアですが、その宗主国オランダもドイツに降伏しました。ただ現地はイギリスに逃れた亡命政府への忠誠を誓っていますオレンジ色のビルマ(現ミャンマー)とインドはドイツの攻勢の前で降伏寸前にもみえるイギリス領です。なお紫色フィリピンはアメリカ領です。
しかし政権の座にいた米内光政はこうした動きに否定的でした。そこで陸軍は、またも例の手段を用います。・・・陸軍大臣を辞職させ、後継者を推薦しないやり方です。これによって米内内閣は崩壊、当時、ナチス風の巨大な政治・社会組織の建設をめざす「新体制運動」をとなえ、陸軍にも受けがよい近衛文麿が首相として再登場します。そして第二次・第三次近衛内閣は米英開戦の道をひた走ります。
「東亜新秩序建設」宣言の波紋
一つは1938(昭和13)年1月の「蒋介石政権は対手とせず」との声明で、和平対象から蒋介石の国民政府を排除したものです。これによって、戦争を止めるチャンスを放棄した話は既にしました。
もう一つは同年11月の「東亜新秩序建設」声明です。日中戦争(当時は支那事変と呼んでいました)には「正義」=「大義名分」がないとの批判を受けた近衛は「この戦争の目的は『東亜新秩序の建設』である」と打ち上げます。実の狙いは「この考えを共有する政権となら交渉に応じる」として先ほどの方針を変更し国民政府との交渉を可能にする所でした。
ところが、この声明は新たな波紋を呼びます。このスローガンは、ヒトラーが主張していた「ヨーロッパ新秩序」建設をまねたものでした。だから、日本もアジアのあり方を、ヒトラーのように劇的に変えようとしていると受け取られたのです。
アメリカは、中国権益を独占するにとどまらず、自国の植民地フィリピンをも含めた東南アジア進出をめざしたと理解しました。欧米による東南アジアの植民地支配、帝国主義国際秩序への公然とした挑戦と受け止めたのです。
アメリカは日本への警戒レベルを上げました。
アメリカとの対立の本格化
アメリカは決断を迫られつつありました。
しかし、ローズヴェルト大統領の第一の関心はヨーロッパの民主主義陣営の援助、とくにイギリス援助でした。日本への関心は第二でした。アメリカは、ドイツと日本、双方の動きを見て、参戦も視野にいれはじめます。しかし「戦争反対」の声も強く、参戦に踏み切れませんでした。
ドイツは、日本がドイツイタリアに加わればアメリカは参戦を避けるだろう考えて執拗に三国同盟への参加をもとめてきました。
北部仏印進駐と三国同盟締結
近衛内閣は就任早々、ナチスにならった新体制の構築と、大東亜新秩序構築という方針を決定、陸軍の南進計画に従って、北部仏印(ベトナム北部)への軍隊進駐を決定します。
この地域はフランス植民地でした。フランス本国がドイツに降伏したのをみて現地総督に圧力をかけ軍隊を進駐を認めさせました。中国への補給路(「援蒋ルート」)を絶ち、この地の資源を手に入れようとしたのです。
つづいて三国同盟の締結を進めます。9月にはこれまで三国同盟に強く反対してきた海軍が賛成に回り、日独伊三国軍事同盟が締結されました。海軍は賛成すれば軍艦建造費用が増えると考えたのです。
こうして日本は世界再分割の戦争へ参加していく道を歩み始めます。
アメリカによる経済制裁の開始
対立しているアメリカですが、この段階でさえアメリカは日本にとっての最大の貿易相手国で、石油など資源の大部分はアメリカ産でした。品質のよい機械もアメリカ製です。それが制限されることは日本の戦争経済におおきな負担となりました。
アメリカからの資源が止まると、かわりの資源獲得の為に南方に進出せざるをえなくなる。そのことがいっそうアメリカなどとの対立を激化し、資源獲得が困難になるというジレンマのなかに日本はいました。
対米英戦争の準備が本格化し始めていました。