<前の時間 開国前夜~19世紀前半の日本>
Contents
<12時間目>
ペリーの来航と開国
授業ノート(板書事項)
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ペリーの来航まで
アヘン戦争の影響~前時の復習
前回、外国船が日本近海に現れ、ロシアとは一時非常に険悪な関係になった話をしました。またイギリス船が長崎港にはいってきたり、ビフテキを食べたかったのか外国人が上陸して牛を奪った、なんて話もしました。
幕府はいったんは異国船打払令なんて強硬な政策を打ち出し、批判した渡辺崋山や髙野長英を捕まえたりしますが、1842年には一転、燃料や水、食料を与え穏便に出て行ってもらおう薪水給与令をだしました。その理由、覚えてますか…。思いがけない出来事が起こったからです…。強国と思っていた中国の清があっさりとイギリスに負けたから…。
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アヘン戦争(1840~42) 浜島書店「アカデミア世界史」P242
アヘン戦争です。
アヘン戦争の結果を聞いて幕府は思ったのでしょう。「崋山や長英らのいっていたことは本当だった」。しかし、間違っていたことを認めるのが大嫌いなのも役人の習性。彼らはそのままに、あっさりと方針転換します。
次にどうするすべきか、対策を練らなければならないところですが…。その対策をとらないのも、当時の幕府でした。そんなことが続きます。
オランダによる開国勧告
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オランダの忠告を裏付けるように2年後の1846年、アメリカ使節が来航、平和的に(!)開国を求めますが、幕府はこれも拒否します。
さらに1852年、オランダはご丁寧にも「アメリカとロシアに日本来航の計画がある」との緊急情報を伝え、「こんな条約ならどうですか」という案まで示しますが、幕府上層部はこれをにぎりつぶし、現場に情報を伝えないまま放置します。
開国
ペリーの来航
そして1853年、ペリーは琉球王国、小笠原諸島を経由して江戸湾の入り口浦賀にやってきます。太平洋横断ではなく大西洋、インド洋経由で。
長崎ではなく、江戸湾の入り口にいくことで、「おれたちは甘くはないぞ、これまでの日本のルールなんか聞く気はない」と行動で示すように。
なぜペリーが、琉球・小笠原を経由したか分かりますか。彼は日本開国がうまくいかないときは、琉球王国や小笠原諸島をアメリカ領にすることも計画していたのです。ちなみに小笠原諸島にはアメリカ人とイギリス人、ハワイ人などが移住しており、イギリスも領有をめざしていました。
庶民は黒船を歓迎?
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庶民は黒船やペリーをこのようにイメージしている。 帝国書院「図録日本史総覧」P195
ここにペリーが四隻の軍艦(うち2隻が蒸気船)でやってきたのです。黒船がやってきたといって人々が恐れおののいたといういい方がされますが、それはペリーが自分の手柄を誇るために、記録に記したことで、実際には見物客が小舟をだして、黒船の回りを取り囲み、ペリーが大砲を撃っても空砲だと分かると「花火だ、花火だ」と喜んだとも言われます。でも奉行所の役人が出てきたとたんに蜘蛛の子を散らすように逃げていったといわれます。「うれしがり」で「おバカ」な江戸時代の庶民、とってもお茶目で、愛すべきものです。
高圧的なペリーと幕府
国書をうけとった日本は、一年後に回答と答わざるを得ませんでした。
これで帰ると幕府が安心した直後、ペリーは江戸が見えるところまで船をすすめ、さらに圧力をかけてから日本を去ります。いかついですね。
アメリカの高圧的な対応に対し、何ら有効な対応ができず、ルールを曲げて国書を受け取ったという事実は、多くの人々、とくに知識人や武士たちのプライドを傷つけ、幕府への不信を感じさせる出発点となったといえるかもしれませんね。
ロシア船の来港
ロシアは、かつて出島で日本研究をすすめ日本に親近感を持っていたドイツ人・シーボルトからのレクチャーをもとにアメリカとは逆の友好的な対応に終始しつつ、開国を要求します。3D(?!)のちょっとエッチな画像を見せて日本側を喜ばせたという記述も残っています。ところが、イギリス船が近づいたと知るや、大急ぎで長崎を逃げ去ります。
日米和親条約の調印
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ペリーの横浜上陸(1854年 ペリー艦隊 横浜・金沢沖停泊) 横浜開港資料館蔵
この間、日本国内で行われたことは次回にします。
日米和親条約の基本的内容
1つめは、アメリカが必要とする燃料・食料を与える(適切な価格を定めての購入を認めます。これまでは、お金を受け取れば貿易でした・・・!*)。
2つめ、開港場は、静岡県の伊豆半島の先端部にある下田と・北海道(蝦夷地)の箱館(現在の書き方では「函館」)の2港。
これが、和親条約の基本事項です。ある意味、この内容に日本側はそれほど違和感がないのです。(というか、そうおもいこもうとしたのかもしれませんが)わかりますか。「燃料や水、食糧の供給」、これは薪水給与令の内容です。その場所を二カ所として特定しただけですから。
不平等条約としての日米和親条約~最恵国条項
3つめ、アメリカはこういったと思います。「ロシアやイギリスもやってきて条約を結ぶと思います。もし、その内容がこの条約より良いものなら先に来たアメリカが不利です。だから他の国と結んだ条約がもっと良いのなら、その内容が自動的にこの条約に組みこまれると約束してください」。こういった条項を最恵国条項といい、日本側も異存なかったと思います。
しかし、ここに落とし穴があります。本来最恵国待遇は、日本がアメリカに対して認めるなら、アメリカも日本に対して認めるのが国際法的な常識でした。「アメリカがイギリスとの結んだ条約が日本にとっても有利なら、同様にこの条約に組み込むことができる」という双務的最恵国待遇が平等な国同士の条約のあり方です。ところがこうした条項が欠落しています。
日本はアメリカに認めるが、アメリカは日本に認めない、これを片務的最恵国条項と呼び、この時点でこの条約も不平等条約であったのです。
領事駐在をめぐる外交力
理解のずれがあるのを知っていながら放置したのかもしれません。外交ではありそうなことです。
条約が締結され、ペリーは去って行きました。
イギリス・ロシアとの条約締結
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プチャーチン 死後、津波で沈没したロシア船の代船建造に協力した伊豆・戸田村を娘が訪れ、村人に感謝し100ルーブルの寄付を行った。
こうしたこともあって、ロシアとの条約締結は時間がかかりました。さらに難問はロシアと日本の国境をどこにおくかという問題も含んでいたためです。
この点は明治初期の外交で一緒に話したいと思います。
さらにオランダとも同様の条約を結びます。
貿易の開始へ
総領事ハリスの登場
正式に総領事と認められたハリスは、貿易の開始を強く要求します。
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アメリカ総領事タウンゼント・ハリス 敬虔なキリスト教徒であり、ニューヨーク市立大学を創設した。
かなり誇張したり、話も盛ったり、はったりをかましたりしながら。彼からすれば「どうせ未開の国、ばれるわけないわ。脅してなんぼ…」そんな気持ちだったのでしょう。
しかし、幕府も一筋縄ではいきません。勘定奉行所では、ただちにハリスが話した一つ一つの事例について丁寧な吟味をし、誤りや誇張、はったりを、きっちりと調べあげました。
そして「メキシコから土地を強奪しておいて『平和を愛する国』なんていっている。ハリスの話には嘘やはったりが多い」ということを知ります。ハリスがこのことを知ったらびびったでしょうね。しかしこのことは、幕府の内部資料としておきます。突きつけたらおもろかったのに・・・。※
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ハリスの話にはウソやはったりが多いけど・・(生徒のノートより)
「世界の覇者イギリスは世界に自由貿易を強要しており、早晩日本にも貿易開始の要求を迫るだろう。その際、軍事力の行使も辞さない。イギリスは、インドの内乱(いわゆる「セポイの乱」)と中国のアロー戦争で手が離せない。しかしその決着がつけば、日本に貿易開始を迫る。イギリスはアメリカよりも強硬で、凶暴である」
このことはあり得ることだと認めざるを得ませんでした。
そして、ハリスが言う「アメリカとイギリスがのめるぎりぎりの内容で通商条約を結んでおけば、アメリカがイギリスを説得するということ」も一理あることも。
通商条約と朝廷の反対
開国はともかく、貿易開始することについては日本中から激しい反対が起こりました。最大の問題が、当時の孝明天皇の反対です。天皇は幕府側の度重なる説得に対して、がんとして拒否します。日本が一つになって取り組むべきだという考えを持つ人々は、「天皇が反対なのに条約を結ぶのは認められない」と強硬な姿勢をとりました。このあたりの話もあとまわしにします。
日米修好通商条約の締結
こうして締結されたのが日米修好通商条約です。
こうして天皇の許可無く条約を結んだことが、今後ボタンの掛け違いとして、大問題になります。
条約の内容~不平等条約!
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山川出版社「詳説日本史」P253
主な項目を、プリントに即して確認していきます。
一つ目は開港場です。あらたに神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が決められ、代わりに下田が閉港され、箱館とあわせ五港が開港となります。とくに神奈川(実際には横浜に変更)が翌1859年から開港されます。兵庫(実際は神戸に変更)と新潟もつづけて開港していく。江戸と大坂にもアメリカ人がはいることを認める(開市)。貿易のやりかたは数量などの制限を設けないという自由貿易です。
ただし、貿易にかかる税(関税)は話し合いで関税率を決めるという協定関税というやり方がとられます。
関税は国内産業の保護などのため、それぞれの国が自由に決める権利を持つ(関税自主権)というのが先進国間の常識です。しかし自由に関税が掛けられない(関税自主権がない)不平等条約です。
不平等条約というけれど…
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外国人が逮捕された?(生徒のノートより)
領事裁判権(治外法権)について考えてみましょう。裏返しで考えてみたらどうでしょう。たとえば、あなたがアメリカ人で、当時の日本(幕府)に捕らえられたらどうでしょうか。不衛生きわまりない牢獄に入れられます。牢獄に一定の金を隠し持っていかねばいじめを受け、時には殺されます。正座もさせられます。
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江戸期の拷問(石抱)江戸時代の取り調べにおいては自白を強要するために、当然のこととして拷問が行われた。
アメリカや欧米諸国が、自国民をこのような目に合わせられないと考えたのは当然です。幕府側からしても、外国人を裁判に掛けてトラブルになるのはいやでしょう。いつも通りのことをやっていたら強烈なクレームがくるのは、目に見えていますから。
外国側は当然のことのように治外法権を要求するでしょうし、幕府の役人でも受け入れるでしょう。リアルに、当時の状況にあわせて考えなければ本当の姿は見えてきません。
最恵国待遇だってそう。アメリカが、先進国であるイギリスと同じような高度な待遇を日本に与えたいと思いますか。
条約改正は日本のあり方を変えること
不平等条約は江戸幕府の失策のようにいわれますが、そんな甘いものではありません。明治政府であってもやむなく同様の条約を結んだでしょう。
日米修好通商条約は悪い条約だった?
「内地雑居」を拒んだということ
ベトナムが植民地化されたのも、中国でアロー戦争が起こったのも、外国人殺害事件がきっかけでした。
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日米和親条約と日米修好通商条約の対比 山川出版社「詳説日本史図説」P195
「居留地」という小さな植民地
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横浜居留地の地図(Wikipedia「外国人居留地」より)
「協定関税」ということ
これにたいしイギリスなどは、1864年、外国船が長州から砲撃されたことを利用して関税の大幅引き下げ(改税約書)を認めさせました。
日米修好通商条約
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岩瀬忠震(いわせ・ただなり) 開明派の代表的な幕府官僚 井上清直とともに条約交渉に当たった。
どこに問題があったのか
次の時間は、通商条約の開始によって何が起こったのかを見ていきます。
そして、その次の時間から、開国以後の政治の流れを見ていくことにします。