下関条約・三国干渉と立憲政友会の成立


<前の時間:朝鮮問題の深刻化と日清開戦

 

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下関条約・三国干渉と立憲政友会の成立

おはようございます。それでは今日の授業を始めたいと思います。
前回、日清戦争が始まるまでの過程をみてきました。

復習:日清戦争

まずは、日清戦争についての復習です。前回、保留していた分に付け加えがありますから、確認してください。

戦争の期間・・・1894~95年の2年間
戦ったのは・・・日本と清、だから日清戦争。
清。いいですね、かつて中国にあった国の名前ですからね。
さらに朝鮮政府との間の「7月23日戦争」
   朝鮮民衆との間の第二次「甲午農民戦争」
まだ保留が残っています。それは今日話します。

戦場は・朝鮮半島と中国東北部の南部(いわゆる「満州」南部
山東半島の一部、朝鮮半島と中国の間にある黄海、さらにべつの所もあります。

日清戦争 東京書籍「日本史A」p77

日清戦争 東京書籍「日本史A」p77

戦争の原因・・・朝鮮支配をめぐる日清の争い
正式には「朝鮮への影響力を強めようとした日本が、朝鮮の属国化を強化しようとする清の存在をきらって、戦争を仕掛けた」こと
あわせて「条約改正の条件などをめぐって国会運営にいきづまった伊藤政権が国内の強硬な世論に押されて強引に清との戦争を仕掛けた」こと

戦争の結果結ばれた条約・・・下関条約

戦争の様子・・・日本軍の圧倒的な優勢のままにすすんだ。

 

日本軍優勢の理由~「もし街頭インタビューをしたら?」

なぜ日本の優勢で進んだのか、考えてみてください。
ぼくは世界史の授業でも、こんな言い方をしてきました。
テレビなんかで、よく街頭インタビューをしますね。もしこの時代に、それをやったらどうでしょうか。『我が国は戦争をしています。相手はご存じですか?』と」

日本、東京・大阪という大都市はもとより、地方都市でも、大部分の農村でも「何を言ってるのだ!清国にきまっているだろう!」との回答が得られたでしょう。
では、清国ではどうか。農村や地方都市はいうまでもなく、北京の町でも「戦争してるんですか。まったく知りません?でも、私たちには関係ないです。」という回答が大部分だと思います。清の一般の人々はもとより、政府内部でも一部の人の戦争でした。近代化や「国民」形成の進み具合が、兵器や技術の質以上に、大きく結果に響いていたと思います。

一言、付け加えておくと、
この戦争をきっかけに生じた事態で、中国人の意識は急速に変わりはじめます。このことを理解できなかったことが日本の失敗の最大の原因となります。
日本人の中国人への認識は日清戦争段階から約50年止まってしまいます。日清戦争のころの目で、中国に接し続けようとしたのです。

「国民国家・日本」と「国民としての日本人」

30年ほど前、幕末から明治初年の日本で、同じようなインタビューをすれば、日本人も清国と同じ回答をしたと思います。
以後、約30年間、日本では「文明開化」政策がそれなりに浸透し、国民国家・日本が生まれつつありました。こうした流れを完成させたのが日清戦争です。人々は日本が負けたら大変だ」「日本の勝利のために協力しよう」と熱狂しました。
オールジャパンで立ち向かおうというナショナリズムが根を下ろしつつあったのです。
それと同時に、「清国や朝鮮は俺たちと比べ『未開』『野蛮』だ」などと差別的な言葉を言い始めます。そして「日本は欧米的な『文明』国だ!」と。
福沢諭吉が「脱亜論」でのべたような排外主義的大国主義的ナショナリズムも同時に根を下ろしました

明治維新のとき、日本には国民がいなかった(「日本人は存在しなかった」)といいました。
それは、幕府と藩という「ヨコのカベ」と、身分秩序という「タテのカベ」、二つのカベでばらばらにされていたからです
明治初年の変革(いわゆる「明治維新」)はこのカベを取り払いました。かつて討幕派と呼ばれていた維新官僚たちは、天皇を中心に「文明開化」という「上からの変革」をすすめていきました。それは政治にとどまらず、言語の統一や教育制度、神社崇拝など社会的・文化的な内容でもありました。
他方、明治政府のあり方に反対し、自由と民主主義、立憲政治をめざした自由民権運動も「よりよい・文明化された日本をつくろう」という点では同じ方向を向いていました。

しかし、大部分の一般民衆は取り残されたままではなかったのではないか、主人ではなく「客分」のままでいたのではないか、と指摘する歴史家もいます。

客分としての民衆を置き去りにしたまま、政府と民権派など「文明化」をめざす勢力内部のせめぎ合いの中で憲法が制定され、一部ではあれ国民の意見を反映できる議会をもつ国家が生まれました。

明治初年以来、約30年の変革を経て「日本人という国民」がつくりだされ「日本という国民国家」が生まれつつありました。日清戦争とそれにつづく過程でこの動きはいったん完成します。

しかし、明治の「国民」感情は、それでも上から押し付けられ、戦争によって煽られたものでした。確かに「客分」であった民衆出身で何をしにいくかする危うかった兵士も、停車駅ごとの日の丸と「万歳」の声で激励されるなか、日本兵としての自覚に目覚め、戦場では奮戦敢闘しました。戦勝報道は確かに「客分」たちも熱狂させました。しかし、こうした感情は一時的な熱狂という面もありました。

これが人々の内面からくる国民感情へと変わっていくのは「この国は自分たちの国だ」という実感が必要でした。人々のなかにこうした実感が生まれるのは、大正期の民主主義的な風潮、「大正デモクラシー」を経てのことでした。とくに「普通選挙権」の導入(全国だけでなく地方選挙も含め)が大きかったとかんがえられます。主体的にこの国のあり方を考え、行動し、関わっているという意識こそが、明治時代のように上から植え付けられた形の「日本人」という国民感情をより内面的なものへと変えていきます。

清の改革とその限界

これにたいし清国はどうだったのでしょうか。
19世紀後半、清もつぎつぎと改革をすすめ、日本と同様、西洋風の工場がつくられ、外国から武器や軍艦を導入し、それなりに近代化が進んでいました。国内の反乱なども力で鎮圧することも可能になってきました。こういった自信が朝鮮問題の対応にも反映していたのです。
前の時間の最後にいったように、海軍の装備では清国のほうが上でした。ではなぜ結果は、清の敗北におわったのでしょうか?

清国の改革(「洋務運動」といいます)のスローガンは「中体西用」という言葉でした。「中国の体制やシステムはそのままに、西洋の技術を用いる」という意味です。
幕府が幕藩体制をそのままに、西洋の武器や艦船を買いそろえ、近代的な工場をつくっていった感じとでもいえばいいでしょうか。

したがって、新しい武器や軍艦をもっていても、それを生かすシステムができておらず、古い身分秩序が幅を利かせ、それが兵士たちの士気にも大きな影響を与えていた、それが清の軍隊だったと思われます。こうした見掛け倒しの姿を最もわかっていたのが、他ならぬ清軍の事実上の創設者李鴻章だったのです。見た目だけで勝負するはずの清軍を実戦で使うことの危険性を、よくわかっていたのでしょう。しかし、若い皇帝と取り巻きたちは見かけの勇壮な姿に幻惑されてしまいました。

これにたいし、この時期の日本軍はドイツ人の指導のもとに、まがりなりにも実力主義的に組織され、指揮系統も統一され、その指揮系統下に動くシステムとなっていました。
こうした日本軍の姿を、例えばロシアの将校たちは、あるいは清の知識人は、驚異と恐怖の目でみていたことがわかっています。

日本を覆うナショナリズムの熱狂

戦争を始めると、日本は異常な高揚感につつまれます。

オリンピックやワールドカップが始まると「ガンバレ日本」という声が高まるでしょう。この熱狂を強烈にしたようなものです。オリンピックなどでも新聞・テレビなどが連日報道することで熱狂が盛り上がりますが、戦争も同様です。それ以上の熱狂です。

勝利がつづくと「日本はこんなに強い」となり、ひとりの兵士の死は『死んでもラッパを離さなかった勇敢な兵士』として創作・賞賛され、「戦争で一人一人の兵士までもこんなに勇敢に戦った」というあるべき日本人のモデルとなります。

他方、清国軍への敵愾心から、中国人に対する差別と偏見があおりたてられます。このような特定な人々に対する嫌がらせ、いじめなどの行為や差別をレイシズム(人種主義)といい、これも日本中に広がり始めます。政府などもこうした差別意識を煽り立てた面がありました。

日本人は一つにまとまらねばならない」「自分たちも強い日本の一員なのだ」という「ナショナリズム」のうねりは人々に麻薬のような興奮と高揚感をもたらします。このような興奮と高揚感の中で、国民国家としての日本は完成しました。このように、上から、隣国と戦うことで、その国を侮蔑的に扱い差別する中で誕生した国民国家、日本は連帯よりも大国主義とゆがんだ優越感にあふれる国となっていきます。

初期議会の終焉

こうしたナショナリズムを形成する上で、大きな役割を果たしたのが、大本営の広島移転です。大本営とは陸軍と海軍を統合して指揮するための組織です。当時、まだ鉄道網や電信網も未整備であったため、軍隊を大陸へ送り出す最前線の軍港があった広島へこれを移したのです。
大元帥である天皇も師団本部内に部屋を準備して移動、伊藤首相や陸奥外相など主要官僚も広島にやってきます。政府機能のかなりの部分が広島に移りました。
こうして広島が一時的に首都になるという事態の中、帝国議会も広島で開催されます。数日間の会議のために仮議事堂が準備されました。こうした経験が議員たちにも、緊張感をたかめ、国民は一つにまとまらければというナショナリズムを強化したといわれます。
戦争という国家の一大事から見れば国会での対立は「小さな問題」と考えられるようになります。野党の方が好戦的になり政府の弱腰を追及する場面も出現します。最終的には政府支持にまわり、多額の戦時予算もわずか二時間の審議で満場一致で可決されます。軍への感謝決議も出しました。こうして、広島で挙国一致の議会が実現しました。
次の議会では、ある程度もとにもどり、予算案などをめぐり激しいバトルが繰り広げられましたが、結局はほぼ政府の原案通り可決、成立しました。
こうして、政府と民党が激しく対立していた初期議会は、日清戦争とともに終わりをつげました。
伊藤や陸奥の作戦が、面白いほど功を奏したといえます。

旅順虐殺事件

戦争では不利と考えられていた海軍が黄海海戦に勝利、陸軍も朝鮮半島の清軍を破り、「満洲」南部に侵入、明治27(1894)年9月には遼東半島先端部の要塞都市旅順を占領しました。
この占領にさいして、アメリカやイギリスの新聞社がある記事を掲載しました。日本軍がこの地で捕虜や婦女子や老人を含む一般住民を大量に虐殺をしたという記事です。(旅順虐殺事件)これはただちに欧米各地のマスコミで転載され、日本軍も事実を認めました。しかし、のちになると「殺されたのは軍服を脱いだ清の兵士だ」と事実をねじ曲げて説明し始めます。当然、日本国内には知らされませんでした。
この出来事は、関係者の処罰もないまま、あいまいなまま終わりました。もし、この時きっちりとした対応していれば日本軍も大きく変わったと思うのですが、都合の悪いことはごまかすという軍隊の姿勢、こうした姿勢が日本軍の一つの悪しき伝統を作っていきます

下関条約

日本軍優勢の中、戦争を終わらせるための会議が下関で開かれます。山口県の「しものせき」ですからね。「げかん」と中国風に読まないでくださいね。

では会議はどんな場所で開かれたのでしょうか。ぼくも、何も考えず○○会議場みたい所のように思いこんでいました。でも、下関にいって「ああ、そうか」と変な納得をしました。どんな所かわかりますか?
料理旅館、有名ふぐ料理の老舗です。伊藤博文が命名したこと「春帆楼」という店で、いまでもやっています。この旅館の離れに日清講和記念館が併設されています。ここで会議をやったのですね。

日本軍は優勢なだけに、無理な要求を押しつけます。
伊藤や陸奥もやり過ぎだと思っていたみたいです。しかし「国民の声に勝てなかった
と述懐しています。さらには陸軍・海軍、それぞれの要望にも配慮せざる得なかったのです。
陸軍と海軍の都合、民衆の熱狂、こうしたものが、優秀な政治家・外交家とされる彼らの判断さえ狂わせました。この結果は、大きな「つけ」となって、日本の歴史をゆがめます。
さらにいうと日清戦争の勝ち方の中に、アジア太平洋戦争の敗戦につながる多くの種が隠れていたようにおもいます。

こうして下関条約が締結されました。(1895(明治28)年)

下関条約の内容

①朝鮮の独立を認める。
清は宗主権を放棄して(「朝鮮は清の属国ではない」と認め)朝鮮への介入はしないということです。これが本来の戦争目的に即した項目です。

下関条約関係地図 (帝国書院「図説日本史通覧」p225)

下関条約関係地図
(帝国書院「図説日本史通覧」p225)

しかし、勝利した日本は図に乗ってこんな無茶を押しつけます。
②台湾と澎湖諸島(台湾と中国本土にある島です)を日本に譲り渡す。
③遼東半島を日本に譲り渡す。
④2億両の賠償金を日本に支払う。
あとで見るように遼東半島を返還した代わりに、賠償金はさらに3000万両増えます。この金額は、当時の日本の国家予算の4年分に当たる金額です。
清国はこの資金を得るために、列強から大量の借金をすることになりました。金を借りるために鉄道や鉱山の利権などを列強に与え、それが清国の半植民地化を進めました。

⑤中国の4つの港を新たに開港するとともに、外国が中国の開港場で会社を作ることを認めるなどの特権を与える。
この項目はイギリスなどのかわりに日本が主張したといってもいい部分です。日本はイギリスとだけ条約について相談しており、他の国には秘密にしていました。このことがロシアはもとよりドイツやフランスの反発を買ったともいわれています。

⑥そして忘れてならないのが、お互いに領事裁判権を持ち合うという奇妙な形ではあったものの対等平等の条約であった日清修好条規を破棄し、新たに欧米列強と同様の不平等条約として結び直すことでした。

さらにいえば、日清間の懸案事項であった琉球問題は問題視されなくなり、宮古・八重山の先島諸島は日本領であることが確認され、尖閣諸島の領有が宣言されます。

三国干渉

この内容、とくに②と③の領土の割譲は列強も驚くほど過酷なものでした。

たとえば香港。イギリスがアヘン戦争やアロー戦争、さらに日清戦争後清から借りることになった土地も含めてもその面積約1100平方キロ、東京23区2つ分というか、沖縄本島位の広さです。
ところが、下関条約で日本が手に入れた台湾が36000平方キロで九州とほぼ同じ遼東半島にいたっては約20000平方キロ、北海道より少し狭いくらい桁違いに広い土地が日本に譲られることになったのです。しかも場所。遼東半島の場所を見てください。北京と目と鼻の先ですよ。これを取り上げるというのですから、世界中びっくりです。びっくり以上にこんなことは許せないという反応が出ました。

下関条約の発表と同時にいくつかの国が動き出します。中心はロシアです。ロシアでは、変に動くと日本の反ロシア感情を刺激するとの声もありましたが、日本の遼東半島領有は国益に反する、中国と朝鮮の独立の障害になる、さらにはいずれ衝突することが予想されている日本にこのような重要な場所を与えるべきでないといった理由から、遼東半島領有に反対することを決め、もしもの時に備えて、軍艦を中国に結集する動きも見せます。

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三国干渉~「遼東半島は俺たちがもらおうと思ってたのに」(生徒のノートより)

ロシアは、条約の内容が発表される同時に軍事同盟を結んでいたフランス、親しい関係のドイツとともに遼東半島の返還を日本に求めました。ロシアはイギリスにも声をかけますが、拒否されました。これにたいし、日本は戦っても勝てるわけもなく、国際会議を開いたりすると、以前から台湾周辺を狙っているフランスなどがさらなる難題を突きつけるおそれもあり、結局は賠償金を増やすことで、遼東半島の返還に応じました。この出来事を三国干渉といいます。

「臥薪嘗胆」

三国干渉は戦勝ムードに沸く日本に冷や水を浴びせ、国際社会や列強の存在を感じさせました。とくに巨大な隣国ロシアの恐怖は現実のようなものに思われるようになり、ナショナリズムの新たな高揚を生み出します。

三国干渉によって人々は、「次はロシアか。」「あまりにも強敵だ」と感じさせました。こうした国民感情に政府は訴えかけます。

臥薪嘗胆」。うらみを忘れないために薪の上に寝たり、毎日、苦い胆をなめ続けたという中国の王様の故事にならったスローガンです。これを叫ぶことで、巨額の軍備拡張予算への国民の支持・協力を得ようとしました。
日清戦争をきっかけにして広がり、下関条約によって「勝利」を確認し、列強の一員となったという大国主義的なナショナリズム、三国干渉での列強への屈服とその屈辱感からくるナショナリズム、こうした二つのナショナリズムがさらなる戦争への動機付けとなりました。

「ロシアとの戦いのためには我慢の時」という声が広がります。自由や民権、民力休養といったテーマよりも、ロシアなどに与えられた屈辱に報いるといった国権のほうが人々の心をとらえるようになっていきます。

幕末の攘夷の感覚が蘇ってきたのかもしれませんね。

台湾での戦い

下関条約にかかわってもう少し見ていきます。
皆さんちょっと考えてみてください。
日本が戦争に負け、日本の一部、たとえば北海道をどこかの国に譲らなければならないという話が出ればどうなるでしょうか?

「戦争に負けたし、仕方ない。北海道を××国に譲る」といわれて、「ああ、そうですか」「北海道民は××国の下で頑張ります。お世話になりました。」なんてことになるでしょうか。そうじゃないでしょう。当然、大反対運動が起こりますね。「日本の領土を譲るなんてとんでもない」という声。それ以上に、北海道の人たちは「自分たちは××国の植民地になんかなりたくない」「それくらいなら、独立する」と反発するでしょうね。この北海道を台湾や澎湖諸島に、日本を清に読み替えてください。

台湾は中国本土から渡って来た人々が、先住民と争ったりしながら、自分たちで土地を開拓して来たアメリカ西部のような性格をもつ土地です。民族意識という以上に、自分たちの土地といった意識がつよかったとおもわれます。

そんな土地を、清朝政府が勝手に「日本に譲る」と決めたこと、納得ができますか。「おまえたちは日本の支配下に入れ」といわれて納得できますか?
ということで、台湾の人たちは激しく反発しました。「台湾民主国」として独立を宣言、インドシナでフランスとも戦った劉永福をリーダーに、台湾を植民地とするべくやってきた日本軍との戦いを繰り広げます。
日本軍は台湾側のはげしい抵抗に加え、マラリアをはじめとする風土病にも悩まされ、5320人の死傷者を出しました。台湾側は14000人が殺害され、平定宣言ののちも抵抗はつづき、台湾の人約12000人が死刑にされたり、一斉射撃などで命を失いました。

台湾における日本統治については霧社蜂起~「理蕃政策」への台湾・高山族のたたかいでまとめて論じています。

北白川宮の銅像 台湾平定戦で戦病死したことで、台湾大神宮の祭神とされた。なお戊辰戦争に旧幕府側で参加、天皇に即位したとの説もある。この点については別稿参照

台湾の人は親日的だというだけでなく、植民地化の出発点でこのような出来事がありました。
なお、日本軍の死者のうち病気で死んだ人が4642人と大多数を占めています。近衛師団長であった北白川宮さんも死んでいます。この人は戊辰戦争の時、徳川側=「賊軍」のリーダーとして新政府軍と戦ったという経歴の持ち主です。

この人が「台湾神社」の主神ともなり、のちに靖国神社にも合祀されます。ちなみに、かつて彼を名目的な指導者とあおいで、戊辰戦争で戦って命を落とした人びとは賊軍なので「靖国の敵」です。もちろん祀ってもらえません。
この人物については別稿「北白川宮能久親王の戦病死をめぐって」でも論じています。

日清戦争にかかわって保留していた最後の部分がこれで埋まります。日清戦争の戦場は台湾も含めます。ちなみに、日本は台湾を手に入れようと、条約交渉の始まる直前、軍隊を台湾に近い澎湖諸島に派遣しています。既成事実を作ろうとしたのです。
そして戦った相手には台湾の人々も加えられます。狭い意味の中国人(漢民族)だけでなく、現在高山族(一時は高砂族とよばれた)とよばれる台湾の先住民とも戦っています。

日清戦争の死者

台湾が最もひどかったのですが、日清戦争全般で、戦闘での死者より病気による死者が圧倒的に多いのが特徴です。日清戦争の死者13309人のうち戦病死者が11894人と圧倒的です。どんな病気か、わかりますか。一番は、西洋から入ってきた伝染病・・・そうコレラです。

日清戦争の軍事費と戦死者 (帝国書院「図説日本史通覧」P225)

日清戦争の軍事費と戦死者
(帝国書院「図説日本史通覧」P225)

では二番目はなにか。この理由の一端はみなさんも必ず知っているあの人が原因の一端を担っています。戦争と病気、戦場での病気に対応するのは軍医です。軍医なんか知るわけないといわれそうですが、ドイツに医学を学びに行って、向こうの女の子に恋しちゃった人、いましたね。

まだやっていないから知らないかもしれませんが、明治の文豪森鴎外、本名森林太郎です。かれが、この病気が伝染病だと言い張ったおかげで大量の病人、そして死者をだしたのです。この病気、既にやりましたが、わかります?玄米、あるいは麦をまぜた米を食べればかからない病気です。生物よりも保健体育でやっていませんか?ビタミンB1欠乏によって起こる病気、そう脚気(かっけ)です。日清戦争の病気NO1で、死者NO2は脚気だったのです。この時期、脚気の原因は食事だという研究もあったのですが、鴎外先生が伝染病といいはったことが、このような結果をもたらしました。大阪の真田山陸軍墓地では「脚気衝心による戦病死」という文字が刻まれた墓石を多く見ることができます。

NHKでマッドサイエンティストなど科学の犯罪を扱う番組「フランケンシュタインの誘惑」は、鷗外のこうした権威主義的な姿勢を告発していました。すでに海軍の研究により脚気を避ける方法が示されていたにもかかわらず、愚かなプライドと判断から、多くの兵士を脚気によって無為に死に追いやった鷗外がそこにはいました。鷗外は命を守るべき軍医であるというより、プライドや軍の都合のために人命を軽視する、昭和の戦争でいやになるほど出てくる陸軍軍人の典型でもありました。

さらに日清戦争には、240618人の兵士のほかに、154000人もの軍夫とよばれる荷物運びの人夫が雇われて働いていました。その犠牲者はちゃんとした記録がありませんが、死者は7000人以上に上るだろうと考えられています。彼らの墓も、真田山墓地にありました。ついでにいうと、捕虜となり、日本で命を失った清の兵士の墓もあります。

日清戦争後の政治

日清戦争は日本の政治を大きく変えました。
さきにみたように、開戦以降、国会、とりわけ野党はあっという間に政府応援団に姿を変えました
この流れは、さきにみたようなロシア脅威論もあって戦争終了後もかわりません。

板垣退助(1837~1919)政治家。土佐出身。征韓論争で下野後、民権運動の指導者として活躍。1881年自由党を結成。

自由党は伊藤内閣との提携を宣言、1896(明治29)年には板垣退助が内務大臣として入閣します。伊藤内閣に変わった第二次松方内閣には立憲改進党の流れを引く進歩党の大隈重信が外務大臣として入閣します。こうして政党と政府の結びつきが進み、政党の主張も政府の政策と大差ない存在となっていきました。

隈板内閣、最初の政党内閣

しかし、土地税=地租は譲れない線でした。第三次伊藤博文内閣が地租を増やそうとすると二大政党は強く反発、1898(明治31)年自由党と進歩党は合同、憲政党が結成されました。

大隈重信 早稲田大学 画像 に対する画像結果

大隈重信 明治大正期の政治家。教育者。立憲改進党設立以来、板垣と並ぶ政党政治の中心。

これをみて伊藤は首相を辞任、板垣か大隈のいずれかを総理大臣に指名するように天皇に進言、大隈重信内閣が生まれました。こうして大隈を総理、板垣を内務大臣とし、その他、陸軍・海軍の両大臣を除くすべての大臣などを憲政党から選ぶ日本史上最初の政党内閣が成立しました。大隈の隈と板垣の板をあわせて隈板(わいはん)内閣と呼びます。
伊藤からすれば、「地租値上げはいやといっても軍拡はやむなしといっている。お手並み拝見で一回やらせてみるか。」こんなところですかね。

伊藤はそのつもりでも、山県をはじめとする軍部・官僚・貴族院といった勢力は納得しません。陸海軍大臣を天皇の命令で留任させたこともあって軍拡には手をつけられません。かつて衆議院が予算をつぶしたように、こんどは貴族院が予算をつぶそうともします。
そうしたなかで、旧進歩党系の尾崎行雄文部大臣が「絶対あり得ないこと」と前置きしながらした発言が問題視されます。「日本が共和政だったら、三井か三菱が大統領候補となるだろう」といった言葉です。これを貴族院などが問題視し、旧自由党系のひとびとも同調、明治天皇も不快と考えたため、尾崎は辞任に追い込まれました。そして、これをきっかけに旧進歩・旧自由両党の対立が激化し、憲政党は分裂し、内閣も崩壊しました。

第二次山県内閣と治安警察法

このあと首相になったのが山県有朋(第二次山県内閣)です。旧自由党(憲政党)は地方に鉄道を敷くといった利益が得られることを期待して山県に協力し、地租増徴や予算案なども可決させました。

山県有朋 長州藩足軽出身。松下村塾出身。奇兵隊で活躍、以後陸軍の大きな勢力を築き、伊藤と並ぶ元老の中心となる。反政党意識が強い。

しかし政党の協力を得ているくせに、山県は政党ぎらいでした。政党員が高級官僚になれなくする文官任用令の改正などをおこないました。さらに陸海軍大臣を現役の軍人に限るという制度を導入して軍部がきらう人物が内閣を組閣できないようにし、そして治安警察法を作り増加しつつあった労働者のストライキや小作争議を禁止するなど、問題のある法律や命令を次々に出していきました。
なお治安警察法については、衆議院においてこれといった審議も為されず全会一致で決まっています。当時の議会は、労働者や小作農民の権利を考えるという発想はなかったのです。

立憲政友会の誕生

山県のやり方に対し憲政会はついに我慢できなくなった山県と手を切ります。

伊藤博文 に対する画像結果

伊藤博文

そして頼ったのが政党政治に理解があった伊藤博文です。憲政会は伊藤に党首になるよう求めますが、「自分が新しく政党を立ち上げるのでそれに参加をしてはどうか」といわれ、憲政会は解党、伊藤が立ち上げる新しい政党に参加します。こうして、伊藤博文を総裁とし、その側近の官僚たちと憲政会によって生まれたの政党が立憲政友会です。会といっていますが、政党です、間違いないでください。
これ以降、太平洋戦争まで、立憲政友会が二大政党の一つとしてつづきます。
この政党にかつての自由民権運動の中心であった自由党の面影はあまり見えませんね。ただ一つ残っているとすれば、その支持基盤が農村の有力者だいうことです。かつては、豪農といっていましたが、多くは農業への興味をなくし地主の性格を強めていましたが・・。

職業欄には農業と書かれていますが、小作料をいろいろなところに投資している資本家でもありますし、地方政治では顔役であることも押さえておいてください。いつまでも地租軽減と言い続けていたわけでもありません。鉄道を敷いてやる、とくに自分の土地に鉄道が走ると言われれば、転ぶ人の方が増えていました。地方政治家を基盤としているという性格から地方の利権の方に敏感になってきます。やや皮肉を込めた言い方ですが、とても国会らしく、議員さんらしくなってきました。

伊藤博文政友会内閣

こうしてかつての自由党が、自由民権時代の最大の敵ともいえる藩閥政治家の一方の旗頭伊藤博文のもとに参加しました。

そして、この立憲政友会を基盤に第4次伊藤博文内閣が成立します。この内閣は、立憲政友会を基盤とする政党内閣ですからね。伊藤博文が政党内閣とは、ちょっと変な感じですが・・。

星亨 憲政党(旧自由党)の指導者。立憲政友会参加の中心となった。汚職疑惑で大臣を辞職、直後に暗殺された。

こうして伊藤立憲政友会内閣が成立しますが、なかなかうまくいきません。政友会成立の憲政会側の立役者の星亨(ほしとおる)が収賄で貴族院から激しく攻撃されて辞職、その直後、暗殺されます。さらに、貴族院が衆議院を通った予算を否決し予算成立を拒みます。内閣の内部の対立も発生、1901(明治34)年5月、伊藤政友会内閣は一年持たずに崩壊します。
こののち伊藤は政友会総裁を辞職、伊藤の側近で公家出身の西園寺公望が総裁の地位に就きます。

新世代のリーダー登場~桂太郎内閣

 

20世紀の最初の年である1901(明治34)年、伊藤に代わって総理大臣になったのは長州閥で陸軍大臣の桂太郎、山県の子分です。この内閣以降、総理大臣どころか閣僚のなかからも元老は姿を消しましたので、「二流内閣」とよばれました。

桂太郎  長州藩出身の軍人・政治家。山県のもとで陸軍閥の中心となり、日露戦争当時首相を務めた。

幕末・維新のなかで明治政府を作り上げてきた元老たちは、これ以降前線を退いて、西園寺公望や桂太郎といった新たな世代が、伊藤・山県といった元老の意を受けながら政治を担っていくようになります

この桂太郎内閣は、5年をこえる長期政権となり、この政権の下で日露戦争が戦われます。

 

 

※日清戦争にいたる朝鮮近代史を「朝鮮近代史を学ぶ」という形でまとめました。

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