<前の時間:自由民権運動の展開と松方デフレ>
Contents
寄生地主制の成立と激化事件
松方デフレ下の農民
それでは、今日の授業を始めます。
松方デフレは、ひとときの我が世の春を満喫した農民たちを地獄に突き落します。
農産物価格の下落により、農民たちは、借金や税金が払えないという理由で土地を失います。江戸時代にあった村で助け合うという制度はすでに過去のものでした。
最も深刻だったのは、自分の土地を耕して生活している自作農たちでした。
最も深刻だったのは、自分の土地を耕して生活している自作農たちでした。
土地を失った農民たちは、地主から土地を借りて耕作し(元々は自分の土地であることも多いのですが)、高額の小作料を払う小作農となるか、新しい仕事を求めて都市に出て行くか、という選択を迫られます。
都市に出て行くといったって、お金もないままいったらどうなるか、分かりますね。彼らが住める所といったら、貧しい人たちが身を寄り合っているスラムです。
そこに集まっている人たちは、仕事になかなかありつけず、日雇いや人力車夫などをしながら、失業、半失業状態の生活を送る人たちでした。そのなかで多くは「日の当たらない道」を歩みます。
豪農の変質~寄生地主制の成立
では、自由民権運動の中心となってきた豪農たちはどうなったでしょうか。
数年前、農業に将来性を感じた人がも多くいました。いろいろなチャレンジをした人もいたでしょう。ところが松方デフレはそうした夢を奪っていきます。
せっかく作った農作物も原価を割り込む状態、農業は儲からないと考え、すこしずつ撤退していきます。
自分が農業をするのじゃなくて、人を働かし、土地の貸し賃(小作料)を取る地主の性格を強めながら。
地主にとしてみれば、この時期はビジネスチャンスにあふれていました。借金のカタとして、競売にかけられた農地を買い占めて、いろいろな形で土地を集める事ができたのですから。他方で、高い小作料でも働きたい人たちがいましたから。
こうして豪農たちは、自分の土地を小作たちに貸し出して高額の小作料を得る地主へと姿を変えていきます。小作料収入を中心にして生活する地主を寄生地主と呼び、太平洋戦争の前後、最終的には農地改革まで、近代日本の農村を支配しつづけます。
寄生地主制の進展
地主たちは、小作農民から手に入れた小作料(正式にいうと集めた米を売って得た資金)を、農業以外の分野に投資していきます。
銀行に預け、つぎには鉄道、さらには工場へとその出資先は広がっていきました。自分たちで金を出し合って新しい事業にも取り組みます。
こうして、小作農民から集められた資金が、日本の商工業の発展につぎこまれ、日本の産業革命の発展を資金的に支えました。
かれらは、地域の名誉ある仕事にも就くようになります。
府県・市町村といった議員(のちには国政も)、町長・村長といった首長、郵便局長など。
こうした面をとらえて、地方名望家というとらえかたもあります。
こうして、かれらは、一方では地主として多くの農民の土地を貸し経済的に、他方で地方の有力者として政治的に、農民たちの上に君臨することになります。
こうして、かれらは、一方では地主として多くの農民の土地を貸し経済的に、他方で地方の有力者として政治的に、農民たちの上に君臨することになります。
こうした農村の力関係が戦前日本の半封建的性格を規定したといわれます。
新しい土地住民の形成へ
かれらの子どもたちのあるものは都会に出ていきます。生活破たんの末の流出ではなく、仕送りをしてもらいながら。
「末は博士か、大臣か」とか「故郷に錦を飾って」とか期待されながら。
上級学校にすすみ、あるものは官僚の道をあゆみ、あるものは企業のサラリーマンとして。故郷に帰った者も地方の名望家として。多くは「日の当たる道」を歩みました。
夏目漱石の小説にはこうした階層の人が多く出てきます。
「こころ」の二人の主人公、「先生」も「私」も、こうした階層の人です。でも、Kは違います。
「豪農の民権」と地方三新法
すこし、先走りすぎましたが、松方デフレをきっかけに、自由民権運動の中心となっていった豪農が地主の性格を強め、変わり始めたことが分かると思います。
かれらにとっても松方デフレは、農業経営者としては危機でした。自由民権などに力をそそぐ余裕も失っていきます。こうして豪農たちの自由民権への興味は一時的に低下します。
もう一度、元に戻ってみましょう。豪農や商人たちがなぜ政府へ反対していたのか。
かれらは、新しい時代が自分たちの可能性を開くものと感じ歓迎しました。かれらが学んだ西洋の知識からみると、藩閥の独裁下にある政府は遅れたものであり、自分たちの可能性を広げたり要求を実現するには遅れたものでした。
明治十年代になっても政府は独裁的で、一般の人々の意見を聞く姿勢はなかったように見えます。
ところが、地方では、様子が変わり始めていました。
1878(明治11)年政府は地方政治が円滑に進むように地方三新法とよぶ法令をだしました。それにもとづき、府県会も開催され始めました。
選挙権が地租5円以上を支払う20歳以上の男子に与えられ、地方税の予算案の審議も可能になりました。
選挙権が地租5円以上を支払う20歳以上の男子に与えられ、地方税の予算案の審議も可能になりました。
政府にとっては、地方をうまく統治する目的でしたが、豪農・地主からすれば、限定的とはいえ、自分たちの要求が出せる場が生まれたことには違いありません。
いくつかの府県会では民権派の議員が多数を占め、中央から派遣された県令と対立する事態も生じるようになりました。
府県会と士族
府県会の選挙権が地租5円以上ということに注目してください。この金額、民権運動を中心になって進めてきた人たちが参加できる金額でしょうか。民権運動の最初から、中心になって進めてきた・・・、そう、士族です。
士族は没落しつつあり、この基準に達しない人が多いのです。
かつて政治を独占的に担っていた士族が、新しい時代の政治、「カネの政治」では排除されるのです。
政府の都合で作られたことと相まって、府県会というものの存在に否定的な民権家も多くいました。
こうした意味で、府県会設置をはじめとする地方三新法は民権運動の中にくさびを打つことにもなりました。
こうした意味で、府県会設置をはじめとする地方三新法は民権運動の中にくさびを打つことにもなりました。
激化事件の発生
運動の過激化
1881(明治14)年、政府が「国会開設・憲法制定」という方向を打ち出すと、運動の要求が形式的には実現します。
豊かな農民(地主)や商人の政治参加という要求は現実化しはじめます。
他方、これまで運動を担ってきた士族民権家の多くは、国会が開設されても日本の政治に参加できない事態が現実化します。
他方、これまで運動を担ってきた士族民権家の多くは、国会が開設されても日本の政治に参加できない事態が現実化します。
このこともあって、士族民権家を中心に、政府主導の国会開設・憲法制定というプログラムに強く反発し、中央政治の変革を要求しつづけようとする人もいました。
しかし、大きな流れが作られ始めた中、その変革は非常に困難であり、彼らの運動は、暴力的な対決という性格をも持つようになります。
こうして一部の民権家は、士族の没落という現実にもおされながら、過激化の傾向を強めました。
こうして一部の民権家は、士族の没落という現実にもおされながら、過激化の傾向を強めました。
「困民党」「借金党」
他方、松方デフレの直撃を受けた一般の農民たち、とりわけ、生糸価格の暴落により経営破たんを余儀なくされた養蚕農家の状況は深刻でした。
彼らの多くは多額の借金と高額の税金の支払いのために土地を失う危機に立たされていました。
こうした農民たちと結びついたのが一部の急進的な自由党員でした。かれらは「民権運動が勝利すれば、こうした苦しい状態から解放される」として支持を広げました。
とくに養蚕業の盛んな関東地方西部などでは「困民党」「借金党」といった形で組織されることもありました。
「福島事件」
こうした状態の中で発生したのが1882(明治15)年に発生した福島事件です。
福島県令となった三島通庸(みちつね)が、県会を無視して強引に道路工事をすすめるとその重い負担に怒った農民と衝突、それを口実に自分の意に沿わない自由党員を大量に弾圧した事件です。
「秩父事件」
これ以降、各地で激化事件とよばれる自由党員によるテロ・武装蜂起事件が起こります。
最も規模が大きく、重要なのが1884(明治17)年の秩父事件です。埼玉県秩父地方は養蚕業の盛んな地域で、明治十年代初頭のインフレ期は好景気に沸いていました。
しかし、松方デフレによる生糸価格の暴落によって大打撃を受けました。こうした中、一部の自由党員の働きかけをうけ、農民たちは「困民党」等と名乗って、金貸しや役所に、借金や納税の延期を働きかけますが、拒否され、ついに蜂起を決意しました。
リーダーの一人は「天朝様(天皇のこと)に敵対するから加担しろ」と政府との抵抗の意思を明確にし、「板垣(退助)様が助けに来てくださる」とも語られました。一時、「自由自治元年」という幟(のぼり)が掲げられ、明治という年号を拒否して新しい日本をめざしたといわれてきました。その事実はありませんでした。しかし、これまでの日本、自分たちを苦しめ続ける日本とちがう日本をめざす思いがありました。
これに対し、政府は軍隊を派遣し鎮圧をはかりました。敗れた人たちの一部は隣接する長野県に進出、再度戦いを挑もうとしましたが敗れました。
これに対し、政府は軍隊を派遣し鎮圧をはかりました。敗れた人たちの一部は隣接する長野県に進出、再度戦いを挑もうとしましたが敗れました。
反乱に参加した人たちは、その後、「暴徒」とよばれましたが、秩父の人にとって否定的な意味はなかったといいます。
またリーダーの一人は、その後も逃げ続け、北海道で死の間際に自分は秩父事件の首謀者の一人であることを、誇りを持って明かしたといいます。
自由党の解党と「大阪事件」
激化事件がつづくなか、1884(明治17)年自由党中央はいったん解党を余儀なくされます。この時期は、秩父事件の直前のことでした。農民たちが期待していた「板垣様」は、すでに彼らを見放していたのです。
その後も激化事件はつづきます。
その背景には、松方デフレによって没落していく農民たち、貧困にあえぐ都市下層民、士族の没落、こうした現実の中でなんとかして現状を打破したいというあせり、政府のプログラムではない日本の近代のあり方をめざそうという思いが、こういったものがありました。
しかし、こうした動きは、民権運動の絶頂期をささえた豪農層の寄生地主化と地方政治への包摂、さらに大きくとらえると、未完成であり、多くの可能性を秘めていた明治日本が、明治憲法体制という完成形にむかう流れの中に取り残され、孤立していくものでした。
1885(明治18)年、国内で孤立した旧自由党の急進派は朝鮮でクーデタを起こし、それを起爆剤に国内変革を起こそうとし、武器を調達し朝鮮へ渡航しようする事件をおこし逮捕されました。この事件を大阪事件といいます。
大同団結運動・三大事件建白運動
デフレが収束し経済が安定してくるなか、自由民権運動が息を吹き返します。
1886(明治19)年、国会が近づく中、政党間の小さな違いを捨てて協力し合おうという「大同団結」が呼びかけられました。
1886(明治19)年、国会が近づく中、政党間の小さな違いを捨てて協力し合おうという「大同団結」が呼びかけられました。
その直後、当時外務大臣井上馨が進めてきた条約改正交渉の内容が明らかになりました。その内容にたいし政府内外から批判が殺到、旧自由党は自分たちの要求を「地租軽減、言論集会の自由、外交失策の挽回」の三点にまとめて政府に突きつける「三大事件建白運動」(「事件」ということばに違和感がありますが、合っていますからね!)を始めます。
全国から代表が続々と東京に集まり、明治14年を彷彿とさせる状況が生まれます。
こうした状況に危機感を感じた政府は外務大臣の井上をやめさせて、交渉を白紙に戻します。さらにあらたな弾圧法保安条例を出し、運動の沈静化を図ります。
運動を進めている民権家の家の扉がドンドンとたたかれ「すぐに皇居から三里(12キロ)以上離れたところにでていけ」と命じられたのです。あわせて600人がおいだされました。断って逮捕された活動家もいました。
運動を進めている民権家の家の扉がドンドンとたたかれ「すぐに皇居から三里(12キロ)以上離れたところにでていけ」と命じられたのです。あわせて600人がおいだされました。断って逮捕された活動家もいました。
たしかに自由民権運動が再び活発化しました。
しかし、そのイメージが変わったこと、わかりますか?・・・
前は、「国会開設」「藩閥政府打倒」「国民の意見を聞け」と
主語は「国民」「人民」で、内容も国内政治が中心でした。
ところが今回は、「日本をはずかしめるような事は許せない」というように主語が「国家」「日本」と変わっています。
このように国家の立場を重視する主張、ナショナリズム(国家主義)が表に出るようになり、運動の流れも「民権」から「国権」へとシフトするようになりました。
ここまでで、政府が出した民権運動を弾圧する命令が何回かでたので、整理します。
運動が起こり始めの頃、1875(明治8)年段階は、新聞などのジャーナリズムを黙らそうとした2つの命令・・新聞紙条例と讒謗律
1880(明治13)年、国会開設運動は演説会が中心となったので・・・集会条例
最後は三大事件建白運動のとき、「東京から出て行け」という
保安条例1887(明治20)年。
名前と順番だけじゃなくて、どのような運動に即して出されてきたのか、押さえておいてくださいね。
それから、それぞれの命令は、ずっと有効なので、三大事件建白運動の時も集会条例は有効だったので、念のため。
ということで、自由民権運動はここまでです。
いろいろ問題はあったとはいえ、日本にこうした民主主義を求める運動があったからこそ、多くの問題があるとはいえ明治憲法が作られ、国会も開設されるようになったこと。さらに自由民権運動の伝統はいわば地下水となって日本国憲法にもつながっていくこと、しっかりつかんでおいてください。
それでは今日はこのあたりで終わりたいと思います。
次は、政府の側の動きを見ていきます
次は、政府の側の動きを見ていきます