<前回 明治維新(1)明治初年の改革と廃藩置県>
明治維新(2)軍隊と教育、地租改正
「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」
近代日本の基本テーマは「欧米列強に追いつけ追い越せ」ということでした。
よく使ういい方では富国強兵=「国家を豊かにし、強い軍隊を作る」ということ。
当初は、幕末の衝突で自覚した軍事力の差にかかわる「強兵」がメインだったけど、欧米列強との差をさまざまな場面で実感するようになると、「富国」=国を豊かにするというテーマが強く自覚され、経済・産業の育成やインフラ整備を意味する「殖産興業」も課題となる。「条約改正」との関わりもあって法や制度といった国家システムも整備、生活・文化面での「文明開化」もすすみ、「富国強兵」という言葉だけではとらえきれないほど、この基本テーマは広がっていきます。
「追いつけ追い越せ」はいつまでつづくのか?
この「追いつけ、追い越せ」という日本近代のテーマはいつまでつづくのでしょう?どう思います?
まず明治時代、初期・中期・後期でニュアンスは違いますが、「坂の上の雲」という小説の題名のように、このテーマが追求されつづけます。
司馬遼太郎「坂の上の雲」 秋山好古・真之兄弟と正岡子規を中心に、日露戦争へと突き進む明治時代を描く。
ではそれ以後はどうでしょうか。大正期では「先進国として恥ずかしくないように」というようにテーマが読み替えられ、昭和前半には逆にこのテーマが反転して「俺様は・・」という傲慢さが表面化します。コンプレックスの裏返しです。その結果が1945年の敗戦です。
コンプレックスを克服しようとした明治と、コンプレックスの裏返しの昭和前半、その間の大正、という図式かな。
では敗戦後はどうでしょう。このテーマは消えたのでしょうか。よく考えると、そうでもなさそうです。
欧米列強の前に一敗地にまみれたという負のエネルギーは、再び「欧米列強に追いつけ追い越せ」の意欲をかき立てます。軍事以外の分野、とくに経済発展で。
このテーマが人々の意識から消えるのは、高度経済成長の矛盾と限界を自覚した1970年代くらいかな。だから、ぼくのような世代はどこかこの気持ちが染みついているような気がします。
世界基準のオペレーションシステムを導入
「欧米列強に追いつけ追い越せ」というテーマは、軍事を出発点に、まざまな分野へと拡大していきます。
そのためには、これまでのやりかたのバージョンアップでは通用せず、オペレーションシステムの更新の必要もあったのです。
身分制や鎖国、石高制といった伝統的で独自な慣習やシステムを基本とした幕藩体制という東アジア的だが日本独自のOS(オペレーションシステム)はグローバル対応が不可能であることが幕末の混乱の中で明らかになりました。そこで明治政府はグローバルスタンダード(世界標準)の欧米型のOS(オペレーションシステム)を導入せざるを得なかったのです。
OSの変更をすれば、これまでのソフトやハードが動かなくなってパニックに陥ったりします。思いもかけないところで誤作動が起きたりもします。ある部分では順調すぎて心配になったりもします。こうしたOSの変更と、これまでのシステムとのチューンアップ、これがおこなわれたのが明治一ケタ、さらに20年ごろまでの日本でした。
近代的な軍隊の必要性
すでにみたように、「差」を最初に感じたのは軍事面です。
ペリー来航という軍事力の脅迫をうけての開国・開港、二回の下関での敗北、薩英戦争、こうした経験は欧米列強の軍事力に対する日本の弱さを切実に感じさせました。
植民地の危機があったかなかったか、意見は分かれますが、西洋諸国が本気になってかかってきたら勝てないのは明らかでした。少なくともプライドを傷つけられたことは明らかです。
だから、欧米列強に対抗するだけの軍事力を持つことが第一の課題となりました。
長州戦争や戊辰戦争という国内戦争は、西洋的な軍隊の圧倒的な優位性を自覚させ、江戸時代の武士による戦い方はまったく役に立たないことを自覚させました。戊辰戦争において、刀や槍による死者は最初の鳥羽伏見の戦い以外では、まず見ることはできません。銃砲や大砲による死者がほとんどです。
「槍や刀、火縄銃の部隊は来るな!洋式の銃を持って参加せよ」と政府軍に屈服した藩に命じました。
近代化された武器の効果を引き出すためには、指揮官の命令のもと集団で行動するという西洋式な訓練を経た軍隊システムも必要となってきます。
こうして、武士は軍事力としては、意味を持たなくなっていました。政治家や官僚として使えるものもわずかでした・・・。
そう、武士は不要な存在になりつつあったのです。
徴兵告諭と徴兵令
江戸時代の軍人、誰か分かりますね?武士ですよ。江戸時代の武士は、基本的には軍人です。こんなことを言わねばならないのが江戸時代の武士の実態です。かれらに日本の軍事力を担わせることは難しいということは今、見たとおりです。
では誰を兵隊とするのか、すでに幕末に経験がありました。
そう、奇兵隊。さまざまな身分から兵士を集め、訓練して作り上げた軍隊。こうした軍隊を幕府も作り始めていましたね。他の藩でもこうした動きがありました。
廃藩置県の時、政府は薩摩・長州・土佐から兵隊を出させました。士族から兵を募るという案もありました。
しかし、明治5(1872)年には徴兵告諭がだされ「国民は義務として兵役を課せられる」と定められ、翌明治6(1873)年の徴兵令で「基本的に男子国民すべてに兵役に就く」との国民皆兵の原則のもと、徴兵が始まります。
徴兵令と徴兵検査
徴兵ってわかるかな。
「ある年齢になれば軍隊に入らなければならないという国民の義務」です。戦前は男子が20歳になれば、徴兵検査を受ける義務がありまし た。
身長・体重はもとより、おしりの穴まで徹底的に調べられます。
ぼくの父も受けています。なお、おしりの穴の検査は免れたみたいですが・・。近眼ということで第一乙種でした。理系の大学に通っていたので徴兵猶予となりましたが・・。
戦時でないときは、甲種というよい成績を取った人から入隊を命じられる人が選ばれ、2~3年の訓練を受け、何事もなければ除隊します。しかし戦争など非常時となれば、また呼び出されます。さらに人が足らなくなれば、父のように乙種などのランクの人も入隊させられます。こんな制度です
庶民にとっての徴兵令と「血税」一揆
徴兵制が始まった頃は「長男は徴兵しない」「一定額のお金を払えば行かなくてよい」など、いろいろなルールがありました。
徴兵免役の心得 人々は徴兵を逃れようとさまざまな手段を考えた。
養子にでて、別の家の長男になれば徴兵をパスできるので、養子ブームもおこりました。
文豪夏目漱石には、北海道の浅岡さんという人の養子になっていた経歴があります。そして26歳で戻っています。実は徴兵逃れをしていたのです。
みんな徴兵なんかにはいきたくなかったんです。
考えてください。これまで百姓は農業をやって年貢を払うことが自分たちの義務でした。町人や職人も同様です。
逆に、武士は年貢から禄を受け取るかわりに人々の生活と安全を守ることになっていました。これが身分制の原則でした。
ところが、新しい政府になると、百姓は、高い税金を払わされるだけでなく、軍隊には行ってわけの分からない訓練をさせられ、ついには戦争に連れて行かれ死ぬ羽目にもおちいるのです。
「こんなんおかしいわ!」ということで農民たちは強く反発、血税一揆ともよばれる徴兵令反対一揆が発生しました。
徴兵告諭の中にあった「血税」という言葉に農民が反応して発生したともいわれます。「異国人が政府を支配し、国民から生き血を集めて呑ませるのだ」といった猟奇的な噂を振りまいた人がおり、「新しい時代の変化が、急すぎたため、こんな噂を信じてしまう気持ちもあったのでは」とある研究者はいっています。
こうして近代的軍隊の創設が動き始めます。
兵士になるには ~ことば・計算・身体・生活様式
農民などの庶民を兵隊として使うとすると、さまざまな問題が生まれてきました。どんな問題があるか、わかる?
最初に問題となったのは「ことば」。
指揮官が命令した「ことば」がわからないとどうしようもありません。だから、方言以外は理解できないのでは困ります。だからみんなが標準語を使えるようにならなければなりません。
聞いて、行動するだけでもダメで、文字を読めなければならなりません。軍隊には、さまざまなマニュアルがありますから。大砲をぶっ放す砲兵なんかに配属されれば、大砲をどの角度に向けて撃つかということで数学の知識も必要です。
体育の先生から面白いことを聞いたことがあります。
みんな、体育祭で行進するとき手と足はどういう風に動かしますか?
右手と左足、左手と右足、という風に「自然に」動かしてますよね?
ぼくはどんくさくって、それができず、右手と右足、左手と左足という風に動かして、よく笑われました・・・。
空手とか、古式の武道とかの身体の動かし方はこの動かし方が基本。忍者もそうです。こうした身体の動かし方を「ナンバ」といい、ブームにもなりました。
「ナンバ歩きを現在の行進のスタイルにしたのも、軍隊の必要からで、体育という教科自体が、江戸時代までの人々の身体を、兵士ととして最適なものに訓練し直すという側面を持っていたのだ」とその体育の先生はいっていました。
「ネコ」的な生き方を「イヌ」的な生き方に
前近代の人の行動様式(生き方)、とくに農民たちのそれは、「ネコ」風の生き方?!でした。命令され集団で行動するのを嫌い、自分の計画・都合で動くという生き方。農業はこういった方が合理的でした。これはヨーロッパで典型的でした。
ところが軍隊というか近代・産業社会では、上の命令一下、規則正しく、集団的に働く「イヌ」風の生き方が求められるようになります。
軍隊生活を耐えるためには、生活様式自体も変えさせることも必要だし、国家のためには死をも恐れないという感情を育てることも必要です。
急速な「富国強兵」が求められた日本では、こうした「イヌ」的な人間づくりがつよくもとめられました。
軍隊と学校・教育
強い軍隊をつくるための、読み・書き・計算といった基礎的な知識、身体の動かし方を訓練し、生活自体も変化させる、こうした力を身につける場所、それを学校が担うようになります。とはいえ、これが軌道に乗るのは明治20年代になってからですが。
ちなみに、世界で最初に義務教育のシステムを作ったのはどこの国か知っていますか?
フランス、自由と民主主義の国だよね。
ほかには?
イギリス、そうね、産業革命とかおこったように豊かな国だったよね。
ほかには・・・、ないか。
いくつかの説もありますが、ドイツ、正式にいえばドイツの北東部にあったプロイセン王国という説が有力です。
プロイセン王国って世界史で習った?
有名な王さんがいたんだけど、・・・大王、啓蒙専制君主として有名な・・・。無理か。
18世紀中期の王フリードリヒ2世。
その時代のプロイセンってどんな国だったか覚えている。そう、軍国主義で有名な国。フリードリヒ大王は二つの戦争で伝統的な大国オーストリアをやっつけて、プロイセンをヨーロッパのトップにおしあげた王様。「上からの近代化」を進めた啓蒙専制君主としても有名な人。
なんといっても戦争が強かった。この王さんが導入したのが義務教育制度。
理由、わかるよね。強い軍隊を作るには「読み書きと計算、王への忠誠心と愛国心」を育てるために教育が必要だと考えたのです。そしてこうした教育を受けたものが軍隊を強くし、さらには経済や社会を発展させると考えたのです。
このように学校教育は、軍隊を強くし、そこに送り込む役割を持っていました。実際、学校が率先して子どもたちを侵略戦争に送り込む役割をしました。ぼくは前から「学校や教師は戦争犯罪者だった」と思っていますし、「二度と戦争犯罪者になってはいけない」と思っています。
「教育」による「国民」の形成
読み、書き、計算、体育、時間やルールのもとづいた生活スタイル、上の人に従順な生き方、そして天皇や国家という者への忠誠心、こういったものを教え込ませるものとして期待とされたのが学校でした。
学校教育は、多くの場合は国が整備するものなので、上から規制しやすいのです。学校教育を通して、言葉(「共通語」)を習い定着させることなど、国家にとって必要と考える知識や習慣を身につけさせ、訓練します。政府に都合のよい倫理観を教え、あるべき生活習慣に矯正します。
こうして日本中、どこでも同じ言葉で意思が伝達できるようになりますし、同じ教材で学ぶようになっていくと共通の知識の基盤ができます。多少の差異はあるものの似たような経験(たとえば同じ「唱歌」を歌った体験などや運動会に参加した体験など)をしてくることで、急速になかまという気持ちが生まれます。こうして、同じ日本人だという国民意識が作られていきます。
そして、子どもに伝えたことは、大人へも影響を与えます。
ある学者は「国民」は近代になって教育によって作り出されたものだといっています。
前に「国民を作る」障害となった「ヨコのカベ」を廃藩置県で、「タテのカベ」身分制を「四民平等」で破壊したという話をしました。
こうした基礎工事のうえで、教育制度などを通して「民族(国民)」の形成がすすめられようとしました。しかしなかなかうまくいかず、試行錯誤が繰り返されます。「国民(日本人)意識」が作られるのは、学校教育が定着する明治20年代のことです。「日本語(標準語)」がつくられるのも、明治20年代以降です。とくに決定的な役割を果したのが日清戦争と日露戦争でした。
それ以前、「日本人」同士の会話はとても困難だったのです。だから、同じ日本人という意識も持ちにくかったでしょうね。
教育の役割
学校はいろいろな性格を持っています。国民の形成、強い軍隊を育てるといった性格を持っていますが、人間が読み書き計算といった力を身につけ、知識だけでなく身体をも開発することは、人間の新しい可能性を広げ、いろいろな物事に対する疑問や興味関心を引き起こす力も与えます。
軍隊の必要から作られたという側面をもつ学校ですが、知識を学び、互いに話合い、育てあうこと、真理を探究しようとすることで戦争をなくし民主主義的な世界を作る力をつけることにもつながっています。
「学制」発布と学制反対一揆
またまた余談に走ってしまいました。
とりあえず、軍隊における必要性が、義務教育を導入する一つのきっかけとなっていました。
日本では1872年「国民皆学」をめざした学制が発布され、小学校の義務教育が開始されます。
ちなみに学校は人々にどのように受け止められたでしょうか。
学校の校舎はどうする。チョークや黒板は。先生の給料は。
誰が払う?ものすごい金額になるけど、このころの政府はまったく金がありません。
とすれば、こうした費用は?
もうわかりますね。地域の人々に金を出させて学校を作らせるのです。
人々の気持ちからすれば、次から次へと変なことばっかり言い出し、今度は学校を作るから金を払えといってきた。「子どもだって百姓仕事では大切な労働力」ということで「学制反対一揆」なんかも発生しました。
「俺たちが、学校を作ろうじゃないか」
ところが、まったく逆の動きも起こります。
開智学校 松本町民の寄付を中心にして建設された
日本で最初の学校は、松本市の開智学校とされています。当時のすごくモダンな校舎が今も残っています。建築費の7割を松本町の住民が寄付をしました。
それよりも以前、学制がでる前、明治2(1869)年にいっきょに64校もの小学校ができた所があります。京都です。
番組小学校といいます。番組というのは京都市内の町組とよばれる自治組織、これが競争で学校を作ったのです。京都府がすすめたこともあるけど、それ以上に
京都の町衆が子どもたちに教育を身につけさせたいという思いが強かったと言われています。同じように考えた人たちが日本中にいたのでしょう。
国家として学校が必要という考えと、子どもに教育を身につけさせたいという親や地域の思い、この二つの動きが合体することで、日本の近代教育は始まりました。
地租改正
軍隊を作り、教育制度を整備するとともに、政府にはもう一つの重要な課題がありました。財政を近代化するという課題です。
図説日本史通覧(帝国書院)P206
江戸時代、それぞれの藩は年貢を基本とする収入で藩の財政を運営していました。
しかし、廃藩置県で藩がなくなるとともに、さまざまな問題が噴出してきました。
どの土地も「天皇の土地」であるはずなのに、徴税方法や額が大きく違う、年貢として集まってきた米の値段の変動が大きすぎて税収が安定しない、土地の持ち主がはっきりしない、などなど、
そこで、新政府はグローバルスタンダードの方法を一挙に導入します。
明治5(1872)年、政府は田畑永代売買の禁令などの土地の使い方に対する決まりを廃止、土地の持ち主がその土地を自由に扱ってよいようにしました。
そして、「あなたがその土地の持ち主です。土地の値段(「地価」)はこれだけです」といったことを書いた地券という土地証文を、これまで年貢を払ってきた人に発行します。
つまり「土地はこれまで年貢を払ってきた人のもの」だと正式に認めたんですね。太閤検地のように「土地を耕している人」でないことに注意してくださいね。
こうした作業をもとに、明治6(1873)年地租改正条例で、これからは地価(土地の売買価格)の3%を地租(土地税)として貨幣(「お金」)で納めなさいと命令したのです。
これまでの年貢は村ごとに米(玄米)で集めて、村役人が納めるという村請制をとっていましたが、これがなくなり個人で納めるスタイルになります。
まとめると
土地を売買可能な不動産として認め、その所有者を確定し、土地の価格(地価)を決めて、その価格に応じた土地税(地租)を、お金で、個人単位で払わせることにしました。
ということになります。やっぱりややこしいか・・・。
こうした作業を地租改正と呼び、これから数年間をかけて、作業が進められていきます。
「租」と「祖」
そうそう、地租の「租」の字だけど、三人に一人ぐらいは必ず祖先の「祖」の字を書くから気をつけてください。
授業中なんかは気をつかって書いていて、間違えることは少ないんだけど、テストでは、ついつい間違った字を書いてしまうことが多いので気をつけてください。
ちなみに、地租の場合の「禾(のぎ)」へんはイネ科の植物をさします。だから「稲(いね)」という字も禾へんだよね。
古代の中国(日本もそうだけど)の税金は、米とか麦とかイネ科の収穫物で納めたから「禾(のぎ)」へん。税金の「税」も「禾(のぎ)」へん。
それに対し祖先の「祖」の「示(しめす)へん」、「ネ」でも「示」でも基本的に同じですよ。この「示」へんはスピリチュアル、霊的なことに使うことが多い。
祖先の霊をひきつぐといった意味合いもあるから「示へん」。「何へん」か分からなくなったら、こういう風に考えればいいよ。
地租の実態と地租改正反対一揆
さて、地租改正の作業が進んでいくと政府はまずいことに気づきます。このままでは、地租改正以前より税収が減ることです。これまで集めてきた年貢高は、日本全体の平均で、実際の地価の3%より多かったんですね。
さて、皆さんが大蔵省(現在の財務省)の役人ならどうしますか?「なんとかこれまで通りの税収を保障せよ」と上役から強く命じられます。
いい方法はないでしょうか?ヒント、昔から面倒なときは弱い立場の人に泣いてもらうこと。だから・・・農民ですね。
どうでしょう、皆さんも考えてください。地租の計算は下の数式です。
地価(土地の売買価格)×0.03(3%)=地租(土地税)
地租(土地税)をなんとか、全体としてこっちが欲しいだけ集めたい、でも3%は変えられません。とすると、地価を操作するしかありません。
実際、地価は、地価は土地の収穫高を元に計算で出していたのです。だから、いくつかのところでは、政府はこの地価を実際より高めに決め、「全体として」これまでの税収を減らさないように操作したのです。
「全体として」といったこと、いいですか?こう読み替える事ができます。
あまりに年貢が高すぎたところは取り過ぎが是正され、年貢より地租は引 き下げられます。
しかしそうすると、全体としての税収は減るので、今まで安い年貢しか払っていなかったような所(旧幕府領なんかが多かっ たんですが)の地価を高くして、地租を多く集めることになります。
つまり、これまでの年貢より、地租の方が高くなります。下のタイプの村に住んでいたら、どう思いますか?
「新しい世の中になって、世直しが行われる。みんな幸せになれる。きっと年貢も下がるだろう!」と思っていた
「ところがどうだ。徴兵令だ、学制だ、とかいって自分たちに負担ばかり強要し、挙げ句の果てが、これまでの年貢よりもたくさん税金を払えとは。」
ということで、今度は地租改正反対一揆が発生します。
とくに三重県での運動が激しかったみたいです。江戸時代は使われなかった竹槍(竹の先を鋭角に切って、先をとがらせたもの。人を殺す可能性がでてくる!)さえも使うようになっていきます。
この時期、政府としてもかなりヤバい時期になっていたので、日本の歴史上、珍しい事が起こりましたきています。政府が地租を引き下げたのです。これまでは地租は地価の3%となっていたのを、地価の2.5%に引き下げます。農民たちは喜びました。
そして一句「竹槍で、エイと突き出す、二分五厘」
近代的租税と古い封建的関係の残存
地租改正についてもう少し丁寧に見ていきましょう。
すでにみたように、これまで年貢を払っていた人を土地所有者として確定し、地租を定額としお金(貨幣)で納めると定めたました。
これにより、どういうことがおこるのでしょうか?
農業に携わるそれぞれの立場ごとにみていきましょう。
自作農(自分の土地を自分で耕している農民)は自分の土地で作った米などの作物を売ったお金で地租を払うことになり、米の値段(米価)の変動といったリスクを背負うことになります。米などの値段が上がれば税金(地租)は減りますが、値段が下がればこれまで以上の作物を売っても払えないという事態が起こります。
地主(自分の土地を、別の農民に貸し出し、土地代=小作料を手に入れる人)はどうでしょうか。
自作農と同じように米の値段の変化のリスクはありますが、小作料もはいってきて財産の規模が大きいのでやや余裕があります。
そして米などの値段が上がれば大きな収入を得られます。
小作農(地主から土地を借り、収穫物の中から土地の借り賃=小作料を払う農民)はどうですか。実は江戸時代と何も変わっていません。これまで通り、土地を貸してもらっている地主に小作料の米を納めるだけ。
つまり地主と小作の間では、江戸時代の関係がそのまま残されます。これが日本の農村の古い関係を継続させた原因と言われます。
「村の姿」が変わる~「村請制」がなくなる
地租改正は、村人たちの生活の基盤である村の姿を大きく変えました。
これまで年貢は、領主が行ってきた額を、村内の百姓からあつめて、まとめて村役人が納める村請制をとっていました。
このため「ちょっと今年は・・・」という人がいても、村人みんなで、実際は村役人なんかがかぶっていたのです。村の方でも、そんなことが起これば、みんなが困るので、早いうちからヤバそうな人の手助けをしたり、代わってやったりして、年貢が払えるように保護する仕組みが作られ、村全体で落ちこぼれる百姓(農民)がでないようにしていたのです。
では、地租改正はこうした状態をどのようにかえたのでしょうか?
地租を払うのは・・・一人一人の農民(もう「百姓」ではない!)となります。「ちょっと今年は・・・」といっても自己責任といわれ、肩代わりして面倒を見てもらえるシステムは消滅しました。相互扶助のシステムも弱まります。村の力で生き残っていた貧しい農民、とくに小規模な自作や小自作農(自分の土地だけではやっていけず小作もしている農民)は一挙にしんどくなります。収穫物を個人で金(かね)に換えなければならないなんて面倒なことも加わるからなおさらです。
地租改正は、百姓たちを支える「村」から互助組織という性格をなくし、農民一人一人が責任を持って税金を払わせることにしました。
村という存在があったからこそ、江戸時代の長きにわたって農業が続けてきた農民たちは、支えを失い、つぎつぎと没落していきます。こうした事態が集中的に起こるのが、明治10年代後半松方デフレという時代です。
「入会地」がとられる?
村の姿が変わったことは、別の問題も引き起こしました。これまで、それぞれの村は、村人が肥料や燃料である薪、キノコや山菜などをとる共有地(入会地)である山などを持っていました。そこからいろいろなものをとる権利を入会権といいます。
ところが、「その土地は誰の持ち物でもない」として取り上げられる所がでてきたのです。そして国有地とされ、村人に立ち入りすら禁止されるところもでてきます。軍隊の基地なんかになるとどうしようもありません。こうした入会権についての訴訟もおこるようになりました。
近代的土地所有権と財政・税制の「近代化」
最後に、政府にとっての地租改正の意味を見ておきましょう。ひとつは、一応近代的土地所有権が確立したことです。
学者風に言えば、江戸時代の土地は大名のもので(「領有」)、それを農民は貸りていた(「保有」)と考えられます。
だからこそ、農民は土地は自由に扱うことができなかったのです。売り買いが禁止され、土地を細かくしたり、米以外のものをつくることが制限されていました。これを封建的土地所有ともいいます。
しかし、地券の発行により、土地は基本的に地券を持つ人の所有権が認められ、売り買いも自由にできるようになりました。
こういった形を土地所有のあり方を近代的土地所有権といいます。
こうして土地所有権は法律的には世界標準になりました。
さらに、政府は、地租改正によって、毎年決まった租税収入が得られます。これによって政府は予算を組んで、国家運営をするという近代財政を進めることが可能になりました。
図説日本史通覧p215
これによって、日本が財政面・税制面において近代化され、近代国家の体裁を作っていきます。