浜口雄幸内閣と昭和恐慌


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 浜口雄幸内閣と昭和恐慌

歴史で「もしも」を考えること

おはようございます。よろしくお願いします。
「歴史にif(もしも)はない」などといわれます。
「事実は事実としてしっかりと認識すべきだ」という意味でならこの言葉は正しいでしょう。
しかし歴史学は「なぜあんな馬鹿なことをしたのか?二度と同じ間違いをくりかえさないためにはどうすべきか?」この問いにこたえようとして生まれた学問という性格を持っています。
歴史の中にいろいろな可能性を考えることは「ひょっとしたら違う道があったのではないか」「間違いはどこから起こったのか」などを考えることが重要であり、「if(もしも)」を考える視点は大切です。
今勉強している時期でいえば「戦争への道は必然だったのか」「なぜ止められなかったのか」「立ち止まり、引き返すチャンスはいつだったのか」「どんな方法があったのか」「なぜチャンスを逃してしまったのか」などなどを問い、日本が戦争を選択せずにすんだ可能性を探ることは、未来を考える上でも大切な視点だと思います。
歴史を必然としてとらえるのではなく、さまざまな選択の中で、さまざまな要因の積み重ねの中で、現在があることを学ぶことが大切と思うのです。
「歴史に『もしも』はない」と安易に語り、論破できたような気になっていると、その歴史研究は事実の後追いとなってしまい、あるいは歴史の可能性をも見落とし、歴史の深く理解をする事はできなくなると思います。

浜口雄幸という人物

1929(昭和4)年に成立した浜口雄幸立憲民政党内閣、この内閣が戦争への道をおしとどめる理念と気迫をもっていたと考える人は少なくないと思います。

浜口雄幸 首相官邸前のライオン像と https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8#/media/File:Osachi_Hamaguchi_and_lion.jpg

浜口は、昭和天皇の叱責で崩壊した田中義一内閣に代わって内閣を組織しました。
立憲民政党は、憲政会が政友本党と合併して成立した政党で、立憲改進党の流れを引き都市に基盤を置く政党です。
前身の憲政会党首であった加藤高明が三菱財閥の娘婿であったように、浜口も三菱とは太いパイプを持ち、選挙資金の多くも三菱から出ているという財閥との関係も深い政党です。 戦前の政党政治はこのような面を持っていました。
立憲民政党は、日本の工業化、都市化にともない支持層を拡大し、もっとも普通選挙の恩恵を受けやすい政党でもありました。

浜口は高知県の出身。大蔵省の官僚出身ですが、「土佐のイゴッソウ」といわれるような頑固で正義感の強い性格が禍して出世は遅れがちでした。しかし、その人柄を愛した人たちのすすめで政界に進みました。自由民権運動の影響もあったとの指摘もあります。
来は幸雄という名のはずが、大喜びした父が泥酔したまま役場に届けを出したため、名前の上下を間違えたというエピソードが残っています。お酒の好きな人の多い高知県らしい話ですね。
(どうもこれは俗説のようで、女の子が生まれると思って「お幸」とつけるつもりが男の子だったので、男の幸としてつけたのだと書かれていました。2019,8追記)

こうしたエピソード、「ライオン宰相」とよばれる独特の風貌、小細工をせず正面から誠実に取り組み姿勢、さらにラジオ放送などで率直に国民に訴えかける姿勢もあって、多くの大衆から愛されました。天皇のお気に入りでもあったみたいです。

浜口がめざしたもの

浜口の考え方の基礎には「いくら軍備を拡張しても国力の差から英米と戦って勝利することは不可能である」というリアルな現実認識がありました。ですから国際連盟などを中心に世界との協調すること。とくに中国との関係修復による緊張緩和が軍備縮小につながり、貿易の活発化にもつながると考えていました。
また、貿易を活発化し物価を安定させるため、主要国がすでに復帰し、長年の懸案となっていた金本位制復帰もめざし、金解禁を計画します。この過程で、不採算企業を退出させ、産業構造を高度化して、製糸業と綿紡績業中心の経済から重化学工業などにも足場を置く経済へ変えていこうと考えました。
金解禁制度の実施期間。 帝国書院「図説日本史通覧」P267

金本位制度実施時期。帝国書院「図説日本史通覧」P267

金解禁をすすめるには健全な財政運営が必須であり、それが軍部のわがままな軍拡要求を拒否できる大きなカベになるとも考えていたといわれます。
このように浜口は軍国主義的ではない日本のあり方を一貫性を持った流れのなかで考えていました。

浜口たちは、日本経済を立て直し、田中義一内閣で進んだ軍国主義化への道を緊張緩和による平和回復へと引き戻そうとしたのです。

「男子の本懐」

しかし、浜口の目指す方向は、中国における特殊権益の拡大や軍備拡大こそが日本の安全と利益につながると考える軍部や右翼勢力と対立するものでした。

城山三郎「男子の本懐」 濱口雄幸を中心に描いた小説

金解禁にともなう構造改革が不景気をもたらし労働者や中小企業経営者、農民といった人々の不満を高めるものであることもわかっていました。
浜口は自らの行おうとする改革が自らの命を危険にさらすことを知っていました。
浜口の口癖は「男子の本懐」で、かれが暴漢に狙撃されたときもこの言葉をつぶやいたといわれています。
命をかけて軍国主義への道に立ち向かう、これが浜口にとっての「男子の本懐」でした。
そして幣原喜重郎を外務大臣に、日銀総裁であった井上準之助を大蔵大臣とします。
ドラマ風に言えば「一緒に死んでくれ」という感じですね。

中国との関係改善

少し具体的にみていきます。
幣原国際協調外交、対中国中立策が復活します
中国との関係修復をすすめ、米英とともに中国国民政府を承認、それを支え成長をはかる友好協力方針をとります。
中国が押しつけられていた不平等条約の改正を支持、日本の企業の利益を守りつつ関税自主権の承認にふみきり、治外法権についても段階的な解消の方針をめざします。
こうして中国との関係は改善の方向に進みました
ただ予想外だったのは、中国での民族運動が思った以上に進んでいたこと。これをうけ国民政府は利権回収や満鉄平行線敷設など日本の権益にふれる動きをすすめており、米英などもこれに協力的だったことです。
こうした動きは日本国内の世論を刺激し、陸軍や右翼などの勢力は「日本の権益を守らない『軟弱外交』である」、野党政友会とも結んで批判を強めます。

ロンドン軍縮会議

つぎに取り組んだのが、軍縮問題です。ワシントン海軍軍縮条約は主力艦(戦艦)の保有数を決められました。すると、「戦艦とちがえばいいだろう」とばかりに、各国は巡洋艦とか、潜水艦などの戦艦以外の軍艦を増やしました。これもなんとかしたいと1927(昭和2)年ジュネーブ軍縮会議が開催されましたが失敗に終わりました。
帝国書院「図説日本史通覧」P265

帝国書院「図説日本史通覧」P265

軍備拡張は、各国にとって経済負担となるだけでなく、互いの疑心暗鬼を強め、緊張をまし、さらなる軍拡につながります。

こうした状態を改善しようと、1930(昭和5)年ロンドン軍縮会議が開催されます。
浜口内閣は元老の西園寺や天皇側近とも打ち合わせのうえで会議に臨みます。
この会議に、最も神経質になっていたのは・・・言うまでもなく海軍です。海軍は会議に臨んで、浜口らに釘を刺します。「対米英70%以下では困る。このラインは死守して欲しい」と。

ところが、交渉の結論は69.75%。「少しぐらい負けてくれたらよかったのに」とのちの展開を知ると思うのですが、「アメリカ議会の承認を得られない」という事情からやむを得ないと判断します。そこで現地の海軍大臣をはじめ、海軍の大勢の理解も得て、浜口は内閣の責任で条約を締結しました。ところが数人の海軍関係者は納得していませんでした。これが統帥権干犯問題として浮上します。この点については、あとで触れることにしましょう。

金解禁と昭和恐慌

管理通貨制度

浜口の政策のもう一つの柱「金解禁」政策をみていきましょう。
この当時、世界の大勢が金本位制度に復帰していたにもかかわらず、日本がとっていたのは管理通貨制度でした。現在の世界が採用しているやり方です。
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井上準之助 大蔵大臣として金解禁政策を推し進めた。のち暗殺される。

管理通貨制度では、それぞれの国が自分の判断で通貨を発行できます。したがって自国の金庫の中にお金がなくとも、必要な大量のお金を発行することが可能となります。ただめちゃくちゃに通貨を発行すればインフレになって国がつぶれますので、どのように手綱をとるか、なかなか面倒な制度です。収入不足は、原則として国内外から公債という借金で穴埋めをします。
財布事情を気にせずローンをくんでクレジットカードで買い物をする感じですね。みんなもカードを持つだろうけど、絶対、調子に乗ってものをかわないこと。よっぽどのことがない限り、ローンはつかわないでね。払わなくてよい利息を払うなんてのは、カード会社を喜ばすだけだからね。
戦争などで大きなお金がいるときは都合がいいですが、どうしても金(かね)使いが荒くなり、一度はじめてしまったことは止められず、借金を重ねてしまいがちです。そうなると、インフレが起こりやすく、国際信用も低下し、貿易にも支障が出ます

金本位制度と浜口・井上のねらい

これにたいして「『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」という制度が本位制度です。この場合の『身の丈』は、それぞれの国が持っている金または銀の量です。金の場合が金本位制、銀の場合が銀本位制です。
金本位制の仕組み  帝国書院「図説日本史通覧」P265

金本位制の仕組み 帝国書院「図説日本史通覧」P265

金解禁を断行したとき、日本は13億6千万円分の金をもっていました。この額をもとに計算して、発行すべき通貨量を決めるのです。
そして、通貨を日本銀行に持って行くといつでも金と交換してもらえます(金兌換制度)。お札にもそう書かれます。ちなみに100円の通貨は、金75gグラムと交換してもらえます。ちなみに金75グラムは49.845ドルです。
帝国書院「図説日本史通覧」P267

帝国書院「図説日本史通覧」P267

ですから円はいつでもドルと決まったレートで交換でき、安心です。浜口と井上はこういう仕組みで経済が安定化し、貿易発展にも役立つと考えたのです。
金本位制は財政を安定させます。『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」のですから、財政規模は「日本がもっている金の量」に規定されます。
さっきの言い方をするなら、ローンは組まず、カードももたたない。現金払い一本で行く。こういう主義です。これにより、「もっと金をくれ」という軍部や政党などの要求も拒むことができますね
浜口らのねらいは、財政面から軍部を押さえ込む点にもあったともいわれています。
しかし、大きな問題もあります。発行する通貨が減るとどんな経済現象が発生しますか?・・・そう、デフレです。お金に対してモノの値段が低くなるという現象、作っても売れないという状態になりがちなのです。当然不景気になります
浜口らはこれをやむを得ない考えていました。デフレになることで、質の悪い製品、生産性の悪い設備、外からの資金で延命している企業が姿を消すことは仕方がないと考えたのです。
他方、貿易が安定すれば鉄鉱石や綿花といった原材料の輸入がしやすくなり、とくに重化学工業の発展が促される。これによって、「ぜい肉をそぎ落として筋肉質になった日本は面目を一新して世界の市場に乗り出していける」と考えていました。
財閥など大企業に都合がよく、中小企業や労働者・勤労者には厳しい政策という批判は逃れられないでしょう。
他方で労働組合法や小作を救済するような社会政策も検討していました。(政府は成立の努力をしますが、女性参政権法案などとともに、貴族院などで拒否されます)さらに、アメリカの銀行の保証も取り付けました。井上は全国を遊説し金解禁の意義を説き、国民の納得を得る努力もしました。この時期、人々は浜口らを信頼していました。
そして1930(昭和5)年1月11日、金解禁政策が開始されました。

昭和恐慌の発生

さて、この金解禁が始まった年、1930年、何か気がつきませんか。この前年、1929年、何かありませんでしたか。世界史あるいは中学校の「公民」にこの年号がでてきたのですが・・・。そう、世界恐慌(大恐慌)が発生した年です。

ニューヨークでの取り付け騒ぎ(アメリカ連合銀行)

つまり、金解禁は、ニューヨーク・ウォール街の株取引所で株価の大暴落が発生した2か月半後に実施されたのです。この期間が微妙ですね。被害が拡大しつつあるという感じで、最悪状態にはなっていない。世界中が不景気になりかけのとき。本当は命にかかわる大病だったけど、鼻風邪にでもかかったかな、こういった感じですか。あとから見ると最悪のタイミングに最もやってはいけないことをやったことがわかります。
今も昔も、不景気になると安定資産として金や銀などを買い集めます。中東なんかのバザールではそこら中で金のネックレスなどを売っています。なぜかわかりますか。政情や経済が不安定な地域では、安定資産として金や銀を身体に身につけておき、必要に応じて売却するためなのです。だから金製品を持ち歩くのです。
不景気になり出したことを心配した人々や企業は金という資産を手元に置こうと考えます。その真っ最中に、日本が「金を売ってやる、しかも割安で」と言い出したのです。世界中から注文が殺到します。金はあれよあれよという間に流れ出します。予定に反して輸出が伸びなかった事とも相まって、金解禁時の13億6千万円あった金は2年後の1932年4億円に減ってしまいました
大資本家でもある貴族院議員がいいました。「荒れ狂う暴風雨のさなかに雨戸を開け放したようなものだ」と。この例えは事態をみごとに言い表しています。
こうして昭和恐慌が始まります。
昭和恐慌は、世界的な現象としての世界恐慌(大恐慌)と浜口内閣の失政としての金解禁政策が引き起こしたものでした。

輸出減退とデフレの深刻化

持っている金の量しか円を発行できない、これが金本位制です。だから、手持ちの金が減れば発行される円の量が減ります。これにより、強烈なデフレが発生しました。
山川出版社「詳説日本史」P344

山川出版社「詳説日本史」P344

物価は金解禁から2年間で30%下落、生糸に至っては66%の下落となります。生糸と並ぶもう一つの主要輸出品の綿糸・綿布は、二大輸出先の中国とインドが自国産業を守るために関税率を引き上げ、やはり輸出が減少しました。
金解禁によって輸出が好調になるという思惑は外れ、日本の輸出額は43%という大幅な減少となりました。

昭和恐慌と農村

世界恐慌はアメリカから始まりました。
当時アメリカは世界中に金を買い付ける「世界の銀行」でした。
帝国書院「図説日本史通覧」P268

輸出額の国際比較 帝国書院「図説日本史通覧」P268

アメリカがドイツに金を貸し、ドイツが賠償金としてイギリスやフランスにその金の一部を支払い、イギリスやフランスがアメリカの大戦中の借金を返す、というシステムができたことで、1920年代のヨーロッパや世界が動いていました。

ところがアメリカがコケました。どういうことがおこりますか?アメリカの銀行はドイツに金を貸さなくなります。それどころか世界中の国で「貸した金を返せ」といい出します。
どのようなことが起こるでしょう?
世界中の国でお金が回らなくなり、激しい不景気に襲われます。世界恐慌の恐るべき意味が分かるでしょう。
この豊かなアメリカの豊かさに支えられていたのが、日本の輸出品の「不動の四番バッター」、生糸でした。
人は、景気が悪いと贅沢品から節約をはじめます。そのため贅沢品である生糸や絹織物の売れ行きが落ち、生糸の価格は2年間で66%の下落、二年前の1/3の値段となったのです。これでは手間賃どころか、原料費にもなりません。
生糸の原料の繭は農村でつくられます。だから生糸輸出の激減は農村へ大きなダメージを与えました。
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東京書籍「日本史A」p123

さらに運の悪いことに1930(昭和5)年は記録的な米の大豊作でした。豊作ってうれしいはずでしょ。でも実際はそうじゃないのです。わかりますか。市場価格は需要と供給の関係で決まるという話、中学校で習いましたね?この年は米の供給が非常に多かったのです。これにより米の値段は暴落、8月に1石あたり30円であった米価は10月には19円と2/3に暴落、豊作貧乏といわれました。

ところが翌1931(昭和6)年は一転して大凶作、さらに翌年も凶作がつづきます。農家が抱える借金は年間所得の1.5倍を超えました。
東京書籍「日本史A」p123

救援物資の食料を食べる子どもたち 東京書籍「日本史A」p123

小学生にとって昼休みはうれしいはずです。しかしこのころの小学生、とくに東北の子どもたちにとっては辛い時間でした。昼休み子どもたちがぞろぞろと教室からでていくことが、おなじみの風景になりました。弁当をもってこられなかったのです。彼らを「欠食児童」とよび、全国で20万人にのぼりました。

娘の身売り」を村役場が斡旋するようにすらなりました。

「デフレスパイラル」

都市においても恐慌の被害は深刻でした。
輸出量の激減と物価の下落は工場を、企業を次々と苦境に陥らせます。最初は売値を下げはじめます。賃金の引き下げや労働時間の短縮、さらには「リストラ」(人員の削減)や事業所の整理がすすみます。どうしようもなくなった企業が休業や倒産に追い込まれます。経営者の夜逃げや賃金不払いなどが紙面をかざります。こうして人々の収入は低下、町中に失業者があふれます。こんな状態で新たに人を雇う会社は珍しい。
大学は出たけれど(吹替・活弁版) [VHS]

映画「大学は出たけれど」(小津安二郎監督・主演田中絹代)1929年作品

被害は若者にも及びます。当時の流行語が「大学は出たけれど」、映画もつくられました。苦労に苦労を重ねてやっと大学を卒業しても、勤め先がないという事態がおこりました。
みんなの数年前の先輩のころ「就職氷河期」なんていったけど、このときもそう。卒業と同時に無職者の群れの中に身を投じることになる、こういう感じです。
大正教養主義を支えてきたサラリーマンなど新中間層といわれる人々にも危機が迫り、文化や芸術などにも不安や絶望感が映し出されます。
仕事を失い、新たな仕事を見つけられない人々は、これも不況のどん底にあるふるさとである農村へ帰っていきます。兼業農家の兼業も切られます。中小の地主たちが土地を返してもらおうとして、小作争議も急増します。

デフレの影響を描いた一般的な図

給料をもらっている人たちが減り、その給料も下がっていくと、さらに購買力が下がります。物価はいっそう下がり、倒産がすすみ失業者が増え、さらにものの値段が下がる。
このような景気の悪循環をデフレスパイラルといいます。

みんなが生まれた頃、よくいわれていた言葉です。そしてこのデフレの渦の中に人々が飲み込まれていきました。世の中は一挙に不穏な空気に包まれていきます

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古賀政男  朝日新聞社 – 『アサヒグラフ』 1950年12月13日号

こうした時勢を反映して、「酒は涙かため息か」とか「影を慕いて」といった哀調をおびた流行歌が一世を風靡するようになりました。
作曲したのは明治大学商学部出身の古賀政男、「影を慕いて」は自殺しようとした宮城県の山中で見た夕陽からインスピレーションを得たといわれています。

労働争議・小作争議の激化

さて、こうした不況の中、人々はおとなしく賃金を引き下げられたり、クビにされていったりしたのでしょうか。
農民たちは今まで通りに黙って小作料を支払ったのでしょうか。そうではありませんでした。
生活を守るために立ち上がりました。
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東京書籍「日本史A」P123

これまでの労働組合加入率や労働争議数は戦前最高を記録するようになり、労働争議は賃金引き上げなどの要求が中心でしたが、賃下げ反対・解雇反対、さらには解雇手当支給といった、より切実な内容となっていき、その数も、参加者も急増します。社会システムの遅れた構造を背景に低賃金・無権利状態におかれた紡績女工たちの間でも争議が多発します。会社は父親をよんだり、「チチキトク」といった電報を打たせて女工を連れ戻させるなど、運動の切り崩しを行いました。
公共料金の引き下げを求める消費者運動も活発化しました。
農村でも、小作争議も急増します。西日本が中心であった小作争議は、中部から北関東へと広がり、ついには恐慌の被害が最も深刻であった東北が争議最多発地域となります。これまでの小作争議の要求の中心が「小作料減免」であったのに対し、「小作地引き上げ反対」が中心課題となり、規模の小さな争議が多発、生活をまもるという傾向が強まりました。農村をなんとかしなければという運動も広がりだしています。
宮沢賢治が「雨にも負けず」の詩を書いたのはこのころのことです。

マルクス主義の広がりとファシズム

社会の矛盾の深刻化と争議の活発化の中、マルクス主義や非合法組織であった日本共産党の影響力も拡大していきます

「何が彼女をそうさせたのか」(鈴木重吉監督)1930年

若い知識人の間ではマルクス主義が広がりを見せ、学問はもとより、プロレタリア文学をはじめ、演劇や映画などの分野にも影響をあたえます。傾向映画と呼ばれた社会派の映画も出てきました。ちょっと見てみますか。「何が彼女をそうさせたか」という作品です。サイレント映画です。
こうした風潮に恐怖を覚えた特高警察などによる取締も強化されました。
また社会の混乱や農村の疲弊は財閥など大資本家、それと結んだ政党政治の責任であるという声もひろがり、その解決に軍部を中心とした全体主義体制を求める声が、軍部や在野の右翼勢力の中から生まれてきました
クーデターが計画され、テロが横行する時代となっていきます。

「金解禁」という誤り

このような事態になったにもかかわらず、この政策に政治生命をかけている浜口や井上は強気でした。
労働組合のポスター 帝国書院「図説日本史通覧」P268

浜口内閣打倒を呼びかける労働組合のポスター
帝国書院「図説日本史通覧」P268

世界恐慌は一過性であり、世界はすぐに立ち直る。今、この辛い時期を我慢をすることで緊縮の効果があがり、日本の産業は近代化し、貿易も発展する。この道しかない。と堅く信じていたのです。
さらに、財政改革さえ進めようとしました。こうした姿勢に対し、政友会は議会で厳しく内閣の責任を問いました。井上の答弁はヤジで聞き取れない状態でした。
さっきもいったように、金解禁政策は明らかな誤りでした。アメリカで発生した株価大暴落が恐慌の兆候を占めした段階で、勇気ある撤退を行わなかったのは、やはり失政としかいえないでしょう。「金解禁を中止し公共事業などで有効需要を拡大すべき」という政友会の側に理があったことは、現在では明らかです。
しかし、彼らの失政を攻撃するのはフェアでないかもしれません。当時、世界恐慌の持っていた意味を理解していた経済学者も政治家はいませんでした。いたとしても怪しい予言者あつかいされたのが関の山だったでしょう。
有効需要を増加させることで経済の立て直しを図るという経済政策を説くイギリスの経済学者ケインズの著書はまだ発刊されていませんでした。
当時の経済学の水準という限界の中に彼らはいたのです。

統帥権干犯問題

恐慌にともない生活や将来の不安が広がるという不穏な空気のなか、政友会は厳しい攻撃を仕掛けてきました。

鳩山一郎 戦後に首相となる。 統帥権干犯問題で浜口内閣を厳しく追求した。

先に見たようにロンドン軍縮条約において、浜口は海軍の意向を聞きながら内閣の責任で条約を承認しました。ところが、海軍の中には浜口のやり方は納得できないと考える人たちがいました。
軍備は、軍隊の作戦にもかかわる内容なので、作戦にかかわる軍令部の承認が必要だ。ところが軍令部の責任者の正式な承認をうけず内閣が勝手に調印したのは、天皇が軍隊を指揮するという憲法の統帥体験に違反する」といいだしたのです。
浜口内閣に反発をもっていた政友会はこれに飛びついて「統帥権干犯問題」として内閣を攻撃します。
政友会によるこうした一連の攻撃は、政党政治というみずからの基盤をも掘り崩す「禁じ手」でした。にもかかわらず、政敵民政党を追い込むという目先の目標実現のためにこのような行動にでたのです。ある意味、政党政治、とくに二大政党制の弊害が出たと言っていいのかもしれません。
浜口内閣の幣原協調外交や井上金解禁政策に反発している勢力ー軍部強硬派・右翼・一部マスコミ、そして政友会ーが連合して、浜口内閣に大攻勢を仕立ててきました。
浜口は金解禁直後に実施した衆議院選挙で獲得した民政党の絶対多数を背景に、正面突破を実施、天皇とその側近の支持も得ながら、ロンドン軍縮の批准(承認)を手に入れました。

浜口内閣の終焉

1930(昭和5)年11月、議会での論戦も一段落がついて地方遊説に向かう浜口が東京駅で暴漢に腹を撃たれました
暴漢に襲撃され負傷した浜口首相 帝国書院「図説日本史通覧」P265

暴漢に襲撃され負傷した浜口首相
帝国書院「図説日本史通覧」P265

この傷が引き金となって浜口は体調をくずし、療養生活にはいります。
この間、衆議院では政友会が大攻勢を掛けており、戦後首相となる政友会の鳩山一郎は、浜口に国会に出席して答弁することを強く要求、責任感の強い浜口は国会答弁に立ちますが、その無理がたたって病状を悪化させました。そこで1931(昭和6)年4月政権を若槻礼次郎に譲り、8月になくなります。
こうして、戦争の道を回避しようとする政策と勇気をもち、政党政治の頂点といわれる浜口内閣の時代がおわりました。

十五年戦争の開始へ

浜口内閣終焉の5か月後、浜口の死の1か月後の1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が発生しました。
日中十五年戦争が始まります。
軍隊、それも陸軍の一部隊に過ぎない関東軍の行動を、内閣も、議会も、さらには天皇や天皇を取り巻くグループも、軍隊中央すらが制御できず、現状追認をくりかえすことで事態を悪化させていきます。
浜口の時代は、こうした制御がぎりぎり可能であった時代であったのかもしれません。あるいは制御の可能性をなんとか探っていた時代だったのかもしれません。
政友会の「統帥権干犯」という攻撃軍部へのブレーキを自ら破壊し、その暴走を止める手段を放棄しようとしたものでした。
制御の利かなくなった軍隊は暴走を繰り返し、勝手にあらたな戦闘行為をはじめます。こうして日中十五年戦争が展開していきます。
そして有効な手を打たず現状追認を繰り返す内閣や議会は国民の信頼を失います。内部の制御すら利かない軍隊は暴走をくりかえし、国民とアジアの民衆を、世界を、戦争へと導いていきます。
「統帥権干犯」を声高に叫んだ政友会総裁犬養毅が軍部の暴走を抑えようとして五・一五事件のテロに倒れたのは翌年のことでした。
「もし、浜口がもうすこし政権を維持していたら」というような「if(もしも)」は、考えるべきでないのでしょう・・・。
それではおわります。ありがとうございました。
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