Contents
浜口雄幸内閣と昭和恐慌
歴史で「もしも」を考えること
しかし歴史学は「なぜあんな馬鹿なことをしたのか?二度と同じ間違いをくりかえさないためにはどうすべきか?」この問いにこたえようとして生まれた学問という性格を持っています。
歴史の中にいろいろな可能性を考えることは「ひょっとしたら違う道があったのではないか」「間違いはどこから起こったのか」などを考えることが重要であり、「if(もしも)」を考える視点は大切です。
今勉強している時期でいえば「戦争への道は必然だったのか」「なぜ止められなかったのか」「立ち止まり、引き返すチャンスはいつだったのか」「どんな方法があったのか」「なぜチャンスを逃してしまったのか」などなどを問い、日本が戦争を選択せずにすんだ可能性を探ることは、未来を考える上でも大切な視点だと思います。
「歴史に『もしも』はない」と安易に語り、論破できたような気になっていると、その歴史研究は事実の後追いとなってしまい、あるいは歴史の可能性をも見落とし、歴史の深く理解をする事はできなくなると思います。
浜口雄幸という人物
浜口は、昭和天皇の叱責で崩壊した田中義一内閣に代わって内閣を組織しました。
立憲民政党は、憲政会が政友本党と合併して成立した政党で、立憲改進党の流れを引き都市に基盤を置く政党です。
前身の憲政会党首であった加藤高明が三菱財閥の娘婿であったように、浜口も三菱とは太いパイプを持ち、選挙資金の多くも三菱から出ているという財閥との関係も深い政党です。 戦前の政党政治はこのような面を持っていました。
立憲民政党は、日本の工業化、都市化にともない支持層を拡大し、もっとも普通選挙の恩恵を受けやすい政党でもありました。
本来は幸雄という名のはずが、大喜びした父が泥酔したまま役場に届けを出したため、名前の上下を間違えたというエピソードが残っています。お酒の好きな人の多い高知県らしい話ですね。
(どうもこれは俗説のようで、女の子が生まれると思って「お幸」とつけるつもりが男の子だったので、男の幸としてつけたのだと書かれていました。2019,8追記)
こうしたエピソード、「ライオン宰相」とよばれる独特の風貌、小細工をせず正面から誠実に取り組み姿勢、さらにラジオ放送などで率直に国民に訴えかける姿勢もあって、多くの大衆から愛されました。天皇のお気に入りでもあったみたいです。
浜口がめざしたもの
また、貿易を活発化し物価を安定させるため、主要国がすでに復帰し、長年の懸案となっていた金本位制復帰もめざし、金解禁を計画します。この過程で、不採算企業を退出させ、産業構造を高度化して、製糸業と綿紡績業中心の経済から重化学工業などにも足場を置く経済へ変えていこうと考えました。
金解禁をすすめるには健全な財政運営が必須であり、それが軍部のわがままな軍拡要求を拒否できる大きなカベになるとも考えていたといわれます。
このように浜口は軍国主義的ではない日本のあり方を一貫性を持った流れのなかで考えていました。
「男子の本懐」
浜口は自らの行おうとする改革が自らの命を危険にさらすことを知っていました。
浜口の口癖は「男子の本懐」で、かれが暴漢に狙撃されたときもこの言葉をつぶやいたといわれています。
中国との関係改善
幣原国際協調外交、対中国中立策が復活します。
中国が押しつけられていた不平等条約の改正を支持、日本の企業の利益を守りつつ関税自主権の承認にふみきり、治外法権についても段階的な解消の方針をめざします。
こうした動きは日本国内の世論を刺激し、陸軍や右翼などの勢力は「日本の権益を守らない『軟弱外交』である」と、野党政友会とも結んで批判を強めます。
ロンドン軍縮会議
軍備拡張は、各国にとって経済負担となるだけでなく、互いの疑心暗鬼を強め、緊張をまし、さらなる軍拡につながります。
こうした状態を改善しようと、1930(昭和5)年ロンドン軍縮会議が開催されます。
浜口内閣は元老の西園寺や天皇側近とも打ち合わせのうえで会議に臨みます。
この会議に、最も神経質になっていたのは・・・言うまでもなく海軍です。海軍は会議に臨んで、浜口らに釘を刺します。「対米英70%以下では困る。このラインは死守して欲しい」と。
ところが、交渉の結論は69.75%。「少しぐらい負けてくれたらよかったのに」とのちの展開を知ると思うのですが、「アメリカ議会の承認を得られない」という事情からやむを得ないと判断します。そこで現地の海軍大臣をはじめ、海軍の大勢の理解も得て、浜口は内閣の責任で条約を締結しました。ところが数人の海軍関係者は納得していませんでした。これが統帥権干犯問題として浮上します。この点については、あとで触れることにしましょう。
金解禁と昭和恐慌
管理通貨制度
この当時、世界の大勢が金本位制度に復帰していたにもかかわらず、日本がとっていたのは管理通貨制度でした。現在の世界が採用しているやり方です。
管理通貨制度では、それぞれの国が自分の判断で通貨を発行できます。したがって自国の金庫の中にお金がなくとも、必要な大量のお金を発行することが可能となります。ただめちゃくちゃに通貨を発行すればインフレになって国がつぶれますので、どのように手綱をとるか、なかなか面倒な制度です。収入不足は、原則として国内外から公債という借金で穴埋めをします。
財布事情を気にせずローンをくんでクレジットカードで買い物をする感じですね。みんなもカードを持つだろうけど、絶対、調子に乗ってものをかわないこと。よっぽどのことがない限り、ローンはつかわないでね。払わなくてよい利息を払うなんてのは、カード会社を喜ばすだけだからね。
戦争などで大きなお金がいるときは都合がいいですが、どうしても金(かね)使いが荒くなり、一度はじめてしまったことは止められず、借金を重ねてしまいがちです。そうなると、インフレが起こりやすく、国際信用も低下し、貿易にも支障が出ます。
金本位制度と浜口・井上のねらい
金本位制は財政を安定させます。『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」のですから、財政規模は「日本がもっている金の量」に規定されます。
しかし、大きな問題もあります。発行する通貨が減るとどんな経済現象が発生しますか?・・・そう、デフレです。お金に対してモノの値段が低くなるという現象、作っても売れないという状態になりがちなのです。当然不景気になります。
浜口らはこれをやむを得ないと考えていました。デフレになることで、質の悪い製品、生産性の悪い設備、外からの資金で延命している企業が姿を消すことは仕方がないと考えたのです。
他方、貿易が安定すれば鉄鉱石や綿花といった原材料の輸入がしやすくなり、とくに重化学工業の発展が促される。これによって、「ぜい肉をそぎ落として筋肉質になった日本は面目を一新して世界の市場に乗り出していける」と考えていました。
他方で労働組合法や小作を救済するような社会政策も検討していました。(政府は成立の努力をしますが、女性参政権法案などとともに、貴族院などで拒否されます)さらに、アメリカの銀行の保証も取り付けました。井上は全国を遊説し金解禁の意義を説き、国民の納得を得る努力もしました。この時期、人々は浜口らを信頼していました。
そして1930(昭和5)年1月11日、金解禁政策が開始されました。
昭和恐慌の発生
今も昔も、不景気になると安定資産として金や銀などを買い集めます。中東なんかのバザールではそこら中で金のネックレスなどを売っています。なぜかわかりますか。政情や経済が不安定な地域では、安定資産として金や銀を身体に身につけておき、必要に応じて売却するためなのです。だから金製品を持ち歩くのです。
不景気になり出したことを心配した人々や企業は金という資産を手元に置こうと考えます。その真っ最中に、日本が「金を売ってやる、しかも割安で」と言い出したのです。世界中から注文が殺到します。金はあれよあれよという間に流れ出します。予定に反して輸出が伸びなかった事とも相まって、金解禁時の13億6千万円あった金は2年後の1932年4億円に減ってしまいました。
大資本家でもある貴族院議員がいいました。「荒れ狂う暴風雨のさなかに雨戸を開け放したようなものだ」と。この例えは事態をみごとに言い表しています。
こうして昭和恐慌が始まります。
輸出減退とデフレの深刻化
金解禁によって輸出が好調になるという思惑は外れ、日本の輸出額は43%という大幅な減少となりました。
昭和恐慌と農村
ところがアメリカがコケました。どういうことがおこりますか?アメリカの銀行はドイツに金を貸さなくなります。それどころか世界中の国で「貸した金を返せ」といい出します。
この豊かなアメリカの豊かさに支えられていたのが、日本の輸出品の「不動の四番バッター」、生糸でした。
生糸の原料の繭は農村でつくられます。だから生糸輸出の激減は農村へ大きなダメージを与えました。
さらに運の悪いことに1930(昭和5)年は記録的な米の大豊作でした。豊作ってうれしいはずでしょ。でも実際はそうじゃないのです。わかりますか。市場価格は需要と供給の関係で決まるという話、中学校で習いましたね?この年は米の供給が非常に多かったのです。これにより米の値段は暴落、8月に1石あたり30円であった米価は10月には19円と2/3に暴落、豊作貧乏といわれました。
小学生にとって昼休みはうれしいはずです。しかしこのころの小学生、とくに東北の子どもたちにとっては辛い時間でした。昼休み子どもたちがぞろぞろと教室からでていくことが、おなじみの風景になりました。弁当をもってこられなかったのです。彼らを「欠食児童」とよび、全国で20万人にのぼりました。
「デフレスパイラル」
みんなの数年前の先輩のころ「就職氷河期」なんていったけど、このときもそう。卒業と同時に無職者の群れの中に身を投じることになる、こういう感じです。
仕事を失い、新たな仕事を見つけられない人々は、これも不況のどん底にあるふるさとである農村へ帰っていきます。兼業農家の兼業も切られます。中小の地主たちが土地を返してもらおうとして、小作争議も急増します。
給料をもらっている人たちが減り、その給料も下がっていくと、さらに購買力が下がります。物価はいっそう下がり、倒産がすすみ失業者が増え、さらにものの値段が下がる。
このような景気の悪循環をデフレスパイラルといいます。
みんなが生まれた頃、よくいわれていた言葉です。そしてこのデフレの渦の中に人々が飲み込まれていきました。世の中は一挙に不穏な空気に包まれていきます。
こうした時勢を反映して、「酒は涙かため息か」とか「影を慕いて」といった哀調をおびた流行歌が一世を風靡するようになりました。
作曲したのは明治大学商学部出身の古賀政男、「影を慕いて」は自殺しようとした宮城県の山中で見た夕陽からインスピレーションを得たといわれています。
労働争議・小作争議の激化
これまでの労働組合加入率や労働争議数は戦前最高を記録するようになり、労働争議は賃金引き上げなどの要求が中心でしたが、賃下げ反対・解雇反対、さらには解雇手当支給といった、より切実な内容となっていき、その数も、参加者も急増します。社会システムの遅れた構造を背景に低賃金・無権利状態におかれた紡績女工たちの間でも争議が多発します。会社は父親をよんだり、「チチキトク」といった電報を打たせて女工を連れ戻させるなど、運動の切り崩しを行いました。
公共料金の引き下げを求める消費者運動も活発化しました。
農村でも、小作争議も急増します。西日本が中心であった小作争議は、中部から北関東へと広がり、ついには恐慌の被害が最も深刻であった東北が争議最多発地域となります。これまでの小作争議の要求の中心が「小作料減免」であったのに対し、「小作地引き上げ反対」が中心課題となり、規模の小さな争議が多発、生活をまもるという傾向が強まりました。農村をなんとかしなければという運動も広がりだしています。
宮沢賢治が「雨にも負けず」の詩を書いたのはこのころのことです。
マルクス主義の広がりとファシズム
また社会の混乱や農村の疲弊は財閥など大資本家、それと結んだ政党政治の責任であるという声もひろがり、その解決に軍部を中心とした全体主義体制を求める声が、軍部や在野の右翼勢力の中から生まれてきました。
「金解禁」という誤り
さっきもいったように、金解禁政策は明らかな誤りでした。アメリカで発生した株価大暴落が恐慌の兆候を占めした段階で、勇気ある撤退を行わなかったのは、やはり失政としかいえないでしょう。「金解禁を中止し公共事業などで有効需要を拡大すべき」という政友会の側に理があったことは、現在では明らかです。
しかし、彼らの失政を攻撃するのはフェアでないかもしれません。当時、世界恐慌の持っていた意味を理解していた経済学者も政治家はいませんでした。いたとしても怪しい予言者あつかいされたのが関の山だったでしょう。
統帥権干犯問題
先に見たようにロンドン軍縮条約において、浜口は海軍の意向を聞きながら内閣の責任で条約を承認しました。ところが、海軍の中には浜口のやり方は納得できないと考える人たちがいました。
「軍備は、軍隊の作戦にもかかわる内容なので、作戦にかかわる軍令部の承認が必要だ。ところが軍令部の責任者の正式な承認をうけず内閣が勝手に調印したのは、天皇が軍隊を指揮するという憲法の統帥体験に違反する」といいだしたのです。
浜口内閣に反発をもっていた政友会はこれに飛びついて「統帥権干犯問題」として内閣を攻撃します。
政友会によるこうした一連の攻撃は、政党政治というみずからの基盤をも掘り崩す「禁じ手」でした。にもかかわらず、政敵民政党を追い込むという目先の目標実現のためにこのような行動にでたのです。ある意味、政党政治、とくに二大政党制の弊害が出たと言っていいのかもしれません。
浜口内閣の幣原協調外交や井上金解禁政策に反発している勢力ー軍部強硬派・右翼・一部マスコミ、そして政友会ーが連合して、浜口内閣に大攻勢を仕立ててきました。
浜口は金解禁直後に実施した衆議院選挙で獲得した民政党の絶対多数を背景に、正面突破を実施、天皇とその側近の支持も得ながら、ロンドン軍縮の批准(承認)を手に入れました。
浜口内閣の終焉
この間、衆議院では政友会が大攻勢を掛けており、戦後首相となる政友会の鳩山一郎は、浜口に国会に出席して答弁することを強く要求、責任感の強い浜口は国会答弁に立ちますが、その無理がたたって病状を悪化させました。そこで1931(昭和6)年4月政権を若槻礼次郎に譲り、8月になくなります。
こうして、戦争の道を回避しようとする政策と勇気をもち、政党政治の頂点といわれる浜口内閣の時代がおわりました。