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総力戦体制の構築~国家総動員体制と国民生活
「死んだ兵士に顔向けができるのか!」 ~誰も責任を取らない指導者たち~
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東京書籍日本史AP132
思い出しましょう。日露戦争のとき、日比谷焼き討ち事件のことを。大きな犠牲に対して、得られたものが少ないといって怒り狂った民衆を。「死んだものに顔向けができるのか!」という非難を浴びたことを。
軍部や政府は、犠牲者が多ければ多いほど、いい加減な条件で辞めれば、大変なことになる。何も得られないで戦争をやめれば何を言われるか、自分たちの地位自体が危うくなると感じ始めていました。
考えてみれば、明治の指導者たちは勇敢でした。日本の国力を知り、辞めるリスクを負う勇気をもっていたのですから。まあ、優勢だったから、余裕があったともいえますね。
「卑怯者」となる勇気
「卑怯者」といわれ、「死んだ兵士の命を返せ、腕を返せ、足を返せ」と罵倒を浴び、命も危険にさらされ、後世の歴史家からは「不名誉な人物」とレッテルを貼られるかもしれない。それでも「辞める」といわねばならないのですから。
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東京書籍「日本史A」p130
陸軍幹部にも、総理大臣の近衛にもそのような勇気はありませんでした。多くの人は「早く戦争を辞めたい」と思っていました。しかし自分がリスクを取りたくはなかった。
それなら黙っていればいいのに「今辞めれば死んだものに顔向けできない」とかいって足を引っ張りあう。・・。
日中戦争の段階で、日本のブレーキは壊れていました。泥沼化した日中戦争をつづけながら、世界最強のアメリカ、そしてイギリスとの戦争を始め・・、破滅します。
総力戦体制とは
第一次世界大戦中にドイツのルーデンドルフという軍人が定式化した考え方です。簡単に言うと、近代戦争は国家が国力のすべてをかけて戦う体制を作らなければ勝利できないといった考え方です。「前線も、銃後もなくなった状態」とまとめることもできます。19世紀までは、戦場の戦いが基本で、指揮官の作戦能力や兵士の勇敢さ、動員した兵力などで決着がつきました。しかし総力戦はそうはいきません。
戦争に勝つためには何が必要?
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飛行機製作に動員された女性たち 帝国書院「図説日本史通覧」P277
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浜島書店「新詳日本史」p279
不足する人間~召集令状と勤労動員・強制連行
「原料」「燃料」
さっきもいったように、まだ輸入が可能ですが、それでも厳しくなってきますね。さらに足りなくなるのは・・・
戦争が激しくなると、若い男たちのもとには次々と赤紙(「召集令状」)がとどきます。
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帝国書院「図説日本史通覧」P282
召集令状ってわかりますか?何月何日に軍隊に入隊せよという命令です。赤い紙に印刷されていたので「赤紙」といいます。工場の労働者にも届くようになります。当然、人間が足りなくなりますね?でもあきらめるわけにはいきませんね。そこで目をつけたのが・・・。
「若い未婚の女性」「学生や生徒」「朝鮮の人」
のちに勤労動員といういわれるものですね。それでも足りなくなると朝鮮半島の人を連れてくる「強制連行」という事態も発生する。さらには中国の日本軍占領地域の人まで「強制連行」して鉱山などで働かせました。
荒廃する農業、不足する食料品
戦争が生活の中にはいってくる!
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山川出版社「詳説日本史」P356
バスは木炭で動き、靴は鮭やサメの皮でつくられ、帽子は紙製となる。金属供出が叫ばれ、家庭や地域の金属が集められます。鍋やミシンなども供出され、銅像やお寺の鐘なども集められます。
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山川出版社「詳説日本史図録」P280
戦争は人びとの生活の中に入り込んできました。「この世界の片隅で」という2016年に公開されたアニメ映画があります。こうの史代さん漫画が原作です。
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映画「この世界の片隅に」HP(http://konosekai.jp/)より
「革新官僚」~総力戦を推し進める人たち
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東京書籍「日本史A」P130
「国家総動員法」と強制連行
1939(昭和14)年には、此の法律に従って、国民徴用令が出され、政府は職業・年齢・性別を問わずに国民を必要な工場などに派遣できるようになりました。これを徴用といいます。最初は特定の技術を持つ人などに限定されていましたが、太平洋戦争の時期になると、未婚女性による女子挺身隊、生徒・学生を動員する学徒勤労動員などのように拡大されていきました。
ぼくの父親は中学時代は干拓事業などにかりだされ、大学時代は軍艦の建造などに動員させられました。母親は軍需工場で飛行機のエンジンの軸受けのやすりかけをやっていました。
朝鮮半島における「強制連行」 ~ある在日コリアンの体験から
奈良県・野迫川村の金屋淵鉱山立里鉱業所に残された朝鮮半島出身の労務者名簿(「戦争責任ドットコム」http://www3.kcn.ne.jp/~eatyhiro/new_page_12.htmより
従軍慰安婦~「すてられた女たち」
前の時間みたように南京攻略戦の中で兵士による強姦事件が多発した話をしました。またそれに伴って性感染症も広がりました。軍部はこれを大きな問題と考え、兵士たちの性の処理をさせる女性を送ることを決めました。そして軍の管理下において、避妊具の装着や軍医による検査などで性感染症の蔓延を防ごうとしたのです。しかし、これによって強姦事件が減少したということはありませんでした・・。

強姦など軍人及び軍隊の住民に対する不法行為が中国側の反抗意識を煽るとして、性的慰安所の設備を整えるとした ことを示す文書。デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金HPより http://www.awf.or.jp/index.html
送られた女性たち、最初は日本から渡った人が多かったのですが、戦争が拡大すると女性が不足します。国内では、乱暴なやり方で集めるわけにはいきません。「聖戦」なのですから。そこで目がつけられたのが朝鮮半島の女性たちでした。さまざまな手段が用いられたといいます。そうした口実のひとつが「日本国内での『女子挺身隊』として軍需工場で働く事に応募しないか。給料も高いから」といういい方でした。そのつもりで応募したところが慰安婦だったという例が非常に多かったので、韓国では「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」が同一視されることが多いのです。日本から行った人の多くは仕事の内容をある程度分かっていたと思われますが、朝鮮半島出身者は仕事の内容も知らされず、だまされてつれて行かれた人が多く、年齢が若い人が多かったのです。
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デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金HPより http://www.awf.or.jp/index.html
しかも、日本出身者と朝鮮半島出身者では、相手させられる軍人の身分も人数も、そしてその施設も、置かれた場所も大きくちがっていました。しかしどちらの人びとも自由を与えられない「戦時性奴隷」としての立場に置かれていたのです。中国などでは誘拐同様の手段で連れてこられた現地出身の慰安婦たちもいました。
こうした人たちは、出身のいかんをとわず一切補償がなされませんでした。また、こうした経歴は、どこの国でも恥ずかしいこと、隠すべき事と考えられていたため、兵士たちの口から語られることはあったものの、当事者の口から語られることはめったにありませんでした。
1990年ごろ、韓国のある元従軍慰安婦の方が声をあげ、それをきっかけに韓国や台湾、中国など各地でもと慰安婦の方が声をあげはじめました。
戦争に疑問を持つものは「非国民!」 ~国民精神総動員運動
やっぱりスイーツは食べたいし、おしゃれもしたい。配給なんかはいやだし、楽しく生活したい。それが本音でしょう。
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配給に並ぶ人びと 東京書籍「日本史A」P143
「戦場で戦っている人に申し訳ないと思わないのか!」「戦死した英霊に顔向けできるのか!」
軍部や政府だけではない。そう、まわりにいるフツウの人たちが、戦争に協力しない人への「いじめ」を始める。「いじめ」は伝染する。「いじめ」なければ自分もいじめらうれる。ひどい時には配給の量を減らさすいういじめも受けます。
戦争にわかりやすい協力をしない人は非国民!戦争に反対する人は非国民!そうした人間は配給を減らされても当然。こうした「空気」が蔓延します。
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「パーマネント嬢、敵蒋さんに好かれます」
帝国書院「図説日本史通覧」P277
政府は、こうした動きを積極的にすすめていきます。日中戦争がはじまると近衛政府は、「国民精神総動員運動」を開始しています。町中に「進め一億火の玉だ」「ほしがりません勝つまでは」といった標語が掲げられ、出征に際しては国防婦人会などを中心とした盛大な行事などをおこない、戦死者がでれば市町村が主催する合同葬儀が行われる。こうして戦争ムードを高めていきました。学校では神社参拝や皇宮遙拝といった行事がふえました。
ゼロ戦と原爆~戦争に奉仕する科学技術
このころになると、飛行機が戦争の中心となってきました。しかし日本の飛行機は仮想敵国であったアメリカより性能が劣っっていました。戦争になれば負けてしまう、それが軍部の悩みの種でした。そのため、優秀な科学者や技術者が集められ、開発されたのが世界最先端の戦闘機ゼロ戦でした。アメリカとの戦争が始まると、ゼロ戦はアメリカ機を圧倒しました。科学・技術を戦争目的で結集し新兵器を作ることも総力戦の一環です。アメリカはゼロ戦の性能の良さに困ったみたいです。そこでどうしたか?弱点をみつけることと、ゼロ戦の技術をパクろうとしました。不時着したゼロ戦を手に入れると、徹底的に分析・研究をおこない、ゼロ戦の技術を取り入れた新しい飛行機を開発しました。ゼロ戦の弱点である防護能力のなさも改善して。それを巨大な工業力をフル稼働させ大量生産したのです。こうしてゼロ戦の優位は奪われました。
パイロットの技術もさることながら、相手を徹底的に研究し、新しいものを素早く開発し、大量に生産する、こういった国家の総合力が勝敗を決するのです。
アメリカの原爆開発に、アメリカのみならず世界の頭脳が結集されたことは、学問や科学・技術を戦争目的に利用したと言えるでしょう。
「青い目の人形」~敵視する日本、研究するアメリカ
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帝国書院「図説日本史通覧」P277
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小学校の先生をされていた高橋順さんが1996年につくられたホームページです。http://www.ne.jp/asahi/saitama/jt/museum.htm
でも、それはひどいと考えた人も多く、天皇の写真を祭る奉安殿の中に隠したり、先生たちが自分の家に持ち帰ったりして大切に保管したことありました。ちなみに「青い眼の人形」の歌も、敵性音楽に指定されてしまいました。
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戦時アメリカのプロパガンダ映画「汝の敵、日本を知れ」(フランク・キュプラ監督 1945)
このように、日本ではヒステリックにアメリカやイギリスの文化を排除していました。
ところがアメリカではどうだったでしょうか。実は、日本との戦争が始まると、逆に日本研究が盛んになったのです。日本語を勉強する人ができ、大学には日本研究の講座が開設され、「日本人はなぜこのような戦争を始めたのか」だけではなく、日本文化研究まで盛んになります。日本敗戦後、アメリカの対日政策がある意味、的確に軍国主義日本の問題点を把握していたのはこのような結果だったのです。日本は、このような点で、すでにアメリカに敗れていました。アメリカが日本をどのように見ていたのか、面白い映像があるので、興味のある人は見てください。
ちなみに、アメリカは日本研究は十分に行ないましたが、朝鮮の研究はなされませんでした。このことが、朝鮮半島におけるアメリカの不適切な占領政策につながり、朝鮮半島での分裂国家の成立や朝鮮半島南部に成立した韓国での軍事独裁政権などにつながったという指摘もあります 。
日中戦争と国家総動員体制~プリントに即して
復習をかねて最初から見ていきましょう。日中戦争の時の内閣は・・・「第一次近衛内閣」。ですから①は近衛文麿。日中戦争のきっかけとなったのは・・・「盧溝橋事件」②は盧溝橋。③のところは、その時期の中国側の様子です。国民政府と共産党が手を結ぶきっかけとなったのは・・・「西安事件」。③は西安、です。1937年12月に日本軍が占領した中国の首都は④南京、でしたね。注の所に南京大虐殺のことが書いてあります。そのあとの「点と線」については次の時間にまわします。
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東京書籍「日本史A」P131
次からが今日やったところです。①の近衛内閣が人びとの気持ちを戦争に向けるためはじめたのが⑤「国民精神総動員運動」。そして、総力戦体制をつくる中心となった法律が⑥の国家総動員法です。「政府が自由に国民を戦争に動員できる体制をつくりました」と書いておきました。政府が必要と思ったら、人びとを工場に送り込むことも、財産を取り上げることも自由になったのです。そしてそれを具体化したものの一つ⑦の国民徴用令、です。なお、これが「国民徴用法」ではなく「令」であることに注目してください。もはや議会の承認は不必要となり、このような人権にかかわる命令を政府の一存で出すことが可能になったのです。その根拠は、さっきの国家総動員法です。これは、議会で承認されたものです。これにより議会はこのように重要な命令すらスルーさせてしまうことになりました。国家総動員法の可決は、「議会の自殺」という性格を持っていたものです。
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帝国書院「図説日本史通覧」P282
そして戦争規模が拡大するにつれ、統制経済が進んだのははなしたとおりです。プリントにあるように「砂糖やマッチなどの切符制」、家族の数にしたがって一定の数しか買えないようになります。そして米は・・・⑧「配給制」でしたね。こういったものが実施されます。
現代の戦争と「総力戦体制」
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1943(昭和18)年、東京・有楽町日劇に掲げられた巨大ポスター
帝国書院「図説日本史通覧」P276
こうした動きに反対する人たちもいるので、戦争に反対する事が難しくなるような「空気」をつくりだそうとしているのでないか、という言動が行われることもあります。
日中戦争の頃のことを考えてみましょう。この時期になると、戦争反対とか、自由を守れということが言いづらくなっていました。こうした状態は、かなり早い時期から始まりました。
「戦争反対」が、非現実的だとか、卑怯だとかいわれ、そういう主張をすると「怖い目にあうのではないか」という「自粛」の雰囲気が広がり、ついには「非国民」と仲間はずれにされたり、いじめをうけたり、家族が辛い目にあわされたりするようになり、自分の思いは小さな声で人に聞かれないように話さなければならなくなったのです。そして、ついには自分の子どもが戦死しても悲しむさえ許されない社会になっていくのです。
戦争をはじめるためには、戦争に反対したり、疑問視する人を黙らせようとする所から始まるのです。
人びとが自由に自分の意見を話せない社会、それが総力戦体制の出発点です。