<前の時間:日本の産業革命>
資本主義と農村~戦前日本の経済構造
復習:戦前日本の産業の三本柱
おはようございます。それでは今日の授業をはじめます。
前の時間は日本の産業革命について見てきました。
ちょっと復習です。戦前の日本の産業は三本柱で成り立っているという話をしました。三本柱、いえますか?
①製糸業。生糸(絹糸)をつくる産業ですね。関連して絹織物もありました。
②綿紡績業。綿花から木綿の糸を作る産業で、これをもとに綿織物業もありました。
③軍需産業。造船業や製鉄業も栄えました。日本の軍国主義化にともなって発展していきます。
日本の製糸業と綿紡績業を支えたもの
①製糸業でつくられた生糸と②綿紡績で作られた綿糸が安い値段で大量に輸出され、それが③の軍需産業も含め、戦前日本を
支えていたのでした。
実教出版「高校日本史A」p34
では、なぜ生糸や綿糸がそのような安い値段で作ることができたか、その理由とその問題点をみていくことが今日の主な内容です。
皆さんが経営者として、
実教出版「高校日本史A」P34
できるだけ安い値段でく生糸や綿糸を作ろうとすれば、どうしますか?・・・
機械化する、規模を大きくする、できるだけ安い値段で人を雇う・・・。そのほかに・・・安い原料を手に入れる・・・。いろいろ考えられますね。
明治時代後期の日本の経営者がもっともやりそうなことといえば・・やはり働く人を安く使うこと、人件費を減らすことです。
安く雇うといいましたが、手渡す賃金を減らすだけでなく、労働環境や福利厚生などにもできるだけコストをかけず、働く時間はできるだけ長く、という風に広くとらえてください。
できるだけ長い時間働き、働いている過酷な環境や労働条件にも文句を言わず、なにかあると自分の責任だとあきらめ、一定以上の水準の技術をもっている、こういう人が望まれたのです。
そんな都合よくいくかと思われがちですが、当時の日本にはこんな人がたくさんいたのです。
安くて、長時間、劣悪な環境で、怒鳴られながら働く、工場と寄宿舎に閉じ込められて外に出られない、完璧なブラック企業、こんなとこで働くなんてのは、みんないやだよね。
でもあきらめて働くしかないというのは、少しでもお金が必要な人です。
借金がある人、失業状態の人、子だくさんで満足に家族に食べさせられない、家族に病人を抱えている人、こんなふうな弱者が、ブラック企業のターゲットにされるのは、今も昔も変わりません。
とくによいのは、文句を言わず、従順で、たとえ歯向かっても簡単に押さえ込める人・・・どんな人が該当するかな。大人よりも子ども、男の子よりも女の子、こういった人たちが、つまり未成年の女性、ここにいる女子の人のような世代、みんなの方がちょっと年取りすぎかな?しかも、当時と違ってしっかり反撃できそう、実はそれは素晴らしいことですが。明治から昭和の初めにかけて、若い女の子たちがこうした環境で働かされることになったのです。
女工たちはどのように働いていたのか。
ある教科書(※実教出版「高校日本史A」H14検定済P32~39)が、紡績工場や製糸工場で働いている女性、女工または工女といいますが、のことをうまくまとめているので、配布します。
35ページに前回やった大阪紡績会社の話が出ています。
実教出版「高校日本史」P35
六割が未成年の女子労働者
実教出版「高校日本史A」P36
こうした紡績工場を支えたのが、多くの未成年の少女たちでした。P36ページには女工の年齢構成のグラフがあります。約6割が未成年、14歳以下が16%、11歳以下の子どもも1%います。この数字は、かなりごまかしがあって、実際はもっと低年齢の人が多いでした。
昼夜二交代、14~18時間労働
同じくP36には、ある紡績工場の就業時間の表がでています。
実教出版「高校日本史A」P36
この工場では、6時から6時、昼夜二交代制の12時間勤務となっています。ちなみに昼夜の勤務は1週間交替で、その間に1日の休みがありましたが、忙しいときはそうもいきませんでした。
製糸工場などはさらに厳しく、1900年ごろの1日の労働時間は14~5時間、長いときは17~8時間に及ぶことすらありました。
「篭の鳥より、監獄よりも、寄宿暮らしはなお辛い」
彼女らは、寄宿舎(寮)に住まわされたのですが、一人あたり0.7~1畳分のスペースしか与えられず、ひとつの布団で、昼と夜、別の人が寝るということもあったようです。
実教出版「高校日本史A」P37
工場内は、高温多湿で、綿くずなどが飛び交う不衛生な環境であり、食事も不十分だったため、脚気や結核が蔓延し、病気にかかり、死亡する女工たちも出ました。
このようなひどい状態ですので、逃亡する人が相次ぎ、外出には監視をつけたり、寄宿舎のまわりに見張りを置いて逃亡にそなえていました。
その仕事と生活の厳しさは耐えがたいもので、「篭の鳥より、監獄よりも、寄宿暮らしはなお辛い」とか、「工場は地獄よ」とかいった唄を、女工たちは密かに歌っていました。
休み、不満を言い、喧嘩し、恋する女工たち
実教出版「高校日本史A」P38
38ページのコラムには、先の歌のほかに女工たちが口ずさんだ歌(女工小唄)や、当時の女工たちの様子がまとめられています。
病気などを理由にした大量の欠勤者、食事などへの不満、そしてけんかなど、すさんだ生活の様子が垣間見えます。また、女工の恋愛が品行の悪さとして挙げられています。若い女性である女工たちの恋愛は、会社にとって好ましくなかったことがわかります。
「女工泥棒」を密告したものに賞金を与え、「女工泥棒」とわかれば丸裸にして工場内を引きまわすなど、当時の紡績・製糸工場の人権意識がよく現れています。
逃亡などによる大量の退職者
実教出版「高校日本史A」p36
37ページには、ある会社の職工の出入りの表があります。退職した人2162人のうちの828人が逃走、病気帰休者118人、死亡者7人などが目につきます。死亡者は7人となっていますが、病気帰休者、あるいはそれ以外の退職の中にも、命を失うことになる人が多くいることは確実でしょう。
大量に雇ったにもかかわらず、年末には前年の繰越数よりもはるかに少ない人数しか残っていない事にも仕事の過酷さが見えてくると思います。
女工たちの抵抗、ストライキも
しかし、女工たちも黙っていませんでした。先ほどのコラムの中にもありましたが、病気などを理由にした欠勤、逃亡、他の工場への転籍、さらに公然とした会社への不満、さまざまな形で彼女たちは自分たちの人権を守っていこうとしました。
さっきの小唄の中には「女工女工と軽蔑するな、女工は会社の千両箱」と、自分たちこそが会社を支えているのだという権利意識を見せはじめています。
そしてついには山梨県で、198人の女工たちがお寺に立てこもってストライキを行い、待遇改善を実現するという出来事も起こりました。女工たちは、黙っていただけではなかったのです。
この出来事が日本最初の労働争議であり、ストライキであるとされています。
実教出版「高校日本史A」P39
「女工哀史」と「工場法」
「女工哀史」元機械工の細井和喜蔵が、元紡績工であった妻の協力も得て、紡績工場で働く女性労働者の過酷な実態を記したルポルタージュ。
このような、女工たちをめぐる過酷な環境は、横山源之助「
日本之下層社会」などによって、世間の注目を浴びることとなりました。農商務省のなかの心ある役人たちも調査に乗り出します。こうしてまとめられたのが「
職工事情」です。あまりにひどいということで、かれらは、こうした非人間的な環境を改善しようと「
工場法」の制定を目指しました。
しかし、資本家側からの猛烈な反対にあって、骨抜きにされ、延期にされながらも、1911(明治44)年に成立しました。実際に効力を発揮するのはさらに遅れ、1916(大正5)年のことです。
実教出版「高校日本史A」P39
農村の貧しさと女工
では、なぜこのような過酷な場所に少女たちが働きに行かなければならなかったのでしょうか。
さきほどの女工小唄のなかに「うちが貧乏で、十二の時に、売られてきました、この会社」とあるように、その背景にあるのは、十二の娘を、身売り同然に、製糸会社に渡さねばならないほどの農村の貧困でした。
すでに見たように、松方デフレをきっかけに、農村では寄生地主制が広がり、多くの農民は地主から土地を借りて農業を行う小作農民となっていきました。(実際には、自分の土地だけでは生活ができず一部の土地を地主から借りて小作している自小作・小自作農家が多いのですが。)
土地の借り賃である小作料は高く、貧しい農民がそれを支払いうのは大変でした。さらに「貧乏人の子だくさん」という言葉があるように、子どもが多い家も多く、その食費をまかなうことすらも困難な家も多かったのです。
実教出版「高校日本史A」P39
「口減らし」ということば、知ってますか?
39ページのコラム(※右のコラム)を見てください。娘が女工にいくことで家族が減れば、食事などの負担が減ります。
さらに前借り金が渡されたり、仕送りをしてくれれば、小作料の支払いや生活の助けになります。戦前の経済学者はこういった女工たちの労働を「家計補充的労働」といっています。
こうしたことから、貧しい農民とくに小作農民の娘たちが工場に働きに行きました。娘たちも三食食べられるということ、それ自体が大きな魅力でもあったのです。
同じ事が、兵士となった男たちにも当てはまります。
都市の下層社会と女工
松方デフレのところでは別の話もしました。農村では生活ができなくなった人たちが農村から流出したとも話しました。
東京の貧民街 山川出版社「詳説日本史」P307
農村から流出してきた人たちの一部は、もともとの都市の貧困層、秩禄処分などで生活の糧を失った士族たちとともに、都市の貧民街を形成します。
ここで、人力車夫や日雇いなどで生計を立てようとしますが、それも厳しく、やはり口減らしをかねて、前貸金と引き替えに娘を工場に送りました。
マッチ工場などの厳しい環境の工場に勤めた女性たちもいました。
こうした農村や都会の貧困を背景に、厳しい条件の紡績工場や製糸工場で働く幼い少女たちが生まれつづけたのです。そして彼女の労働によって、低価格で高品質の生糸や綿糸などが生産され、輸出されていったのです。
困難となる女工募集
なお、大正時代になって、経済が発展するなか、紡績工場などの労働環境があまりにひどいということが知れ渡っていくと、親たちも考えます。こうして、女工を募集してもなかなか集まらないという状況が次第に広がっていきました。
「女工募集の変化」 実教出版「高校日本史A」p34~35
朝鮮人女工の出現
こうしたなか、大阪の紡績工場などが目をつけたのが朝鮮の女性たちでした。
東京書籍「日本史A」p110
金賛汀「朝鮮人女工のうた」(岩波新書) これまであまり顧みられてこなかった大阪南部の紡績会社における朝鮮人労働者の存在を人々に伝えた。
大正中期になると、紡績会社の募集人という人たちが当時植民地であった朝鮮に渡り、女工たちを集めてきます。国内だけでなく朝鮮の貧困層にも目をつけたのです。
ただ、この募集人たちは、女工募集といいながら、別の職場、より過酷な環境に彼女らを送り込むこともありました。
炭鉱・鉱山・土木工事
もうすこし、貧しい人たちの様子を見ていきましょう。
農村や都市から流れ出した人を大量に、家族単位で雇ってくれるところもありました。
わかりますか?・・・炭鉱や鉱山です。
炭鉱などでは男性が石炭を掘り、女性がそれを運び出すという分業が定着していました。しかし落盤事故やガス爆発などで生命の危険にさらされることも多い職場であり、そこでは納屋頭らによる前近代的な暴力的支配がまかりとおる世界でもありました。
同様にタコ部屋とよばれる暴力的支配の下におかれていたのが土木工事現場でした。
1922(大正11)年、信濃川の上流から数十人の朝鮮人の死体が流れてくるという事件が発生、大きな騒ぎになりました。ジャーナリストらの調査により、この人たちは、当時行われていた信濃川発電所工事で働かされていた労働者であり、こうした現場では、このような暴力が常態化していることも分かってきました。
こうした現場の労働者は、だまされて連れてこられたり、人身売買のような形で集められたりしました。朝鮮半島からの出稼ぎの人も多くいました。しかし、非人間的な労働と支配・監督で、命を奪われ、闇から闇に葬られた人も少なくなかったといわれています。
戦前日本の経済(模式図)
戦前日本の経済(模式図)
戦前日本の好調な輸出と軍国主義
いったん話を整理します。
日本の貿易を支える製糸業と紡績業は、農村における寄生地主制により生活が苦しい農民の子女や都市貧民層の子女による低賃金・長時間・無権利の労働によって支えられていました。
こうした安価な労働力、戦前の経済学者は「インド以下的低賃金」とよびましたが、これに支えられて、安価で国際競争力の高い製品を生み出し、輸出していきました。
農村や都市における分厚い貧困層の存在、労働者の無権利状態、これが 日本の産業革命においては追い風!になっていました。
しかし、こういった構造が、日本を軍国主義に導いたともいわれます。なぜだかわかりますか?
日本史Bでは、この理由を論述問題でだすことがあります。ということは、この世界史Aでも、濃いめに出題するので、よく聞いて、考えてくださいね。
戦後日本の経済発展を支えたもの
ちょっと違った話をします。
太平洋戦争後の日本は、奇跡の経済成長を遂げたといわれます。
その理由は何か分かりますか。
貿易立国などといって貿易が日本の経済成長を支えたかのように思われがちですが、実際には活発な国内需要が大きかったといわれています。
その背景にあったのは、農地改革による寄生地主制の解体、工業化にともなう労働力需要の高まりと賃金の上昇による国内市場の拡大でした。
これにより、ある時期の日本は「総中流社会」とよばれ、国民の大半が「自分は中流だ」と思っている社会になりました。このような、分厚い中間層が、豊かな国内市場を形成し、日本の社会と経済を支えていたのです。
格差の拡大が指摘される現在ですが、日本の貿易依存度は32.7%と極めて低く、81.2%と極めて高い韓国などと好対照を示しています。この依存度の低さこそ、日本の経済が広い国内市場に支えられてきたことの証拠です。
しかし、少子高齢化によって国内市場が狭くなっていく中、「もっと積極的に海外展開すべきだ」という主張もでてきています。
戦前の日本~狭い国内市場、低い国内購買力
では、戦前の日本経済はどうだったのでしょうか。
戦前の日本では、財閥をはじめとする資本家と大寄生地主、さらには旧大名など華族などの富裕層がいる一方、
人口の多数を占める農村では、寄生地主制の下、高額小作料などにより貧困を余儀なくされた小作農や自小作・小自作農、狭い土地しか持たない貧しい自作農が、分厚い貧農層を形成していました。
自作農は不安定な状態におかれつつ、自作も併用した中小地主とともに、農村の中間層を形成していました。
農村の貧困は、都市の貧困にもつながっていました。農村からでてくる人々の存在によって、労働力の値段は押し下げられがちであり、都市の労働者も低賃金を余儀なくさせられました。都市の貧民街を中心に、日雇いや雑業で生きていく下層民も多数存在していました。炭鉱・鉱山・土木工事などで働く人たちもいました。
このように戦前の日本には、大量の貧困層が農村にも、都市にもあふれていました。かれらは、毎日の生活を維持することが精一杯で、いくら綿織物が安いといっても、おいそれとは買えない状態にいたのです。こうして、日本国内には多くの人が住んでいるにもかかわらず購買力は低く、いきおい資本家たちは利益を世界に求める傾向になりやすいのです。
戦前の日本は、国内で工業生産が伸びれば伸びるほど、工業製品の売り場を探して国外に進出しがちな構造になっていました。なぜなら、国内の人はあまりモノを買ってくれなかったからです。正式にいうと、買いたい物を買うだけのお金をもっていなかったのです。
海外市場獲得と軍国主義
綿糸や綿織物の最大の市場は中国でした。
ところが、中国においてもナショナリズムが高まりを見せ始めます。そして、第一次世界大戦のころからひどくなり始めた日本の強引なやり方に対する反発も高まり、日本商品の不買運動なども始まりました。
五四運動 日本の強引な中国への進出は中国人のナショナリズムを刺激し、日本商品ボイコット(日貨排斥)の動きを引き起こした。
こうした動きにたいし、軍事力を行使してでも市場を守り、拡大したいという動きがでてきます。
発展を遂げる日本の工業にとって、その商品を販売できる市場を確保することは、重要な課題でした。ですから、資本家のなかでも、軍部による海外進出の動きに同調する動きが強まったのです。
低賃金と高額小作料が日本の国内市場を狭め、その代わりに市場を海外に求めるという経済構造が、日本の軍国主義をすすめる背景となっていたのでした。
安い値段で工業製品を作れる背景にあった低賃金構造が日本国民の生活レベルを低いままに放置し、日本を貿易依存度が高く、軍国主義化しやすい経済構造を作り上げていたのです。
日本経済は寄生地主制を背景とする労働力の低賃金構造を背景に発展しました。低賃金・長時間労働は安価で国際競争力の強い工業製品を生み出すことに成功、日本資本主義を発展させ、その収益が近代日本を支えました。強い軍事力をつくる背景ともなってきました。しかし、おなじ構造が日本の国内市場を狭め、海外市場への依存を強め、日本の軍国主義化を推し進めていたのです。
「講座派」と戦後改革
こうした日本の経済構造をいち早く指摘したのが、昭和初期、「日本資本主義発達講座」という本を出版すべく集まってきたマルクス主義者を中心とする研究者たちでした。
野呂栄太郎 日本資本主義発達史を著し講座派理論の基礎を作ったが、共産党員として逮捕され、獄中死した。
かれらは講座派と呼ばれました。そして、日本の軍国主義の背景には、寄生地主制と財閥に支えられた前近代的な社会経済構造があると指摘しました。かれらは、政府によって厳しく弾圧されました。
ところが、彼らの研究に注目していた人々が、思いもかけないところにいました。それは、当時の日本軍国主義を研究をしていたアメリカの研究者たちでした。そして講座派を通して、日本の経済と社会のあり方を理解しました。そして日本が戦争に敗れると、「日本から軍国主義を取り除くために、寄生地主制と財閥の解体が必要だ」と主張したのです。
こうして、日本を占領することになったアメリカ軍は日本から軍国主義を取り除くため、農地改革で寄生地主制を解体し、財閥解体を進めたのでした。
ということで、今日は社会運動の所まで進めるつもりだったけど、時間が来てしまったので、終わります。
では、ありがとうございました。