<前の時間 日露戦争への道(1)>
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日露戦争への道(2)ロシアとの対立激化
<生徒のノート(板書事項)より>
北清事変から日英同盟への過程をまとめている。
時間の都合で、条約改正を教えられなかったので、少し補足している。
前回の復習~日露戦争の概略
前回は、日露戦争がどんな戦争やったかいう話をしました。相手は、・・あほにしてごめん、当然ロシアやな。
何年に始まる?・・・・このころの戦争は下一桁「4」ではじまるんやから、・・・日清戦争の十年後で・・・1904年に始まり、翌年の1905年まで。
どこで戦ったかというと・・・・、そう、満州(中国東北部)の南部やったな。旅順とか、奉天とかやな。海軍は日本海海戦。
原因な、2つやったな、・・・朝鮮をめぐる対立。閔妃殺害事件なんていう最悪のことやって、朝鮮政府をロシアに接近させたんやったな。朝鮮は国名も・・・「大韓帝国」(韓国)にかえたんやった。
二つめは?・・・「満州」、中国東北部をめぐる争いやったな。
この前置きとして、中国がどんな様子やったか話してた。日清戦争がきっかけとなった中国は列強の食い物にされた。分割されていったんやったな。
そして、反発した民衆が起こしたのが?・・・義和団事件。
清は調子に乗って列強に宣戦布告したのが、北清事変。
けど、あっさりやられて、求めさせられたのが北京議定書。
前回は、こんなとこまでやったな。そしたら、この続きから
シベリア鉄道と極東での力関係の変化
北清事変で一番たくさんの兵を送った国は?
義和団事件当時、中国に一番利害関係を持ってた国は、イギリスだと思う。当然、イギリスは大軍を送りたい思った。しかし、それは、なかなか大変だ。
イギリスから兵隊さんや、武器や弾薬を積んだ船を中国まで送らなあかん。船やし、時間もかかるし、暑いとこと通ると病気にもかかるし、船酔いで「ゲー」なんてことも起こる。
最悪沈没する。でも、イギリスは人数で三番目の兵力を送った。
インド植民地の雇い兵なんかをかき集めて連れてきての数字だけど。イギリスはそれなりに必死なんや。
そしたら、一番たくさん兵隊を送った国は、分かる?・・・・。苦労せんと兵隊を運べるんやから・・・、近いとこ・・・。
そう、日本、3万近くの軍隊を派遣、圧倒的多数や。
ちなみに戦死者も多い。どこやったかの墓地で北清事変戦死者の墓いうのみたことがある。
では、二番目は…。
二番目はどこや・・・。
実は、ロシア。
ロシアは、椅子に座って寝てるうちに、中国につくことができる。途中でゲーなんてならへんし、武器や弾薬も同じようにストレスフリーで運べる。
理由分かる?・・・。そう、シベリア鉄道。
さらに、シベリア鉄道とつながる形で東清鉄道や後の南満州鉄道も作られつつあった。だから、大軍を送るのもそんなに苦労しない。1万5千人、運ぶ分には楽勝や。
イギリスはこれをみてビビったやろな。
自分の国はインドの傭兵もあわせなんとかかき集めて一万人、
ロシアは余裕のよっちゃんで1万5千人。
必要なら鉄道に乗せたら仕舞いなんやから。
イギリスは当然「やばい」と思うたやろな。
なんといっても、この時期、イギリスが一番いやがっていたのがロシアなんやから。
イギリスはロシア対策に、ある国をつかう。
そこで、イギリスは…。これまでの話で気がつかへん?
イギリスが、中国でのロシアの影響力拡大を抑える、いい方法があることを…。
そう、日本や!
ロシアとやばいことになったら、とりあえず日本をイギリスの代理として、使おうと考えたわけや。少なくとも、緊急時の絆創膏代わりにはなるわな。
イギリスは、ロシアがフランスからの借金も使ってシベリア鉄道を敷き始めた1890年頃から急に日本への態度を変えてきた、いう話、条約改正の時、したよな。
そやから日清戦争直前の1894年、条約改正を最初に認めたのがイギリスやったよな。このころから、イギリスは日本の利用価値に気づきだしたいうことや。
そして日英同盟が結ばれる
北清事変とそれに続くロシアの動き、他方、日清戦争および北清事変で見せた日本軍の実力、こうしたことを勘案し、イギリスは日本の価値を買おうとするようになる。
日本としても格上のロシアの脅威が高まる中、ロシアと激しく対立しているイギリスが日本に接近することはありがたい。
ロシアとタッグを組んでいるフランスが、三国干渉のようにロシア側にたつと困る、イギリスと組むと大丈夫、こうして両国は接近し、ついに1902年日英同盟が締結されることになる。
イギリスが長い間の「光栄ある孤立」をすてて日本と軍事同盟を結んだということがよく強調されるけど。
ロシアとの対立の激化
ロシアの強引な南進政策
さて、ロシアだ。
ロシアは三国干渉で日本から取り戻させた遼東半島の先っちょの旅順・大連などを租借した話は前回した。
ちなみに旅順は格好の軍港。大連は現在世界第8位の貨物取り扱いを誇る国際貿易港。
強引に取りあげられたこの二つの良港をロシアが手に入れたものだから、日本としては傷口に塩をすりこまれたようなものだ 。
さらにロシアは、シベリアのイルクーツクから清の領内を突っ切ってウラジオストクにつながる東清鉄道の敷設権を清国から獲得。東清鉄道の中間点のハルピンから、旅順・大連をむすぶ後の南満州鉄道の敷設権も獲得、一挙に建設を進める。
「臥薪嘗胆」というスローガン
さらに、閔妃殺害事件の日本の失策もあって朝鮮(韓国)政府とも接近する。
こうしたロシアの行動の一つ一つが日本側の神経を刺激し、ロシアへの恐怖と反感が国内に渦巻くようになる。
政府も軍備拡張を進めなければならないので「臥薪嘗胆」なんてことをいって国民をあおりたてる。
北清事変によるロシアの中国東北部占領
こうした中で発生したのが北清事変だ。
先に見たようにロシアは日本に次ぐ二番目の大軍を派遣し、義和団軍を鎮圧した。
問題はその後だ。ロシアは、「せっかくきたんだからゆっくり帰ろう」とばかりに、派遣した軍隊をすぐには帰国させずに、軍隊を東北部(満州)の各地に残した。つまり駐留させたんだ。
いろんな本は、「事実上、満州を占領した」と書いている。
こういった強引なロシアの行動は、日本はもちろん列強、とりわけイギリスとアメリカを刺激することになった。
さらにロシアは韓国進駐の動きも見せてくる。日本政府にも焦りの色が見え始める。
伊藤の「満韓交換論」
こうしたなかで、動いたのが伊藤博文だ。
伊藤は、ロシアと戦っても勝ち目が少ないことを知っており、なんとかロシアとの戦争を避けようと考え、政府の了承を得てロシアに渡り交渉を開始した。
どのような交渉か?
少し両国の狙いを整理してみよう。
ロシアは中国東北部を勢力圏(できる限り領土に近いイメージの)とし、さらに朝鮮半島への勢力拡大を目指す。
日本は日清戦争前から狙っていた朝鮮半島への影響力拡大を果たし、さらには東北部南部への進出を図る。
こうしたなかで、伊藤が折衷案として提案したのは・・・。
朝鮮半島は日本に、東北部はロシアに、それぞれ勢力分割をしようという案(満韓交換論)だ。
この案はウィッテなど「開明派(親欧米派)」には歓迎されたようだが、皇帝やその取り巻きには通じなかった。
何しろロシアのニコライ二世は、日本で大津事件という手痛い歓迎を受けたこともあって日本人を非常に嫌っている。司馬遼太郎によると日本人を「猿」とよんではばからなかったようだ。
皇帝の取り巻きは、皇帝の信認をいいことに「イケイケどんどん」「日本なんて一蹴だ」といった様子。伊藤は無駄足を踏んだことになる。
こうして、日本政府も、勝ち目の少ない対ロシア戦争へ舵を切り始める。
開戦論と非戦論、マスコミ
人間というのは変な物で、戦争が近づくと、「戦争しか方法はない」「相手は悪者だ、正義は我にあり」「我々は強い。相手なんてたいしたことはない。敵の前の怖じ気づくのは卑怯者だ」といったマッチョな意見がどうも表面化してくる。
こうした大きな声の中、「戦争反対」というものはもとより、「ちょっとまずいのと違う?」という台詞すら言いにくくなる。
こうした空気は、世間に充満していき、関西ではOスポーツ(関東ではTスポーツ)とか、赤いタイトルで有名な夕刊F、みたいな新聞が騒ぎ出すイメージやね、そんなん知らん?
とりあえず、戦争を煽る新聞が売れて、冷静な判断をしたり、事実に即した現実論なんかを書いている新聞は売れなくなる。
人間は本当のことを言われるとしらけてしまう傾向があるのかな。そんなこんなで、空虚な大言壮語する新聞が売り上げを伸ばす。
さらに、お調子者の東京帝国大学教授をはじめとする七人の博士が、「学問的」立場?!から、日露開戦を主張する。
現在は、博士なんかは山ほどいて仕事がなくて困ってるけど、当時は「末は博士か大臣か」いうぐらい希少価値があって、尊敬されていた。とくに、最高学府の東京帝国大学の先生がいうのやから、おおごとや。
多くの新聞は、錦の御旗をもらったように考えて、政府に「ロシアと開戦せよ」「政府は軟弱」なんて、威勢のよい馬鹿記事をかきまくるんや。そしてしだいに政府のコントロールすら効かなくなっていく。
マスコミが、そして民衆も、暴走しはじめる!
さて、政府はどう考えていたやろうかな。
最初は自分たちが「臥薪嘗胆」とかいって煽ったんやけど、いつのまにか扇動された民衆の方が無責任に過激になり、収拾がつかなくなったいうとこかな。
明治の政府は、昭和前期の政治家のように馬鹿ではない。
ロシアとの戦争に勝利する確率は半分以下、完全勝利はあり得ない、いうことをよく承知していた。
そやから、とくに慎重論に立っていた伊藤なんかは、苦い思いをしていたのと違うかな。
自分らで挑発しといて、民衆がその気になってコントロールが効かなくなって、困ってしまういうのは、いつの時代でもよくあることだと思う。
そして、民衆の暴走を加速させるのがマスコミや、この時代はもっぱら新聞がその役割を果たすことになる。
「万朝報」という新聞~非戦論から開戦論へ
新聞が一気にその部数を伸ばすのは戦争だという話を聞いたことがある。日本で新聞が一挙に普及するのも日清戦争からだ。各新聞社は正岡子規や国木田独歩なんて人を従軍記者に送り込み、従軍記をつぎつぎと連載、多くの読者を確保していく。
日露戦争前、こうした風潮に、公然と対抗した新聞があった。
「万朝報」という新聞で、最近、映画やミュージカルで評判になった「レミゼラブル」を「ああ無情」という名で翻訳したことでも有名な黒岩涙香という人が発行していた。
この新聞は「教育勅語のような紙切れに対して最敬礼をすることはできない」いうて学校をクビになった内村鑑三が編集長になり、有名な社会主義者である幸徳秋水や堺利彦が新聞記者として、戦争に対する「非戦論」をどんどん載せていた。
ところが、他の新聞がばんばん売れるのに対し、「万朝報」は部数が伸びない、非難の声も高まる。こうした中、黒岩涙香はこれまでの路線を変更して、「日露戦争やむなし」いう方向に舵を切った。当然、内村や幸徳、堺らは反対するわな、こんなことは承知できん言うことで、彼らは退社していく。
平民社~幸徳や堺らのたたかい
幸徳と堺はあらたに「平民社」いう会社を作って「平民新聞」という新聞を発刊し、非戦論、反戦論を唱え続ける。そして一定の読者をもちづづける。
当然、政府も妨害する。次々と発売禁止をくらい、最終的には「平民新聞」自身が禁止されてしまう。発売できなくなると、次は別の名前で新聞を作り、反戦を訴え続ける。人の尻馬に乗って大言壮語をはきまくるのと比べて、どっちが勇敢なんか、どっちが卑怯者なのか、よく考えてほしい。
ちなみに、このときの幸徳らの存在は、当時の政治家をかなりいらつかせたのだとおもう。これが、のちに幸徳の悲劇につながっていく。
あれ、いつのまにかこんな時間になってしもうた。おしゃべりはあかんな。もっとすすまなあかんかったのに。じゃ、次の時間は日露戦争事態の話ということで、終わろうか。じゃ、号令お願いします。・・・ありがとうございました。