<前の時間:アジア太平洋戦争開戦>
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アジア太平洋戦争(1)
~ずさんな戦争計画と「玉砕」「餓死」「海没死」~
アジア太平洋戦争の開始
こうして戦争は日本・ドイツ・イタリアなどの7カ国の枢軸国と、中国・アメリカ・イギリス・ソ連、およびフランス・オランダ・ポーランドなどの亡命政府などによる連合国の間の戦争となり、連合国は最終的に50カ国に上りました。
12月8日7時、ラジオの臨時ニュースが対米英戦争開始を報道、正午には宣戦の詔勅が発表されました。満州事変に始まった戦争は世界を相手とする戦争へと発展しました。
開戦の理由~政府の説明を聞いてみましょう
戦争を始めた理由について、政府の説明はいかなるものだったのでしょうか?開戦当日、東条英機総理大臣が、国民に対して行った説明を聞いてください。
過般来、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力してまいりましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英蘭比と連合し、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました。
これに対し帝国は、あくまで平和的妥結の努力を続けてまいりましたが、米国はなんら反省の色を示さず、今日に至りました。もし帝国にして彼らの強要に屈従せんと、帝国の権威を失墜、支那事変の完遂を切り得たるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆(きたい)に陥らしむる結果となるのであります。
事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります。
開戦をめぐる国民感情
長い間アメリカに留学していた母方の祖父は、開戦後も「あんな国に勝てるわけない」とつねづね話し、幼なかった母たちが「なんてこというの」とたしなめていたそうです。「あほなことを」と苦々しい思いで開戦のニュースを聞いた人も多かったのです。
開戦時の海軍の戦力差と、生産力の差
しかし、よくかんがえてみましょう。この日米の戦力差は日本が国家予算の半分以上をつぎ込んでやっと到達した最高の数字です。他方、アメリカは本格的な軍備拡張をやっと始めた段階での数字です。海軍はそれがわかっていたからこそ戦闘力で勝負できそうな時期は今しかないと考えた面もあります。
真珠湾攻撃はアメリカの「本気」に火をつけました。日本が回復を2年と読んでいたのに、アメリカ軍は瞬時にダメージから立ち直り、強大な物量とともに油断していた日本軍の前に姿を現します。
12月8日、終わりの始まり
少し話を戻しましょう。6月独ソ戦が始まると、ドイツ軍は破竹の勢いでソ連領を侵攻します。ところが、モスクワまで十数キロと迫ったところで早い寒波が到来、ドイツ軍はぬかるみに足を奪われ、前進困難となりました。そこに強力な部隊が登場しました。極寒に強いソ連極東軍です。
日本軍に備えていた軍隊が突如、ドイツ軍の前に現れたのです。スパイ・ゾルゲからの情報もうけ、日本の攻撃がないと判断したのでしょう。ドイツ軍は苦戦に陥ります。
12月、ついに零下30度にもなる本格的な寒波が到来、ドイツの現地司令官は首都攻略を断念、撤退を命じました。それが1941年12月8日、真珠湾攻撃などで日本が戦争を始めた、まさにその日でした。
ドイツの攻勢が止まって欧州戦線の流れが変わった日、ドイツ敗戦への歯車が動き始めた日、「終わりの始まりの日」、それが12月8日でした。
ふと考えてみます。もし、日本の開戦予定日があと一週間あとだったら、日本は戦争をはじめたでしょうか。日本の戦争計画はドイツの勝利を前提としたものでした。もしドイツが敗勢に転じたというニュースが伝われば、開戦を選択できたのか、興味のあるところです。
日本はこのニュースを知る前に、戦争を始めてしまいます。歴史に「何らかの意図」が働いたような気すらしてしまいます。
ヒトラーにとりついた貧乏神=日本
理由その2、世界最強国・アメリカを参戦させたこと。 ローズヴェルトは、対ドイツ参戦をめざしていましたが参戦反対の声も強く、機会を見いだせなかったからです。ところが、日本の真珠湾攻撃が発生したことで、ローズヴェルトは圧倒的な支持を得て参戦できたのです。
ヒトラーにとって三国同盟はアメリカの参戦をけん制するのが目的でした。それが逆効果になったのです。
リメンバー=パールハーバー~遅れた宣戦布告
奇襲作戦ですから、宣戦の通知はできるだけ遅く、攻撃の直前になる方がいいのです。したがって、日本側の電文は、普通電報で、ぎりぎりの時間に送り、真珠湾攻撃の三十分前に手渡す予定でした。ところが、ワシントンの大使館では帰国する大使館員の送別会があり、電報に気づいて翻訳を始めたのですが、時間がかかりハル国務長官に手渡したのは真珠湾攻撃開始を1時間以上すぎていました。それも交渉打ち切りの通知であり、宣戦布告書ではありませんでした。ハルは大使らに椅子もすすめもせず、言い放ちます。
こうした経緯は大々的に宣伝されます。「日本人はだまし討ちを行う卑劣な国民である!」と。
アメリカは一挙に戦争モードに突入します。その合い言葉が「リメンバーパールハーバー(真珠湾を忘れるな)」でした。
国際法違反の可能性が高い原爆投下や無差別本土空爆も「リメンバーパールハーバー」のひとことで正当化されます。現在ですらある程度通用します。2016年末、安倍首相がハワイを訪問したのはこの歴史への配慮でした。
ローズヴェルトは、日本がいずれどこかを奇襲するだろう事は考えていたと思いますよ。日清戦争でも日露戦争でも、日本は宣戦布告前の奇襲(「闇討ち」?!)を繰り返してきた国際法違反の常習犯だったのですから。ただ真珠湾に来たのは驚いたかもしれません。なお、イギリスに対しては何らの文書も手渡さない完全な「闇討ち」でした。
アメリカ兵は平和ぼけした「弱兵ぞろい」?
ちなみに、この次にアメリカ領が攻撃されたのはいつか分かりますか?60年後、9・11のニューヨーク貿易センタービルへのハイジャック攻撃でした。あのときの異常な興奮は、真珠湾攻撃と同様にアメリカのプライドを傷つけるものだったからです。
真珠湾攻撃~戦術的には成功したが戦略的には?~
ローズヴェルトは真珠湾作戦を知っていたのかのではないかといううわさが昔からあります。
たしかに、この時期、日本の暗号はほぼ解読されていましたといわれます。だから日本の開戦も知りえたというのです。 状況証拠もあります。奇襲が大成功だったというものの山本は最大の目的を達成できていません。エンタープライズなど真珠湾を母港とするアメリカ空母を逃したのです。空母だけが演習で航海に出ていました。空母をたたいて制空権で優位に立つの日本側のもくろみは失敗に終わりました。日本軍はこれらの空母と艦載機に苦戦します。このアメリカ空母を叩く目的で起こしたミッドウェイの戦いで大敗し、戦局が一変することになるのです。
ローズヴェルト大統領自身、日本との戦争は避けられないと認識していたといわれています。しかし反戦論も根強く参戦熱は高まりません。ここまではほぼ一致しています。ここからが、陰謀説です。
参戦をめざすローズヴェルトは、暗号解読で真珠湾攻撃を知った。国民には一切秘密にしたまま、沈められては困る空母を出航させ、戦艦などを人身御供にした。予定通り日本軍が奇襲をした。しかも国交断絶の書類は奇襲後に遅れて届けられ、傷つけられたプライドと「卑劣な」日本への怒りは戦争反対の声を押しつぶし、一挙に戦争モードに入った。もちろんより重要と考えていたドイツとの戦争も開始できた。
たしかに面白い説であり、かなり説得的です。
しかし、自国の軍隊や市民を犠牲にできたのだろうか、十分な証拠もない、暗号解読の精度もそんなに高くなかった、先に見たようにまだ戦力が整っていないということで、否定的な声の方が強いようです。
日本の戦争計画
その方針は次のようなものです。
「速に極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。」
むつかしい言葉でわかりにくいかもしれません。ツッコミをいれながら内容をまとめると、次のようになります。
2、蒋介石の国民政府を屈服させるとしています。これまで泥沼化した戦争をそんなに簡単に屈服できると考えたのでしょうか。簡単に言うと、米英との戦いで援助を断ち切れば中国は屈服するという事です。中国への過小評価がつづいています。
3、ドイツ・イタリアとの提携でイギリスを屈服させるとしています。日本はアジアの拠点を叩けば、ドイツがイギリスを屈服させてくれるだろうと期待しています。しかし、ドイツは航空戦で大きな被害を被り、イギリス上陸作戦を中止しています。わかっていたのでしょうか?
4、アメリカの継戦意志を喪失させるとしています。簡単に言うと、イギリスも降伏し、中国も降伏したら、アメリカはやる気を失うだろうという安易な展望です。
あとに書かれている内容を見ても、これといった方策は書かれていません。「対米通商破壊戦の徹底」とか「中国及び南洋資源の対米流出を禁絶」とか、「対米宣伝謀略を強化による米国世論の厭戦誘発」とか、「米濠関係の離隔」といった内容と、ドイツ・イタリアによる「海上攻勢の強化」といった内容で、アメリカを破るといった景気のいい内容すら書けません。
大東亜共栄圏建設
「東亜新秩序」を発展させ、欧米列強の植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とした「共存共栄」のブロック=「大東亜共栄圏」をつくるという考えです。それに合わせて、戦争の呼び方も「大東亜戦争」と命名しました。
戦争の出発点(「ホンネ」)としての「自存自衛」のための資源獲得、あとづけの「大東亜共栄圏建設」という「大義」(「タテマエ」)、両者をともに満足させることは難しいものでした。このは次の時間に見てみることにしましょう。
日本の快進撃とミッドウェー海戦
戦争の開始とともに、日本は、空軍力を生かしアメリカ・イギリスの海軍に打撃を与えながら、一挙に南方に進出して、マレー半島・フィリピン・オランダ領東インド(インドネシア)・ビルマ(現ミャンマー)などを次々と占領、また南太平洋のソロモン諸島やニューギニア北部へも進出していきます。
快進撃を進める日本に衝撃を与えたのは、アメリカ爆撃機による本土空襲でした。1942(昭和17)年)4月、アメリカ空母から出撃した爆撃機16機が日本上空に飛来、主要都市を爆撃し、中国大陸へ悠然と飛び去っていきます。国民も軍部も大きな衝動を受けました。
空母から飛び立つこと自体高い技術が必要ですが、さらに困難なのは帰艦。大海原に浮かぶマッチ箱のような空母を見つけ、狭い甲板に降り立つのは奇蹟に近いような技術で、長時間の訓練のたまものです。こうした高い技術をもったパイロットたちが大量に戦死したのです。
出撃したのはいいけれど、帰ってきたら自分の戻るべき空母は沈没!その絶望感はいかなるものだったのでしょうか・・・。
ミッドウェーの敗戦をきっかけに戦況は日本の攻勢から守勢へと変わっていきます。
なおこの海戦は国内では大勝利として報じられ、実態は隠されつづけました。いわゆる「大本営発表」です。
ガダルカナル攻略戦
日本軍は飛行場を取り戻そうと次々と陸軍部隊を上陸させ、何度も攻撃をかけます。海軍も援護に駆けつけ、米艦隊との海戦を繰り返しました。
軽視される兵士の生命~「玉砕」と餓死、水没死
他方、多くの島の守備隊は放置されます。援軍がくるわけでも輸送船が来るわけでもないまま取り残されたまま、多くの餓死者や戦病死者が出ました。とくに悲惨だったのはニューギニア島とその周辺です。話すこともはばかられる事態が生じてしまいました。
これまでの戦いで日本軍は多くの艦船と航空機を失い、制海権も制空権も失ないます。船も、飛行機もびくびくしながら、こそこそと行動せざるを得なくなります。こうして輸送船など船舶は、次々とアメリカ潜水艦などの餌食となります。その危険な海を、兵士や看護婦などの軍属、さらに慰安婦などを載せる船が航行していたのです。多くの船が沈められ、海に投げ出され、溺死したりサメの餌食になりました。ニューギニア沖で海にうかぶ日本兵にオーストラリア戦闘機が機銃掃射を浴びせかけた出来事も起こります。オーストラリアでは、この行為が正しかったのか、いまだに論争になっています。
海没死した兵士は戦没した兵士の20%弱 40万人に上ると考えられています。
アジア太平洋戦争における兵士の死の大部分は広義の餓死と海没死が占め、一般に戦死としてイメージされる戦闘死は戦没した軍人・軍属230万人の3割70万人前後です。戦闘死といっても、自殺の強要とも言える「バンザイ突撃」で命を失ったものが多かったのですが。
またもや軽視された「補給計画」
さらに戦争を始めたきっかけは、南洋の資源の確保だったはずなのですが、その資源を運ぶはずの船は次々に軍隊に徴発され、ガダルカナル沖などに沈んでいきました。本来の資源運搬に使われた船も海軍による援護を受けられず、次々と沈められていきました。
今日は、このあたりまでにしておきましょう。