五一五事件と国際連盟脱退、二二六事件

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

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五一五事件と国際連盟脱退、二二六事件

前回の復習から

それでは授業をはじめましょう。
日本は、ついに十五年戦争と呼ばれる中国との継続的な戦争状態に入ってしまいました。

東京書籍「日本史A」P124

何年のことでしたか?
1931年・昭和6年ですね。これから十五年間、日本はほぼ休みなく、中国との戦争を続けます。だから十五年戦争というのですね。
東北部を守備するはずの関東軍が、日本が経営する南満州鉄道でほんの小さな爆発事件を起こし、中国人の仕業として戦闘を始めた・・・
柳条湖事件
これがきっかけで始まったのが・・・満州事変
柳条湖事件と張作霖爆殺事件とは違いますから。まちがえないようにね。
「事変」というのは、辞書的にいうと「宣戦布告なしに行われる、国と国との武力行為」で、事件との違いは「警察力では抑えきれず、軍隊の出動を必要とする程に拡大した騒乱」というニュアンスがあり、戦争との違いは「宣戦布告」があったかどうかと、「小規模・短期間」というあたりにちがいがあります。
満州事変は宣戦布告がなかったこと、たたかった相手が東北部の地方軍事勢力であり、中国との全面的な戦いでないことから「事変」という言葉を選択することが多いみたいです。
満州事変に対し、当時の政府・第二次若槻内閣は不拡大方針をとりますが、関東軍は勝手に戦闘を拡大します。マスコミに煽られ好戦的な風潮が高まります。とまどっていた陸軍中央も関東軍の行動を追認、若槻内閣は崩壊しました。
新たに成立したのが、犬養政友会内閣。昭和恐慌の原因となっていた金解禁政策を中止し、軍事費を一挙に拡大しました。これによって日本の景気は一挙に回復します。しかし、イギリスなどとの対立も起こってきます。前回は、だいたい、こんな話でした。

「満州国」の建国

東北部では関東軍がどんどん戦闘を拡大、ついには東北部全土を支配するようになりました。これに対して、中国の国民政府は、日本との軍事的な衝突を避けつつ、日本軍の行動は侵略であるとして国際連盟に提訴、イギリス人のリットンを団長とするリットン調査団が結成され、犬養内閣も受け入れます。

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「満州国」皇帝時代の溥儀 Wikipedia「愛新覚羅溥儀」より

こうした動きを見た関東軍はおなじみの作戦に出ます。既成事実を作ることです。1932(昭和7)年3月、関東軍は一方的に「満州国」建国を宣言します。「自分たちがつくたんじゃない、満州の人が作ったんだ」という建前で。宣伝塔として使われたのが、清朝の最後の皇帝、「ラストエンペラー」の溥儀(ふぎ)、正式にいうと愛新覚羅溥儀。溥儀は清朝滅亡後も故宮に住んでいたのですが、 軍閥の争いのなかで追い出され、天津で日本側に保護されていました。この溥儀を連れ出して「満州国」の「指導者」としたのです
本当に実権を持った指導者となれるかって?ちょっと考えれば分かりそうですが。でも溥儀はそう考えて関東軍と手を組んだのです。

帝国書院「図説日本史通覧」P270

こうして、溥儀を「執政」とし、「親日」的な人々らを大臣にすえて作ったのが「満州国」です。そして、 「満州人」「モンゴル人」「漢民族」「朝鮮人」「日本人」という5つの民族が仲良く過ごす「五族協和」の「王道楽土」=理想国家だと宣伝します。しかし軍事や治安維持は日本に任せ、必要なカネは「満州国」が負担する。鉄道などの施設管理は日本人、役人の任免も日本側。溥儀や中国側の大臣にはなんの権限もなく、日本人の「次官」たちで作る「次官会議」がすべてを決定する。
もし、こうした日本人が日本国籍を捨てて「満州人」になって、ここに骨を埋めるつもりなら、少しくらい信用してもらえたでしょうが、そんなことは、小指の先ほども考えてなかった・・そこに「満州国」の正体が見えています。
「関東軍」の傀儡(かいらい)国家であることは誰の目にも明らかでした。
ちなみに、清の皇帝になれるつもりであった溥儀は執政ということで激怒しますが、関東軍側に恫喝され渋々承認したそうです。リットン調査団が来る前に、この「国」の建国を一方的に宣言したのです。
「ダメなものはダメ」という原則が通用しない日本です。「やってしまったことは仕方がない」を日本で、そして世界に通用させようとしたのです。
でも政府としてすぐには「はい!」とはいえませんね。犬養内閣は「中国側との自主的交渉によって事態打破をめざす」と承認を拒みます
世界と相談しようというのにこのような態度を取ることは世界に喧嘩を売ることになるからです。しかし、こうした内閣の対応は、「満州国」承認をめざす勢力からすればウザいものでした。何かいやな予感がしますね。

クーデタ計画とテロの横行

少し話を変えます。昭和に入り、さらに1930年代となると、暴力的な手法で軍隊を中心とする国家をめざそうという動きが活発化します。かれらはいいます。「政府は、苦しんでいる国民の声に耳を傾けず、財閥など金持ちの側を向いている」。さらに「列強と結んで、日本を守るべき軍隊を弱体化させている」などと政党内閣への批判をくりかえし、「行動力がある軍隊が日本を動かすべきだ」と主張したのです。そして、そのために暴力を使うことを、躊躇しませんでした。
1931(昭和6)年、陸軍のエリート軍人たちによるクーデタ計画が発覚します。本来なら銃殺ものだと思うのですが、実際は、酒を飲まして「お前の気持ちは分かる、ちょっと外地に行ってくれ」で終わりです。
軍人以外には強硬なくせに身内に対しては「大甘」、これが日本の軍部の特徴です。もっといえば、これが日本の役人文化だったのかもしれません。こうした風土は、いまでも多くの役所や企業でも残っていそうです。脱線しました。

廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告

廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告(Wikipedia「血盟団事件」)

実は「クーデターを起こすぞ」と騒ぐことで、首謀者だけでなく陸軍中央も、恫喝の効果を狙ったのだ、とも言われます。
民間でもテロ計画やクーデタ計画が計画されます。血盟団という秘密結社がありました。リーダーの井上日召という人物は「一人一殺」「一殺多生」、つまり「悪い人間を一人殺すことで、多くの人の命が救われる」「一人が一人の悪人を倒すことで世の中をよくすることができる」と説いたのです。
彼らにとっての「悪人」は、政党政治家であったり、財閥のリーダーであったり、さらには天皇の側近たちでした。決して軍人ではありません。
こうして金解禁政策をすすめた元大蔵大臣の井上準之助らが彼らの手に殺されました。テロの恐怖がひろがります。

五一五事件と政党政治の終焉

気に入らない人間を殺すことが世の中をよくすることだというような風潮の中、首相の犬養毅が首相官邸で殺されました五一五事件です。

五一五事件を報じる新聞記事 「東京書籍日本史A」P124

1932(昭和7)年五月、海軍の青年将校らが首相官邸に侵入、「話せばわかる」と冷静に対応しようとした犬養毅を「問答無用」と叫び、射殺してしまいました。
「問答無用」といって気に入らない人間を殺す、こういうやり方が日常化しつつありました。
青年将校たちは、こんな無法が「正義」だ、「国のためだ」と信じていたのです。
しかし、彼らの行動は日本を悪くしただけでした。

悲しいことに人間は暴力に弱いのです。
狙撃されても「男子の本懐」といった浜口雄幸や、自分の命を奪おうとやってきたものに「話せば分かる」と穏やかに話しかけた犬養毅のような人間は少なく、ちょっとした暴力にも縮みあがってしまうのが多くの人間です。
人間はそんなに強くはないのです。
だから、弱い人間がそれほど勇気をもたなくても、声を出せる時に声を上げなければならないし、声を出した人間をいろいろな形でサポートしなければならないのです。

五一五事件という暴力によって、政党政治家たちは尻込みをし、元老・西園寺も「軍人は軍人しか抑えきれない」と判断、穏健派の軍人である海軍大将・齋藤実を首相に推薦しました。
憲政の常道」であったはずの政党内閣はわずか8年で終わりました

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首相のころの斎藤実 (Wikipedia「齋藤実」)

挙国一致を唱えて成立した齋藤内閣は、犬養が難色を示していた「満州国」を認めます。9月政府は「満州国」の間で日満議定書調印、「満州国」を正式承認しました
もちろん世界中のどの国も承認しませんよ、こんなもの。
またも政府は、軍部の無法と暴力に屈したのです

「リットン調査団」報告と松岡洋右

日本で事態が急速に動いている中、国際連盟から派遣されたリットン調査団は日本から「満州」へと調査をすすめました。

帝国書院「図説日本史通覧」p269

1933年には、調査報告書が提出され、これに基づく国際連盟の勧告がだされます。そこでは、「満州事変は合法的な自衛行為とは認められない」と日本の行動を批判しつつ、「満州は無政府状態にあった」として、「東北部」を列国の共同管理下に置くこと、日本人顧問を置くことができることなど日本に甘い内容でした。
東アジアでことをおこしたくないイギリスは、できるだけ穏便にすませたかったのです。
しかし、日本とくに軍部は、イギリス側の「あたたかい」配慮を受け入れる能力を持っておらず、外務省も強硬な態度です。日本代表松岡洋右(まつおか・ようすけ)らが、「堂々」と退席するシーンがよくテレビなどでも流されます(NHKのページへ)。当時のニュースを見てみましょうです。

東京書籍「日本史A」P125

松岡は、本心では妥協をめざしていたといいます。
しかし日本国内で強硬論が強く、ポーツマス条約の小村寿太郎のように日本中から「売国奴」扱いされ、命をねらわれる可能性すらありました。また、国際連盟の勧告を受け入れたとしても、陸軍は聞く耳を持っているのか、勧告を受諾しても実施しないならば逆に世界の信頼をうしなうだけです。
ともあれ、小村の時とちがって、自分の苦境を分かり「骨を拾ってくれる」伊藤や山県のような大物政治家がいないことを、松岡は強く感じたでしょうね。
小村の話からあとは、あくまでもぼくの妄想です。信じないでくださいね。

国際連盟脱退

連盟脱退の真の理由は、また関東軍でした。
関東軍が「満州国」と中国の「国境」地帯で軍事行動を起こしたのです。この行動は、国際連盟規則に抵触しており、経済制裁に値する行動でした。経済制裁を受けたらどうなるのか、当時の日本は、アメリカやイギリスからの輸入に深く依存、これを絶たれることは国家の存亡にもかかわりました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

では、どうすれば経済制裁を回避できるか。そこで考え出されたアクロバット的な手法が国際連盟脱退でした。
国際連盟の加盟国だから経済制裁を受けるのであり、連盟を離脱することで経済制裁を課すことをできなくなる
というとんでもない奇手です。
外務省の思いつきとしかいえない手段でした。
こうした指示に従って、松岡は心ならずもリットン勧告を拒否し、連盟を脱退したというのが近年の研究です。
結果として、1933(昭和)8年3月、日本は国際連盟を脱退、国際社会に背を向けました。
「小村の二の舞か」と覚悟して帰ってきた松岡を迎えたのは、世界に勇敢な態度!を示した「英雄松岡」を迎える大歓迎でした。こうして、日本は国際協調の枠組みを破壊し、孤立の道をさらに進むことになりました。
その後日本は、1934年ワシントン軍縮条約の破棄を通告(1936発効)、1936年に失効するロンドン軍縮条約とともに、軍縮を破棄して、限りない軍備拡大の道を歩み始めます
大量に輸出した綿製品の収入などをもとに、アメリカなどから大量の原材料を輸入する。
経済制裁をもっとも恐れる国が、経済制裁を受けそうな行動を続ける。しかも、日本を支えてきた製糸業は世界恐慌と化学繊維の発明によって廃れつつある。
こんな状態なのに軍部はとりあえず軍備増強だ。満州進出だ。ととなえつづける。
こんな感じです。
世界がどう感じ、行動するかなどには無関心で、危機感をあまり持たず、自分の思い通り世界が動くつもりで、自分の主張だけを声高に唱え続ける。こうした幼児性のもち主、それが軍部中枢とそれをとりまく人たちでした。

塘沽停戦協定=「満州事変」の終結

この間、抗日ゲリラの拠点を叩くとして再び軍事行動を開始した軍は万里の長城をこえて、河北省に進行、北平(北京)に迫る勢いをみせていました。

帝国書院「図説日本史通覧」P269

これにたいし、中国側は停戦を申し入れ、5月塘沽(タンクー)停戦協定が締結され、戦闘は停止されます。
満州事変はおわり、中国は日本の満州支配=「満州国」を事実上黙認することになりました。
しかし、陸軍は更なる行動を起こし始めます。

思想統制の強化

1934(昭和9)~35(昭和10)年は嵐の間の凪(なぎ)のような時期でした
塘沽停戦協定によって満州事変は一段落し、対外緊張が緩み「非常時小康状態」とよばれました。高橋財政と満州景気、軍備拡張によって重化学工業を中心に産業は活気づきます。こうして日本は、世界で最も早く世界(昭和)恐慌を乗り切り、都市を中心に繁栄を謳歌しました。

帝国書院「図説日本史通覧」P273

この間、1934年に陸軍は「国防の本義と其強化の提唱」というパンフを刊行、国防にすべて奉仕すべきとして、国際主義・個人主義・自由主義を刈り取ると主張しました。軍が公然と政治に口出し始めたのです。
人々の生活の中に軍国主義が広がり、1933年には治安維持法違反による検挙件数がピークに達します。共産党の最高幹部が「日本こそが共産主義の理想の姿だ」という声明を出すといった事態も発生します。こういった態度を「転向」といいます。

帝国書院「図説日本史通覧」P273

京都帝大法学部教授の学説に対し文部省が介入、法学部の全教官が辞表を提出する京大法学部事件(滝川事件)も発生しています。
そして国会では天皇機関説に対する攻撃が始まります。
1935年、ある貴族院議員が天皇機関説を攻撃したことをきっかけに国会内外で大きな流れができます。

天皇機関説問題と国体明徴声明

帝国書院「図説日本史通覧」P273

天皇機関説は、貴族院議員でもあった美濃部達吉がとなえた学説で「天皇は憲法に従って政治(統治権)を行使する「機関」ともいえる」という性格を持っている以上、天皇も「国家」の意思に従わなければならないとして、明治憲法を立憲君主制の憲法として読み替える学説でした。
したがって「天皇直属の軍隊も国家全体の意思に従うべきである」ととらえることができます。
これにたいし、軍部やそれに近い議員、さらには政友会までがいっしょになって、議会の内外から美濃部とその学説に攻撃を集中、議会も「国体に相容れない学説である」という決議を全会一致で可決します。
当時の岡田内閣は、こうした攻撃に屈して「国体明徴声明」をだして「日本の統治権は天皇にある」として、天皇機関説を否定、美濃部も貴族院議員を辞任しました。
大正デモクラシーを支えた理論的支柱が切り倒され、自由主義的な考え自体が認められなくなってきたのです。
1937年になると文部省が編纂した「国体の本義」という本が出版され、天皇への絶対的な従属が正しい「国体観念」として確立されていくことになります。
人びとの心を、国家が統制しよとする動きがいっそうたかまっていきました。

国民の気持ちは・・・?

多くの日本人がこうした風潮をどう思っていたのか。実はかなり批判的だったのではないかということを示すデータがあります、1936(昭和11)年2月の総選挙の結果です。選挙では軍部と組んで天皇機関説を攻撃した政友会や他の右派勢力も議席を大幅に減らし、軍部に距離を置く民政党が大勝しました。無産政党の社会大衆党も大幅に議席を伸ばしています。好戦的な風潮に流されていると思われがちですが、どっこい、それに対する疑問を持つ人も多かったことを想像させるものです。
実は、これからあと数回の選挙においても、こうした傾向はつづきます。軍部とそれに抵抗できない政府、こうしたものへの国民のいらだちを見ることができるともいえます。

二二六事件の発生

この選挙の六日後、決定的な事件が発生します。この時のニュースと画像を見てみましょう(NHKにとびます)

東京書籍日本史A P127

1936(昭和11)年2月26日未明、大雪の中、東京の陸軍の部隊が行動を開始、高橋是清大蔵大臣や齋藤実内大臣(元首相)などを殺害、首相官邸をはじめとする政府中枢部がある一体を占領するという事件を起こしました。これを二二六事件といいます。
事件の背景にあったのは陸軍内部の派閥争いです。陸軍内部では「天皇の意思が側近によってゆがめられている。『君側の奸』をのぞくことで、『天皇』の手で正しい政治が行われるようになる」といった実際の天皇の意思をまったく無視した「神がかり」ともいえる考え方が広がっていました。この立場に立ったグループを皇道派といいます。

帝国書院「図説日本史通覧」P272

これに対し、軍内部の統制を重視し日本を軍中心の国家に作り替えるべきとする統制派との対立が激化していました。そして、統制派の力の強い軍中央が、皇道派の拠点である部隊を満州へ移動させようとしたことに反発してクーデターを実行したのです。この事件を聞いた皇道派のボス荒木貞夫という軍人は「お前たちの気持ちはわかっている。任せておけ」と答えました。いつものワンパターンで「既成事実を作り、高飛車にでれば勝ちだ」とでも考えていたのでしょう。

帝国書院「図説日本史通覧」P273

さらに陸軍自体が、反乱軍をなだめるために「お前たちの考えは天皇にも伝えられた。お前たちの誠実な気持ちを認める」という文書まで出します。
ところが、彼らの前に立ちふさがったのは思いも掛けない人物でした。わかりますか。彼らが最も弱い相手・・・。皇道派の連中が自分たちの思いを一番理解していると「勝手に」思っていた人物・・・。そう昭和天皇です。
天皇は、自分が一番信頼していた人びとが殺されたり襲撃されたことに激怒していました。
軍人たちが何を言っても聞きません。最後には「自分が軍隊を率いて直接鎮圧する」とまで言い出します。状況は一変します。
荒木貞夫らは自分が言ったことをきれいさっぱり「忘れます」。

帝国書院「図説日本史通覧」P274

限りない信頼をいだいてきた天皇が、「お前たちの行動は自分の意思に反する」といったものですから大騒動です。とくに「上官の命令は天皇の命令だ」と信じて上官の命令で出動した一般の兵士は、「天皇の命令に反する」「お前たちは反乱軍だ」といわれて何のことか分からない状態になります。二二六事件に参加した兵士の証言があります。聞いてみましょう(NHKへ)。
ありもしない天皇への幻想をいだいて決起し、「あとは上の連中がなんとかする」というリーダー連中はここでやっと現実を知ります。「お詫びして自殺するので天皇の言葉が欲しい」などといった甘えた発言をし、天皇に「自殺するなら勝手にしろ」と叱られます。やむなく撤兵し、逮捕され、半年後、多くが銃殺にされました。

カウンタークーデターとしての二二六事件

さて、皇道派のボスで青年将校をたきつけた荒木貞夫らはどうなったか?もう分かるでしょう。

北一輝

北一輝 Wikipedia「北一輝」より

一応、現役を引退するということだけ、たいした責任は追及されません。かわりにといっては何ですが、皇道派に影響を与えたとされる北一輝ら民間右翼がとらえられ、処刑されます。仲間に甘く、民間に厳しい、陸軍のいつものパターンです。
陸軍という組織に「まともな」考え方を望むのは無理でした。ふつうなら「うちの若い衆がたいへんご迷惑を掛けました」とわびをいれるのが、この国の伝統と思うのですが、実際は「怖かっただろう。俺たちの言うことを聞かないならば、いつでも同じことができるのだ。だから俺たちのいうとおりしろ」こんないい方です。
陸軍主流派の統制派は反主流派皇道派のクーデターを利用して、自分たちの権限拡大を実現するカウンター=クーデタを行ったのです。

カフェーが立ち並ぶ昭和8年ごろの新宿 (Wikipedia「カフェー (風俗営業)」)

二二六事件以後、軍隊の横暴はいっそうひどくなっていき、そのことを公然と批判したり、疑問をいうことが難しい時代になっていきます。特高警察や憲兵隊が目を光らせている、そうした時代になりつつありました。
世間では、エロ・グロ・ナンセンスといったそのときだけの快楽をもとめる風潮が広がりを見せていました。しかし、それすらも許されないような時代が近づいていました。

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追記:一部加筆訂正を行いました。(2022/07/19記)

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