幕府の滅亡と戊辰戦争

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幕府の滅亡と戊辰戦争

幕府の軍制改革とフランスの動き

将軍となった慶喜は英明といわれた片鱗を発揮します。
大坂で、欧米の外交官と会見、紅茶を準備しての西洋風の洗練された立ち居振る舞いで、慶喜は公使たちの心をつかみました。
こうして、日本の外交は自分が仕切るのだとアピールします。
徳川慶喜

徳川(一橋)慶喜 フランス・ナポレオン三世からもらったナポレオン風の軍服を着ている。早くから改革派のリーダーと考えられた。父譲りの尊王論と幕府を守るという二つのはざまで苦しんだ。

他方、軍備の近代化を加速させます。そこに、声を掛けてきたのがフランス公使ロッシュです。「お困りでしたら、お金はいくらでも貸しますよ!」と接近します。フランスの援助のもと、軍制改革とともに、横須賀の製鉄所や造船所建設など産業近代化もはじまります。軍事顧問団もよびよせ幕府軍を訓練します。慶喜と勘定奉行小栗上野介を中心に進められたこうした改革を「慶応改革」とよぶことがあります。
日本の近代化はこの時期に始まった。小栗の評価が低すぎる」という人もいます。なお、フランス軍服に身を固めた慶喜の写真はフランスとの関係を示すものとしても有名です。
しかしフランスの動きは、ロッシュのスタンドプレーの面が強く、本国のねらいはあくまでもベトナムで、幕府の滅亡と相前後して、ロッシュは本国からクビ通知を受けます。
なお、ロッシュは援助の代償として蝦夷地獲得をめざしていたとの説もあります。蝦夷地を外国に譲って援助を得ようという動きは戊辰戦争中にも見られました。
こうして、最新の兵器をもちフランス士官による訓練を受けた幕府陸軍と、最新鋭の軍艦をもつ海軍が生まれつつありました。

緊張の高まり

幕府の軍制改革は、日本最強の近代的軍隊を持つ薩摩や、急速に近代化され戦いの経験も豊富にもつ長州、この両藩にとっても脅威でした
地力をもつ幕府、貿易によって大量の収入を得ることが可能な幕府が、本気で軍隊の近代化をすすめれば、軍事バランスは幕府に傾くからです。こうして軍事的にはまだ優勢である段階で戦った方がよいという論理が薩長両藩で生まれます
他方、軍事力の整備は慶喜にも自信をもたらしたでしょう。
幕府軍の近代化は、戦いで決着をつけようという気持ちを双方におこさせ、社会の緊張を高めさせるものでした
  こうした緊張は、一般民衆の中にも伝わります。1867年に入ると、現在の愛知県で空から伊勢神宮のお札が降ってきたという噂がひろがり、人々が「ええじゃないか」といいながら踊り狂う出来事が発生、この現象は瞬くうちに各地に広がりました。社会の緊張と長い江戸時代が終わるという開放感からくる集団ヒステリーの性格を持つものではないかといわれています。

武力倒幕路線

薩長両藩において軍事力で片を付けようという動きが強まっていくのは1867年になってからです。薩摩は、島津久光ら4名の有力者が集まって重要な政治事項を決定する形を作り、将軍もその一員となる形へ移行させようと計画しました。

岩倉具視(生徒のノートより)

しかし慶喜はあくまでも政治は幕府が動かすという原則を固執大久保らは「武力で幕府を倒すしかない」との覚悟を決めますこうした大久保らの最大のパートナーが公家の岩倉具視でした。岩倉は公武合体論にたいする強い反発から謹慎生活を送っていました。「朝廷が政権を握るべきである」という強い信念をもったリアリスト岩倉は、密かに大久保らに接近、さらに朝廷内の反幕府勢力への影響力を強めていました。

「討幕の密勅」

そして、10月14日、薩摩・長州両藩は「朝廷のいうことを聞かない幕府を倒せ」といった天皇の秘密命令(「討幕の密勅」)を手に入れます。
討幕の密勅

倒幕の密勅 中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之3名の署名で発行され、天皇のサインもなければ、関白の署名もなく、勅書の体をなしていない。明らかな偽勅である。

しかし、「討幕の密勅」は天皇のサインもなければ、摂政のサインもない、正式な天皇の命令とはとうてい見なせない偽物でした。しかし、大久保らにすれば、「正義があれば、たとえ偽ものでも、天皇の命令だ!」とでもいいたかったのでしょう。
このころ、薩長の関係者の中で「(ぎょく)をつかむ」という言葉が用いられ始めたそうです「玉」とは天皇のことです。この時期、討幕派にとって、天皇さえも、自分を正当化する手段となってきました

土佐藩の動き

しかし、もう一つの動きが進んでいました。薩摩・長州に遅れをとった土佐藩は、自藩出身の坂本龍馬との関係を修復することで遅れを取り戻そうとしていました。坂本は土佐藩の後藤象二郎に「将軍が政権を朝廷に返してはどうか。その提案を土佐藩がしたらよいとのアドバイスを与えたといわれます。後藤はこれを藩論とすべく提案、前藩主山内豊信が慶喜に提案したのです。土佐藩は、一方では雄藩の一つとして活動したい思いつつ、他方で幕府への関係も保ちたい考えていたため、この提案をするにはふさわしい藩でした。
他方で、土佐藩は薩摩藩とのあいだで、この提案に基づく国家をめざし、慶喜が拒んだ時は実力行使も辞さないとの密約(薩土盟約)を結んでおり、この提案は薩長側も知っていました。
大久保らはこの提案を慶喜が受け入れるわけはない。断ってくれば、土佐藩も武力倒幕へ参加させることができるという読みがあったと思われます。

大政奉還

ところが、慶喜はこの提案を受け入れます。1867年10月14日、慶喜は京都にいた各藩の代表者を集めて内容を説明し、意見を聞いたのち「政権を天皇にお返しします」という建白書を朝廷に提出します。これを大政奉還といいます。「大きな政治」つまり日本の統治権ですね、これを「奉還=かえしたてまつります」、目的語はありませんが、幕府が尊敬語で言うのだから、目的語は幕府よりも上の存在、つまり「天皇」です。恐れ多いということで、天皇とか朝廷といった言葉は使わないのがルールです。
この建白書がだされたのも、先のかなり怪しい⁈討幕の密勅がだされたのと同じ1867年10月14日のことです
両者の、息を飲むかけ引き」という所ですか。薩摩の討幕派のリーダー小松帯刀は、二条城で慶喜に「よく決断されました」とおべんちゃらをいっています。頭の中では、次の作戦をどうするか、すごい勢いで動いていたのでしょうね。
 こうして慶喜は征夷大将軍という地位を辞職、形式的には江戸幕府は終わります。

なぜ慶喜は大政奉還をしたのか?

では、「政治の実権は渡さない」として薩摩と対立した慶喜がなぜ土佐の提案を受け入れたのでしょうか。実は将軍職を返還するということは、何度も議論に上っており、いろいろな交渉の席上、「将軍なんて辞めてやる!」と騒いでおり、ひとつの手段として慶喜の頭にもありました。また松平慶永らがなんどもこの提案をしていますので、このときの提案が初めてでも、目新しくもなかったのです。坂本龍馬の創意というのは「神話」!です。
薩長の動きが活発化するなか「将軍が天皇のいうことを聞かない」という倒幕の名目を奪うこと、土佐の説を受け入れることでもう一つの雄藩土佐が薩長側につくことを阻止しようとしたことなどが指摘されます
慶喜の頭の中には「朝廷には内政や外交を運営する能力はない、したがって政治を朝廷に返したところで、幕府に泣きつくに決まっている」との思いがありました。

「大政奉還といわれても・・」(生徒のノートより)

実際、朝廷側も「わかりました。しかし全国の大名らによる会議を開くまで、将軍の辞表は保留です」といってきます。慶喜も大名が集まった会議(列侯会議)の議長として、天皇の下で政権を運営するつもりで、新しい政治構想を部下に命じています。

王政復古のクーデタ

しかし、慶喜には読み違いがありました。政権が朝廷に渡ったことで、薩長が天皇の名で政治を行うということも可能となったのです大久保や西郷、岩倉はこうした工作は得意です。
慶喜は英明ではあってもやはりボンボンでした。「大政奉還」を利用して「悪だくみ」をする薩摩の悪党たちの姿は思い浮かばなかったのですから。
1867(慶応3)年12月9日早朝、クーデターが決行されます。薩摩藩など5つの藩兵が御所の門を固め、天皇の命令が発表されます。「将軍辞職を認める。摂政関白や将軍を廃止、総裁・議定・参与という3つの役職をおき、王政に戻す」という内容の命令です。これを王政復古の大号令と呼びます。そして、総裁は和宮の元カレ・有栖川宮熾仁親王、議定は岩倉派の公家と五藩の藩主、参与には岩倉らの公家と五藩から各三名の藩士、大久保もここに入ってきます。合計31名が新しい政権を担うことになります。
王政復古は「将軍・幕府はもういらない。天皇の代理も後見人もいらない、天皇のもとで自分たちが政治を行う」と天皇親政を宣言したことです。でも、何の経験もない年少の天皇と取り巻きのお公家さんにやっていけるのか、「薩摩と長州、自分たちがやっていく」という裏の狙いを感じますね。

新しくできた政治体制の実態

では、五つの藩とはどこでしょう。薩摩藩、これはいいですね。え、長州藩?、実は長州はこの前夜、クーデターの直前にやっと許され京都に入る許可をもらったところで、兵庫県の西宮に着いたところ、この段階では参加できません。
だから、それ以外の藩です。まず広島・芸州藩(浅野家)は空気を読んで薩摩と軍事同盟を結んでいるので一応討幕派ですが…。という程度。あとは、大政奉還のいいだしっぺの土佐藩、一橋派以来幕府改革派の中心であった松平慶永の越前藩、御三家の一人で一橋派として処罰された徳川慶勝の尾張藩。いずれも幕府にとっては親しい藩ばかりです。この4つの藩が大久保らの説得によって、「天皇の命令」ということでクーデタに加わります。当然のことながら、情報は慶喜にも伝わっていたと思われます。しかし、慶喜はこれといった行動をとっていません。松平慶永や徳川慶勝が「とりあえず私たちに任せてください」といったのかもしれません。

小御所会議~山内豊信の一喝

そして、この日の夜、あらたに任命された総裁議定参与が集まって会議が開かれます。これを小御所会議といいます。議定として呼び出された一人が山内豊信です。
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山内豊信(容堂) 酒を愛した人物として現在も語り継がれる。雄藩としての独自性と幕府への忠誠を両立しようとした。下士を中心とした尊王攘夷派を弾圧した。

かれは自分がお膳立てをした大政奉還が薩摩に利用されて腹が立って仕方がない。しかも自分の藩がクーデタに参加したのでさらに面白くない、彼は「鯨海酔侯」と自称し、数年前にはテレビコマーシャルにも「出演⁈」したほどの大酒飲み。昼間からやけ酒を飲んで、かなりいい⁈調子、というか当時の記録でも、泥酔状態。そこに連絡が来ます。「あほらしくて行けるか」といっていましたが、気が変わって参加します。そのころ会議では元将軍慶喜に対し「内大臣という官職を辞職し、幕府の土地(の一部)を朝廷に差し出せ」(辞官納地)という提案がされようとしている。
そこに豊信がやってきて大声をだす。「なぜここに慶喜がいないのか。慶喜こそが政権を朝廷に返した功労者ではないか。すぐ呼べ」。ここまでは良かったが、いっそう興奮してきた豊信は「そもそも今日のクーデタは数人の公家が若い天皇を利用してやった暴挙ではないか」とまでいいだす。岩倉もだまっていません。「天皇に対し無礼であろう」と反論する。松平慶永も慶喜を呼べと主張したものだから会議は大混乱、ついに休憩となります。

「短刀一本で片がつく!」

豊信、ウザい!困った!」とばかりでてきた岩倉の前に軍隊を指揮していた西郷が現れます。話を聞いた西郷が一言。

「短刀一本で話がつく?!」(生徒のノートより)

そんなもの、短刀一本で決着がつく」。わかりますか。「豊信を殺せばいい」という意味です。西郷らしいですね。岩倉もいいます「よし、やる!」と。お公家さんとは思えない根性の座り方ですね。ビビったのはまわりのもの。その話が土佐藩の後藤象二郎につたわり、後藤は豊信に耳打ちする。「岩倉があなたを殺すつもりだ。自重された方がよいですよ」と。こうして、会議再開後、豊信は沈黙、結局「辞官納地を、慶喜に自発的に申し出させよう」ということでまとまります。できすぎた話ですが、西郷・岩倉、さらに山内豊信(容堂)、それぞれの人間性を感じさせますね…。いくつかの史料にはありますが、本当かどうか、ちょっと怪しいですね。

慶喜、大坂へ

会議の結果は二条城にいた慶喜に伝えられます。幕府側の関係者は激怒し、「ただちに御所を攻撃すべき」との声もでました。しかし慶喜はそれを制して、全軍を大坂城へ引くことを命じています。この会議の結果を正式に伝えたのは慶永と慶勝です。この二人は「裏切り者」とかやじられもしたでしょうが「自分たちがなんとかするから」と慶喜を説得したのでしょう。「本気でクーデタに賛成しているのは薩長と一部の公家しかいない」とかいって…。

幕府側の巻き返し

実際、慶永や慶勝らは頑張りました。かれらの説得は功を奏します。1867年の年末には岩倉すらが折れて「議定の中に慶喜をいれる」ことがほぼ決定、辞官納地も骨抜きにされます。
慶喜が入ってくると、弁が立ち頭が切れる慶喜が中心の政治にったでしょう。
しかし、この決定的な時点で、賢いけどボンボンの慶喜は、西郷や大久保というえげつない人物にまたしてもやられ、大失敗をします。
でもここで乗せられてしまう程度の連中が中心だったからこそ、幕府は滅びたし、滅ぼされねばなければならなかったのでしょうが…。

「薩摩藩の陰謀」

薩摩藩は武力倒幕を実現するために10月ごろから非常に汚い手段をとりはじめました。ガラの悪い浪人を集め、江戸や関東一円で発砲や強盗事件を起こすなど乱暴狼藉を繰り返し、これ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込む行為を繰り返します。
こうした行動に、江戸の町などでも批判が高まり、12月25日、江戸を警備していた庄内藩などが薩摩藩邸を包囲、砲撃を加えて焼き払い、市街戦となります。
この知らせが大坂城に届くと、幕府側は薩摩への怒りを爆発、コントロールが利かなくなることをおそれた慶喜は、朝廷に薩摩の悪事を訴える文書を興奮した家臣に渡してしまいます。その文書もった使者に同行するという形で1868(慶応4)年1月2日、幕府軍1万2千の大軍が京都に向かって出発したのです。使者だけだったら、薩長も困ったのでしょうが。
大久保や西郷からすれば「危ないところ、作戦大成功。慶喜め、うまく罠にかかった」と喜んだでしょうね。ここで慶喜が我慢をして正式に議定に任命されれば、作戦がすべて水の泡になるところだったのですから。
でも戦いに勝たねば、もっと悲惨でしたが…。

鳥羽伏見の戦いの発生

このとき京都に向かった幕府軍のリーダーたちは、まだ古い幕府の感覚が抜けていませんでした。「将軍様の命令じゃ、押し通るぞ!」といえば、相手は平伏し、自分たちを妨げたりできないはずだ。ましてや撃ちかかってくるものなどいるはずがないとでも思い込んでいたのでしょう。ですから、まったく戦闘には適さない陣形で、京都に向かい、現在の京都市南部・鳥羽で準備万端整えていた薩摩藩と向かい合います。すきだらけです。そして「通せ、通さぬ」というやりとりをします。やりとりの間に薩摩兵は体制をととのえ、一斉に発砲します。幕府側からすれば「そんなアホな?!」という感覚です。こうして旧幕府軍と新政府軍の間の戦いが始まります。これから数日間にわたって戦われた戦いを鳥羽伏見の戦いといい、これに引き続く2年にわたる内戦を戊辰戦争と呼びます。

伏見での戦いと土佐藩

この砲声をきっかけに、少し離れた伏見でも戦闘が開始されます。

鳥羽・伏見方面戦闘図(鳥羽離宮公園内

伏見では、長州藩を中心に薩摩藩と土佐藩が協力するかたちで待ち受けていました。薩摩の大砲が幕府側にどんどん撃ち込まれ、激しい戦闘となります。

戦いの中、不思議な事態も発生していました。幕府側・会津藩の部隊が土佐藩に向かっていこうとすると土佐藩は「あっちに行けば北上できるぞ」とばかりに横の方向を指さしたといわれます。土佐藩兵は、山内豊信の命令で戦闘が禁止されていたのです。この会津隊が北上していれば日本の歴史がどう変わったかという場面でした。しかし後から続く隊がなかったため幕府側はこの機会を逃しています。
一日目の時点で、新政府側で戦っていたのは薩摩・長州両藩の約3000人だけでした。しかし最新鋭の武器と実戦経験を持つかれらの前に、幕府側は伏見の町を焼いて撤退、鳥羽方面でもじりじり押されます。

「錦の御旗」の衝撃

二日目になると戦場は京都競馬場のある淀一帯へと移り、ここで一進一退の激戦が繰り広げられます。
東軍戦死者埋骨碑

鳥羽伏見の戦い 東軍戦死者埋骨碑   激戦地であった淀付近には、戦跡が多い。薩長側は一人一人丁重に葬られたのにたいし、旧幕府側はまとめて埋葬された。その場所を示す碑 (「みやこ鳥」さんHPより)

慶喜の下で育成された幕府陸軍も活躍したとされますが、やはり装備に勝る薩長軍の前に押され気味です。こうしたなか、決定的な出来事が起こります。薩長軍が、天皇の軍隊であるしるしの「錦の御旗」を立てたのです。『正義』の源である天皇に、旧幕府は「『敵』であり『悪』である」と判定されたのですそれを数枚の旗がビジュアルに示していたのです。
こうした事態は、保守的な立場の人が多い旧幕府軍にとってショックなできごとでした
賊軍になれていた長州ならそれほど気にしなかったかもしれませんが。

「官軍」と「賊軍」

京都の朝廷は、薩摩藩の強硬な申し入れにしぶしぶながら「薩長側が天皇の軍(官軍)、旧幕府側は天皇の敵(「朝敵」)賊軍である」という決定をだしたのです。

錦の御旗!(生徒のノートより)

それをうけ、官軍の旗印として朝廷の紋章が織り込まれた「錦の御旗」が与えられたのです
しかし、よく考えてください。朝廷が戦うなんてことは、ここ数百年間、ありませんでした。だから「錦の御旗」なんてものは聞いたことはあっても、見たことがありません。それを岩倉が命令し、岩倉の腹心がデザイン、大久保の彼女が西陣で布を買ってきて、長州で作らせたのです。薩長側の計画性が見られます。
他方、松平慶永や徳川慶勝、山内豊信らは自分たちの苦労が失敗に終わり、慶喜と戦わねばならないことを覚悟します。「あんな奴を信じた自分が馬鹿だった!!」とばかり、おもわず天を仰いだというところでしょう。

新政府軍の勝利と慶喜の逃走

「錦の御旗」出現をきっかけに薩長を主力とする新政府軍が優勢となり、旧幕軍では裏切りが相次ぎます。とくにショックだったのは現役老中の地元淀藩が城門を閉ざして淀城の中に旧幕軍を入れなかったこと、さらに川を挟んで対岸に布陣をしていた幕府側の藤堂藩が裏切って幕府側に大砲を撃ち込んできたことでした。こうして圧倒的多数の兵力をもつ旧幕軍が大敗を喫し、主に薩長両藩だけで戦った新政府軍が勝利します。

将軍、脱走(生徒のノートより)

慶喜は、大坂城で帰ってきた兵士の前で「自分が先頭となって再び戦う」とのファイティングポーズをとり、喝采をえます。ところが、その夜、主戦派の松平容保らを連れて大坂城を抜け出し、軍艦で江戸に逃げ帰ります。残された人たちは「あんな奴を信じた自分が馬鹿だった」とばかり、ちりじりになって逃げ去ります。その直後、大坂城から謎の火の手が上がり、大坂城はまたも焼け落ちます

「鳥羽伏見の戦い」が持っていた意味

最初は薩摩と長州だけだった新政府軍は、朝廷から官軍と認められ、圧倒的多数の旧幕府軍を破ったことによって、慶喜の復権に取り組んだ尾張・越前・土佐といった藩はもちろん、強い方につこうと日和見を決めこんでいた藩も、幕府寄りだった藩も、次々と新政府側につきます。藩主が幕府の役職に就いている藩では藩主を見捨てます。
王政復古のクーデターに参加し、最も去就が注目された御三家筆頭の尾張藩では、最高実力者、慶勝が幕府派と見られた多くの家臣に切腹を命じるとともに、迷っている多くの藩へ新政府側につくように説得する使者を派遣します。こうして、西日本から中部地方の大部分の藩が連鎖反応的に新政府側につき、新政府の言いなりのまま、旧幕府討伐のための兵士を派遣します。
このように、鳥羽伏見の戦いの勝利によって、新政府軍は多数の藩を支配下に置くことに成功、新政府の基礎ができます。

戊辰戦争と江戸城の無血開城

新政府軍は最新鋭の兵器で武装された薩摩・長州、土佐、さらに長崎警備という役割から最新鋭の兵器で武装していた肥前・佐賀藩、この四藩の軍隊を中核とし、新政府軍が編成されます。(中核となった四藩薩長土肥の出身者が明治の藩閥を形成します)。
勝海舟(アメリカの写真館で写した写真) 幕府・開明派の代表で、坂本龍馬を育て、西郷らの尊敬も受けていた。鳥羽伏見の戦い以後の幕府責任者として、江戸の無血開城に尽力した。明治以降、旧幕臣の中心として、政府の官職にも就いた。
屈服した藩も兵をだすことが命じられます。多くは弾よけ的な役割と道案内に使われることが多かったのですが…。そして「槍とか刀の部隊はいらん、近代的な鉄砲隊以外を決められた人数をだせ、お付きはつれて来るな。」と、きびしい命令が突きつけられます。やむなく諸藩は金を工面して鉄砲を買いそろえ、部隊を編成して、政府軍に合流させます。なお、こうして新政府軍に参加したものが、戦争終了後、政府の権威を背景に藩政をにぎっていきます。
こうして新政府軍は兵力と装備を増強しながら、大きな抵抗もなく東へと進んでいきます。
江戸では、謹慎している慶喜から権限を託された勝海舟が徹底抗戦派を抑え、江戸城の無血開城を実現します。そのバックには、江戸を戦火に巻き込むことによって貿易に悪影響を与えることを嫌ったイギリスなどからの強い圧力があったといわれます。

西郷と戊辰戦争

新政府は、平和的な解決を嫌っていた!(「戦いをしたかった!」)ような気がします。
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西郷隆盛 エドアルド・キヨッソーネが西郷の親戚を参考に想像で作った版画   島津斉彬側近として台頭、安政の大獄の時自殺を図ったが蘇生、薩摩藩の討幕派の中心として活躍、明治以後も大きな役割を果たしたが、西南戦争をおこし、敗死した。(Wikipedia「西郷隆盛」より」)

新政府は「軍事力と血」によって成立したということを日本中に見せつけて新政府への絶対服従を誓わせたかったのです。そして、その過程で、それぞれの藩が新政府のために戦って戦死者がでる。江戸での戦闘に多くの藩を参加することで、幕府との決別もすすむ。ちょうど大坂の陣で豊臣氏にしたように…。
じつは、こうした強硬論を最も強く主張したのは長州の木戸孝允(桂小五郎)だったみたいです。
しかし、新政府、とくに西郷は江戸を戦場にすることのリスクを考えてそれを回避しました。

人身御供にされた東北新潟の諸藩と会津

旧幕府にかわりに手頃な人身御供とされたのが、東北地方および新潟の諸藩、とりわけ会津藩でした。
会津・若松城

新政府軍の攻撃を受け損傷をうけた会津・若松城 (Wikipedia「若松城」より)

 東北諸藩は、同じ東北の会津藩への処罰を軽くするように要求しましたが、新政府はそれを許さず、逆に挑発的な態度をとり、戦争に巻き込みます。すでに勝利のメドがたった新政府にとって、平伏するのでなく「生意気」とみえる態度をとる東北や越後の諸藩は、結果的にはちょうどよい見せしめの対象だったといえるのかもしれません。
越後の長岡藩について「中立の姿勢をとっていたのに、担当者がダメな奴だったから戦闘となった」という人がいますが、新政府の要求は全面的な屈服です。無条件降伏です。中立など認められるわけがありません。東北及び越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して戦いますが、新政府軍の前に敗退します。
最大の人身御供であり、みせしめの対象が、京都守護職として尊攘派などを迫害した(と考えられた)会津藩でした。会津は新政府軍によって徹底的に蹂躙され、藩士たちは青森の荒れ地に追いやられます。

五稜郭の戦い。土方歳三死す。(生徒のノートより)

他方、最後まで抵抗し、敗れなかった庄内藩の処罰は比較的軽いものでした。みせしめの価値がもうないし、変に刺激すれば危険と考えたのでしょう。関ヶ原後の薩摩藩の扱いを連想させるかのように、よくがんばったといわんばかりに。
みごとなダブルスタンダードで、政治的です。庄内藩士は、西郷のファンになり、西南戦争にも多くの人が参加します。
旧幕府軍の抵抗は、北海道・蝦夷地の五稜郭に立てこもった榎本武揚らの降伏で1869年5月におわりました。鳥羽伏見の戦いに始まる2年にわたる内戦を戊辰戦争といいます。
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