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敗戦とアメリカによる占領の開始
8月15日、なにが終わったのか?
おはようございます。今日から戦後の話になります。
1945年、昭和20年8月15日、「戦争」が終わりました。
終戦とも言いますね。では、終わったものは何だったのでしょうか。
いうまでもなく、アジア太平洋戦争。1941年12月8日に始まりました。
1939年9月に始まった第二次世界大戦。
生活のなかに戦争がはいりこんできた1937年7月7日に始まる日中戦争(当時の意識では「支那事変」)。
中国と十五年にわたる戦争。「昭和の戦争」としてくくることのできる1931年9月18日以来の戦争。
これがあわせて終わりました。
1894年の日清戦争開戦以来の10年ごとに大規模な戦争をしていた五十年戦争の時代もおわります。
さらにいえば、ペリーの来航以来の外圧の中で、ず~っとつづいた国際的な緊張(「万国対峙」)を意識し続けた「富国強兵」の時代。その反動として対外進出・侵略の時代、これが終ったのもこの日です。
こうして見てみるならば、幕末以来の日本のあり方が1945年8月15日の敗戦によって清算されたかのようです。約90年の近代日本のあり方、それが敗戦という形で終わり、日本の近代のありかたが本当にそれでよかったのか?どこか間違っていなかったのかと問い直されたといえます。
そうした問い直しに、わたしたちの先輩はどれだけ十分に応えたのでしょうか。残念ながら、不十分だったと思います。現在もアジア諸国から提起され続けている「歴史問題」は、先輩たちが十分にこの問いに向き合ってこなかった結果だと思います。
残念ながら、日本人は戦争犯罪に対する裁判すら自分の力でできなかったのです。にもかかわらず、曲がりなりにも行われた軍国主義と侵略戦争を断罪した裁判を「勝者による裁判」「手続きがおかしい」として否定しようとする人がいます。もし日本人の手で戦犯裁判を行っていたなら、この批判は通用するでしょう。しかし否定するだけなら、日本はだれも責任をとらなかった、責任を認めなかったことになります。東京裁判に対するこうした批判は、自らの手で戦争を、日本の近代を裁けなかった恥をさらしているだけのような気がします。
世界が、靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、世界が認定した戦争責任者(A級戦犯)を政府が免罪し、8月15日に対する責任をとらないと宣言しているように見えるからです。自らの戦争での行動に向き合おうとしない日本へのいらだちなのです。
ですから靖国神社への公式参拝問題は、戦争責任の否定として、アメリカさえも許さなかったのです。靖国神社のもつ問題点や信仰の自由とは別次元の問題です。
昭和天皇も現在の明仁天皇も、このあたりは筋を通しました。A級戦犯の合祀がされたことを知って昭和天皇は激怒したといわれます。そして、それ以降、昭和天皇は靖国参拝を中止し、明仁天皇もそれにならい、現在に至っています。
アメリカとの関係を重視していた昭和天皇は、東京裁判の意味をよくわかっていました。ふたりの天皇が、靖国神社へ参拝しなくなった理由を、考える必要があるでしょう。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。そのことも考えてみたいと思います。
業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作った8月15日の思い」
では、どのような問い直しがされたのか、みなさんにも考えてもらいたいと思います。
その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」、いや「もと人間」つまり幽霊・亡霊・霊魂でも、あるいは「人間以外の何か」動物でも、樹木でも、石ころでも(心があれば、という前提ですが)かまいません。とりあえず、なんでもいいから、8月15日、戦争が終わったとき気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてください。
とにかく、○○が「8月15日に「戦争」が終わったと聞いてどう思ったのか」その気持ちと理由を書いてください。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありません。自由に考えてくださいという内容です。
とにかくみなさんにそのときの○○の気持ちになって欲しいのです。それが、戦後の日本、戦後の世界への初心になるのですから。
以上、業務連絡でした。質問は授業の後で、お願いします。
※ここまでの内容は「日本史Aの準備室」「’45年8月15日、何が終わったのか」のなかでも展開しています。よろしければご覧ください。
「戦争が終わった!」「もうだまされないぞ!」
日本にやってきた米軍部隊。その日本上陸の様子を見てみましょう。8月30日のことです。かれらは完全フル武装、戦闘仕様で、相模湾に上陸作戦?!を敢行しました。もちろん艦砲射撃はしませんが・・。あれだけ激しく抵抗した日本軍が何の抵抗もしないとは信じられなかったのでしょう。しかし、だれもおらず、何の抵抗もありませんでした。おたがいにポカーンというところでしょう。
同じ8月30日、2週間前は徹底抗戦派の拠点であった海軍厚木飛行場に連合国軍最高司令官マッカーサーが到着します。やはり何の抵抗もありませんでした。日本軍の戦闘機のプロペラはすべて外されていました。
結局、大部分の人が天皇の命令に素直にしたがったのです。
「玉音放送」を聞くまで、「戦争がおわる」と考えていた人はわずかでした。そうした状態で敗戦ということを知ったため、みんな虚脱状態となり、なにが起こったか分からなかったといいます。しかし「玉音放送」の直後、「直後」といっても「放送と同時に」という人から、「数日、数年たってから」といろいろですが・・、自分の中の「戦闘モード」、緊張状態が音を立てて壊れていき、「平和モード」へと一挙に切り替わっていきました。
テレビや映画風にいえば、
泣きつかれたり、放心状態にあった人も夜になったので裸電球をつける。「もういらない」と気づき、電球のまわりをおおっていた黒い布をはずす。
光が部屋中に、家中に広がり、それぞれの家の明かりが町中に広がる。真っ暗だった街が明るく照らし出される・・。
こういった感じです。
部屋の、家の、街の明かり、明るさこそが、平和の実感でした。
そして考え始めます。
ゆっくり寝てもいいのだ。勤労動員もなくなったのだ。竹槍の訓練も防空演習ももういらない。モンペや国民服を着なくてもいい、好きな服を着てもいいし、パーマをかけてもいいのだ。何を食べても、腹いっぱい食べてもいいはずだ。(食糧不足が本格化するのはこれからですが・・)。どんな本を読んでもいいし、なにをいってもいいのだ。お上や隣組の目を気にしなくてよいのだ。戦死したり、空襲や原爆で焼き殺された家族のことを泣いてもいいのだ。かれらを死に追いやったものに恨みをぶちまけてもかまわないのだ。配給を滞らせる役所に文句を言ってもいいのだ。闇で物を買ってもちっとも恥ずかしくないのだ。自分たちの欲望を解放してもよいのだ。そう、これからは自由なのだ。「あの時代」は終わったのだ。もうだまされないぞ!
徹底抗戦を叫ぶ軍人の中にも「平和モード」が忍び込みます。上官の命令に従わないもの、正式にあるいは勝手に隊を離れるものが続出、行きがけの駄賃で、軍の物資を持ち出すものも現れます。軍隊はわずか数日で戦争ができる状態ではなくなりました。少し前まではみんな狂信的に戦争に従っていたのに、徹底抗戦を叫ぶものの方が狂信的と思われるようになります。日本人得意の変わり身の早さです。
ホントのところ、みんな戦争はもううんざりだったのでしょう。
天皇に申し訳ないと言って集団自殺した人もいました。特攻隊員など死を覚悟していた人には重い問いが残されます。「あの戦友の死は何だったのか、無駄死にだったのか」さらに「後に続く」といった自分の言葉が嘘になった罪悪感。こういった思いが彼らの戦後に影を落とし続けます。それぞれの隊員の戦後は多岐にわたりますが、この影を背負いながら、戦後を生きていきました。
ちなみに日本映画の最高傑作の一つ「仁義なき戦い」シリーズの主人公は特攻隊くずれの暴力団員でした。
東久邇内閣と「一億総懺悔」
玉音放送の後、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、新たに東久邇稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣が成立します。
東久邇は天皇の一族(皇族)で、開戦直前、東条が「首相に」と、推薦した人物です。そのときは、皇族に開戦の責任を負わせるのは困るとして外されたのですが、「戦争終結は皇族の方がよい」と、東久邇が選ばれました。
東久邇は国民に訴えます。「敗戦の責任はすべての国民にある。だから全国民が反省(「一億総懺悔(いちおくそうざんげ)」)すべきだ」と。誰に、何を、どのように、反省するのか、突っ込みどころ満載です。かりに全国民に責任があるとしても、責任の軽重は明らかだとと思うのですが。
「戦争に負けた辛さ」がまだまだ大きい時期、なんとなくこういう雰囲気が世間をおおっていたのかもしれません。しかし、この雰囲気が支配したのもそんなに長くはなかったのですが。
マッカーサーの登場と降伏文書調印
その間、軍と政府の責任者がフィリピンに飛び、連合国軍司令官マッカーサーとの間で日本占領への段取りをつけました。
マッカーサーは厚木飛行場へ直接乗り込むことを主張、前日の先遣隊につづき、8月30日、厚木に到着しました。
タラップがつけられ、扉が開き、マッカーサーが出てきます。サングラスをかけ、軽装で、コーンパイプをくわえて。周囲を睥睨(へいげい)し、ゆっくりとタラップをおります。
日本の将軍のような無駄な重々しさとはまったく別の、しかし自分こそが天皇に変わる日本の支配者だと納得させるに十分な登場の仕方でした。すこし動画も見てみましょう。マッカーサーという人は、ヴィジュアルをかなり意識する人で、飛行機の中でどのような格好で初登場するのか、かなり検討していたという話です。
9月2日にはアメリカ戦艦ミズーリ号の船上で降伏文書の調印式が行われ、戦争は正式に終了しました。世界の多くの国では、この日を第二次大戦終結の日としています。
8月15日から調印式までの間、ソ連軍との間で戦闘が続いていたことは前回の最後で触れました。ソ連としては、ヤルタ会談でソ連が貰うことになっていた場所を大急ぎで確保しようとしたのです。クナシリ・エトロフなどの南千島については議論の分かれるところですが。この時のソ連の行動、いかがなものかとは思いますが、国際法上の問題はないみたいです。
アメリカ軍の占領統治とマッカーサー
こうしてアメリカを主力とする連合国軍による占領統治が始まります。43万人にものぼる大量の軍隊(アメリカ側はこれを進駐軍と呼ばせました)が日本各地にやってきて、焼け残った大きな建物や公園などに駐留します。東京に入ってきたときの様子を当時のニュース映像で見てみましょう。
僕が通っていた大学のキャンパスも米軍に接収されていました。当時のサークルの部室は米兵のキャンプの兵舎を仕切った部屋でした。
華族や大金持ちのお屋敷も、米軍に接収されます。占領が終わって返却されたときには立派な柱や壁がペンキで塗りつぶされていたという話もよく聞きました。
占領軍を受け入れるにあたって、神奈川県が県民に出した回覧板の文書があるサイト(「探検コムより)に掲載されていました。この時期の人々の不安な気持ちと時代の空気感をよく示していると思います。
ちなみに、占領軍受け入れに対して、日本の内務省がまっさきに準備したのが特殊慰安施設、米兵向けの国営売春機関です。なんのことはない政府が慰安所を設けたのです。その資料も、このサイトに掲載されています。
占領軍(駐留軍)はアメリカ軍が大部分を占めますが、中国・四国地方はオーストラリアなどのイギリス連邦軍が駐留しました。軍人とはいいながら、ハーバード大学など名門大学の大学院を出たような弁護士や研究者、実業家なども軍人となって来ており、彼らが占領政策を担いました。日本の軍隊のイメージとは大きく違いますね。
なお、ソ連の指導者スターリンがアメリカに、日本占領は大変だろうから、北海道北部の稚内付近はソ連が占領してもよい?!といってきました。アメリカ側は即座に拒否します・・・。もし実現していたら、北海道北部に日本人民共和国が成立、分裂国家になっていたかもしれませんね。
マッカーサーという人物
巨大な連合国軍の頂点に立っていたのが、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーです。
1930年には50歳の若さで参謀総長という軍のトップとなり、戦争では南西太平洋方面の連合国軍総司令官として日本との戦争の前線にたちました。
作戦的には問題が多いフィリピン攻略作戦を、フィリピン奪還、”I shall return!”という公約実現のため実施するなど、独断でことをすすめる傾向が強く、歴代の大統領が「有能だが危険」と評価するクセの強い人物です。さらに、反大統領派の共和党員であったため議会も口を出しません。軍のトップ・参謀総長アイゼンハウワー(次の大統領!です)はかつての部下でした。かれの首に鈴をつけられる人間が見つからない状況で、マッカーサーは独裁者として占領政策を進めました。次期大統領選出馬をめざしたこともあり、人目につきやすい派手な政策を好みます。
アメリカ日本占領は良く悪しくも、彼のパーソナリティ、ときには好悪に影響されました。
幻の直接統治
軍政下に置かれ続ける沖縄などを除き、連合国の占領統治は、マッカーサーを頂点とする連合国最高司令部総司令部(GHQ・SCAP)が、日本政府に指示を出して統治するという間接統治の形をとりました。具体的な政策の多くはGHQの意図をくみながら日本政府がすすめますが、重要な政策やアメリカなど連合国・軍の利害にかかわる内容は、GHQが頭ごなしに命令を出しました。この命令はポツダム勅令(のちポツダム政令)とよばれ、絶対的な権力を持ちました。
最新の研究では、9月2日の降伏文書調印の直後、「直接軍政を行う・公用語を英語とする・米軍の軍票(紙幣)を用いる」という命令を日本側に伝えました。もしこれが実施されていれば日本政府は統治能力を失ない、日本政府の連続性が断ち切られていたでしょう。その場合、日本はまったく別の歴史をたどったでしょう。しかし驚いた外務当局がマッカーサーと直接交渉し、翌朝にはこれを撤回させました。
日本が予想以上に早く降伏したため、本国政府とマッカーサーの間の意思疎通が不足だったことが原因だと思われています。
東久邇内閣とGHQ
こうして連合国による日本占領が始まりました。
マッカーサーはやはりおびえていたのかもしれません。なんといっても、あれほど頑強に、かつ理解不能なほどの行動に出た日本軍です。どのような抵抗をするか、想像もつかなかったのでしょう。占領軍は、武装解除と戦犯の逮捕を第一とし、日本の政治には余り口出していません。
こうした事情もあって、東久邇内閣はポツダム宣言に記されていた無条件降伏の意味はあまり理解できなかったのでしょう。戦争をすすめた勢力がそのままだったのですから。
自由主義的で、留学中はフランスの社会主義者とも交際があった東久邇は、労働運動や農地改革、女性参政権などにも肯定的だったともいわれ、軍人の政治介入がなくなったのでかれなりの自由主義的な改革をすすめようとしていたのかもしれません。
この内閣の中心には日中戦争開戦時の首相で、対米英戦争で開戦への道を進めた近衛文麿がいました。近衛はアメリカと協力して改革をすすめると張り切っていました。和平に向けて努力したし、国際感覚もあると自負していました。近衛は、天皇の意を受け、GHQとも連絡を取りながら憲法制定にとりくみます。近衛には自分が戦争、とくに日中戦争をひき起こしたという当事者意識はありませんでした。ある意味、日本的無責任の典型ともいえそうですね。しかし米国民、GHQ内部での近衛への不信は強く、12月には戦犯に指定されます。それを嫌った彼は、逮捕前日自ら命を絶ちました。
間接統治と直接統治~日本本土と沖縄
さきにみたように、日本占領は間接占領の形式をとります。間接統治とは、アメリカの命令に従って日本政府が統治するというやり方です。
普通のことのように見えますが、これは特別なことでした。たとえば、ドイツは国土が完全に占領され、政府も機能を失ったため、連合国がドイツを4つに分割し、それぞれの地域に責任を持つ国の軍隊がドイツ人に直接命令・統治する直接統治というやり方をとりました。そして安定してきたのを見はからって、ドイツ人に統治を委譲します。しかし、米英仏三国とソ連の間の冷戦のなか、双方とも自陣営に都合のよい政府をつくろうとしたため、ついには「2つのドイツ」が生まれました。ドイツの統一が正式に回復されるのは1990年のことです。
敗戦国でもないのに、同じ目に遭わされたのが朝鮮(韓国)です。このことについては、のちに見ることにしましょう。
日本も、本土決戦を行っていれば、直接占領となり、高い確率で分裂国家の憂き目に遭っていたでしょう。しかし本土決戦以前に降伏したため、そういう目には遭いませんでした。
しかし、その代わり、それまで戦争遂行をすすめていた政治家が、自分も被害者だという顔をして、新たな日本政府のなかに残りました。前日まで「鬼畜米英」「一億玉砕」と唱えていた人たちが、翌日には「平和国家の建設」「対米協調」を唱えたのです。彼らの多くは、きっと占領が終わると、「あれはアメリカに押しつけられたので、本意ではない」といいそうですね。実際に、そういう人間も多かったのです。この無責任さが戦後の日本のありかたに大きな影響を与えました。
ともあれ、支配層の一員ではあったが、何らかの事情で戦争中の政府と距離をたもっていた人たち、アメリカと決定的に対立する前に干されていた幣原喜重郎や吉田茂などが、戦後政治をリードすることになります。
のちに首相となる吉田茂と、A級戦犯として処刑された広田弘毅は外務省で同期入省です。226事件直後に成立した広田内閣は、吉田の説得に広田がしぶしぶ応じたもので、当初は広田と吉田の協力で組閣されるはずでした。しかし陸軍の横車で「自由主義者」とみなされた吉田は外れ、残された広田の内閣は軍部のいいなりとなり、戦争の道を開きました。そして戦後、ひとりは戦後の日本の針路を決めた大政治家として国葬で弔われ、もうひとりは戦争への道を開いたとして文官で唯一絞首刑に処され、遺族には遺骨さえ渡されませんでした。
日本も「分割」された。
「日本はアメリカ軍の間接占領のもとにおかれた」といいました。しかしこれは正確ではありません。わかりますか?・・・。
沖縄です。
日本本土は間接統治下に置かれましたが、沖縄は除外されました。日本政府の権限が及ばず、沖縄戦開始以来の米軍による直接統治がつづきました。多くの沖縄県民は収容所の中で8月15日を迎えました。解放された後も米軍の直接統治がつづきます。のち自治は認められてますが、直接統治時代と変わらないような支配が1972年の沖縄返還まで続きました。
奄美群島も米軍占領下に置かれましたが、1953年日本復帰がみとめられました。小笠原諸島の島民は戦争中、日本軍に退去を命じられます。その後、アメリカの施政権下におかれ、まずアメリカなどにルーツがある人(江戸時代にこの地に移り住んだ欧米系、ハワイ系など住民の子孫)だけ帰島がみとめられました。サンフランシスコ平和条約で、沖縄と同様に日本から切り離され、米軍の施政権下におかれます。元島民の帰還が認められるのは、1968年の小笠原諸島の返還以降でした。
このように「日本は米軍の間接統治下にあった」という言い方は不正確ですし、日本もドイツや朝鮮とは別の形で分割されたのだと言うことを知っておいてください。
武装解除と戦犯逮捕
日本軍の武装解除は予想以上に早くすすみ、国内では9月中でほぼ終了します。マッカーサーは10月16日参謀本部と海軍軍令部の解散を命じ、武装解除は一段落します。
武装解除とともに、先行してすすめたのが戦争犯罪人の逮捕です。GHQは降伏文書調印の直後から東条英機など開戦時の大臣をはじめとして戦犯を指定、逮捕しはじめます。内閣は戦争犯罪は自分たちで処罰すると申し入れますが、占領軍はこれを拒否しました。戦犯に指定された東条はピストル自殺を図りますが失敗、捕虜になることを禁じた戦陣訓の作成を命じ膨大な兵士を死に追いやった本人が『俘虜の辱めをうけた』との苦笑を誘うことになりました。
武装解除が順調にすすむなか、GHQは、占領の第二段階であるポツダム宣言の趣旨に沿う民主化改革をすすめるようになっていきます。
「一枚の写真」の衝撃
こうしたなか、新聞に掲載された一枚の写真が日本中を驚かせました。
昭和天皇は9月27日、マッカーサーのもとを訪れ、会談に臨みました。会談の詳細は不明のところも多いのですが、少なくともマッカーサーが昭和天皇に好感を持ち、利用価値がある人物と考えたことは確かです。
この時の記念写真が新聞に公開されました。しかし政府はこの写真がのった新聞の発行を禁止しようとしました。なぜでしょう。
実際の写真を見てください。皆さんはどう感じますか。どっちが偉いと思えますか。
正装で身を包んだ小柄な天皇、背筋を一生懸命伸ばそうとして緊張しています。
他方、その横に、巨体のマッカーサーが平時の軍服で、両手を腰に当てたリラックスした姿勢で映っている。
実際の日本の支配者は誰か、ビジュアルで示しました。
だからこそ東久邇内閣は写真の公開を押さえようとしたのです。GHQは許しませんでした。
写真は占領下の日本を見事に映し出していました。
アメリカの日本研究と「天皇制」
アメリカでは、戦争中から、敗戦後の日本に対しどのような政策をすすめるか、それぞれのレベルでの研究が進められていました。その中心が昭和天皇と天皇制の扱いです。
多くの人たちは国家神道によって権威づけられた天皇制こそが日本軍国主義の基盤と考え、天皇はヒトラー・ムッソリーニと並ぶ戦争犯罪者と考えていました。日本から空襲されたオーストラリアは、日本軍国主義への強い恐怖心からその元凶と考えた天皇の裁判を主張し続けます。
カナダ人の研究者で外交官でもあったE・H・ノーマンは、財閥と寄生地主制の二本柱の上に立った絶対主義天皇制が日本軍国主義の基盤であるという講座派マルクス主義の学説に学んだ書物を出版、大きな影響をあたえていました。
他方、元駐日大使のグルーや日本研究者ライシャワーは大正デモクラシー以来の自由主義の伝統と自由主義者の存在に注目し、昭和天皇も自由主義的知識人の一員であると考え、戦後統治に天皇を利用すべきだと進言していました。実際、天皇も戦争中からアメリカの短波放送に耳を傾け、海外情勢には非常に詳しかったということです。
連合国においても、天皇と天皇制に対する意見が対立するなか、予想以上に早く日本が降伏、占領が始まりました。
※なお、戦争中、ライシャワーが戦後の日本政策をどのように進めればよいのかを提案した覚書があります。その史料紹介をつくりましたので、よければご覧ください。
天皇の「人間宣言」
マッカーサーを驚かせたのは、あの凶暴な日本軍を、天皇の命令ひとつで、わずか1ヶ月という短期間で武装解除できたことです。その天皇が、9月の会見でアメリカへの全面協力を申し出たのです。それ以来、マッカーサーは天皇制維持のために全力をつくしました。天皇の取り調べや処罰を求めるアメリカ政府やオーストラリアなどの要求は無視し続けます。「天皇を処罰すると内乱が発生し、一〇〇万人の米軍が必要になる」などとアメリカ政府への恫喝すら行いました。
天皇もそうしたマッカーサーの意をくんで、天皇制の「モデルチェンジ」をはかります。1946年正月、各新聞は「天皇と国民の関係は神話的な関係ではない」という天皇の声明を「天皇の人間宣言」として大々的に報道しました。この声明のゴーストライターはGHQであり、それを幣原内閣と天皇自身が手を入れたものでした。世界からも好評で、マッカーサーはただちに歓迎するという声明を出します。
その後、天皇は地方巡幸をくりかえして、国民への露出を増やしていきます。そして国民からの歓迎を受けることで、天皇は「国民にどれくらい愛されているか」をアピールします。
こうした既成事実を積み重ねていくなか、万世一系の神話に彩られた絶対主義天皇制は、愛される天皇制、象徴天皇制、国民天皇制への方向性を強めていきます。天皇にとってはこのような形で「国体護持」をはかろうとしたのでした。
さらに、天皇の側近は、戦争の責任をすべて東条ら軍部に押しつけることで、天皇の責任回避をはかり、天皇が東京裁判の被告席にも証人席にも、座ることがないように力を尽くしました。
裁判中に、東条が「自分は天皇に背いたことは一度もない」といったときは、GHQと相談の上、東条に「それをいえば天皇を被告席に座らせることになる」といって説得し、戦争責任を一身に背負うことを納得させました。まさに「国体護持」のために全力を尽しました。そして、そうした姿勢をマッカーサーが全力でサポートしました。
「人権指令」と東久邇内閣の崩壊
天皇とマッカーサーの最初の会見が行われた頃、一人の人物が牢獄でなくなりました。
治安維持法違反でとらえられていた進歩的哲学者の三木清です。これを知ったGHQは「人権指令」とよばれる命令を発します。治安維持法など弾圧法の廃止、投獄されている政治犯の釈放、政治弾圧の中心となっていた特高警察などの解散を命令、責任者の内務大臣をクビにしました。
このことは東久邇内閣への事実上の不信任であり、10月内閣は総辞職しました。東久邇はやっとこの段階で無条件降伏の意味がわかったのかもしれません。
こうして、次の幣原喜重郎内閣のもとで、占領の第二段階、ポツダム宣言に基づく民主化改革が本格化していくことになります。
時間が来たようですので、少し中途半端ですが、今日はこのあたりまでとします。
はい、礼、ありがとうございました。