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<前の時間 明治維新(2)近代的軍隊の創設と地租改正>
明治維新(3)殖産興業・文明開化・国家神道
<授業用プリント 60_2_殖産興業と文明開化>
岩倉遣欧米使節団
今日のテーマもやはり「欧米列強に追いつけ、追い越せ」です。
でも先行しているランナーがあまりにも前を走っていて、おいつけそうもないという話から始めます。
欧米列強と日本の差。当初、新政府のリーダーたちは実感としてそれほど感じていなかったかもしれません。軍事面を除いては。
しかし、世界の様子を知るにつけ、その差の開きの広さを実感したでしょう。とくに大きな意味を持っていたのが、日本政府のトップが欧米を自分で見たという岩倉遣欧米使節団でした。
岩倉遣欧米使節団とは
新政府が幕府を倒したときの口実の一つは、「幕府が勝手に外国とひどい条約を結んだ」ということでした。だから新政府としては、この条約を改正することが大きな課題となります。「古い条約を破棄して新しい条約に変える」こと、幕末のいい方では「破約攘夷」の実現が自分たちの正統性を証明することになります。
だから幕府時代に結んだ条約を世界と対等な形に変えること(これを「条約改正交渉」といいます)は新政府の最大の課題でした。
こうして、条約改正という「破約攘夷」実現のメドをつけるために、岩倉具視、および大久保利通・木戸孝允という政府の2トップを含む使節を派遣したのです。
あまりのスタッフの多さに、残される三条実美なんかは「あとはどうすんね」と突っ込みたくなったでしょう。西郷が「おれにまかせとけ」とでもいったんでしょうか。
あと、男女の青少年も多数留学生として連れて行きます。かれらが帰国後、大きな役割を果たします。留学生というから、大学生ぐらいと思いがちですが、幼稚園の「年長さん」の年齢の女の子まで連れて行きます。来られた方もびっくりしたでしょうね。でも、こんなことをするのは、すごいセンスですね。
こうして政府の中心メンバーがアメリカ、ヨーロッパ旅行に出発します。
これだけの規模は、世界史上、17世紀のロシア皇帝ピョートル1世の遣欧使節ぐらい思いつきません。ロシアはこの旅行で近代化の道を踏み出しますが、日本の近代でも同じくらいの意味をもっていました。
遣欧使節の挫折
すこし、彼らについて行きましょう。
最初に向かったのはアメリカ。ここで使節は大歓迎を受けます。ぼくが小さい頃、上野動物園にパンダ~ランランとカンカンがやってきたときのようなノリじゃなかったかな。
アメリカ側は官民ともに大歓迎。
日本側は「これだったら条約改正も実現しそう」と勘違いします。そこでアメリカ側に話をもちかけると
「話し合うのなら日本の正式な代表であるという天皇の信任状がいります。持っていますか?それがないと交渉はできません。それが世界の常識(グローバルスタンダード)です。」とシビアにいわれてしまい、「それは、大変」と大久保と伊藤が日本へ取りに帰ります。帰ったら帰ったで、「そんなん、あかん」とだめ出しされますが、なんとか手に入れて、アメリカに戻ります。
二人が信任状をもらって帰ってくるころには、残っていた連中は条約改正が無理だとわかっていました。
なぜなら、条約改正の前提となる法律も、裁判制度も、警察制度も、関税の仕組みも、外交の仕組みも、言葉の問題も・・・・。日本の、ありとあらゆるものがグローバルスタンダードとはかけ離れていたんだから。
甘く見ていた使節団は、大ショック。条約改正なんて簡単にいけると考えていたんだから・・・「帰ったらぼろくそいわれるな」ということも頭をよぎったでしょうね。
ほんとにいわれたけどね。
幕府側で条約交渉に当たっていた岩瀬忠震が生きていたら「今頃になってやっと俺たちの苦労が分かったか! あのときはぼろくそいいやがって!」といいそうですね。
岩倉たちも頑張っていますよ。岩瀬らが死守した「内地旅行禁止」をはずせというイギリスの執拗な要求を頑として拒否し、逆に、「イギリスやフランスが日本に軍隊を置いているのはけしからん。撤退させろ」と交渉し、1875(明治8)年には実現にこぎつけさせたのですから。
日本にもイケてるところがある!
条約改正は失敗に終わっても使節団は前向きでした。目的を変更し、新しい日本を作るために何が必要なのか、手分けして綿密に調査します。
これまでも日本から使節団や留学生がいっていましたが、今回はメンバーも気迫も違います。日本を実際に動かしている超現役ばかり。これまで四年間の体験から「『欧米列強に追いつけ追い越せ』という日本のテーマを実現するためには何をどうすべきか」、必死で考えてきた連中です。
彼らが見たものをならべてみましょう。軍事、政治、産業、経済、司法、行政、教育、文化、・・・
そして気がついた一つ目は、
列強のパワーの源がその技術力、生産力、経済力であること。軍
事力もこうした力が基礎だと気づきました。大久保は「富国」=「殖産興業」こそが第一と考えるようになります。
事力もこうした力が基礎だと気づきました。大久保は「富国」=「殖産興業」こそが第一と考えるようになります。
二つ目は、なかなか日本人も「イケてる」と考えたこと。「日本人が持つ、道徳や礼儀、マナー、あるいは教養は、欧米に負けていない」と思ったこと。ちょっとは負け惜しみもあるかもしれませんが、欧米文明を相対的にみる余裕がうまれたといっていいのかもしれません。そこで、日本の新しいスローガンとなったのが「和魂洋才」、日本人の道徳や教養を基礎に西洋の科学技術を取りいれるということででした。
三つ目はやはり憲法が必要だということ。大久保も木戸も不平等条約を改正するには憲法の制定が必要だと理解したみたいです。ただ、当時の現状から、いつ憲法を導入するかは別の論議。この二人の死後、愛弟子でこの使節の一員であった伊藤博文がその遺志を継ぐことになります。
とにかく、日本をどうするのか、必死で考え、議論をした日々だったのでしょう。ちなみにこれまでは同郷の木戸の子分だった伊藤博文は、現実主義で辣腕の大久保の方に乗り換え始めます。これによって健康上の問題もあった木戸は、いじけてしまい、大久保との関係が悪化したとの話もあります。
ともあれ、明治の政治家はとても真剣でした。真剣にならざるを得ない時代でした。
何から?どんな方法で?どんな順番で?
そして思いました。条約改正をするためには、日本と欧米列強の間にある大きくて深い溝を埋めなければならない。多くの部分でグローバルスタンダードに対応しなければならないと。
でも、本当はそこからが難しい。
「じゃ、何から始めるのか、どんな方法で、どんな順番で、」これは、現在も開発途上国が日々向き合っている問題と同じです。限られた資源を、何に、どのようにふりむけるか。明治の初めの日本も、第二次大戦後に植民地支配を脱したマレーシアやインドネシアなども、みなこの点で悩みました。
自分たちが強力なリーダーシップをとるべきだと考え人もいれ ば、憲法などを制定し議会を開くことが大切と考えた人もいました。天皇と憲法をどう両立するかが、大久保や木戸そして伊藤の宿題でした。さらに、軍隊が先か、産業が先か、工場が先か、鉄道や港といったインフラ整備か。教育の充実か、法やシステムの整備か、どれから手をつけるか、いろいろな考 え方をする人がいろんな主張をするようになります。この使節の人も、留学生などで欧米にいった人も、その体験から、さまざまな新生日本のプランを山ほどもって帰っていきます。
「殖産興業」
ところが岩倉たちが旅行に行っている間に、留守政府は「鬼の居ぬ間の洗濯」とばかり、次々と新しい改革に着手していました。ある人はこの時期が明治維新の中でもっとも成果が上がった時期ともいっています。しかし、同時に困った計画を立てるようにもなっていました。西郷を朝鮮に派遣し、場合によっては戦争に持ち込むという「征韓論」です。
この話は別のところでしますので、結果だけいいましょう。帰ってきた岩倉は大久保にねじを巻いて留守政府の決定を覆します。おこった留守政府の大半が辞職、これにより旅行から帰ってきた大久保を中心とする政権が成立します。これを明治六年の政変といいます。
こうして、大久保政権の下で、「殖産興業」とよばれる政府主導の産業とインフラ(産業基盤)の育成が本格 化します。プリントの①のところね。
<「殖産興業」という言葉>
「殖産興業」という言葉だけど、明治の初めの日本の知識人の脳みそは漢文でできていました。だからスローガンもすぐ四文字熟語となるのです。
「殖産興業」という言葉だけど、明治の初めの日本の知識人の脳みそは漢文でできていました。だからスローガンもすぐ四文字熟語となるのです。
殖産興 業。漢文風によむとどうなりますか。殖産、間にレ点を入れて読むと殖レ産と なり、「産」すなわち生産とか産業とかを「殖」これを訓読みすると・・・。
漢字の意味が分からないときはその漢字を使った熟語を思い出すのです。これを使った漢字は・・・、ニヤッとした人がいますね・・。そう「生殖」、子どもを産み増やしていくことですね。別の熟語は?・・「増殖」。とするとこの「殖」の時は、「ふやす」という意味みたいです。増殖という熟語は、同じ意味の漢字が 並んでいるのですね。だから「殖産」とは、「生産や産業を殖やす」という意 味です。「興業」どっかの会社みたいな名前ですが同様に「興レ業」、 「業」つまり仕事を、「興」=おこすという意味です。今でいう「起業」です
ね。だから殖産興業とは、産業や生産品・生産量を増やし、どんどん新しい仕事を初めて行きましょうという意味になります。
漢字の意味が分からないときはその漢字を使った熟語を思い出すのです。これを使った漢字は・・・、ニヤッとした人がいますね・・。そう「生殖」、子どもを産み増やしていくことですね。別の熟語は?・・「増殖」。とするとこの「殖」の時は、「ふやす」という意味みたいです。増殖という熟語は、同じ意味の漢字が 並んでいるのですね。だから「殖産」とは、「生産や産業を殖やす」という意 味です。「興業」どっかの会社みたいな名前ですが同様に「興レ業」、 「業」つまり仕事を、「興」=おこすという意味です。今でいう「起業」です
ね。だから殖産興業とは、産業や生産品・生産量を増やし、どんどん新しい仕事を初めて行きましょうという意味になります。
それを政府が主導して行うのです。
官営模範工場
産業の育成といえば、誰でも考えそうなのが新しいタイプの工場を作るこ と。
こうしたものとして作られたのが・・・小学校か中学の教科書に出ていま せんでしたか?つい最近、世界遺産に登録された・・・?そう、「富岡製糸場」②のところです。
官営模範工場、政府のモデル事業として明治4(1872) 年、群馬県に建てられます。
<余談>途上国にウォシュレットをもちこむような援助はNG
少し、余談をします。
最近、あるテレビで、電気も上下水道といったインフラが不十分な国出身のタレントが、自国の貧しい母親の家にウォシュレットをつけたいといって無理な工事をさせ設置するという番組をやっていました。たしかに、その日、母親はよろこんだでしょうね。でも、そのタレントと日本人クルーが去ったあと、この家族はウォシュレットを使い続けたでしょうか。電気代や水道代などのコスト、こんなものに使うの?と思ってしまいました。ウォシュレットを維持するために、食費に影響が出たり、借金が増すという可能性は考えなかったのでしょうか。故障したときメンテする人はいるのでしょうか。ツッコミどころ満載の番組でした。はっきりいって、親切に見せかけ、迷惑をかけるだと思いました。
かつて、先進国がアフリカなどの途上国で行ったのは、このような「大きなお世話」型の援助でした。インフラがなく、原料の調達やコスト、教育水準なども考えないで、最新鋭の工場を建てるという援助がされました。援助といっても、有償援助というやつで、あとから費用を取り立てるものが大部分でした。独裁的な指導者が、なけなしの予算で最新鋭の工場を作ることもよくありました。でも、動かす技術も、故障したときのケアもできず、さらに原料やエネルギーのコストもあって、一度も使われないままになったり、簡単な故障で使用できなくなり、結局は、借金だけが増すというケースが続出したものです。
そう、貧困地域にウォシュレットを持ち込むような援助でした。その費用は、その貧しい国の貧しい人たちに転嫁され、本当に必要なものに回すお金を無駄使いさせてしまいました。このように、かつて日本や欧米が行った、とくに政府間援助は、貧困を助けるのでなくいっそう激化させるものでした。
途上国が近代化するとき「どのような内容のことを、どんな方法で、どんな順番で進めるか」ということが非常に重要なのです。
なお、最近の援助、とくにNGOなどを経由した援助は、地域のニーズにこたえ、受け入れ可能で持続可能な事業を、ハイテク・ローテクを駆使しながら、実施しています。
いまだにウォシュレット型援助を行っている国もありますが。
インフラの整備~鉄道・海運・郵便・電信
当時のリーダーも在野の人たちも、何が必要か、今なすべきかをしっかり考える力を、持っていました。そして、産業発展のためにインフラ整備が必須だと考えました。
まず輸送です。同じ明治5(1872)年、東京の新橋と横浜間で開通したのが・・、③鉄道。他の国では外国の資金と技術で鉄道を敷いたのに対し、日本では御雇外国人の力は借りたものの、基本的には自前で開通させています。明 治7年には大阪神戸間、明治10年には京都にも延びます。
しかし大量の輸送の中心はやはり水運、とくに海運でした。
久しぶりに坂本龍馬の話をします。
坂本龍馬は日本初の株式会社を作った話、しましたかね。
坂本はいろいろなところから資金を集め、海運業に乗り出しました。ちなみにその会社の名前・・・。海援隊。または亀山社中といいます。
船を借りて、いろいろなものを運んでもうけようとました。この会社の最大の出資先が土佐藩でした。幕末、出遅れ気味の雄藩土佐藩からしたら、いろんなところに顔の利く自藩出身の坂本に協力することは有利だと考えたのでしょう。
ところが、坂本は大政奉還の直後、幕府の見廻組によって暗殺されてしまいます。こうして坂本がいない亀山社中の財 産が残される。最大の出資者であった土佐藩は、財産を 引き継いだがどのように運営してよいか分からない。そこで土佐藩の責任者後藤象二郎は一人の人物に亀山社中がらみの一切合切を譲ってしまいます。
その 人物、知っているかな。現在の日本最大の企業グループ三菱の創始者なんだけど・ ・・。
⑥番のところですよ。岩崎弥太郎といいます。
こうした財産を元に作った海運会社を三菱会社といい、しだいに日本国内外の海上輸送を仕切るようになっていきます。ある意味、龍馬の夢を岩崎が継いだともいえそうだね。ちなみに、現在の社名は日本郵船です。
岩崎のように、政治と結んで成長した大商人を政商と呼びます。
そのほかのインフラ整備としては、近代的な郵便制度が⑤の前島密らによって始められます。前島さんの顔、みんな見ているはずだとおもいます。一円切手の肖像だから。
電話はまだ無理だけど、電報は使えるようになります。いわゆる電信。ぼくなんかは、電柱のことをいまだに電信柱といってしまいます。おはずかしい。
経済インフラの整備~貨幣・国立銀行条例
さらに、経済面のインフラ も整備されます。
江戸時代、お金はどうなっていたか覚えていますか?江戸を中心とする東日本では金貨が、京都大阪など西日本では銀貨が、そして全国的に銭(銅貨)が併存して使われていました。その単位も金貨は四進法、銀は基本は重さで扱われる秤量(ひょうりょう)貨幣、銭は一貫=1000文で数で勝負みたいな貨幣。ややこしくて仕方がない。
だから全国で通用するお金を、わかりやすくする必要がありました。そこで明治3(1871)年だされたのが新貨条例、そこでお金は三つの単位に 整理されます。基本は今でも使われている・・・「円」。その1/100が・・ 「銭」、現在は計算上使われるだけです、さらにその1/10を「厘」とします。
だから④の答えは「円・銭・厘」となります。
では、なぜ円と決めたって?
クイズ番組で「会議の席が丸テーブルだった」なんて話をしていたけどそれは俗説。実際 では中国で使っていたメキシコ産の銀貨の呼び名(「銀圓」)からだそうです。
さらに国立銀行条例が出され、それに基づき銀行も設立され、あらたな産業発 達のための資金面でのインフラも整備されました。
さらに国立銀行条例が出され、それに基づき銀行も設立され、あらたな産業発 達のための資金面でのインフラも整備されました。
啓蒙主義
他方で文化や風俗の欧米化が進められる。中心になったのが、外国へ行ったりして、世界のことを学んできた人たち。こういった人物としては、すぐ頭に浮かぶ人が・・・います?
「学問のすゝめ」や「西洋事情」とかいった本を書 いたり、有名な私立大学を設立した、この人が財布にあるとちょっとリッチな気分になる?・・・そう、福沢諭吉。
そのほかには、西 周(にし・あまね)とか、森有礼(もり・ありのり)とか、中村正直とか。
こういった人が世界を見てきて、日本は 何て遅れているのだろう、ぜひ日本人に世界のことを教えたいと思い始めま す。こういう立場を啓蒙主義といいます。
そしてこうした人たちが1874(明治6)年あつまって作ったグループが明六社、出した雑誌が明六雑誌。
なぜ明六社かだって、分かる人いる?
・・そう明治6年に創刊したから。
そのままですね。
「文明開化」~進んだ西洋・遅れた日本?!
おおきな成果を残した啓蒙主義者だけど、かれらのような立場は、往々にして「欧米の文明は優秀、それに対して日本は遅れている、だから欧米のものをど んどん取り入れ、日本の古くさいものを捨て去るべきだ」という風になりがちでした。それがこの時代の空気といってもいいのかもしれません。
この時期のいわゆる文明開化も、こういう傾向を持っていました。
文明開化で有名な言葉があるが知っていますか?
文明開化で有名な言葉があるが知っていますか?
「○○を叩いてみれば文明開 化の音がする」という。
○○にところにはいることば、いけますか?
そう「散(ざん)切り頭」、ちょんま げをきった髪型。
では「ちょんまげ頭を叩いてみれば」どんな音がする・・?
答え、「因循姑息(いんじゅんこそく)な音」がするらしい。
「因循姑息」を辞典で引くと、「古い習慣を改めようとしな いで、その場しのぎに物事をすること」。
こんな風に、日本のこれまでの伝統や風俗を、恥ずかしいもの、捨て去るべきものとしてと切り捨てていきました。
ということで ⑦の答えは「文明開化」。「文化や風俗が文明化していく」とプリントではまとめてあります。
文明開化の進展~捨てられたものは
文明開化の典型的なものが暦(こよみ)、⑧太陽暦の導入です。明治5(1873)年の12月は2 日しかなく、12月4日は明治6年1月1日となりました。こうして日本の暦は西洋と同じ太陽暦(西暦ともいう)というグローバルスタンダードと一致させられます。
旧弊として廃止させられるものとしては、お歯黒もそう。既婚の女性の歯を黒く塗ることです。映画でもめったにこういうメイクはしていませんし、テレビの時代 劇ではまずやりません。あまりに不気味なので、視聴率にもかかわりそうです。女優さんもいやがるだろうし、お茶の間にあれを持ち込んだらホラーになってしまう~。ちょんまげもやめます。盆踊りとか、人々の生活の リズムをつくる3月3日のおひな様とか、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕さんとかいった当時の人々にとっては大切な行事である節句まで旧弊として禁止されます。
東京には ガス灯が灯り、レンガ造りの建物が次々とつくられ、人力車や馬車なども使われるなど、ほんの数年の間にかつての江戸、そして日本はまったく別の世界にように変わっていきます。
しかし、これまで自然とともに伝統的な世界に生きてきた多くの人たち、とくに農村の人がこうした動きについて行くのは難しかったとおもいます。だから、「政府は異人によって支配され、生き血を集めて呑ませるのだ」などという荒唐無稽な話も信憑性を持ったんでしょう。
新しく導入された「文明的」な祝祭日とは
節句や盆踊りなど人々のなかに定着していた行事が旧弊として禁止された代わりにどんな祝祭日が入ってきたか、わかりますか。
今に残っているのでは、2月11 日、11月3日、11月23日といった日。いずれもハッピーマンデーでは 動かされなかった日。11月23日の勤労感謝の日、この日は新嘗祭(にいなめさい)といって 天皇がその年にとれた作物を神に奉納するという宮中の儀式の日、11月3日、今は文化の日だがもともとは明治天皇の誕生日、2月11日は天皇の先祖が即位したとされる日、戦前は紀元節と呼ばれていた日。そんなもの、分かるのかって・・・。当時の学者が、はっきりいって誰も分からないような計算をして、割り出したらしいよ。
こうした日の共通点はわかる?
いずれも「天皇」にかかわる日。
つまり、本来の季節を理解する上で役立つ日を旧弊として捨てさせて、天皇を中心と した祝祭日をメーンにしました。
「天皇中心の日本をつくる」こと。これが文明であり、それがなかった時代は「因循姑息」な日本と考えたのです。これがもう一つの文明開化の顔でした。
国家神道体制~なぜ天皇は偉いの?
当時の多くの庶民は、天皇という存在すら知らなかったと言われています。
天皇こそが日本の中心、だから天皇のいうことを聞かなければならない、といいながら政治を運営しようとする政府のリーダーたちにとっては、天皇の存在を人々に知らせ、天皇が偉いのだと思い込ませなければ、なかなか政治もうまく運営できません。
こうした宣伝の方法の一つが、天皇にかかわる祝祭日の導入でした。
「では天皇はどうして偉いの?その理由は?」と聞かれると、
その答えは、「天皇の先祖が一番偉い神であり、その子孫が連綿とつづいているから」という神話しかありません。だからこの神話を人々の中に定着することで「日本中心は天皇」という考え方を定着させようとしたのです。
神仏分離令と廃仏毀釈
そのために、利用されたのが日本各地にある神社でした。
ところが、多くの神社は天皇神話とまったく関係のない神様をまつっています。だから、それまで信仰してきた神様を日本神話の神様と同一だとか、この神様もいっしょにお祀りしなさいとかいって天皇系の神を祀らせたのです。これはもう少し後の過程だけど。
もう一つ問題となったのは神社信仰と仏教が一体化していること。というより、こういう祀り方は平安時代、一部は奈良時代にさかのぼるので、実態として一体化しています。
これはまずいということで、天皇を中心とする新政府が、古い
遅れた日本の代表として攻撃したのが仏教、とくに日本の神様と一体化している仏教でした。
遅れた日本の代表として攻撃したのが仏教、とくに日本の神様と一体化している仏教でした。
1868(明治元)年、政府は⑩「神仏分離令」という命令を出し、神社のご神体として仏像を置くこととか、神様に仏具を供えるといったことを禁止します。
この命令は、ある意味破壊的な役割を果たしました。これを聞いた一部の人々、とくに国学の一つのグループ(平田派)の人たちが中心になって、最初は神社にあった仏教的なものを排除、それにつづいてお寺を破壊したり、その土地を奪おうとしたものも出てきました。
この命令は、ある意味破壊的な役割を果たしました。これを聞いた一部の人々、とくに国学の一つのグループ(平田派)の人たちが中心になって、最初は神社にあった仏教的なものを排除、それにつづいてお寺を破壊したり、その土地を奪おうとしたものも出てきました。
奈良の興福寺、阿修羅像のあるお寺だけど、このお寺では坊さんの大半が春日神社の神主さんになって、破壊し始めます。国宝の五重塔も25円で売ってしまいました。買った人は薪にして売ろうとしたとか、燃やして金具を取り出そうとかといわれています。でもそ
んなことしたら危険だからということで中止したとのことです。神仏分離令をきっかけに発生した仏教排斥運動が「廃仏毀釈」⑪です。
んなことしたら危険だからということで中止したとのことです。神仏分離令をきっかけに発生した仏教排斥運動が「廃仏毀釈」⑪です。
アメリカやフランスの博物館に、日本の国宝級の仏像なんかが展示されています。こうしたものの多くはこの時に持ち出され売られたものです。「返してください」というより「買い取って、大切に守っていただいて、ありがとうございます。たまに里帰りさせて見せて下さいね」というべきでしょう。下手をしたらお風呂のたき付けに使われていたかもしれないのですから。田舎の倉庫みたいなところにすごくいい仏さんが安置されたりしていることがあります。つぶしてしまえというのを、村人たちが必死で守ったためだという話が各地にのこっています。
神道国教化と国家神道体制
明治3(1870)年には大教宣布⑫がだされ、日本の古くからの神様へ
の信仰である神道を全員が信じねばならない国の宗教とするとの命令がでました。でも宗教といえば、それなりの深みのある理屈も必要です。 残念ながら神道にそんなものはない、にわかづくりのものがあるだけ。それ以上に「これまでみんなが信じてきた仏教を捨てろということか」という声がでてくる。
の信仰である神道を全員が信じねばならない国の宗教とするとの命令がでました。でも宗教といえば、それなりの深みのある理屈も必要です。 残念ながら神道にそんなものはない、にわかづくりのものがあるだけ。それ以上に「これまでみんなが信じてきた仏教を捨てろということか」という声がでてくる。
そうしたなか、「神道は他の宗教とは別枠の一段上の存在で、宗教ではない」といういい方に変わってきます。最終的には「仏教徒であってもキリスト教徒であっても、神道は信じなさい」という風に、日本のなかにある多神教的な伝統と合致する形で受けいれられるようになります。こういう神道のあり方を国家神道といいます。
浦上四番崩れ
神道を通じて国民の中に天皇崇拝を植え付けていこうとするやり方は、一つ の悲劇を生みました。
幕末、長崎にヨーロッパ人たちがやってきます。そして、長崎の町外れに住み着いたフランス人は、その地に自分たちの教会を作る。現在の大浦天主堂です。そこで、神父たちがお祈りをしていると、なにやら農夫たちが中を覗いていました。
信徒発見のレリーフ( 大浦天主堂)そしてかれらはついに意を決して神父に話しかけます。「サンタマリアはどこ」。マリア像のところに連れて行くと、かれらはそれを拝み、手振りで「あななたちと私たちは同じ心」といったと伝えられています。
二百年以上もの間、弾圧と迫害をかいくぐって信仰を守った人がいたんのです。情報はすぐ伝わり、感動の声が世界中に広がりました。
この農夫たちは長崎郊外・浦上村の農民。長くその信仰を隠してきたのですが、教会ができたのを聞いてやってきて、いても立ってもいられず、隠し続けてきたキリスト教信仰を復活させようとしたのです。
いったん、覚悟した人は強い。かれらは宗門改を拒んだため、当時の長崎奉行は彼らを捕らえました。
そうこうするうちに、明治維新となり新政府ができます。
さて、明治政府はどのような態度をとったのでしょうか・・?
五箇条の誓文と同じ時、何かがでていましたね・・・?
そう、五榜の掲示、この中でキリスト教は厳禁と書いてあったね。新政府はこれを厳密に実施する。
木戸なんかは、中心人物を見せしめの死刑にして、残り全部を流刑にしろといったんだけど、それはまずいということで信者全員を萩や津和野などに西日本各地に送られます。その数3394人。かれらは拷問などで改宗を迫られました。しかし信者たちはそれを拒んだため、いっそうひどい目にあわされました。 662名もの犠牲者がでます。その残虐さは江戸時代よりひどかったと言われます。
各国公使は繰り返し抗議しましたが「日本人は日本の神を 信じるべきだ」と考える政府によって拒否されました。この時に「日本には日本のルールがある」と強い調子で通告したのが大隈重信、早稲田大学の創始者です。このことをきっかけに大隈は政界の中心となっていきます。
他方、欧米諸国をまわった岩倉遣欧使節団はこの出来事が世界でどう見られているか、日本にとってどういう意味を持っているかを知ります。行く先々でキリスト教政策を非難され、こんな野蛮な国とは条約改正なんてできるわけがないといわれました。情報の広がりとか、世論とか、そういったことがわかっていなかったんですね。このできごとはすでに国際問題になっていました。使節団はあわてて連絡をおくり、政府はついにキリスト教弾圧政策をやめます。
他方、欧米諸国をまわった岩倉遣欧使節団はこの出来事が世界でどう見られているか、日本にとってどういう意味を持っているかを知ります。行く先々でキリスト教政策を非難され、こんな野蛮な国とは条約改正なんてできるわけがないといわれました。情報の広がりとか、世論とか、そういったことがわかっていなかったんですね。このできごとはすでに国際問題になっていました。使節団はあわてて連絡をおくり、政府はついにキリスト教弾圧政策をやめます。
しかし、 キリスト教を正式に認めたのではありません。キリスト教を禁止するという高札・・・五榜の掲示を撤去する形でキリスト教を黙認することにしたのです。
姑息なやり方。お役人がやりそうなことだね。
こうして、浦上の人たちは村に帰ってくる。かれらはこの経験を「旅」と呼びました。
帰ってきたかれらは、ふるさと浦上に自分たちの教会、浦上天主堂を建てました。その浦上地区は長崎原爆の爆心地でした。1945年8月9日、原爆によって浦上天主堂は破壊されました。現在は再建され、立派な教会が建っています。そこには「旅」の記憶とともに、原爆で破壊された旧天主堂の遺物が展示されています。
<次の時間 明治初年の外交(1)国境線の画定と征韓論>