普通選挙法制定と金融恐慌
第二次山本権兵衛内閣と普通選挙法
関東大震災が発生したのは、ちょうど加藤友三郎が病死し、山本権兵衛が新内閣の組閣を進めている最中でした。山本は翌日の九月二日に組閣を実施、第二次山本権兵衛内閣が成立、震災復興に中心となる内務大臣に東京市長をも務めた後藤新平を置き、震災の復興にも当たらせました。
山下公園は震災のがれきを埋め立て、復興のシンボルとして1930年開園した。
帝国書院「図説日本史通覧」P257
山本が中心的な課題としたのは、震災復興とともに国民の中で再び高まりつつある普通選挙法の実施でした。
一方では、世界が次々と普通選挙を実施するなか五大国の一つである日本も導入すべきだという判断があり、さらに社会運動が高まっているなか、普通選挙によって人々の不満を吸収する方が政治を安定できるという考えも政府関係者のなかで、広がってきました。
さらに議会で圧倒的な勢力を持つ政友会においても普通選挙容認の声が高まってきました。
他方、高まりつつある社会主義的な流れに対する治安立法も必要との声もでてきました。
虎ノ門事件
虎ノ門事件の犯人難波大助。大逆罪で処刑される。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%8A%A9#/media/File:Daisuke_Namba.JPG
このように普通選挙への流れが活発化する中、1923(大正12)年12月虎ノ門事件が発生します。関東大震災の中で起こった大杉栄殺害などに反発した無政府主義者(アナーキスト)の青年が、虎ノ門を通りかかった摂政宮(のちの昭和天皇)を銃撃した事件です。
摂政とは天皇の代理人のことで、大正天皇が病気療養中だったので皇太子の裕仁親王が摂政となっていたのです。その裕仁親王が移動中にステッキに仕込まれた銃で狙撃されたのです。大事には至りませんでしたが、大変な事件だということで山本権兵衛ら大臣全員が即日辞表を提出、翌1924(大正13)年1月辞職し、普通選挙法も実現には至りませんでした。
第二次護憲運動
辞職した第二次山本権兵衛内閣に変わって、翌1924(大正13)年成立したのが清浦奎吾内閣です。
清浦奎吾 http://www.ndl.go.jp/portrait/e/datas/67_1.html
西園寺は選挙までの暫定的な内閣のつもりであったといわれますが、ほぼ全員が貴族院議員というアナクロな超然内閣の出現に、政党やマスコミは強く反発、再び「憲法にもとづく政治体制を護れ」という、・・・「護憲運動」がはじまります。
政友会、憲政会、革新倶楽部の三つの政党は護憲三派を結成、「普通選挙法の実現」を含む政策で一致し、清浦内閣打倒をめざします。これが第二次護憲運動です。大正初期の第一次護憲運動が大きな民衆運動に支えられたのに対し、今回の運動は政党中心の運動でした。
議会の多数を占める三派の攻勢の前に、清浦内閣は衆議院解散、総選挙に打って出ましたが大敗、清浦内閣は崩壊しました。
護憲三派内閣と「憲政の常道」
こうした事態を見た元老・西園寺(山県と松方が死亡し、唯一の元老となっていた)は、選挙で勝利した護憲三派の内、多数を獲得した憲政会の党首・加藤高明を総理大臣に指名、1925(大正14)年6月、高橋是清(政友会)や犬養毅(革新倶楽部)なども入閣した加藤高明護憲三派内閣が成立しました。
左から高橋是清(政友会)犬養毅(革新倶楽部)加藤高明(憲政会)
東京書籍「日本史A」p113
これ以降、西園寺は議会の多数党の党首を総理大臣に任命するという方針をとるようになり、これが一種の慣例となり「憲政の常道」といわれるようになりました。
イギリス流の議院内閣制と同様の制度が定着した思い込もうとしたのですが、実際はあくまでも西園寺が個人的なルールで推薦したのに過ぎず、衆議院で総理大臣を選出したわけではありません。それどころか、この時期の総理大臣5人のうち衆議院議員は2名であり、他の3名は貴族院議員で爵位を持つ華族でした。
さらに総理大臣の権限は同じ内閣といえども軍人しかなれない陸軍大臣や海軍大臣には及びにくく、軍隊や枢密院など内閣の権限が及ばない機関が多数あったこともすでに見たとおりです。
普通選挙法の制定
さて連立三派内閣にもどりましょう。
帝国書院「図説日本史通覧」p256
加藤内閣は公約にしたがって、選挙権25歳以上、被選挙権30歳以上の何れも男子に選挙権を与えるという普通選挙法を成立させました。有権者はこれまでの4倍、約1200万人に増えました。しかし、この普通選挙法は女性に投票権を与えないという意味で、やはり制限選挙でした。また戸別訪問の禁止など選挙運動への規制が強まったことなども見ておく必要があります。
ともあれ、普通選挙法は第一次護憲運動にはじまる大正デモクラシーの一つの到達点であったことは事実です。
帝国書院「図説日本史通覧」P256
しかし、この法律と合わせて、これから始まる昭和前半の暗い時代の幕開けともいえる法律が成立しました。人間の考え方、思想を処罰することを可能にした治安維持法の成立です。
治安維持法
治安維持法に反対する集会
東京書籍「日本史A」P112
治安維持法は「国体もしくは政体を変革しまたは私有財産制を否認する目的で結社を組織したり、加入・協議・扇動したものに刑罰を与える」内容であり、ロシア革命以来、力を増してきた共産主義やアナーキズムを取り締まろうとするものでした。
山川出版社「詳説日本史」p333
議会でもなぜ私有財産の否認が問題なのかという疑義が出され、国会外でも労働総同盟が日本始まって以来の悪法として反対運動を繰り広げました。
しかし、この問題点がじゅうぶん理解されないまま、議会は圧倒的多数でこの法律を成立させました。
その後、治安維持法は度重なる改悪や拡大解釈などにより、対象を次々と拡大、戦争に反対し自由を求めること、さらには政府や軍に反対すること自体が対象とされ、危険思想の持ち主と認定すれば予防拘禁として、何の罪のない人も牢屋に放り込むことを可能にしました。
このようにこの法律は戦争の暗い時代の幕を開く法律でした。
それにもかかわらず、当時の人たち、とくに議員の多くは、思想を取り締まるということの恐ろしさに無頓着でした。
憲政会と政友会
普通選挙法や治安維持法が成立後、政党間の対立が表面化し、1925(大正14)7月には護憲三派は解消され、あらためて憲政会単独の内閣(第二次加藤高明内閣)となります。
加藤高明 http://www.ndl.go.jp/portrait/e/datas/54_1.html
憲政会は都市の有権者とくに財閥との結びつきをもつ政党でした。かつては対外強硬派でしたが、政権につくと幣原喜重郎外務大臣のもと国際協調外交を展開、軍部の膨張に批判的なハト派色を強めます。
1926(大正15)年1月加藤の死を受けて、若槻礼次郎が総理大臣となり憲政会内閣を引き継ぎます。しかし、中国での動きが変化するなか、軍などの対中強硬派の反発も高まっていきました。
こうした動きと結びついたのが政友会です。
帝国書院「図説日本史通覧」P247
かつての自由党の流れを引く地主たちを基盤とする政友会は、対外協調を重視したハト派の高橋是清が総裁を退くと、長州閥で陸軍大将の田中義一を総裁とし、タカ派色を強めて幣原外交を攻撃、軍部と接近して大陸への「積極的」な進出を主張するようになります。
二大政党制は、相手との政策の違いを際立たせようとする傾向があります。そのことが論点を明らかにさせる上では有効なのですが、ときには行き過ぎて、ささいなことで足を引っ張ったり、過激な言説で相手を攻撃することも増え、立憲主義の基盤を破壊することもあります。
「憲政の常道」が確立する中、このような問題も出てきました。
二大政党制にはこのような問題点があります。
恐慌の時代
引き続く恐慌の時代
今度は、経済の様子を見ていきます。
大まかにいうと、第一次大戦によって起こった大戦景気が終わると、1920年代から1930年代のはじめ、昭和の初めまで、不景気の時代がずっとつづくというイメージです。
僕たちの世代からいうと、バブル崩壊後の日本のイメージです。みなさんはこうした時代の中で生まれ、育ってきたのです。上を向いて生きてきた時代もあったのですよ。
この時期には、いくつかの山というか、谷があります。1920(大正9)年の戦後恐慌、1923(大正12)年の震災恐慌、1927(昭和2)年の金融恐慌、そして最後に1929(昭和4)年の世界恐慌と一体となった1930(昭和5)年以降の昭和恐慌というふうにつづきます。
大戦景気についての復習
不景気や経済の沈滞の原因というのは、好景気の時期の中に隠れています。
東京書籍「日本史A」P104
大戦景気を思い出しましょう。大戦景気の原因は、
①ヨーロッパにおける軍需需要、
②ヨーロッパの供給が途絶えた事に困ったアジアでの綿製品などへの需要、
③好景気のアメリカでの絹製品への需要、
④経済発展やヨーロッパでの需要に応えるべく発展した船にかかわる事業、
などがあげられるでしょう。
さらに得られた利益が、重化学工業などの設備投資に当てられました。
原政友会内閣による急速なインフラ整備や軍備拡大もすすみます。
急速に利益を拡大した資本家たちが続々と現れ、成金ブームがおこります。
都市の急速な拡大は米価上昇を引き起こし、米騒動につながるような民衆の生活困難と反比例するかのように地主たちは巨額の富を得、さらなる地主経営の拡大をめざしました。
しかし大戦景気で得られた資金が賃金として十分労働者に還元されたとは言いがたく、米価上昇の恩恵は小作農など貧農には還元されませんでした。
国内市場は、ある程度拡大したとはいうものの、やはり狭小なままであり、国民の中の格差は拡大していきました。
こうした問題は、当時の大正デモクラシーの風潮と結びついて、労働運動や農民運動など社会運動の発展につながりました。
しかし、格差の拡大を批判する社会運動の中には国家主義的の傾向を強く持ち、のちのファシズムにつながる動きもありました。
戦後恐慌の発生
ここまでを確認したうえで、第一次大戦が終わり、ヨーロッパ諸国が復興しはじめたことの意味を考えてください。①から順番にいきましょう。
貿易額の推移 帝国書院「図説日本史通覧」P250
①の軍需需要は確実に消滅します。
②ヨーロッパの復興とともに、その綿製品がアジアに帰ってきます。他方、日本と同様、インドや中国でも「自前の綿製品をつくろう」という考えから、民族資本が発達しはじめてきました。こうして三つどもえの争いが展開されます。すくなくとも日本製品の優位は消滅します。
③アメリカもいったん不景気となりますが、再び回復します。これにより、いったん落ち込んだ生糸輸出も増加傾向に戻ります。アメリカの好景気が1920年代の世界経済を支えていました。
④貿易がおちこむなか、やはりこれまでのような具合にはいきません。
好景気の中、企業が巨額の設備投資をおこなっていたため、こうした大戦終了後の反動はいっそう厳しいものとなりました。
こうして、1920(大正9)年には戦後恐慌が発生し、多くの企業が倒産し、財閥系に企業に吸収合併されていきました。
原内閣のインフラ投資などの積極財政も不可能となります。
賃金の抑制などが進められ、労働運動や農民運動のいっそうの激化を招きます。
「失われた10年・20年」~バブル崩壊と大正の恐慌
大戦景気を当て込んで、国内市場の狭さを無視して巨額の設備投資や事業拡大をしたつけが回ってきました。このツケはこれからずっと日本につきまといます。
1980年代後半、バブル時代と呼ばれる好景気の時代に多くの会社や個人が銀行のいわれるままに借金をして、設備投資や新たな事業展開、不動産の購入などを行った姿と重なってきます。そして、そのツケが、平成の日本を「失われた10年」あるいは「失われた20年」とよばれる長期不況に導きました。みなさんは、ある意味、その被害者なのかもしれません。
こうした「失われた○○年」が大正から昭和の初めにもあったのです。
この時期も、バブルの時も、「こんな好景気が続くわけがない」ことはみんな分かっていたのです。しかし人間というものは悲しいもので「自分たちだけはうまく乗り切ることができる」というまったく根拠のない自信だけを持ってしまうのかもしれません。
そしてその犠牲になった多くは、好景気の恩恵をうけなかった人々でした。
震災恐慌と震災手形の発行
戦後恐慌をなんとか乗り切りかけた日本を襲ったのが、1923(大正12)年の関東大震災でした。関東大震災は京浜工業地帯を一挙に壊滅させました。これによって発生したのが震災恐慌です。
これに対し政府は多額の震災手形を発行させ、企業を援助しました。
この手形のシステムについては、下の図の通りです。
帝国書院「図説日本史通覧」P263
日本銀行などが、被害を受けた会社に資金を貸し出し、約束の期間がきたらその金額と利息を支払うというシステムです。
この措置により多くの会社は立ち直り、震災復興が進んだかに見えました。ところがここに落とし穴がありました。さっきも見たように、不景気が続いている時期です。
震災手形は、震災がなくても退場しなければならなかった「ゾンビ企業」にも適用され、延命をたすけました。
こうしたこともあって、約束の期間がきても、お金を返せない見通しの会社がでてきました。そのなかには大きな会社もありました。そうした会社に多額の貸し付けをしている銀行もありました。買い付けたお金が返ってこないという危機がせまっていました。対策が検討されていました。
こうしたなか、ある不用意な発言から金融恐慌と呼ばれる出来事が発生します。
金融恐慌の発生
舞台は1927(昭和2)年の衆議院の委員会質疑の席上です。
大蔵大臣の失言を報じた新聞記事
帝国書院「図説日本史通覧」P263
野党の追及の前に、若槻内閣の大蔵大臣片岡直温が実際には倒産していない銀行を「本日正午に倒産しました」と発言しました。
みなさんならどうします。ぼくなら、授業なんかやってません。ただちに預金通帳をもって、その銀行に駆けつけ「預金を全額を引き出してくれ」というでしょう。遅くなると一銭も帰ってこないのですよ。
しかし、「危ないのはその銀行だけか?」という疑心暗鬼もおこりませんか。とりあえず「現金を手元に持っておこう」と思って、健全な銀行からも預金を引き上げる人が出てきます。
「他の人が引き出すなら自分も」と連鎖反応が発生し、銀行の前には長い行列ができ、銀行との間で「払え、払えません」といったトラブルも発生しはじめます。
東京書籍「日本史A」p122
こうした混乱を「取り付け騒ぎ」といいます。
ちなみに銀行をつぶすのは簡単です。「みんなが預金を下ろす」と言い出せばおわりです。銀行というものは、預かったお金を企業などに貸して、手に入れた利息などが収益源であり、手持ちの現金はそんなにありません。
だから、どんな健全な銀行であっても、預金引き出しが殺到すればどうしようもないのです。とくに手持ちの少ない中小の銀行などひとたまりもありません。
こうして銀行が次々と連鎖倒産するという金融恐慌と呼ばれる事態へと発展していきます。
余談:取り付け騒ぎの実際と預金保険機構
20年ほど前、テレビで高い利息などを売り物にしていた信用組合が破たんしました。
バブル崩壊にともなう金融機関の破綻http://www.officej1.com/bubble/image/hanwa-torituke.jpg
テレビニュースでは、預金を引き出したいという人が殺到していました。すると、そこに、たしか何箱かの、サラの一万円札のはいった箱が運び込まれました。段ボール箱だったような記憶があるのですが、きっとジュラルミンの箱でしょう。違ったらごめんなさい。どさくさ紛れに、1億円が紛失するという事件さえも起こりました。
では、この大量のお札はどこから来たのでしょうか?・・日本銀行(日銀)からです。
日銀は特別融資として大量のお金を貸し出して集まった人を安心させ、それから善後策を考えることにしたのです。金融恐慌の教訓を生かしたともいえるのかもしれません。こうして取り付け騒ぎが広がり、銀行の連鎖倒産が起こる可能性を止めたのです。
実は、銀行に飛び込まなくとも、現在は預金自体を保護する預金保険機構という仕組みがあり、1000万円以下の預金は保護されていますので、授業を抜け出して、銀行に駆けつける必要はありませんので、念のため。
緊急勅令と若槻内閣崩壊
神戸に鈴木商店という商社がありました。
鈴木商店本社ビル(鈴木商店記念館HP)より
現在のそうそうたる会社が、そのルーツを鈴木商店にもっており、その関係者による
鈴木商店記念館まであります。大戦景気のころは「
三井・三菱を超えた」といわれた会社でした。
ところがこの会社の経営が危ないことがわかってきました。
さらに困ったことに、国策銀行である台湾銀行がこの会社に多額の貸し付けを行っていました。
東京書籍「日本史A」P92
台湾銀行は日本銀行の台湾版です。この銀行がつぶれると大変です。何が起こるか分からないということで若槻内閣はこの銀行を助けるための非常手段を決意しました。緊急勅令による台湾銀行救済です。
緊急勅令は議会を通さずに天皇の命令で政策をすすめるやり方です。天皇の命令だから、何の手続きもいらないように見えますが、実は枢密院、憲法制定の時に出てきた天皇の諮問機関ですが、その審議が必要とされていたのです。
枢密院会議が開かれます。ところがここでは、「今の内閣の中国外交は気に入らん」といった話が中心で、「若槻内閣の片岡大蔵大臣の失言がきっかけなんだから自分で尻ぬぐいをしろ」ということで緊急勅令案を否決しました。自分たちが気に入らない若槻内閣をこうした手段でつぶしたともいえるでしょう。これを受けて、若槻内閣は総辞職しました。
田中義一内閣と「ウラシロ」紙幣
若槻憲政会内閣の崩壊にともない、元老西園寺は議会第二党である政友会・田中義一を総理大臣に推薦、1927(昭和2)年4月田中義一内閣が成立しました。この内閣が日本を戦争の方向へ導いたともいわれますが、そのことはあとにして、経済政策だけをみておきます。
大蔵大臣となったのは、いったん政界から引退した元総裁の高橋是清です。高橋は、すべての銀行を休業させ、3週間の間は預金の支払いを停止させます。これをモラトリアム(支払猶予令)といいます。
そしてその間何をやったかとおもいますか。
・・・・ちょっとスゴいですよ。さっきの信用組合のことを思い出してください。
3週間後、それぞれの銀行の窓口に大量の紙幣を積み上げられます。紙幣、それも超高額紙幣200円札。
(実際はもう少し奥でしょうが・・・)総量で500万枚。
でも、このお札、ちょっと変でした。
500万枚を、実際は3日間で刷らせたので・・・
裏の印刷がない紙幣だったのです!
帝国書院「図説日本史通覧」P263
印刷は表面だけで、裏面は白紙、ウラシロとよばれました。
このお札をどーんと並べ、やってきた人に「はいどうぞ!」とばかり払い戻したのです。
でも、裏が印刷していないお札をもらった人はびっくりしただろうね。「偽札だ」といわれて捕まった人もいたみたいですね。
ちなみに大蔵省もかっこわるいものだから、回収に回りました。今、このお札を今持っていたらすごいですよ。取引価格650万円とかネットには書かれていました。
さっきの信用組合と同様のやり方が実施されたのです。
五大銀行と財閥の巨大化
こうして田中内閣は金融恐慌をのりきりました。
しかし、金融恐慌のなかで多くの銀行や企業が倒産するなどして、消えていきました。
東京書籍「日本史A」p122
主に華族のお金を預かっていた第十五銀行も事実上倒産し、とくにお公家さん出身の華族は大損害し、責任者であった元老・松方正義の長男は私財の大部分を投げだしたうえで、爵位を返上しました。なお、武家系の華族は、かつての家臣たちからの情報で逃げのびたみたいです。
こんな風に多くの銀行が消えていく中、人々はより安全な銀行を求めて、より大きな銀行に資金を集中させていきます。
三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行が、預金の多くを集中、四大財閥が、倒産したり、事業を縮小した会社や事業を吸収し、より巨大化していきます。
さらに財閥は政党と結びつき、政治への影響力も強めていきました。
昭和恐慌へ
たしかに、連鎖倒産がつづくという最悪の事態は止めることができました。しかし問題を先送りしただけで、日本経済の脆弱性は維持されたままです。根本的な解決が必要という声も高まってきました。
さきほど世界の経済はアメリカの繁栄によって維持されているといいました。そのアメリカ経済がつまずきます。これが1929年に始まる世界恐慌へと発展します。この最中に、日本は経済立て直しの荒療治を行ったため、昭和恐慌へと突入することになります。
では今日はこのあたりで終わらせてもらいます。
はい、起立、ありがとうございました。