条約改正


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条約改正

 おはようございます。
今日は、できれば一回で条約改正の所をやっていきたいとおもっています。
条約改正の歩み 「詳説日本史」P286

条約改正の歩み 「詳説日本史」P286

明治時代を通じての外交上の大問題は条約改正でした。条約改正、正式にいえば、「日本と列強との間の不平等な条約を平等な内容の条約に改正すること」です。
列強との不平等な状況で、不平等な内容の条約を押し付けられた。それを破棄して、平等な立場で、平等な内容の条約を結び直す条約改正、実は幕末の頃の言い方でいえば「破約攘夷」そのものでした。幕末の志士の悲願が、この交渉の背景にありました。だからこそ「中途半端な妥協ならこれまでと変わらない、許さない」との思いがあったのです。あの「屈辱的な」条約から解放され、欧米列強と完全に平等と確信できるような「質」が求められたのです。

領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇

不平等な内容、覚えていますか?
その1、外国人が日本国内で犯罪を犯しても日本の裁判では裁けないこと治外法権です。実際には、外国人の犯罪はその外国人の国の外交官が、属する国の法律で裁判を行います。これを、領事裁判権といいました。
この不平等を解消することを「法権回復」という風に言います。
 その2、貿易にかかる税金の割合を自由に決めることができない、関税自主権がない」ということです。いいですか、不平等なのは「関税自主権」ではなくて、「関税自主権がない」ことですからね。「ない」がないと、容赦なく×にしますからね。
具体的には、関税は相手側と相談して決める、これが協定関税です。関税は、ちゃんとかかっていますからね、ただではないですからね。間違えないでくださいね。
<日朝修好条規との違いは>
ちなみに、日本と朝鮮の間の日朝修好条規はどうだったのかというと、「関税はかけられない」、つまり持ち込みたい放題、しかも税関を通さなくていいので日本人が朝鮮に何を持ち込もうとノーチェックでした。
引っかからないようにしてくださいね。
「関税自主権がない」という問題を解決するのが「税権の回復」ということばでいわれます。
不平等な内容というと、この二つのようにいわれますが、もう一つありました。
これは修好通商条約ではなく、和親条約の中に紛れ込んでいました。
    その3 条約を結んだあとに、もっとよい条件の条約を結んだ国があれば、その内容は自動的に先に結んだ国にも適用されるという項目、これを最恵国待遇といいました。
しかし、最恵国待遇自体は不平等の内容ではなく、現在でも普通に存在します。お互いに相手を最恵国として認めあう(双務的最恵国待遇)のがグローバルスタンダードです。
ところが、和親条約にあったのは、日本が相手国(たとえばアメリカ)を最恵国としているのに、相手国(アメリカ)は日本を最恵国にしていない。このような一方だけが有利な「片務的最恵国待遇これが不平等なのです。
わかりにくいという人は、開国の所を復習しておいてください。

 「条約改正」、何が求められるのか?

 当初、不平等な条約を改正するのは、たいした苦労をしないでよいと安易に考えていました。日本が新たな統一国家に生まれ変わったから、すぐ改正に応じてくれるだろうと考え、岩倉使節団を送ったのでした。その結果、・・。一蹴されました。
 外国側の理屈のいくつかを示しましょう。
・憲法をはじめとする法律制度も、裁判制度も未整備で自国民の生命安全が保障できない。
・社会も、文化も、西洋人のグローバルスタンダードとは大きくかけはなれている。文明化=「欧米化」されていない。
・自国に有利な現修好通商条約をあえてひっこめるだけのメリットがあるのか
新政府ができると同時に、政府は富国強兵政策、文明開化政策といった近代化政策を急速にすすめました。もちろん国内事情からでしたが、同時に欧米諸国が条約改正をしてもよいと考えるような文明国になったのだと認めてほしいという考えもありました。憲法も、国会も、文明国の仲間入りするためのパスポートであり、条約改正の説得材料でもあったのです。

 寺島宗則、税制回復をめざしアメリカと

国内の改革と並行しながら、条約改正交渉がすすめられました。その様子を見ていきます。
まず最初の改正交渉は先ほども見た
1871(明治4)~1873(明治4)の岩倉遣欧使節団です。予備交渉という名目でした。
②つぎが1878(明治11)年 外務卿寺島宗則がすすめたものです。
Terashima Munenori.jpg

寺島宗則 薩摩出身の外交官。幕末より洋学者として知られ、もっとも早く版籍奉還を提案している。寺島については別稿参照

国内改革が不十分だと考えた寺島は、税権回復なら国内改革はそれほど必要でない、日本に「友好的」なアメリカとならうまくいけるのではと考えました。
そして、アメリカとの間の税権回復で合意します。
寺島は喜んだでしょうが、アメリカは「やっぱり日本に外交センスがない。何も分かっていない」と舌を出していたような気がします。
なぜ、みなさんは分かりますか?
日本ともっとも貿易額が大きかった国はどこですか?そう、「世界の工場、イギリス」です。
イギリスは日本との貿易で大きな利益を得ています日本が関税を上げれば、イギリス製品が売れにくくなり、議会で資本家たちが黙っていません。だからイギリスが税権回復をうけいれる可能性はなかったのです
それをアメリカが分かっているとしたらどうですか。日本に理解があるような態度を見せることでアメリカはよい印象を持ってもらえるという「メリット」があります。しかし、イギリスがこれを拒否すると「イギリスがだめといっていますか。アメリカだけが損をするわけもいきません。ごめんなさい!」となります。
そして裏で「バーカ」と舌をだす、これが外交交渉です。
ということで、寺島の交渉はボツになります。

井上馨、「欧化政策」

1882(明治15)年、国会開設の詔勅をだすが、松方のデフレ政策のインフレ収束がすすむなか、三度目の条約改正交渉が始まります。

井上馨(明治13年の写真) 長州出身。幕末に伊藤博文らとともにイギリスに密航・留学した。

今度の担当者は伊藤博文の留学生仲間で「西洋かぶれ」?!の井上馨(いのうえ・かおる)です。
井上は外国経験もあって改正がなかなか難しいことを「皮膚感覚」も含めて知っています。したがって日本を文明国とみなしてもらうためには、よりおおくの面で欧米化が必要と考えました。日本語のローマ字化も検討していたということです。このような政策を欧化政策といいます。
井上は政府の仲間にいいます。「すくなくとも我々政府高官は欧米人と同様の文明人であることを理解させ、欧米のような国だと感じてもらおう。」ということで、鹿鳴館という洋館が建てられ、政府高官と欧米の外交官たちによる連夜のダンスパーティーが開かれました。
鹿鳴館への風刺

鹿鳴館の政府高官鏡に映る顔は「サル」?! ビゴーの風刺画 「図説日本史通覧」p223

日本で欧米風のダンスパーティーができて楽しいと思った外国人も多かったと思いますが、フランス人漫画家ビゴーは、洋装した日本高官夫妻の鏡に映った顔をサルの顔として描きました。「しょせんは猿まね」というのでしょう。やっぱ「バーカ」てとこですかね。
交渉の中で井上はいいます。「新しく法律をつくるときはあらかじめあなたたちに見せてチェックさせてあげます。日本の裁判所には外国人を雇い、被告が外国人のときはその外国人が裁判させます。
欧米諸国はいいます。
「それならいいですよ。」
そりゃそうです。
これまでの領事裁判と変わらないことを日本の裁判所で行うだけ、それでうるさくいってくる条約改正交渉が終わるなら安いものということで、話がまとまりそうになりました。

ノルマントン号事件・「三大事件建白運動」

ところが、外国から帰ってきた農商務大臣谷干城がこれを聞いて激怒します。これでは、やはり欧米よりも下である事を認めているし、「日本の主権を売り渡すものだ」。辞表をたたきつけ反対の意見書を公表します。フランス人法律顧問のボアソナードも「日本にとってよくありません」と意見書を出します。
これをきっかけに、三大事件建白運動が活発化したのでした。
イギリス船ノルマントン号は日本人乗客を見捨ててイギリス人のみボートで脱出した。 「図説日本史通覧」P222

イギリス船ノルマントン号は日本人乗客を見捨ててイギリス人のみボートで脱出した。
「図説日本史通覧」P222

 1886(明治19)年にはノルマントン号事件が発生、日本人乗客を見殺しにしたイギリス船員が領事裁判で無罪となったことでこの運動はいっそう激化、政府は交渉を白紙に戻し、井上も辞職に追い込まれました

大隈重信、暴漢に襲われ重傷を負う

こうした状態で政府が改正交渉の担当者として選んだのは、民権運動の一方の旗頭であり、外交にも詳しい大隈重信でした。

大隈重信(1838~1922)政治家。佐賀の生まれ。明治14年(1881)の政変で下野し、翌年立憲改進党を組織。伊藤・黒田内閣の外相として条約改正にあたったが、爆弾を投げられて片脚を失う。

これにより運動を分断する狙いもありました。大隈は一つのことに熱中すると他のことはそっちのけになることを、かつての友人、伊藤らは分かっていたのでしょう。

大隈は井上の案を微調整し、外国人裁判官は大審院(最高裁判所)だけで雇うことで話をつけようとし、いくつかの国と合意ができました。しかし、イギリスの新聞が内容をすっぱ抜くと、「井上案と変わらない」との反対運動が再び激化、一人の青年が大隈の車に爆弾を投げ込み、大隈は重傷を負います。
大隈は足を吹き飛ばされ失脚、交渉も中止となりました。
大隈の話で、イギリスの新聞が改正案の内容を暴露したといいました。ちょっとクサいと思いませんか。
なぜならイギリスが条約改正を一番嫌っていたからです。

イギリスの態度急変、「シベリア鉄道」の衝撃

ところがそのイギリスが大きく態度を変えました。
最初の話でいえば、「日本との条約改正にメリットがある」と考え始めたからです。
1890(明治23)年、ロシアのシベリア鉄道計画が本格化、翌年にはフランスのお金を借りて、歴史的な大事業を開始します。

このころ、イギリスが一番嫌っていた国はロシアでした。

ロシアは、地中海には入り込もうとする、中央アジアを支配下に置きイギリスの最大拠点インドへの進出をにらむ、そして中国や東アジアへの進出もはかっている、どの場所でもイギリスと利害がぶつかっていました。しかもロシアはフランスやドイツとも仲がよい、そのロシアがシベリア鉄道を敷設すると、ヨーロッパから中国や日本海、北太平洋に抜ける大動脈ができる。それを使えば大軍が東アジアに送り込める。これは恐怖です。
それは日本にとっても軍事的脅威ではありました。

しかし、シベリア鉄道に期待していた人も多かったみたいです。日本海側、福井の敦賀に旅行に行ったとき、東京発ロンドン行きの鉄道切符を見ました。

東京発ベルリン行きの日本国有鉄道切符http://book.asahi.com/gallery_e/view_photo.html?special-pg/TKY201012210236.jpg

東京発ベルリン行きの日本国有鉄道切符

シベリア鉄道は日本とヨーロッパの人と物の流れを一挙に簡単にできるのです。敦賀または下関から大陸まで船を使うだけでヨーロッパまで直通です。今でもわくわくしそうです。
この時代ならもっとわくわくしそうですね。
日本が大量に輸入しているイギリス領インド産の綿花を、ロシア領の中央アジア産に切り替えることも可能になります。
イギリスにとってシベリア鉄道計画は軍事面だけでなく、経済面でも危険なものでした。
ノルマントン号事件の処理で反発を買った日本との関係を好転させる必要が生まれてきたのです。
国内の資本家の反発を買わなくて済む「法権回復」なら、条約改正に応じてもいいという「メリット」がうまれたのです。

青木周蔵、内地雑居などを認め、基本合意に

大隈失脚のあと外務大臣になったのが青木周蔵です。
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青木周蔵 長州出身の外交官。大津事件の処理をめぐり、伊藤の怒りを買った。

青木は外国人裁判官は拒否をする代わりに、かつて徳川幕府の岩瀬らが必死で守った項目を譲ろうとします。すなわち外国人の旅行の自由や居住地制限をやめる、いわゆる内地雑居」を認めます
これにより、外国人はどこに住んでもよいし、どこで商売をしても、仕事を始めてもよいということになります。
これにたいし、外国企業の大量買い付けや売り込み、新規事業への進出といった資本流入など、日本企業が圧倒されるのではないかとの危惧、外国労働者(とくに中国人)の流入がおこるといった批判など、条約改正反対の声がでます。
裏返して考えてみれば、幕末に岩瀬らが果たした役割が見えてきます。内地雑居を防いだことの政治的、経済的意義についても、考える価値がありそうですね。
しかしこの時期になると、超小型の外国植民地(明治初期までは外国海軍の基地でもあった)ともいえる外人居留地を残す方が問題であるという段階に来ていたのかもしれません。この間、30年間の変化というものを感じさせます。井上や大隈の交渉とは違い、この点は真に対等であれことを求めるなら、認めざるをえない内容だったのでしょう。

大津事件

青木の交渉は順調に進んでいるかに見えました。
ところがシベリア鉄道の余波が思わぬ形で襲いかかります。
シベリア鉄道は、1891(明治24)年シベリア・ウラジオストクからも工事が開始されます。その起工式にロシア皇太子ニコライがやってくることになりました。せっかくだからと、ニコライは七隻の軍艦を引き連れて日本にやってきます。なぜか、軍艦に西郷が乗っているという噂まで流れました。
超大国の皇太子がやってきたということで政府は非常に緊張、京都では季節外れの大文字までやります。
人力車にのるニコライ皇太子 「図説日本史通覧」p223

人力車にのるニコライ皇太子
「図説日本史通覧」p223

ところがニコライが琵琶湖のほとり大津にやってきたところ、警備にあたっていた警官津田三蔵がいきなりサーベル(洋式の刀です)でニコライに切りつけました。
津田はニコライが日本を奪いにきたと思ったのです。
ニコライは頭部に重傷をうけます。日本政府は真っ青です。
ニコライはただちに京都の病院に入院、明治天皇もその日のうちに京都に駆けつけ、面会・謝罪します。日本中は大パニックとなり、日本中から1万通を超える見舞いの電報が送られ、おわびの自殺をした女性まであらわれました。
ニコライは東京訪問を取りやめ、そのまま帰国しました。

外務大臣青木をはじめ、関係大臣は責任をとって辞職しました。

さらに謝罪の意を表すため津田を死刑にしようと大審院(最高裁判所)に圧力を加えました。「天皇一族への危害を加えると死刑という大逆罪を適用するように」と。しかし大審院院長の児島惟謙は法治主義の立場からこれを拒否、殺人未遂罪、無期懲役が判決でした。この事件を大津事件といいます。

<余談>大津事件、おもわぬ「成果」 

もう二十年くらい前になるのですか、新聞に大津事件の話が載ったことがあります。

ニコライ二世の家族。ロシア革命の中で殺害された。「図説日本史通覧」P229

 ニコライは、その後即位して皇帝ニコライ二世となり、日露戦争や第一次大戦を指導しました。しかし1917年ロシア革命で皇帝の地位を失い、いずこかに消えてしまったのです。
そうしたなか、その遺骨らしきものが発見されました。でも、ニコライのものという決定的な証拠がない。そこで、大津事件です。わかるかな・・・。
そう、DNA判定で調べようということになりました。明らかにニコライのDNAがわかるものが、大津事件で用いた布でした。
 DNA鑑定の結果、遺骨はニコライのものと確認され、それとともに、長い間、生存説がささやかれ、ディズニーのアニメにもなったニコライの娘アナスタシアの遺骨の存在も確認されました。
大津事件はディズニーアニメのファンタジーを打ち砕きました・・・?!

「条約改正」の実現~陸奥と青木の連係プレー

大津事件で青木は外務大臣を辞任、その対応をめぐり伊藤ににらまれた青木はドイツ公使へと左遷され、改正交渉はまたもや中断します。
しかし、大津事件での大審院院長児島惟謙の姿勢は、日本の法律と裁判制度に不信の念をいだいていた列強、とくにイギリスの好印象を得ました。
条約改正の機は熟してきました。
1894(明治27)年、外務大臣陸奥宗光はドイツ公使になっていた青木にイギリス公使を兼任させ、中断していた改正交渉を再開させます。
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陸奥宗光 紀州藩出身の外交官。坂本竜馬の海援隊に参加。反政府運動に参加し、捕らえられたこともある。

国会との対立激化や日清戦争の直前という国際関係の緊張の中、総理大臣の伊藤と外務大臣の陸奥は交渉を急がせ、7月ついに新条約(日英通商航海条約)締結に調印、5年後の1899(明治32)年発効となります。
これによって、内地雑居と引き替えに、領事裁判権は撤廃、最恵国待遇も双務化されました。また税権回復についても税率の増加を実現することとなり条約改正の基本部分は実現しました。
ただ、議会での内地雑居への反対はつよく、それを押さえきれないことが、日清戦争開戦の最大の原因となったという声が有力です。

条約改正の実現~小村寿太郎

 内地雑居が認められたことで、横浜や神戸の居留地は廃止され、外国人たちはどこに住んでもよくなります。
なお、横浜や神戸の異人館はすでに居留地の一部として利用されてきました。ただ神戸については、うまく居留地が準備できなかったため、一定の区画に外国人も住んでよいという雑居地に指定していました。神戸・北野町かいわいは、条約改正以前から雑居地だったのです。横浜・山手町は専用の居留地(居住用)として用いられていました。
萌黄の館外観

神戸・北野町、萌黄の館(明治36年(1903年)アメリカ総領事邸宅として建設された。

なお、内地雑居による危惧された事態は起こりませんでした。外国商人たちは、すでに日本人のエージェントを利用して、日本国内で商売をしていました。なにより、すでに産業革命が始まりつつあった日本の経済は議会の一部が恐れていたほど弱いものではなくなっていたのです。
条約改正でのこされた、関税自主権の完全回復が実現したのは、日露戦争後の1911(明治44)年、小村寿太郎外務大臣のときのことでした。
しかし、この間の産業革命の進行は、保護関税で日本経済を保護するという時代でもなくなっていました。ですから日本にとっても、イギリスなどにとっても、この条項の撤廃は象徴的な意味の方が大きかったのかもしれませんね
こうして、幕末以来の最大の懸案事項の一つであった条約改正(破約攘夷!)は、明治時代の終わる直前に完全に実現、日本は名実ともに欧米列強の一角に組み込み事になりました。
そして、条約改正と並行する形で、日本は帝国主義化・アジア侵略への曲がり角を曲がることになります。
それでは終わります。ありがとうございました。
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