盧溝橋事件~日中戦争の開始


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盧溝橋事件~日中戦争の開始

広田内閣の成立=政治の軍部への屈服

 おはようございます。では今日の授業を始めます。
前回は五一五事件、二二六事件という2つのクーデタ騒ぎが発生、国際連盟も脱退するなど、日本が急速にきな臭い雰囲気になっていく様子を見ました。
そしてとうとう本格的な戦争が始まってしまいます。日中戦争です。二二六事件の直後から見ていきます。
二二六事件の時の総理大臣は岡田啓介でした。一時は死亡説が流れた岡田ですが、布団部屋に隠れていて命拾いをしました。岡田はただちに内閣を解散、新たな総理大臣選びが始まります。
西園寺が選んだのは少し意外な人物でした。貧しい家の出身で、外交官の広田弘毅です。
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首相就任時の広田弘毅 (Wikipedia「広田弘毅」)

天皇も、これまでとは違うタイプで戸惑った風があったようです。外務大臣のとき軍部を牽制しつつ「協和外交」をすすめた手法が評価されたともいわれます。
しかし、総理大臣・広田弘毅は、軍部のいいなりでした。
大臣指名でケチが付きます。陸軍は、広田が選ぼうとした候補に次々と「自由主義的」とクレームをつけ、内閣は陸軍のお眼鏡にかなった大臣のみとなりました。
つぎに、軍部大臣現役武官制を復活させ、再び軍部が気に入らなければ内閣を倒すことができるようになりました。

「国策の基準」~陸軍の「北進論」

陸海軍による「帝国国防方針」が定められ、これにともなって「国策の基準」が決定されます。陸軍の要求と海軍の要求がそのまま書き込まれ、今後の日本のあり方に大きな影を落とすことになります。
軍隊というのは、どこの国でもほぼ「あの国とたたかって勝てるだけの準備をしなければ」という「仮想敵国」を想定します。では、当時の陸軍や海軍はどの国を仮想敵国として考えていたのでしょうか。・・・
日本は、明治以降1度戦争で負けました。わかりますか?
・・シベリア出兵。あれは、完全に敗戦です。だからシベリア出兵といって、ごまかしているのです。負けた相手は・・・ロシア?そういえばそうですが、当時の国名でソ連、正式にはソビエト社会主義共和国連邦です。
撤退といっても、明らかに負け戦です。プライドの高い陸軍はリベンジをめざします。満州事変も、計画立案者の石原莞爾にとっては、ソ連との戦いのためのものだったのです。ソ連は社会主義国です。だから、社会主義が日本やアジアに広がらないためにも重要だと考えていました。
こうして陸軍の仮想敵国のトップはソ連シベリアに進出して、この地を手に入れるという北進論」が作戦計画の中心です。陸軍は「国策の基準」に「日本の軍事目標はソ連と戦いシベリア進出をめざすこと」と書くように要求します。

「海軍」の立場~「南進論」と艦隊整備

これにたいし海軍が日露戦争直後から「仮想敵国」として考えていたのはアメリカです。さらにイギリスです。
世界最強の海軍を持つアメリカを仮想敵国とすることは世界最強の海軍をめざす多額の予算要求を出すことでもあります。このように主張します。日本は資源の少ない国だ。だから資源を手に入れる必要がある。そのためには、東南アジアなどに進出しなければならない。そこではアメリカやイギリスと対立することもある。だから海軍力が必要だ。こうした考え方を「南進論」といいます。さらに軍縮条約がなくなったため、米英も軍艦を増やすだろう。日本はそれ以上に増やさなければならない。こういうことです。

「国策の基準」~両論併記

帝国書院「図説日本史通覧」P271

広田には、陸・海軍の間を調整したり我慢させる力はありません。結局両方の意見の丸呑みします。「大陸における日本の地歩を確保する」これは陸軍の北進論を意味します。「南方海洋に進出発展する」これは海軍の南進論です。この二つが国家目標に組み込まれ、軍備の整備しや政治行政・財政などの改革が盛り込まれました。あわせて出された方針では「中国北部を日本の影響下の「特殊地域」として資源を獲得し、中国全土も日本に依存した地域とする」との目標も決められました。
こうした方針を受け、内閣は軍部の軍拡要求を全面的に認める方針で臨み、予算を一挙に膨張させ、不足分は増税や新税、さらには公債という借金でまかなおうとしました。大軍拡が始まりました。二二六事件で、高橋是清が殺されたことは、軍備拡張にカネの面からノーをいえる人物を殺したことでもありました。

「日本の侵略を画策した文書」?!

東京裁判 2列目の左から三番目に広田の姿が見える。 (Wikipedia「極東軍事法廷」)

敗戦後、連合軍は日本の戦争犯罪を追求しようとした東京裁判をおこないました。そこでは、誰が、いつアジア侵略を計画したのかが追求されます。最初は一九二〇年代末の田中義一のメモがそうだと考えましたが、偽物だと判明します。そこで目にとまったのが「国策の基準」。広田たちが、アジア侵略の計画をたてた共同謀議と考えられました。軍人以外で唯一死刑になったのが広田です。広田はこの文書の責任を取らされた面もあります。
うがった見方をするならば、近衛が自殺した以上、軍人ばかりでなく一人ぐらい文官の死刑囚を出さなければバランスがとれないという感覚があったのではないかという風にも思えます。

日独防共協定締結

東京裁判で、広田の戦争犯罪が追求されたのは、この時代の外交政策にもありました。
陸軍は、ドイツの指導によって育てられた面もあり、ドイツに親近感を持つ軍人も多くありました。こうした人びとは、日本と同様に、全体主義的な国家にむかっているアドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツに親近感を持っていました。

東京書籍「日本史A」P1278

さらに日独ともに、国際政治から孤立し、反ソ連・反共産主義という意識も強く持っていました。
こうしたことを背景に、1936年11月にはソ連およびその影響下にある共産主義の国際組織コミンテルンと対抗するとして日独防共協定を締結され、秘密協定としてソ連からの攻撃に対しる協力が約束されました。翌年には、これにイタリアが参加し、日独伊三国防共協定へと発展します。
なお、これはあくまでも「防共協定」であり、いわゆる日独伊三国同盟ではありませんので、注意してくださいね。それは1940(昭和15)年ですからね。今やっているのは1936(昭和11)年ですからね。
こうして、1936(昭和11)年は二月の二二六事件をきっかけに日本は一挙に軍国主義の道をひた走るようになっていきました。それをすすめたのが広田内閣でした。しかし軍部は軍拡のさらなる拡大と行政や議会の改革を求め、官僚や政党との対立が激化するなか、1937(昭和12)年1月、広田内閣は総辞職しました。

宇垣内閣「流産」と林銑十郎内閣

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宇垣一成 (Wikipedia「宇垣一成」)

広田にかわって西園寺が推薦したのは、陸軍穏健派の宇垣一成でした。ところが、出身母体の陸軍が、宇垣にノーを突きつけました。宇垣はかつて政党政治下で軍縮を進めたこと。信念を持った穏健派であり、さらに身内であるために広田のように操れないと思ったことなどから、当時陸軍中枢にいた石原莞爾や若手のエリートらが工作し、軍部大臣現役武官制を利用して、宇垣内閣をつぶします。宇垣はかつての子分たちに声を掛けますが、次々と断られ、ついに組閣をあきらめました。陸軍が、陸軍出身者の組閣すら許さなかったんです。陸軍内部でも、長老の力が低下し若手エリートが力をもち勝手に行動しはじめるようになっていました
宇垣にかわって推薦されたのが、やはり陸軍の林銑十郎でした。かれは若手の言いなりでした。しかし政治的には余りにも無能であったため、四か月の短命で終わりました。

近衛文麿の登場

第一次近衛文麿内閣

次に総理大臣となるのが、公家出身の近衛文麿でした。四五歳とまだ若い近衛は国民的人気も高く、天皇や西園寺のお気に入りでもありました。陸軍内にも期待がたかく、いろいろな立場の人が「現状打破」を実現してくれると好意的な評価をしていました。
しかし、近衛の総理大臣就任の一か月後、盧溝橋事件が発生、日本は中国との全面戦争という取り返しの付かない道に足を踏み入れることになります。

西安事件と抗日民族統一戦線の成立

国共内戦を重視する蒋介石と抗日運動

日中戦争に入る前に、中国の様子を確認しておきましょう。
満州事変で日本軍と戦ったのは地方軍事勢力、日本側が「匪賊」と蔑称していた人たちが中心でした。この地を支配していた張作霖の子ども張学良の軍隊はどうしていたのでしょうか。張学良は日本とたたかうために国民党に参加し、その軍隊もその指揮下にありました。ちょうど、国民党の指示で満州を離れたときに柳条湖事件、そして満州事変が発生したのです。
地元に戻って、日本軍と戦いたい張学良を、共産党との戦い(国共内戦」)を重視する国民党の蒋介石が押しとどめたため、満州事変は日本側の一方的な展開となったのです

黄埔軍事学校校長時代の蒋介石 (Wikipedia「蒋介石」)

東北部を制圧したあとも、関東軍は反日勢力の拠点をたたくとして、「国境」を越えて作戦を展開、日本軍は中国の北部(華北)一体での活動を活発化し、第二・第三の「満州国」ともいうべき傀儡国家を次々と作りあげていきました。
こうした日本軍の動きは中国民衆を強く刺激し、抗日運動が全国化します。1935(昭和10)年毛沢東率いる中国共産党は八・一宣言で、国民党・政府や中国国民に「内戦停止・一致抗日・抗日民族統一戦線の樹立」を呼びかけ、抗日を求める多くの人びとの共感を呼びました。

「西安事件」の発生

このころ中国共産党軍は、一万キロにのぼる大長征をおこない陝西省延安に拠点を移動、日本軍と対抗することをめざしました。これにたいし蒋介石は、西安(かつての都「長安」です)にいる部隊に、共産党軍への攻撃を命じました。しかし西安の部隊はかれらは動く気配を見せません。
腹を立てた蒋介石が飛行機で西安に乗り込んでいきます。そこで一つの事件が発生します。西安の部隊の司令官が蒋介石をとらえ、監禁したのです。その司令官は張学良!でした。
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尾崎秀実 (Wikipedia「尾崎秀実」)

日本の新聞は面白おかしくかき立てます。「やっぱり中国だ。仲間割ればかりしている」「蒋介石が殺され、日本は楽になる」など。ところが「蒋介石は生きており、抗日民族統一戦線が作られる」と正確に報じたジャーナリストがいました。尾崎秀実といい、のちにソ連側のスパイとして処刑された人物です。

蒋介石と周恩来

黄埔軍官学校時代の周恩来

蒋介石は殺されると覚悟したでしょう。その蒋の前に一人の人物が現れます。

「お久しぶりです。校長先生」「なんだ、周君じゃないか!」こんな会話がかわされたのでしょう。蒋介石の前に現れたのは、黄埔軍官学校の政治局員であった周恩来でした。周恩来はフランスや日本で学んだ共産党きってのインテリでありながらも毛沢東を支持して、毛の権力獲得を助けた人物です。周は、こんこんと蒋を説得しました。蒋介石の妻の宋美齢も西安入りをします。
数日後、西安から飛行機が南京に到着します。蒋介石が妻の宋美齢をともなって、タラップから降りてきました。彼らにつづいたのは張学良と周恩来です。話合いがまとまり、蒋介石は、共産党との内戦を停止し、日本とたたかうことに同意したのです。おおくの中国人がそれを歓迎したことはいうまでもありません。日本の多くの人びとはこの意味をまだ分かっていませんでした。

1936年ごろの張学良(中央の人物) Wikipedia「張学良」

ちなみに張学良はこれからあと長い軟禁状態におかれたみたいです。
1990(平成2)年NHKの番組で、張学良がインタビューに応じていました。おもわず「まだ生きていた!」と声を上げてしまったことを覚えています。かれは台湾で生きていました。なお。彼は21世紀まで生き延び、2001年ハワイでなくなりました。

第二次国共合作の実現

こうして内戦が停止され、それによって中国の国民が一つにまとまりつつあったのですそしてそのことは中国の中の巨大な力を呼び覚ましました。こうした中国、かつては自国が戦争をしていても余り興味も持たなかったような中国がまとまり、日本とたたかうことになるのです。その恐るべき力に気づいたのは尾崎らわずかな人たちだけで、多くの人たちは、まだ日清戦争以来の偏見で中国人を見ていました。西安事件は「終わりの始まり」でした。
1937(昭和12)年七月日中戦争が始まります。その二ヶ月後の九月、国民政府と共産党は正式に協力体制(第二次国共合作)を実現し、共産党軍は「八路軍」「新四軍」に編成されて日本軍と戦うことになります。共産党軍の戦い方は、農村に拠点を置くゲリラ戦術であり、正規軍同士の戦いしか知らない日本軍を悩ましつづけます。あわせていえば、こうした戦いの中で共産党は農村部に影響力を広げていきました。

日中戦争の発生

盧溝橋事件

1937(昭和12)年7月7日、北京郊外で突発的な事件が発生しました。

帝国書院「図説日本史通覧」P274

日本軍は、満州事変以来、中国北部(華北)への侵入を繰り返し、各地に傀儡政権を樹立、兵力も増強していました。そうしたなか北京(当時は北平(ホーペイ)とよんでいましたが)近郊に駐屯する日本軍部隊が夜間軍事演習をしていました。すぐそばにいる中国軍の基地を攻撃するかのような生臭い演習です。ところが演習が進んでいる内に、数発の銃声が聞こえました。あきらかに実弾の音です。日本軍はただちに演習を中断し、人員点呼を行います。例の「番号!イチ!・ニ!・サン!・・・」というやつですね。すると一人足りないのです。一人の兵士がトイレをしていたところ、急に呼集があったので、いきそびれ、「一人、足りない!敵に捕まった!」と、大騒動をしているので怖くて隠れていたといわれています。中国側に近づきすぎて銃撃されたという説もあります。

とりあえず、謎の銃声をきっかけに事態は一挙に緊迫、日中両軍の間で衝突がおこりました。これを盧溝橋事件といいます。

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盧溝橋(Wikipedia「盧溝橋」)

しかし、現地では双方とも事態の収束をはかり、数日後には停戦が実現しました。ところが、東京の陸軍内部では「これを利用して中国側を一撃し、屈服させるべき」という意見が台頭し、ソ連との戦いを重視する石原莞爾(覚えていますか、満州事変を起こした張本人です)ら指導層と対立します。
中国は一撃すれば、すぐ屈服するという意識は、近衛らの内閣も共有していたみたいで、追加部隊の派遣を決定します。大軍が送られるとどんなことがおきますか。
まず中国側。そもそも、日本のやり方に怒りが高まっていた中国側です。停戦したはずだがそれは時間稼ぎだったんじゃないかという疑いが強まります。
そして、日本側。強化される軍事力を背景に、停戦のハードルを上げて、中国側の呑めないことを要求し始めます。そして両者の間で小競り合いが始まり、ついには本格的な戦闘へと発展します。日本軍は北京や天津を占領、華北の各地で中国側と戦闘を繰り返しました。ついに日中戦争が開始されました。
ぼくは、いつも不思議に思うことがあります。テレビでも、新聞でさえも戦争が始まった日として、真珠湾攻撃をした12月8日ばかりを取り上げますが、盧溝橋事件の7月7日の方がはるかに重要だと思っています。本格的な戦闘が開始され、日本中が戦争ムード一色になったのはアジア太平洋戦争ではなく、日中戦争からです。戦争の記憶として伝えられることの多くは、1937年7月7日以降です。南京大虐殺も、慰安婦問題も、この時期の話です。そして7月7日は「七夕の日」としてのみ扱われます。日本のジャーナリズムは、日中戦争を避けようとしているのではないかとついつい疑ってしまいます。

日中戦争と「支那事変」

日本側は、この戦争を、当初は北支事変、戦線が広がってからは支那事変と呼び続けました。今でもそう呼ぶ人もいます。でも、やはり日中戦争とよぶべきだと考えます。
ちなみに当時、日本人が中国をさして使っていた「支那」という言葉ですが、現在は差別的なニュアンスを持っていますので使わないでください。

山川出版社「詳説日本史」P353

満州事変のところでいいました。事変は「宣戦布告をしていない国際紛争」。たしかに宣戦布告をしていない、その点では「事変」です。しかし満州事変でたたかった相手は地方の軍事勢力であり、国家と国家の戦いという形ではなかった。これにたいし日中戦争は明らかに国家と国家の戦争でした。日露戦争の最大動員時の100万の兵力を七年間にわたって中国に展開させ、日米戦開戦までの五年間の死者も三〇万人と日露戦争の一〇万人を遙かに上回りました。軍事費にいたって日露戦争の14倍という巨大なものになります。中国側の被害は計り知れないものです。一九世紀以来の戦争を死者の数で順番に並べて場合、三番目に位置する戦争、人類史上三番目の大量の被害者をだした戦争でもあるのです。
こうした意味合いからも、「事変」といういい方で日中戦争をとらえることは妥当ではありません。日本国内には、7月7日のとらえ方も含めて、日中戦争をできるだけ小さく見せたいと考えるある種の「圧力」があるような気がします。
「日本は米英に負けたのであって、中国に負けたのではない」と思い込みたい人が多いのも、「戦争」ではなく「事変」であるといいたがる背景にあると思います。

なぜ宣戦布告をしなかったのか?

実は、当初、日本政府内でも「正式に宣戦布告をして、正式な戦争として扱うべきだ」との議論がありました。しかし、二つの理由からやめています。わかりますか。
一つ目は、戦争にははっきりしたたたかう理由が必要ですね。何度かいったいい方を使えば「正義」あるいは「大義名分」です。ところが国内外に対して積極的な大義名分が見つけられなかったのです。国民には、「暴支膺懲」=「乱暴な「支那」をこらしめる」といっていますが、こんないい方で世界に通用するはずがない。これがためらった一つ目の理由です。
もう一つはもっと切実です。前もいったとおり、軍事物資の原材料の大部分はアメリカやイギリス圏から輸入しています。また武器などを作るための工場の機械などもアメリカ製です。さて、日本と中国が戦争を始めるとどういうことになりますか。国際法では戦争をしている双方との貿易は厳しく制限されます。ここで宣戦布告をし、戦争となるとどうですか。アメリカなどから、石油も鉄鉱石も工業機械も買えなくなってしまうのです。
この二つの理由で日本は宣戦布告をして、戦争とすることを断念したのです。
しかし、日露戦争をはるかに超える戦争を「たいしたことのない国際紛争」=「事変」としたままであったこと、戦争の「大義」も不明瞭のままであったことは、国民の間のストレスをためさせることになります。家族や知り合いを戦死させた人にとってはいっそうこうした気持ちが大きかったでしょう。

宣戦布告しないことを歓迎する意外な人たち

このように、この戦争を「事変」とよぶことは無理がありました。しかし、「事変」のままの方が都合がよい人たちが、思いがけないところにいました。わかりますか、今までの話から考えてください。「戦争」となったら儲からなくなる人たち・・・そう、アメリカ!です。
アメリカは日本が宣戦布告をして戦争となれば、これまでのように派手な貿易ができなくなります。アメリカでは、当時いったん収まりかけた恐慌がふたたびぶり返していました。不況のアメリカから、大量に原料や機械などを買ってくれるお得意先、それが日本でした。アメリカにとっても戦争でなく事変の方が都合がよかったのです。アメリカは目に見えるところでは日本を非難しながらも、見えないところではたんまりと儲けていたのです
アメリカ産の原料やアメリカ製の機械でつくった武器弾薬が、援助している中国人の命を奪い、数年後にはアメリカ兵士の命を奪うことにもなりました。

上海での戦い~日中全面戦争へ

陸軍だけにいいかっこをさせられないとして海軍もやってしまいます。

戦闘によってがれきと化した上海   東京書籍「日本史A」P129

海軍は、長江下流の国際都市上海に軍艦を派遣、部隊(陸戦隊)を上陸させました。ここは昔から反日運動が盛んなところです。こうしたなか、海軍の軍人が射殺される事件が発生、海軍部隊は中国側と戦闘に入り、援護のために陸軍部隊も投入されます。これにたいし中国側も精鋭部隊を投入、中国側の優勢がつづきます。日本軍はさらなる兵力を投入、「一撃すれば屈服する」といった目論見はもろくも崩れます
こうして、開戦当初の四か月だけで九〇〇〇人を越える死者と三万人を超える負傷者が生まれました。
日本国内でも重苦しい空気が流れました
日本が「一撃すれば屈服する」と甘い気持ちで始めた戦争の相手はこれまでとは大きく変化した新しい中国でした
こうして本格的な戦争が、日本・中国・そしてアジアや世界の人びとを苦しめる戦争が、始まってしまいました。
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