<前の時間:士族反乱・農民反乱・自由民権運動の発生>
Contents
自由民権運動の展開と松方デフレ
自由民権運動の発展
西南戦争は、西郷に率いられた最強の薩摩士族さえ政府軍には勝てないことを日本中に示しました。これで士族反乱は終結します。武力で政府を倒せないことを学んだんですから。
これにかわって、言論とくに政府も立脚している欧米的な価値観にも依存しながら、自分たちの政治参加を求めていく自由民権運動が本格化します。
1877(明治10)年、立志社が国会開設の建白を提出、いまおこなうべき課題を「地租軽減・国会開設・条約改正」の三点にまとめました。こうした要求は、農民とくに豪農などに受け入れやすいもので、民権運動は士族の運動から、豪農、さらには都市の知識人などへもウィングをひろげていきます。
結社の結成~「大学習運動の時代」
この時期、日本各地では結社とよばれるグループをつぎつぎと生まれました。農村では、豊かな農民(豪農)たちを中心に人々が集まりました。
書物や新聞を回覧したり、農業技術を学んだり、疫病への対策など公衆衛生にとりくんだり、法律相談や助け合い、盆踊りや武術などの行事を行なったりもしました。ひとびとは将来に明るい希望を持ち、熱に浮かされた様に学びあいました。
この時代を「大学習運動の時代」ともいうこともできます。
グループの中では、当然のこととして、「自分たちの町や村を、地域を、日本を、それぞれどうすべきか」といった議論が活発に語り合われます。国会開設や憲法といった政治の問題も話し合われるようになります。
グループの中では、当然のこととして、「自分たちの町や村を、地域を、日本を、それぞれどうすべきか」といった議論が活発に語り合われます。国会開設や憲法といった政治の問題も話し合われるようになります。
国会開設運動と集会条例
そのようななか、「国会開設をもとめる署名を全国から集めよう」という提案がなされると、日本中で遊説と署名運動が取り組まれます。愛国社は、1880(明治13)年国会期成同盟と改称、運動はいっそう高まりを見せます。
また、自分たちで憲法案を作って全国からもちより、政府に突きつけようという話になります。これをうけ、いろいろな人たちやグループが自分たちなりの憲法案を作り始めます。
こうした憲法案を私擬憲法といいます。
こうした運動の高まり、演説会の過熱や政府批判の激しさを恐れた政府は、同1880(明治13)年集会条例を制定しました。
集会条例
演説会には、警官がやってきて,
前にすわります。そして演説の中で、少しでも政府批判的な発言が出ると「弁士、注意!」と注意を勧告、それでも済まないときは「演説、中止」、ついには会自体の「解散」を命じる権限が与えられました。
民権運動と政府の対立はいっそう激化していきます。ちなみに前回のプリントの⑭が国会期成同盟、⑮が集会条例となります。
開拓使官有物払下事件
政府と民権運動の対立は、1881(明治14)年に頂点を迎えます。
この時期、政府は西南戦争でかかった費用の処理に苦労していました。
こうしたなかで、巨大プロジェクトの縮小が計画されます。開拓使、つまり北海道における公共事業の見直しです。莫大な資金をかけてつくった施設など(開拓使官有物)を、一山いくらで民間に払い下げようとしました。
こうしたなかで、巨大プロジェクトの縮小が計画されます。開拓使、つまり北海道における公共事業の見直しです。莫大な資金をかけてつくった施設など(開拓使官有物)を、一山いくらで民間に払い下げようとしました。
その事業を引き受けたのが・・・朝ドラ「あさが来た」で一躍有名になった・・・五代友厚です。朝ドラのおかげでダーティーなイメージだった五代がいっきに人気者になりました。俳優もイケメンだったしね。
なぜ問題になったのかというと、払い下げの価格がめちゃくちゃ安かったこと。それ以上に、払い下げられたのが薩摩出身の五代だったから。払い下げるのが薩摩出身の黒田清隆だったので、「薩摩同士で汚くもうけようとしてる」という大ブーイングとなります。これを開拓使官有物払下げ事件といいます。官主導から民間主導へ、よく聞く話なんだけど、身内同士という批判は免れませんね。
この事件を福沢諭吉の息のかかった新聞社がすっぱ抜き「だから藩閥政治は許せない、国民の意見が反映される政治、つまり国会開設が必要だ」とあおっていきます。
農村中心だった民権運動に、都市の知識人も加わったことで民権運動はいっそう激しいものになっていきました。
明治14年の政変と国会開設の勅諭
政府内の意見の対立もはっきりしてきます。
この時期、最大の実力者は公家の岩倉具視、政府の中心は長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信の二人、そのまわりに、黒田清隆や長州の山県有朋・井上馨といった藩閥政治家が取り巻くという構図。いきおい、薩長以外出身の大隈は疎外感をもつことになります。
この時期、最大の実力者は公家の岩倉具視、政府の中心は長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信の二人、そのまわりに、黒田清隆や長州の山県有朋・井上馨といった藩閥政治家が取り巻くという構図。いきおい、薩長以外出身の大隈は疎外感をもつことになります。
しかし、伊藤は大隈を信頼していて、この年の正月にはいっしょに温泉にいって、協力して憲法をつくり国会を開設しようと話しあっていました。
ところが、払い下げ事件の混乱の中、大隈重信が伊藤には知らせないまま「すぐ国会を作るべきだ」といった意見書を岩倉に出したものだから、伊藤は激怒、そして考えます。
「なぜ秘密にしていた開拓使の問題が漏れたのか」「福沢は、大隈のブレインじゃないか。実は肥前出身の大隈が、藩閥勢力を追い落とすために謀ったじゃないか」と思い始めました。
そうして伊藤は動き出します。岩倉と相談の上、大胆な方針を出します。そう、国会開設の要求をうけいれる、ただし十年後の開設という形で・・・。
そうして伊藤は動き出します。岩倉と相談の上、大胆な方針を出します。そう、国会開設の要求をうけいれる、ただし十年後の開設という形で・・・。
10月薩長派リーダーと公家だけの会議が開かれ、次のことが決められました。
①国会を10年後の明治23(1891)年に開設するという「国会開設の勅諭」をだす。当然、これに先だって憲法も作る。ただし、天皇=政府の側ですすめる。外部の意見を聞く気はない。②開拓使官有物払下げは中止する、③大隈を辞めさせる、あわせて大隈派(福沢系でもあるけど)の官僚をクビにする、といった内容です。
①国会を10年後の明治23(1891)年に開設するという「国会開設の勅諭」をだす。当然、これに先だって憲法も作る。ただし、天皇=政府の側ですすめる。外部の意見を聞く気はない。②開拓使官有物払下げは中止する、③大隈を辞めさせる、あわせて大隈派(福沢系でもあるけど)の官僚をクビにする、といった内容です。
これを明治14年の政変といいます。
こうして、薩長以外の有力政治家はほぼいなくなり、ほぼ完璧な薩長藩閥政権が確立します。
伊藤たちからすれば、信じられるのは薩長のメンバーだけだったんでしょうね。
私擬憲法と日本国憲法
民権派からしたら、これまでは「国会を開け!憲法を作れ!どうせできないだろう!」という勢いで運動を進めてきたのに、
「それじゃ、作ります。けどあんたらの意見は聞かない。開設は10年後!」ときたもんだから、目標を失ったような感じになります。
そうして二つの流れが生まれてきます。
一つは、政府も自分たちも「進歩と改革」をめざしている。それにのる形で、新しく作る国会・憲法をよりよいものにしようという流れです。
一つは、あくまでも自分たちで、実力で、場合によっては暴力に訴えてでも、自分たちの望む未来をめざそうという流れです。
民権運動は、このふたつの間で揺れ動きながらすすんでいきます。
五日市憲法
自由民権運動を研究してきた学者で色川大吉という人がいます。色川さんは大学の学生さんをつれて、東京郊外の三多摩地域、今は大部分が家だけど、そこの古い民家に行っては蔵を開けてもらい調べることを続けていました。
すると、蔵から明治十年代の大量の本やメモがでて来ることがよくあったそうです。福沢の本、フランスの思想家ルソーの民約論の翻訳、びっちりと書き込みがあったそうだよ、をはじめとする西洋の政治学・経済学なんかの翻訳。丹念に読み込まれ、回覧されていたみたいです。
大学習運動がこんな風に展開していたんだね。
そして東京の山の奥、現在のあきる野市、五日市の蔵からは
200条にも上るほぼ完璧な憲法案(五日市憲法案)が発見されました。
それが、いろいろな憲法案などの写しなんかとともにでてきました。さらに、膨大な討議の会議メモには、この地域の人たちが「天皇と国民の関係は」とか「人権を保障するためにはどうしたらいいか」とか「世界との関係は」とか、いろいろなテーマで話し合ったことが書かれていました。これをもとにして作られたのが、この憲法案でした。
まとめたのは、宮城県出身の青年教師千葉卓三郎。冗談めかして「法学博士タクロン・チーパー氏」と自称していました。
ちなみに、この草案を見た、現在の皇后美智子さんは、「近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えた」と新聞記者に語り、話題となりました。
ちなみに、この草案を見た、現在の皇后美智子さんは、「近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えた」と新聞記者に語り、話題となりました。
自由民権運動と日本国憲法
実は、この時期につくられた私擬憲法の一部は、現在の日本国憲法に取り入れられています。
日本国憲法は、アメリカ軍(GHQ)の草案を元に作られたことは現代社会や中学の公民の授業なんかでなどで習ったと思います。その際、GHQが参考にしたのが憲法研究会という民間グループが作った憲法草案。
実際に案をまとめた鈴木安蔵さんは自由民権運動の研究者で、こうした私擬憲法の内容をふまえて新憲法の草案を作りました。
自由民権運動の伝統が地下水のように現在の憲法にも流れ込んでいます。
「自由民権」の時代
この時代、みんなが目をきらきらさせて、「これからの日本をどうしようか、こんな国にしたいよね」とか話し合っている様子が目に浮かんでくるような時代のように感じます。
「近代日本の青春」という感じがする時代ですね。
幕末から明治初年にかけての志士やリーダーたちもそうだったように、日本中の名も知られないような多くの人たち、ものすごく多くの人たちが、日本をどうするのか、熱い思いを語り合い、行動していた時代、それが自由民権運動の時代でした。
そして、その熱は現在の日本国憲法に伝わり、その伝統が流れ込んでいます。
自由党と立憲改進党
話を戻します。憲法制定と国会開設という二つのテーマを、政府の側にとられた形になった運動の側は、議会に向けて政党結成をはかります。
立志社をはじめとし、国会期成同盟をもとにこれまでの民権運動の流れを結集したのが自由党。農村の豪農といった人が中心的な支持者です。
それに対し、大隈重信や大隈とともに政府を追われた役人、新聞記者や弁護士といった都市の知識人などを中心に結成したのが
立憲改進党です。
この二つの政党の流れが、戦前から戦争が終わって10年後、現在の自由民主党の結成までの二大保守政党へとつながります。
名前は変わるし、考え方も大きく変わってしまいますが、変わらない所があります。それは支持するグループ。
自由党(→立憲政友会)の流れは地主など農村の金持ち中心、
立憲改進党(→憲政会→立憲民政党)の流れは都市のお金持ちや知識人中心です。
少し、教科書的にまとめておきます。
自由党はフランス風の共和主義(国民の権利を重視する政体)の影響が強く急進的、党首は板垣退助。
自由党はフランス風の共和主義(国民の権利を重視する政体)の影響が強く急進的、党首は板垣退助。
立憲改進党はイギリス風の穏健な立憲君主制(憲法や議会にもとずいて君主が政治を行うという政体)をめざす。党首は大隈重信。
これで国会開設に臨むとなりそうですが、そうは簡単にいきませんでした。
自由民権運動の背景~インフレと農村
政治や社会運動というものは、経済・景気に大きく左右されます。
明治十年代前半の自由民権運動の高揚の背景には、農村の好景気がありました。
明治十年代前半の自由民権運動の高揚の背景には、農村の好景気がありました。
明治10(1877)年、大きな出来事がありましたが、覚えてますか?最初の頃、いいましたが・・・西郷隆盛を中心とした・・・鹿児島の士族たちによる・・・そう、西南戦争。
今はもちろん、当時でも戦争にはものすごいお金がかかります。西南戦争もそう。
そこで、お金がなくなった政府は、大量のお札(不換紙幣)を発行します。
大量のお札を発行したら起こるのは・・・?わからない?お金の価値が下がって、物価が上がるから、・・・・。
今はもちろん、当時でも戦争にはものすごいお金がかかります。西南戦争もそう。
そこで、お金がなくなった政府は、大量のお札(不換紙幣)を発行します。
大量のお札を発行したら起こるのは・・・?わからない?お金の価値が下がって、物価が上がるから、・・・・。
そう、インフレーション。これがすごい勢いで進んだんです。
インフレとデフレ
インフレとデフレ、現在、生きていく上でも必要な知識だから、必ず理解しておいてくださいね。覚えるのでなく、理解してくださいね。
あらかじめいっとくけど、経済の話で教科書にはあまり書いてないと思っていい加減に聞かないくださいよ。かなりの配点で出題しますから、そのつもりで。
それじゃ、見ていきます。
あらかじめいっとくけど、経済の話で教科書にはあまり書いてないと思っていい加減に聞かないくださいよ。かなりの配点で出題しますから、そのつもりで。
それじゃ、見ていきます。
インフレというのは、お札が大量に発行されてお金の価値が下がり、物価がどんどん上がる状態。
とすると、「お金」を持っている方が得か、「モノ」を持っている方が得か、どっち?
とすると、「お金」を持っている方が得か、「モノ」を持っている方が得か、どっち?
現金を持っていても価値がどんどん下がるから、「モノ」を持っている方が得。いい?
じゃ、借金をした方が得か、銀行にお金を預金した方が得か、どっち?
銀行にお金を貯めても、モノの値段が上がるから損。借金をしてでも、どんどんモノを作った方が得。
こういう関係になります。確認すると、
インフレの時は「お金よりもモノを持っている方が得」という結論になります。
インフレの時は「お金よりもモノを持っている方が得」という結論になります。
モノを持っているのは・・・「生産者」。この時代の生産者の中心は、そう「農民」が有利
お金で生活しているのは・・・「消費者」。この時代は都市に住んでいる人となります。
お金で生活しているのは・・・「消費者」。この時代は都市に住んでいる人となります。
「農民が得をし、都市に住んでいる人が損をする」という時代
でした。
インフレと農民生活
この時期の農民は、すごい勢いで農作物の価格が上がっていくからウハウハです。さらに、地租が下がりました。税金の負担感も下がりました。
農民、とくに豊かな農民は思いました。「農業の未来はバラ色だ。どんどん農業をやって、もっともうけよう。」
農民、とくに豊かな農民は思いました。「農業の未来はバラ色だ。どんどん農業をやって、もっともうけよう。」
こうした思いが、民権運動、とくに「豪農の民権」と呼ばれる結社の浸透の背景だったのです。
おぼえている、結社で「農業技術」を話し合ったという話。背景はこういう所にもあったのです。
とくに好調だったのが養蚕です。蚕を飼って生糸(絹糸)を紡ぐ仕事。これがすごい。
蚕の量を増やし、蚕の餌になる桑畑を広げる。足りない金は借金をすればよい。借金をしてもすぐに返せそうだから。
とくに好調だったのが養蚕です。蚕を飼って生糸(絹糸)を紡ぐ仕事。これがすごい。
蚕の量を増やし、蚕の餌になる桑畑を広げる。足りない金は借金をすればよい。借金をしてもすぐに返せそうだから。
養蚕の産地として有名な秩父(ちちぶ)地方では、花火大会をやるような好景気になりました。
秩父という名前、頭のすみに置いておいてね。
インフレと士族、政府
「消費者」、都会に住んでいる人たちが損をしたといいました。
都会に住んでいる人、一番ひどい目にあったのが・・・、
この直前、わずかな退職金でリストラされた人々がいましたね・・・?そう、士族たち。
都会に住んでいる人、一番ひどい目にあったのが・・・、
この直前、わずかな退職金でリストラされた人々がいましたね・・・?そう、士族たち。
この時期の士族の没落は急速で、退職金代わりにもらった金禄公債なんかは、あっという間に価値が下がり、なくなってしまう。士族授産などもはかられますが、焼け石に水。
ある城下町で炊き出しをしたら、かつての上流武士の奥方がやってきたと書いてありました。そして多くの没落士族が歴史の闇に消え去ってしまいます。
こうした没落士族の象徴的な人物が樋口一葉です。5000円札の肖像になっている女流作家です。貧困の中、若くしてなくなります。
財政赤字の深刻化
「消費者」ということばにはあてはまらないけど困っていたのが・・・、政府です。
政府は、地租改正で貨幣(お金)で税金を取ることにしました。ところがインフレになると、額面の金額は集まっても、その価値は下落し、買いたい物は買えないし、給料も払えなくなりました。
政府は、地租改正で貨幣(お金)で税金を取ることにしました。ところがインフレになると、額面の金額は集まっても、その価値は下落し、買いたい物は買えないし、給料も払えなくなりました。
「地租をお金から米に戻そう」という話をもっていったら明治天皇に叱られたという記録が残っています。
今の話は、農民が今までよりもはるかに少しの米やモノを売っただけで税金を払えたということです。だから、この時期の農民は幸福な気持ちになっていたんだ。
さらに貨幣価値がガタガタで、外国の業者も安心して貿易ができないため貿易も不調で、関税収入も落ち込んできました。
なんとかしなければ、政府は対策に乗り出し始めていました。
なんとかしなければ、政府は対策に乗り出し始めていました。
松方財政の展開
「山高ければ、谷深し」という言葉があります。景気がよければよいほど、不景気もひどいとしてよく使われる言葉です。
明治14年の政変で、積極財政派の大蔵卿大隈重信が失脚しました。代わって大蔵卿となったのが薩摩出身の松方正義です。
明治14年の政変で、積極財政派の大蔵卿大隈重信が失脚しました。代わって大蔵卿となったのが薩摩出身の松方正義です。
松方はこのインフレ対策に挑み、さらに日本の資本主義化の基礎をつくる難事業に取り組みます。
彼のとった政策は、強烈なデフレーションをおこし、日本は一挙に不景気となります。この不景気を松方デフレといいます。
政府の収入を増やす・・・間接税の導入
松方のやったことを簡単に言うと、
政府の収入を増やし支出を抑えるということ。
では、どうすれば収入が増やせる?・・・。
最初の方法、だれでもわかりますね・・・。税金を増やすこと。でも、地租とか目に見える税金をあげたら、また反対一揆が起こったりするし、民権運動も地租軽減なんていっている。火に油を注ぐだけ。
だったらどうすれば反発を少なくして税金をあげるのか・・・。そこで用いたのが、何かを買ったらいつの間にとられる税金、
間接税、今なら消費税を増やすことです。
この時は、お酒やたばこなどにかかる間接税を大幅に増やしたました。
累進課税と逆累進課税
酒やたばこといったもの値段は、金持ちも貧乏人も金額的にはそんなにかわらないよね。今でいったら何億も資産を持っている人に一箱500円のたばこ、そのなかの300円弱のたばこ税(現在ではそのくらいの割合だ)なんかものの数に入らないくらいの額ですね。
ところが時給700円の人にとって一箱500円のたばこ代は約43分間働いた賃金にあたり、かなりのダメージとなる。ちなみに日本で一番安い最低賃金っていくら位と思う?693円(2015年10月発効)分8時間労働で5544円、25日働いても138,600円、これじゃ生きていけないよね。さっきの計算なら、一箱のたばこ代が日給の9%になってしまんだ。
このように生活必需品への税金を増すことは、貧乏な人への税金のダメージが増えることを意味しています。こういう特徴を逆累進性があるといいます。
これにたいし、所得税なんかは、高所得者には高い税率をかけている。多くの所得を持つ人への税率を増やすようなやり方を累進課税といいます。
ちなみに昭和の終わりごろまでの日本の税制は、累進率が高く、お金持ちがぶつぶついっていたのですが、今はかなり軽くなり、消費税など別の税金が増えました。
国有財産の払い下げと支出削減
話を元に戻します。
開拓使の官有物払い下げは中止されましたが、これ以後、いろいろな国有財産が次々に民間に売却されていきます。これによって支出もおさえられるし、臨時収入も得られました。
このときに民間(政治家と結びついた政商という人たちが中心です)が手に入れた財産が日本の産業革命の基盤になったといわれます。
そのほかにも、政府はいろいろなところで、公共事業の見直しなど支出削減をすすめました。
しかし、例外的に支出が増えている分野があります。何か分かるかな?・・・軍事費です。
松方財政の期間、一貫して軍事費は増加し続けています。
超均衡財政と日本銀行
本来、最も健全な財政運営は収入と支出が均衡している状態、均衡財政が最も望ましい。しかし、これを無視して松方はできる限り収入を増やし、他方でできる限り支出を抑えようとします。
こうしたやり方を超均衡財政などといいます。
収入が増えて支出が減ると、差し引きでお金が残る。これを剰余金といい、松方は剰余金をつかわせず貯めておくようにしました。
収入が増えて支出が減ると、差し引きでお金が残る。これを剰余金といい、松方は剰余金をつかわせず貯めておくようにしました。
さらにこれまではいろいろな銀行に紙幣を発行できるという権限を与えていたのに対し、これからは新たに設立した日本銀行しか紙幣を発行してはいけないこととしました。
そして、大量に発行された紙幣を回収し、ついには銀兌換紙幣を発行するにいたります。
兌換紙幣
兌換紙幣とは、紙幣を持って行ったらいつでも金貨または銀貨に交換してくれる紙幣のことです。
兌換紙幣とは、紙幣を持って行ったらいつでも金貨または銀貨に交換してくれる紙幣のことです。
金貨と変えてくれるのが金兌換紙幣、銀貨が銀兌換紙幣となります。このように紙幣を金貨または銀貨とリンクするやり方を金本位制、または銀本位制といいます。
貿易では、貿易の収支を世界のどこに行っても通用する金または銀のやりとりで調整できるようになるので、貿易業者は安心して貿易ができます。
貿易では、貿易の収支を世界のどこに行っても通用する金または銀のやりとりで調整できるようになるので、貿易業者は安心して貿易ができます。
今回はアジア地域でよく使われる銀本位制でした。この導入によって貿易が好調になり、日本の産業革命が進展するきっかけになったともいわれています。
松方デフレの発生
銀本位制を実現するためには、いつでも銀貨と交換できるだけの銀を持っていなければなりません。このために、松方は剰余金をため込んでいたのです。
銀本位制をとると、いろいろと大変です。ややこしい計算式があるらしいけど、簡単に言えば政府がもっている銀の量に応じただけしか紙幣を発行できないのです。金が足りないからといって紙幣を印刷するなんて事はできなくなりました。
お金の価値は安定し、お札(紙幣)を持っていても安心になりました。
しかし、これと間接税の大増税、政府支出の削減といった景気を冷やす政策とむすびついたのです。
しかし、これと間接税の大増税、政府支出の削減といった景気を冷やす政策とむすびついたのです。
こうして松方のやりかたによって、貨幣価値の上昇、物価の下落という・・・デフレーションが発生することになりました。
これを、松方デフレといいます。
デフレーションということ
デフレについて見ていきましょう。さっきのインフレの逆をイメージしてもらえばかまいません。
デフレについて見ていきましょう。さっきのインフレの逆をイメージしてもらえばかまいません。
お金の価値が上がり、安定するのですから、「お金」のほうが「モノ 」よりも安心だという関係となります。
お金を持っている「消費者」が有利で、「モノ」をつくる「生産者」価格が下がるので不利となります。借金をしていた人も、せっかく作ったモノを売っても少ししか「お金」にならないので、借金を返すのが厳しくなります。
「とりあえずお金が欲しい」として安い価格で売る人が増えると価格はさらに下がり、売る人の収入はさらに減る。さらに価格は下がる。こうした悪循環を「デフレスパイラル」といいます。
こうしてモノ、とりわけ農産物の値段は下落していきます。
農村における深刻な不景気
実際の数字で見ていきましょう。
右のグラフを見てください。米は1881(明治14)年1石12円に迫る価格だったのが1884(明治17)年には1石4円に迫る1/3近い下落率です。生糸にいたっては1880(明治13)年の1斤7ドルが1885(明治18)年には1ドルを割り込んでいます
松方デフレのなか農産物の値段は急激に下がり、原価を割り込み、借金を返すことは困難となります。
さらに追い打ちをかけるのが税金です。間接税だけでなく、デフレによる実質増税という問題がおこります。
仮に、税金が5円だったとしましょう。1881年には5斗(1石の半分)の米を売れば税金が払えたのに、1884年には1石2斗と2倍以上の米を売らねば払えないのです。養蚕業はもっと悲惨です。
借金を払う場合も、同じ事がいえます。しかも利息は、好景気の時の利息です。
こうして農民たちは、農産物価格の下落、間接税、デフレによる実質増税、さらに数年前に借金をして事業拡大をしたツケがいっきにのしかかってくることになります。
時間が来たみたいなので、今日は暗い内容のまま、終わります。
<次の時間:寄生地主制の成立と激化事件>
<日本近現代史の授業中継、メニューにもどる>