高度経済成長と日韓基本条約

昭和のこどもたち(チャンバラごっこ) 東京書籍「新選日本史B」P244
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高度経済成長と日韓基本条約

テレビが見せたアメリカと民主主義

僕が生まれたのは1955年。前回あつかった自民党結党直後。物心がついたのは、1960年の安保闘争を超えたあたり、何もわからずに「アンポハンタイ」と騒いでいた話は前回しました。

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山川出版社「詳説日本史」P398

では、なぜ「アンポハンタイ」ということを知っていたのか、新聞だけでは無理でしょう。やはりそのころテレビが家にあり、家族でニュースを見て知っていたのでしょう。物心がついたころ、白黒テレビは当然のように居間に鎮座していました。

プロレスの力道山もリアルタイムで見ました。空手チョップで外人レスラーを倒すのを歓声を上げて。今から考えると、そんなに効果的な技だったのか、やや疑問ですが・・。そうそう、試合の合間には、リング上を電気掃除機で掃除をしていました?!今なら、あんなものできれいになるわけないやん、と突っ込みを入れたくなりますが。初期のテレビでは、コマーシャルが、実に無邪気?!に、大胆に使われました。画面の下には字幕のコマーシャルが流れていましたし、主題歌はもとより、番組名やキャラクターの名前にも堂々と商品名がはいっていました。ためしに、僕の世代の人に「鉄人28号」の主題歌を歌わせてください。かならず最後に「グリコ、グリコ。グーリーコ♫」という一節がはいります。(見たい人はこれをクリック)関西人に「俺がこんなに強いのは…?」いえば、「当たり前田のクラッカー」と返すのがお約束です?!(「てなもんや三度笠」)

NHK「ブーフーウー」(1960~67)声優は大山のぶ代・三輪勝恵・黒柳徹子

そうそう、「鉄腕アトム」を実写でやってたって知ってますか?実に不気味でしたよ。(不気味なものの好きな人はここをクリック)実写版はともかく、アニメの鉄腕アトムはロボットのような科学技術、明るい未来への興味と期待を与えました。当時のテレビ番組には子どもたちへの限りない優しさと信頼が隠れているものがたくさんありました。人形劇「ブーフーウー」(飯沢匡作)や「ひょっこりひょうたん島」(井上ひさし・山元護久作)などはこどもたちに民主主義や人間への限りない信頼を教えました。「物知り博士(ケペル先生)」のような教養番組は科学技術への信頼と未来への明るい展望を与えました。右肩上がりの経済とあいまって、世の中はよくなっていくという思いが僕たちの世代の心に植え付けられました。現在の、厳しい時代に育つみなさんに申し訳ない気がします。

「パパは何でも知っている」の画像検索結果

アメリカのホームドラマ「パパは何でも知っている」(1960ごろ放映)テレビにでてくる豊かなアメリカの中産階級は人々のあこがれだった。

当時のテレビは、アメリカの番組をよく放映していました。そこにはアメリカ中産階級のくらしがありました。「広い家と大きな冷蔵庫、どこの家にも自動車が!何台もある!」。お父さんは明るく頼りがいがあって、お母さんは優しくて利口。子どもたちを大切にしました。アメリカ的ライフスタイルへのあこがれと、民主的家族像が植え付けられました。

同時にアメリカのテレビ番組は「悪いインディアン」を「退治」する「正義のアメリカ」も教えていましたが。

ちなみに、この時代のラジオ放送やテレビ番組の多くはアメリカ大使館の援助でつくられたり、提供されたものが多いという研究をみたことがあります。

高度経済成長下の子どもたち

時代は急テンポで変わっていきました。大都市郊外にあるぼくの家の周りにはまだ多くの田畑が残っていました。農耕に牛を使っている農家もあり牛の糞が散乱、堆肥としても積み上げられていました。遊び場でもある田畑の畦には野壺(肥料用に糞尿をためておく穴・「肥だめ」ともいう)が点在し、子どもが転落する「悲劇」も多発しました。多くは笑いものという「悲劇」でした。本当の悲劇もあったかもしれません。

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東京書籍「日本史A」P180

しかし、数年のうちに田畑は住宅に変わっていき、道路は舗装され、運河をつくったり水生昆虫を取ったりした川はコンクリートで固められました。野壺はコンクリートにおおわれ、そして消えていきました。
環境保全よりも開発の方が夢を与えていました。有機肥料より化学肥料の方が科学的で、衛生的だとも考えられがちでした。たしかに「悲劇」をもたらす「有機肥料」は私の体内に寄生虫=回虫を住まわせてくれましたから?!
遊びや子どもを取り巻く生活が子どもたちを育てました。我が家でも畑の一部を借りて野菜を作っていました。小さな鶏小屋もあり新鮮な卵が食べられました。ニワトリのえさやりと五右衛門風呂の風呂炊きは私の仕事でした。
子どもたちは高学年のお兄さんたちを中心に「ちびっ子ギャング団」を結成、缶蹴りをしたり、稲刈りが終わった田んぼで三角ベースやドッジボールをしたりしました。

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昭和のこどもたち(チャンバラごっこ) 東京書籍「新選日本史B」P244

ちょうどドラえもんに出てくる土管のある広場の時代のイメージです。大人の指導のもと正しいルールですすめられるスポーツクラブはあったとしても少数で、子どもたちは人数や場所に合わせ自分たちでルールをつくり遊びました。いまからみると危険な遊びも多かったのでしょう。

ぼく自身も、貯水池で泳いで風邪を引いて楽しみにしていた旅行をボツにしたりもしました。折角の旅行、楽しみにしていただろう母を付き合わせてしまったこと、今になってから、いっそう申し訳なくおもいます。生傷も絶えませんでした。かなり、縫ってもらいましたね。

ぼくの世代は団塊の世代=昭和20年代生まれのあとをついて行くという位置関係で、子分は・・・いませんでした。こうした位置関係は六〇歳を過ぎた今もあまり変わりませんが・・。
小学校の途中ぐらい、団塊世代が中学などに上がって行くにつれてこういうグループは消えていきます。同世代で、家の中などでの遊びが増えていきました。

「危ない」「危険な所にはいかないように」という大人の声も強まったのでしょうか。交通事故をはじめとする子どもの事故のニュースも増えてきました。実はこうしたニュースが注目されるような時代になったから、かもしれません。

日本の「断層」としての高度経済成長

歴史を教えていて変なところで既視感を覚えることがあります。

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連雀商人 帝国書院「図録日本史総覧」P127

鎌倉時代で連雀商人というのが出てきます。タンス状の「リュックサック」を背負って商品を売る行商です。「あれ、これ見たことがある」と思いました。小さい頃、琵琶湖から魚やシジミを背負ってやってくる行商のおばさんの姿なのです。シジミを買った母が「ほかに何かない?」と聞くと、おもむろに背負ってきたタンスの引き出しからウナギの蒲焼きとタレをだしました。子供心に「やった!」と思いました。
明治や大正の家の復元展示でも子ども時代の記憶がよみがえります。「みたことがある」「これも家にあった」という感じです。僕の子ども時代、1950年代後半から70年代初期までに、そうしたものが次々と消えていきました。蚊帳(かや)も「あんか」も「はえ取り紙」も、このあたりが人々の生活、さらには文化の分水嶺だったのではないでしょうか。

音楽などもそう。ビートルズ世代あたりから、日本の音楽も大きく変わり、それ以降の音楽シーンには大きな変化は感じません。
小さい頃あんなに変わったのでから、それ以後も革命的に変わるだろうと思いました。しかしそれは違ったような気がします。確かに技術面では大きく変わりました。友人の父親の紹介で見学した有名大学の五階建てぐらいの電子計算機、しかしそのすべてよりはるかに性能がよい「電子計算機」(これも死語ですね)=コンピュータが目の前にあります。キー一つで世界中とつながれるようになりました。たしかに画期的です。でも僕の気持ちの中ではそれもあのころの延長で、底からひっくり返るような変化とは違う気がします。

「高度経済成長」の始まり

こうした変化がはじまったのは僕が生まれた1955(昭和30)年ころからです。敗戦後の混乱した経済状態は、1950(昭和25)年、朝鮮戦争に伴う特需景気を経て「好転」します。

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高度経済成長関係年表 東京書籍「日本史A」P179

「朝鮮特需」によって経済は急速に発展、いろいろな指標で戦前の水準を回復しました。朝鮮戦争後、一時的な不況がおこりましが、それも1954(昭和29)年でおわり、神武景気(1955~1957)が始まります。(神武天皇とは、日本神話に出てくる最初の「天皇」ということになっている人で、日本史上、こんな好景気はなかったという意味で「神武景気」とよんだのです。ところがさらなるの好景気がやってきたものだから「岩戸景気」(1958~61)、さらに「いざなみ景気」(1965~1970)と神話をさかのぼっていきました。)1956(昭和31)年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と記しました。貧困の時代は遠いものとなりつつありました。
街頭で見るしかなかったテレビも、電気洗濯機・電気冷蔵庫とともに「三種の神器」として家庭内に納まりました。とくに洗濯機は、家事労働に忙殺される主婦の労働を劇的に変化させました。主婦は「三食昼寝つき」などという主婦労働への無理解な言い方もされました。

池田勇人という人物

前回に見た五十五年体制はこうした時代にはじまります。1960(昭和35)年の安保闘争も、人々の生活の一定の安定が影響しているように思えます。新しい時代が始まっているにもかかわらず、戦前の亡霊のような岸が出てきたことが、この運動を激しいものとしたのでしょう。民主主義を否定するかのような岸の政治手法を人々は許せませんでした

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池田勇人(Wikipedia「池田隼人」)

安保闘争の経験は参加した人びとに「敗北感」も与えましたが、日本社会に戦後民主主義を定着させる役割も果たしました。

民主主義の定着と急速な経済発展という二つの新しい流れを背景に、政治の新たな流れが生まれます。すすめたのが戦後派の政治家池田勇人でした。
敗戦後の政治家の多くが外務官僚だったのに対し、池田は官僚の総本山大蔵省の出身でした。京都帝大(当時も東京帝大法学部出身者が圧倒的でした)という傍流の出身、入省時の成績もあまりよくなく、また大病にかかったことからエリートコースから離れていました。このことが池田にチャンスをもたらします。格上の官僚が追放される中、何もできなかった!池田が脚光を浴びます。戦後、すぐ大蔵次官となります。野性的ともいわれる官僚らしからぬ池田は吉田のお気に入りとなり、佐藤栄作らとともに政界へ誘われ、当選するやいなや大蔵大臣や通産大臣といった要職につぎつぎと就けられます。池田ミッションといわれるアメリカとの裏交渉でも有名です。率直で開けっぴろげな性格は多くの人に愛されますが、「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業の社長が自殺しても仕方がない」といった失言も多く、ときには吉田内閣を窮地にも陥れました。吉田の流れを引き、アメリカとの関係を重視しますが、アメリカが求める憲法改正や軍備拡張には積極的ではありませんでした。

池田内閣の成立~「所得倍増」「寛容と忍耐」「安保効用論」

この池田勇人が、岸内閣崩壊という非常時に首相となります。革新勢力が力を増し、社会党内閣が生まれかねない情勢でした。アメリカも懸念しています。決して、選挙に負けてはならない、こうした状況で首相となったのが池田です。

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山川出版社「詳説日本史」P394

池田はめいっぱい選挙を引き延ばし「安保」の熱を冷まそうとします。その間に新しい方針を打ち出します。「所得倍増計画」。10年間で国民の所得を倍にするという「夢」のような計画です。
この計画、当時の状況からすればそれほど大きなハードルではありませんでした。これまで通りの経済成長がつづけば十分可能な内容でした。どうってことのない内容を、さもすごいことのように、人々の気持ちを煽り立てるように打ち立てたことが池田の非凡さでした。安保闘争で分断され疲れ切った日本に「経済成長」=アメリカのような「豊かな生活」を対峙させたのです。

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山川出版社「詳説日本史図説」P304

さらに、池田が強調したのは「寛容と忍耐」です。岸のような一方的で強権的な手法、対決の手法はとらない。野党ともじっくり話し合い、信頼関係を築いて政治を運営すると。
側近は思います。「無理だ!キャラが違う!」。池田は、短気で怒りっぽく酒乱ですらありました。池田はこうした「悪徳」を封印します。批判的な記者を家に呼びいれ、じっくり話を聞きました。こうした姿勢こそ人々が待っていたものでした。
浅沼稲次郎社会党委員長が右翼青年に刺殺されたときは自ら追悼演説に立ち、「下町のアパートで質素な生活を送り、愛犬を連れて散歩することを楽しみとした誠実無比な理想主義者」浅沼を悼み、「目的のために手段を選ばぬ風潮を決して許さない」と訴えかけた池田のスピーチは人々に深い感銘を与えました。
池田は、安保闘争・保革激突という政治の時代・対決の時代から、経済の時代・対話の時代への変化という未来像を示しました憲法改正を棚上げとし、再軍備にも消極的のように見せました。他方、安保条約があるから、軍事費が安上がりになり、その分を経済発展に回すという「安保効用論」の立場から「安保堅持」を主張します。こうして「安保条約(アメリカの核の傘)の下での護憲・軽武装・経済優先」の路線が定着していきます。吉田ドクトリンとして知られていますが、確立したのは池田の時代です。

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防衛費の推移 総額としては着実に伸びていることがわかる。(帝国書院「図録日本史総覧」P311)

「軽武装・経済優先」とはいいましたが、アメリカの軍備拡張要求はなくなりませんし、池田もそれを受け入れています。池田内閣の下で軍事予算は増加し、自衛隊装備の近代化・米軍との一体化も進みました。予算規模が拡大したため目立たなかっただけです。憲法改正には消極的でしたが、憲法解釈を変更することによって実質的な改憲と同様の効果を期待する解釈改憲を重視したとも言われます。
池田は引き延ばしていた総選挙を1960(昭和35)年11月に行います。安保闘争の余韻が残り、浅沼の弔い合戦でもあるため、自民党は苦戦を強いられると思われていました。しかし、池田自民党は301議席(当選後入党者を含む)という過去最高の議席数を得る大勝となりました。社会党も議席を伸ばしましたが、めざしていた政権交代にはほど遠く、責任問題も吹き出しました。

総資本と総労働のたたかい~「三井三池闘争」

このころ、安保闘争と並行してはげしい闘いが九州で行われていました。

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山川出版社「詳説日本史図説」P304

三井三池炭鉱での大労働争議です。敗戦直後、最重要産業として力が注がれた炭鉱業ですが、アメリカ資本を経由して安価な石油が流入、エネルギー革命が本格化すると斜陽産業として閉山と人員削減が相次ぎました。炭鉱労働者たちは激しく抵抗、各地で労働争議が活発化しました。こうしたなか炭鉱労働組合で最強といわれた三井三池炭鉱で1200人を超える大量の指名解雇が通告されます。組合側は1960(昭和35)年1月から無期限ストライキに突入、労働組合をたばねる総評は最大限の体制で臨み、全国から労働組合員や学生、大衆団体などが応援にかけつけました。他方、会社側も財界の全面協力のもと強硬姿勢を貫き、総資本と総労働の闘いと言われました。会社側は、協力的な組合(第二組合といいます)を結成して運動の切り崩しをはかり、組合側は身体を張って操業再開を阻止します。会社が雇った暴力団が組合員を刺殺する事件も発生するなど、終わりの見えないたたかいがつづきました。
しかし、7月末ついに組合側は指名解雇を自発的退職として受け入れるというあっせん案でストライキを解きます。事実上、組合側の敗北でした

労働組合の変質~政治闘争から経済闘争へ

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帝国書院「図録日本史総覧」P291

三井三池闘争の敗北は、労働組合が合理化反対などをかかげて正面からストライキでたたかうやりかたが困難となったことを示しました。かわって、総評などが進めたのは、全国の労働組合が協力して一斉に大幅な賃金の引き上げをめざす「春闘」方式でした。この方法は経済成長を背景に成果をあげていきます。日本の労働組合を牽引してきた総評も経済闘争中心に舵を切ることになりました。
すでに春闘がなくても高度経済成長にともない会社の業績が上がれば賃金も上がるという流れができていました。労働組合に結集してたたかうよりも、会社と協力して業績を上げる方が早いし、リスクも小さいという考えも当然生まれます。
会社側も労働者の取り込みをすすめます。作業への能力や実績だけでなく長時間働き、休日出勤もいとわず、引っ越しなど上司の私用にも笑顔で付き合う、こうした勤労姿勢や忠誠心なども賃金や昇級・昇格に反映します。会社側の立場に立ってがんばって働く「会社人間」が優秀な社員とみなされます。出世競争が労働者の間にももちこまれました。
会社とたたかうよりも会社に協力し賃金や待遇の改善をはかろうという労働組合が力を持ち、労資協調主義をとる「同盟」(全日本労働総同盟)などに結集する組合が増えていきます。
逆に会社とたたかって自分たちの待遇を改善しようという運動は、会社にとっては好まざる存在として低い評価を受け、場合によっては退職に追い込まれる。そうした労働組合も苦戦を強いられます。
三井三池闘争はこうした資本家と労働者の関係が大きく変化する画期でもありました。

「日本型労使関係」の形成

経済成長と社会の安定がすすむなか、大企業などでは学校を卒業して入社すれば定年まで同じ会社で勤めあげる「終身雇用」制が定着。順調にいけば勤務年数に応じ年々給料や地位が上がり、結婚子育てなどの生活も保障するという「年功序列」制、住宅や年金などの福利厚生も会社が面倒を見てくれる「企業内福祉」制度などが充実する大企業はあこがれのまととなります。「終身雇用」「年功序列」「企業別組合」に代表される社内の家族的経営を重視する企業風土を「日本的経営」といいます。

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帝国書院「図録日本史総覧」P304

しかし、その裏には人格面も含めた「勤務評価」によって昇級や昇格がなされるという厳しい競争原理が隠れていましたし、会社内派閥など昇進に影響を与えました。
会社の方針に対し反抗的であったり非協力的であると見なされれば「和」を乱すものとして糾弾されました。
日本的経営が定着する背景には企業が労働者を屈服させた三井三池闘争に代表されるような激しいたたかいがありました。
「日本的経営」はたとえ若いうちは低賃金で厳しい労働環境であっても、頑張れば会社も大きくなり、自分たちの給料も上がるし地位も上がっていくという「右肩上がり」の期待のもとに、労働者たちの忠誠と「自発性」を引き出すことに成功しました。高度経済成長はこのような「日本的経営」に支えられたと考えられています。
このような流れは大企業を出発点に日本全体に広がっていきます。他方で、中小・零細企業では大企業のようにはうまくいかず、逆に大企業から無理難題を押しつけられることもありました。
なお、大企業などでの充実した「企業福祉」制度が日本全体の社会福祉政策を未発達のままにしたと言われます。大企業などに属さない労働者や自営業者などへの福祉政策は不十分のまま取り残されました。大企業と中小企業、日本の産業構造は二重構造という指摘がなされました。

高度経済成長の光と影~「公団住宅」「受験戦争」

池田内閣と、それにつづき長期政権を実現した佐藤栄作内閣のもとで、急速な経済発展がすすみました

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通勤ラッシュ (東京書籍「日本史A」P293)

所得倍増は計画よりもはるかに早く実現しました。ぼくが育ったのはこういった時代でした。便利な電化製品がつぎつぎに家に入ってきますし、一家に一台の自動車なども実現します。失業率も低下、総中産階級時代といわれる時代へと移っていきます。高度経済の初めごろ、人々のあこがれのまとで抽選倍率も二百倍前後もあった公団住宅も、しだいに狭さが指摘され、庭付き一戸建てが普及していきます。
豊かで安定した生活が望める大企業などの人気はたかく、「いい就職」をするため、高校さらには大学の進学率が高まり、受験競争もヒートアップしていきます。

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東京書籍「日本史A」P181

家柄や貧富でなく、勉強という点だけで将来が決まるという建前のもと、親たちは子どもに高い教育を与えようとします。「頑張ってよい会社に入れば、おまえも親たちとは違う輝く人生をつかむことができる。だから一生懸命勉強に取り組め!」こういった台詞がそれなりにリアリティを持って子どもたちの耳に届きました。明るい将来が、努力次第で、すべての人々の前に開かれたように思われました。確かにその面もありました。だからこそ、いまだに懐かしさを感じさせる時代なのでしょう。努力が身を結ぶというジャパニーズドリームの時代だったのです。
高度経済成長の時代は学歴競争・受験競争がこれまでとは比べものにならないほど広範な子どもたちを巻き込む時代の幕開けでした

高度経済成長の光と影~「交通戦争」「公害」そして「無責任男」

高度経済成長をきっかけに便利で文化的な生活が実現します。しかし本当に豊かになったのかというと疑問もではじめます。

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山川出版社「詳説日本史」P398

自動車が急増し、せまい道路に入り込んできたこともあって、交通事故による死者が急増し、交通戦争と言われました。子供達の遊び場も奪われました。
空気は工場から出る煙や車の排気ガスで汚れ、ぜんそくに苦しむ人が増えました。
日本中の川は、家庭排水と工場汚水で汚れました。高校野球を見ようと甲子園球場に向かう鉄道ではある鉄橋を渡るとき悪臭で目が覚めたとさえ言われました。京都の鴨川の水はいくつかの色に「染めわけられ」ていました。川の水などは数メートル行くうちに希釈されてしまうという理論を拡大解釈したエセ科学が横行していました。
経済発展のためには、環境の悪化はやむを得ないと考えられていました。

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山川出版社「詳説日本史」P401

各地で公害病が発生します。熊本県・水俣ではチッソ水俣工場の排水に含まれた有機水銀が水俣病を引き起こしました。猫の狂い死から始まった奇病・水俣病は人々の健康と生命を奪っていきました。富山県の神通川流域では上流の神岡鉱山から流出したカドミウムにより骨が折れやすくなり、「イタイイタイ」と激痛を訴えるようになりました。
多くの人が工場や鉱山との因果関係を疑いますが、企業側は認めようとせず、被害を拡大させました。

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映画「ニッポン無責任時代」の植木等

経済活動を重視し、会社の利益や経済発展を追求するだけが正しいことか、しだいに人々は疑問を感じるようになっていきました。
こうした時代のヒーローの一人が植木等が演じる「無責任男」でした。植木が演じる「調子の良さ」と要領だけで生きていくサラリーマンが人々のあこがれとなります。次第に息が詰まりそうになってきた社会を笑い飛ばします。そこには人間らしく生きていきたいという思いが隠れていました。主人公はいいます。「とかくこの世は無責任、コツコツやる奴、ごくろうさん!」(「無責任一代男」)

ケネディ路線と日本の東南アジア進出

池田自民党が300議席を獲得し圧勝した選挙とほぼ同時期、アメリカでも選挙があり、四十代前半の若いイケメン大統領が登場します。ジョン・F・ケネディです。ケネディは新たな世界戦略を打ち出します。

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山川出版社「詳説日本史図録」P284

「非同盟中立」路線と「新植民地主義」

第二次大戦後、イギリスやフランス、オランダは戦前の植民地をとりもどそうとしました。しかし、戦争を経た諸民族は激しく抵抗、1960年ごろまでには、その失敗は明らかになりました。独立した国の多くは「非同盟中立」を標榜、東側との関係も生まれつつありました。英仏などの植民地回復には批判的なアメリカでしたが、共産主義の影響拡大には神経質でした。こうした動きへの、さまざまなレベルの介入が必要だと考えたのがケネディです。
新興独立国が共産主義側に取り込まれないように取り組まれたのが経済援助です。経済援助を強化し新興国の近代化=経済発展をすすめることで、西側陣営につなぎ止め、さらに経済進出にも結びつけようとしました。当時は「新植民地主義」などといわれました。こうした役割の一部を日本に担わせようと考えてたのです。

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日本による戦後賠償と、それにかわる無償援助など。1960年代が中心となる。(山川出版社「詳説日本史図説」P297)

東南アジアへの経済援助の活発化

アメリカも、日本に強い圧力をかけて再軍備をすすめさせるよりも、急成長しつつある日本の経済力を経済援助などで生かす貢献をもとめたのです。池田の望むところでした。池田はアメリカの意を受けてアジア諸国への経済援助に力を入れます。アジア諸国を歴訪、戦時賠償の意味をもたせつつ経済援助をすすめました。こうして不安定な状態のつづくアジア諸国を経済面で支え共産主義化を防ごうとしたのです。こうした援助は、池田の後を継いだ佐藤政権にも引き継がれ、ベトナム戦争の激化をうけてさらに拡大されます。こうした援助に日本製品や技術などが大量に投入され、日本の経済発展にもつながりました。しかし、こうした援助が本当にこうした地域の人の生活向上につながったのか、公害や厳しい労働環境を輸出、利益を持ち帰っただけだという批判も生まれました。1972(昭和49)年、東南アジアを訪問した田中首相はこうした批判をもつ現地の人々の激しい反日デモに遭遇することになります。

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実教出版「高校日本史A」p183

開発独裁政権の登場

東南アジア各地では軍事力で反対勢力を抑圧するとともに日本やアメリカなどの資金を導入して急速な工業化をすすめる開発独裁政権が育ちました。こうした国々のリーダーたちの多くは明治維新を手本としました。マレーシアのマハティール首相の「ルックイースト政策」はその典型です。インドネシアでは1965(昭和40)年クーデタが発生、「非同盟中立」を唱えたスカルノにかわって「開発独裁」をすすめるスハルトが政権の座に就きました。

困難な日韓国交正常化交渉

このようななかで、アメリカが日本に強く求めたのが日韓関係の改善です。

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韓国による日本船舶の拿捕(1953年12月)Wikipedia「李承晩ライン」

日本の植民地であった朝鮮半島は戦後南北に分断され、朝鮮戦争という悲劇によって国土が荒廃していました。南北間の緊張は休戦後も続き、南部の大韓民国(韓国)には大量の米軍が駐留しています。韓国経済はアメリカに全面的に依存、大きな負担となっていました。日本の協力が求められていました。

他方、韓国は厳しい日本敵視政策をつづけ、李承晩ラインという排他的漁業区域を設定、日本漁船を次々と拿捕していました。しかし独裁者李承晩が学生デモによって追放されるなか、日韓両国の関係正常化=日韓条約の締結は、日韓両国にとっても、アメリカにとっても重要な課題となってきました。

交渉が始まったものの、両国の溝は非常に深く合意は不可能だと思えました。植民地時代の体験からくる韓国側の強い反日感情、植民地支配を反省する必要はないと考える日本、韓国側の神経を逆なでするような発言、韓国とのみ国交を結ぶことは朝鮮半島の南北分断を認めるといった反応などなど。

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1919年三・一独立運動(万歳事件)独立万歳を叫ぶ朝鮮民衆を日本軍は武力で鎮圧した。

最大の問題は、植民地化の経過と植民地支配下で起こった出来事への評価でした。韓国側は日本の不当な圧力によって国を奪われたと考えており、1910(明治43)年の韓国併合はもとより、朝鮮の保護国化をみとめた1905年の第二次日韓協約なども不当なものであると考え、植民地支配のもとで発生した弾圧や強制連行などの補償も求めました。これにたいし、日本政府は韓国併合などは国と国との正式な条約であり、支配下でおこった出来事も日本人となった以上、仕方のないことであったと主張します。「日本の植民地支配によって朝鮮半島は発展した」との発言が韓国側を激怒させるなど協議は何度も中断しました。

日韓基本条約締結

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山川出版社「詳説日本史図説」P305

日韓基本条約ならびに「財産及び請求権に関する協定」など一連の協定が結ばれたのは1965(昭和40)年のことでした。佐藤内閣が締結しましたが、実質的な交渉は池田内閣のもとで進められました。両国がしぶしぶながら妥協した背景にはアメリカの強い圧力がありました。いっぱんに「慰安婦合意」とよばれる2015年末の日韓合意と似た経過ですね。
日韓併合は不当な侵略であると考える韓国と、正当なものであると考える日本、どのように折り合いをつけたのでしょうか。日韓条約の第二条は次のように記されます。「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。

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1910(明治43)年8月22日とは韓国併合条約が結ばれた日です。ですから1965年という日韓条約締結時点ですでは効力を失っているという内容です。日本からすれば敗戦までは有効であったと読めるし、韓国からすれば最初から無効であるとも読める、いわゆる「玉虫色」の決着です
これをうけて「賠償」問題が焦点となります。不当な植民地化ならば「賠償金」支払いの請求権が生まれます。しかし正当な支配ならば賠償は問題とならない。日本側はいいます「ただし新しい歴史を歩き出すための「援助金」なら支払ってもよい」と。
結局は、日本側の理屈が通り、経済協力金」という名目のお金が支払われます。3億ドル分以上の生産物および役務による無償援助、2億ドルの有償の資金援助、3億ドル以上の民間の借款、計11億ドル。あわせて日本人が朝鮮半島に持っていた財産の放棄も決まりました。
韓国側からは決して飲むことのできない内容だったでしょう。しかし戦争からの復興には日本の資金と協力がどうしても必要だし、アメリカの強い圧力もある。こうして日韓交渉は決着しました。

日韓条約が残した問題

「財産及び請求権に関する協定」にはこんな条項があります。

一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする(相手国家に対する個別請求権の放棄)

TB227これをそのまま読むと、それぞれの国民のもっている相手国に対する戦前・中の出来事に対する請求権は破棄されるとなります。したがって、戦前・戦中に日本が行った行為は韓国政府が責任を負って対応するとなります。日本政府が強制連行や従軍慰安婦問題に対する補償は「解決済み」と木で鼻をくくったような対応をするのはこの条項に基づいています。「戦前・戦中の諸問題はもう終わったことです。韓国政府が責任をもって対処してください」というのが現在に至る日本政府の主張です。

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日韓条約できっちりとした合意を実現できなかったことが、現在にも影を落としています。韓国側からすれば「日本は朝鮮半島を植民地としたこと、植民地支配の中で行った「悪行」をなんら反省していないし、謝罪もしていない」という思いがあります。札束とアメリカの力で無理やり飲まされたという思いがあります。1995(平成7)年日本の「植民地支配と侵略が・・多大の損害と苦痛を与え」たとする村山談話や2001(平成13)年の日韓ワールドカップを迎えるに当たっての天皇発言などで両国関係は好転したものの、それを覆すような発言や行動が続々と出てきて「やっぱり」という韓国側の不信感を生み、国家としての正式な謝罪を求める動きを加速させました。日韓条約の締結過程とあいまいさな決着からくる納得のできなさがすべての底にあります。

さらに「財産及び請求権に関する協定」にもとずく官僚的な対応も日本への不信を増しています。

なぜこのような条約が締結されたのか

当然のことながら、韓国では大規模な反対運動が巻き起こりました。

JA

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しかし、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領率いる韓国政府は、力で反対運動を鎮圧、条約を締結しました。荒廃した国土を復興するには日本の資金と協力、さらに、アメリカの支持が必要だったからです。アメリカからすると、ベトナム情勢が緊迫化するなか、アジアの反共体制の中心である日韓がいがみあっているのは問題でした。日韓両国とも、いくら話しても平行線なので、どちらともとれる「玉虫色」の言い方で、両者ともメンツを保つ。反対するものは力で抑える、これも2015年末の日韓合意と似てますね。
日本側でも反対運動はありました。しかし、この条約が朝鮮半島の分断につながるとの内容が中心で、日本の植民地支配が韓国(朝鮮)の人々にどのような被害を与えたかという点から論じた人はわずかでした。

また同じように苦しめた半島の北側(北朝鮮)の人びとを切り捨て、国交のない状態を続ける性格を持つ条約でもありました。

「漢江(ハンガン)の奇跡」と軍事独裁政権

たしかにこの時の資金は韓国の経済復興を支える大きな力となりました。日韓条約で得た資金を原資として朴政権は漢江(ハンガン)の奇跡といわれる急速な経済発展をとげ、荒廃した国土は急速に復興します。しかし、本来なら日本から払われた資金は日本の支配のもとで苦しめられてきた人々に支払われる性格のものでもありました。しかし、こうした目的で使われた金額はわずかであり、対象も限定されていました。実際に資金の大部分はインフラ整備や企業への投資など経済復興にあてられました。批判や疑問は、朴政権の強圧的なやり方でおしつぶしました。朴政権のもとで典型的な開発独裁がすすみ、民主化運動は厳しく取り締まられました。この「協力金」はその財源に使われたと言ってもよいと思います。
現在、韓国側は、日韓条約の時期までに明らかになっていなかった個人請求権はこの金額にカウントされていないので消滅していない、未払い分の給料なども「協定にあたらない」と主張します。他方、韓国での判決結果などもあって、支払われなかった・不十分であった植民地下での韓国国民の被害についての支払いを韓国政府の責任で行うようになってきています。

池田内閣~戦後政治の確立

 

吉田ドクトリンとよばれる「護憲・軽武装・経済優先」という日本の路線は池田の時代に定着します。岸の時代の「憲法改正・再軍備・戦前への回帰」という復古的路線を否定したかのように見える池田のもと、五十五年体制とよばれる万年与党の自民党と万年野党の社会党という1・5大政党制もこの時期に確立します。社会党などの社会主義的政策などにも耳を傾けつつ、自民党内の「党内=派閥間の議論」にしたがって政治をすすめるという体制が池田のもとで定着、さらに佐藤栄作内閣のもとで発展します。戦後の政治は、池田によって再スタートしたと言ってよいのかもしれません。
今日はこのあたりで終わりたいと思います。

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