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幕末の人物へのアンケート調査

幕末の人々にアンケート調査をとると…

はじめに

幕末の人々の行動は、非常にわかりにくい。
昔ながらの
尊王vs佐幕攘夷vs開国
となどという基準で分類したら、?マークがそこら中にでてくる。
研究レベルで、こんな基準で分類する人はいないと思うが、時代劇などではいまでもよく使われる。そしてさっきの「?」のために訳がわからなくなる。
この基準でいけば、明治維新の指導者たちは、攘夷の理念を裏切ったものばかりである。
最初から最後まで幕府の中心として活動した一橋慶喜や松平春嶽は開国と攘夷の双方を行き来しているし、長州の周布政之助は条約締結のために攘夷を行うといった一見理解不能な議論を展開する。

旧来のやり方では分類不可能な人たち

人間はそんな単純なものでない。さまざまな思いを持ちつつ、それぞれの価値観・倫理観にもとづいて行動する。

井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。

具体的に、この時期に即して考えて見よう。
 尊王家井伊直弼
まず佐幕、開国派の代表とされる井伊直弼はどうか。
井伊は国学の素養があり、熱心な尊王家とされる。その井伊が朝廷関係者を次々と捕らえ、苦しめ、ときには命を奪う。
「攘夷」藩・長州
攘夷の拠点・長州藩では、外国公使館を焼き討ちの実行犯・井上馨(志道聞多)や伊藤博文(俊輔)が、その直後にイギリス船で留学にでる。列強の脅威を身をもって学んだ高杉は、日本を対外戦争に巻き込む行動をとる。
 一橋派と島津久光
尊王攘夷の総本山ともいえる徳川斉昭は外国の技術導入に熱心であった。尊攘派の代表選手である徳川斉昭・藤田東湖と蘭癖大名の島津斉彬や開国論者松平慶永・橋本左内が一橋派として同盟関係をくむ。
上記の図式では理解しがたいことだらけである。

尊王攘夷とは違う思惑で政局にかかわった人物も多い。島津久光は、尊王家であるより薩摩幕府を開きたいという野心があると、当時から思われていた。
 「二心殿」徳川慶喜
とくに理解困難なのがさきにみた「二心殿」として当時から呼ばれ、いまも非難され続ける徳川慶喜である。かれは尊王と佐幕の間で、開国と攘夷の間で、次々と態度をかえる。
もはや攘夷が不可能との意識が共有されかけた時期、慶喜は孝明天皇ののぞむ攘夷実現のため横浜の閉港を強硬に主張し、議論をぶちこわす。逆に、慶応3年には列強の代表を集め、洗練されたマナーで紅茶を振る舞う。
 実は一貫していた松平慶永
開国論者松平慶永は、政事総裁職についた文久2年、攘夷の方針をうちだし、文久3年春、京にやってくる。しかし攘夷が現実問題として日程に上ると難色をしめし引き籠もり、ついには幕命・朝命をふりきって帰国する。
しかし、攘夷・開国、尊王・佐幕といった議論をいったん下位の判断基準とみなし、公議政体論=オールジャパンの実現という基準を第一に考え、さらに「議論をすればみんなわかってくれるはず」という彼独自の楽観主義を組み合わせると、慶永の行動は一貫していたように見え始める。

人々は何を根拠に行動するのか?

人々は、自らの世界観・倫理観、本音とたてまえ、さらに深層心理などにさえ動かされて、一見すると極めて多様で矛盾とも見える行動をとる。
では幕末期、それぞれの人物の行動を律していた原理は何なのだろうか。
身分社会の中でのさまざまな立場、武士・豪農豪商としての身分的な使命感・信念であるかもしれないし、家名を上げたい立身出世という上昇志向もあるだろうし、怨恨かもしれない。憂国家・思想家としての矜持かもしれないし、組織を守るためという現在につながる悲しい習性かもしれない。家庭人としての生き方かもしれないし、ただただ面白さをもとめた愉快犯もいただろうし、サイコパスともいえる人物もいたであろう。
それぞれ各自、多様な価値観や倫理観の中、ときには矛盾した想念を持ちつつ、それぞれが重視する「理屈」、意識的・無意識的な感情にもとづいて、順位づけをし、ときには変化させつつ行動する
こうした人間個々の、判断の重層化の中で歴史は動いていった。ではこうした多様な判断の基準をどのようにして拾い出す事ができるのであろうか。

分析手法としてのアンケート調査

そこで考えて見たのがアンケート調査を行ったとすればどうなるのかというアイデアである。
当時生きていた人間にアンケート調査をしたと仮定し、さまざまな史料や行動経過からそれぞれの人物を多面的にとらえ、そのことを通じて、それぞれ大切と思った原理をさぐりつつ、その優先順位を考える事でその行動の合理性を考える事ができないかということである。

おもいつくままに作ったのが以下のアンケート項目である。
そしてさまざまな人物が、このアンケートに応えたとしたらどのような結果になるであろうかと「妄想」した。

専門的な研究が不足している筆者がこのような事をするのは力不足なのは明らかであり、丁寧に史料にあたって考えられておられる方からすれば、納得できない事も多いだろう。逆にそういった方が別の知見を打ち出す事も可能になるだろうし、さらにはアンケート項目で不十分な内容を付け加えてもらえればもっとおもしろくなるであろう。

こうして一見矛盾に満ちた人物の行動がそれなりの筋道をとって理解できるのではないかと考える。

昨夜、テレビを見ていて「他国に利権を供与してでも資金を獲得し、日本の近代化を図るべきである。」という選択肢を考えた。
今回挙げる人物でいえば、慶喜は賛成したし、提案した小栗忠順の先輩・水野忠徳もそうだろう。
逆に、孝明天皇をのぞき、明確に反対した人物は誰であろうと考える方が正しいアプローチかもしれない。自分たちのヘゲモニーを獲得するためには、このような事は下位レベルの判断基準とみなされたであろうから。
慶永は、あるいは高杉も、もっとうまい儲け方があるとの視点から批判をするかもしれないなどと妄想した。

歴史教育の教材として

また、私の昔の仕事でいえば、それぞれの生徒に一人ずつの人物を割り当てて「憑依」(=研究)させ、このアンケートを応えさせ、それをまとめ、発表させれば、歴史の多面性を考えさせる事ができるかもしれない。その際は、最後の記述欄は必須であるし、できればⅠ~Ⅵの大項目についても、その判断の基準についてのコメントをつけさせれば取り学習が深まるように考える。

※冒頭の写真は、一藩に高須四兄弟とよばれる尾張の支藩高須藩出身の四兄弟を撮影した写真です。明治14年のものです。
向かって右から 尾張徳川家14代当主慶勝、 尾張徳川家15代当主でのちに一橋徳川家10代当主となった茂栄(尾張藩主引退後、将軍家茂の補佐役もつとめた)、 会津松平家9代当主容保(京都守護職)、 桑名松平久松家4代当主定敬(京都所司代)です。いずれも幕末の日本の最重要人物で、戊辰戦争では敵味方に分かれたたかう事となりました。

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アンケートと「回答」例

以下、「アンケート用紙」と、私が「妄想」した数人方の「回答」を示しておく。(ただし、記述「回答」は松平春嶽のみ)

アンケート~幕末期、活躍されたみなさまへ

<アンケートのお願い>

幽冥界にて、静かにお休みの処申し訳ありません。 
 みなさまがそちらに赴かれ、長い方では170年、短い方でも100年もの日々が経ちました。 
 当時、みなさまが考え、行動された結果は、2020年代の日の本にもさまざまな影響を与えていると感じます。
 ところが、長い時間がたち、研究が進んだにもかかわらず、みなさまの思いを曲解したり、お聞かせするのもはばかられるような物言いをするものや、ひいきの引き倒しをするものなどがひきもきらず、まことにお恥ずかしい次第でございます。
 つきましては、みなさまの真意を少しでも後生のものにつたえるべく、アンケート調査を企画してみました
 みなさま方の真意を理解していると思う人間に「憑依」し、お答えいただければ幸いと存じます。
 ご協力お願いします。

                 お名前(              )
Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)(  )賛成
2)(  )立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)(  )立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)(  )反対

Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつつけてもかまいません。とくに重視したものがあれば、一つに限り◎をつけてください。絶対許せないというものに×をつけてください。
(A)攘夷実現のためには
1)(  )こちらから戦争に訴えるべきである
2)(  )強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)(  )できるかぎり戦争は避けるべきである
4)(  )なにがあっても戦争は避けるべきである。
(B)攘夷実現の方法
5)(  )条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)(  )いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)(  )いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)(  )現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
(C)攘夷実現の交渉の理念について
9)(  )攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)(  )攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。

Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつでもかまいません。できればもっとも重視するもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇の意志を尊重することが第一
2)(  )挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)(  )幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)(  )朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)(  )自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)(  )身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)(  )天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。

Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。でいればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。 

1)(  )すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)(  )朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)(  )幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など
 重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。

4)(  )国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が
政治や外交を
になうべき。

5)(  )これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)(  )幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。

Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。できればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)(  )幕府がすべてを決めれば問題はない
3)(  )幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)(  )天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)(  )中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)(  )天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)(  )幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。

Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。

 (   )開国・攘夷
 (   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
 (   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
 (   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
 (   )幕府の威信
 (   )諸列強に対しての日本としての威信
 (   )軍事・産業・技術の近代化
 (   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
 (   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
 (   )下級武士や草莽の志士の登用

Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

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回答を妄想する

数人の方の回答を妄想した。
あくまでも筆者の狭い範囲の知識での判断なので、ご了承いただきたい。

<回答例 1>松平春嶽(慶永)
松平慶永(春嶽) 幕末から明治初年にかけて、改革派としてつねに政局の中心にいた。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)   立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)△立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2)△強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4)△なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5)×条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)△いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)○いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)△現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) ×攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)○攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)○自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)◎幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)△中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍を招くべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用
Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

自分は、清国がアヘン戦争で敗れた事情から、欧米列強がいずれ我が国に開国を求めにくるだろうと思い、優秀な家臣橋本左内の助けも借り、清の轍を踏まないためには、挙国一致が第一だと考えた。
 私は、現実を虚心坦懐に学び、丁寧に説明し、心の底から真摯な話し合いを行えばわかり合えると愚かにも信じ続けている。したがって、条約勅許・開国こそが正しいということを、斉昭様のような攘夷論者にも、朝廷の方々も、かれらが心底から我が国の将来を考えておられる以上、今後日本が進むべき道を理解していただけると思っていた。
だから大切な事は話し合いの場というプラットホーム作りであると考えた。慶喜殿を将軍となっていただこうとかんがえたのもその一環である。
しかし、これまでの幕府のあり方を守ろうというある意味忠義第一の井伊直弼殿が大老になることで、左内は私の代わりに殺され、私も隠居と蟄居を余儀なくされた。

 文久年間になると、私は蟄居をとかれ、政事総裁職という重職についた。朝廷は和宮様降嫁の条件、攘夷決行を強く要求してきた。もとより私が攘夷に否定的なのはいうまでもない。しかし、本来楽天的な私は真摯な話し合いをすれば、朝廷の方々はわかっていただけると考えた。いったん攘夷決行を承認し、話し合いの場で開国にもっていけると考えた。その主張が通り、慶喜殿、私や山内容堂殿、有力諸大名、そして将軍家茂様までも京都に集結、話し合いを持つ事になった。
 しかし、京都にいった私はその誤りを知った。この地では、長州や土佐の支援を受けた狂犬のような尊攘派がテロを繰り返し、彼らと結ぶ公家たちが天皇の名をかたって勝手なことを繰り返した。彼らは、「勅命」といわれれば反論できない弱みを利用し、私たちに攘夷決行を強要した。私はなんとかそれを拒もうとしたが、尊王の思いの強い慶喜殿たちはそれを受け入れてしまった。さらに急進派の公家たちは本来幕府が委託されてきた軍事や諸藩への命令権まで奪おうとしてきた。いたたまれなくなった私はいったん京を離れ、福井に帰る事とした。
 それでも、私は諸侯同士、さらには天下の有志を加えた話し合いによって、日本のあるべき道を決めることができると工作を務めた。
しかし、薩摩など雄藩を疑い幕府中心の政治への回帰をめざす慶喜殿の態度などでうまくいかず、幕府中心の挙国一致にも協力的であった薩摩は次第に幕府打倒を考え始めるようになった。

 慶応3年の王政復古では、薩摩にしてやられたが、それでも尾張の慶勝殿や容堂殿と連携し、岩倉様も折れて、慶喜殿を議長とする形でおさまる寸前までいったのだが・・。慶喜殿は・・・。
 こうして心ならずも徳川宗家とそれを守ろうとする諸藩を賊軍としてたたかうこととなってしまった。そこでも私は話し合いによる政治運営を実現しようとした。その成果が我が藩士三岡八郎が草案をつくった「五か条の誓文」のなかの「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という一文であったのかもしれない。
 時代は話し合いによる決定などという悠長な事を認めてくれなかった。大久保や木戸といった連中は、岩倉様や三条様の力を借りて、天皇様の名のもとに、相談もなしに新しい政策を決定、実施していった。あるいは、その内容は私や左内がぼんやりと思い浮かべていたものであったのかもしれない。小楠はこうした政治に参加しようとしたが、命を奪われた。
すでに私のいる場所はなかった。
コメント:幕末政治の最初から明治政権の成立期まで、つねに政権の中枢付近にいた春嶽です。
その考えも「妄想」してみました。つねに、話し合い(「公議世論」)によって合意が得られるという非常に楽天家でしたが、その理想主義はさまざまな欲望と思惑、価値観の対立によって跳ね返されていったといえそうです。
民主主義を実現するための困難という現在的な問題が、春嶽の理想主義をはね飛ばしたというところかもしれません。
<回答例 2>孝明天皇
孝明天皇 ある意味、天皇としての責任感が強い人物であったともいえる。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1) 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対
3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)  ◎ 反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)◎天皇の意志を尊重することが第一
2○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)△朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要
5) 自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1) すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)◎幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)△これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)△天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(   )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:幕末の混乱の引き金を引く形になった孝明天皇。
 かれにとっては、「祖法=皇祖皇宗の道」に反しないか、さらに朝廷の権威を高めることが最大の関心事であったと考えました。こうした事情から摂関家や武家伝奏などによる朝廷統治への反発もあったでしょう。他方、そうして点が維持できれば、幕府への大政委任については、とくにこだわりがなかったという形で、回答を考えました。基本的に○は少なかったと考えて見ました。
<回答例 3>徳川(一橋)慶喜
徳川慶喜

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)○立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)○できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)△いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)△攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)○幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)◎朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8×)天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○ )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎1 )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(△  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(◎1 )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(×  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:当時から「二心殿」と賞されていた慶喜、春嶽と同様、ほぼすべての項目になんらかの記号が付きそうなのが、特徴的かもしれません。(ただ春嶽の場合は○が多かったのに、慶喜は×も多い)
たしかに、かれは悩めるリーダーだったのでしょう。少し考えただけも、彼の判断の根拠となったものは、「日本全体の責任者としての自負」「徳川宗家を守る事」「天皇崇拝」「尊王攘夷のカリスマであった父斉昭への孝心」「出身藩としての水戸藩への配慮」あるいは「安政の大獄という愚かな判断を下した井伊直弼への反発」「薩摩=島津久光主従をはじめとする混乱に乗じて影響力拡大をはかる雄藩への反発」などなど、こうした意識・無意識の判断基準がかれを「二心殿」にしたと考えました。そのなかで、かれがもっとも重視したのは「徳川」「天皇」「日本」「自己都合」のいずれだったのでしょうか。ここでは「天皇」を選択してみましたが。
<回答例 4>島津久光
島津久光

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)○ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)△できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6) いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)◎自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7) 天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5) これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)○幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(   )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(◎  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:雄藩・薩摩の最高実力者代表です。○も◎も少なく、「自藩ファースト」との人物として回答してみました。こうした久光の思惑や行動力、兄斉彬への対抗心や虚栄心、それを大久保や西郷らが利用した面が大きかったように思います。
<回答例 5>高杉晋作
高杉晋作

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)◎立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)◎こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)◎いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)△自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)○身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)○すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)○朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)△幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4) 国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)×これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)○中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(×  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(○  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:長州の尊王攘夷派の中心、高杉晋作です。挙国一致とそれによる列強に対する危機感と独立の確保をめざす急進的改革派という位置づけで回答してみました。そうした大きな戦略の下に、尊王攘夷・長州藩の軍国主義化といった戦術を位置づけてみました。しかし、同時に上士出身という面から、「藩」意識もときどき姿をみせた面も意識しています。
<回答例 5>水野忠徳
水野忠徳

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4)◎なにがあっても戦争は避けるべきである
<B>攘夷実現の方法
5)条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)◎現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)◎攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)△挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)△幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)◎天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)×朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)◎幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)×天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)◎幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)×天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(◎  )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(×  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:多くの人には知られていない水野忠徳。対外実務を担ってきた官僚たちの黒幕ともいえる人物であす。こうした官僚の代表として取り上げた。俗吏とみなされがちな幕府官僚であるが、近年、反攘夷派ナショナリストの側面が強調されてきた。国際的な信義こそ国益とする立場に立ち、朝廷や雄藩との協調によって対外危機をよびこむことに強く危機感を持つ、朝廷や一橋慶喜ら在京幕僚・公議政体派への批判勢力としての回答とした。
挙国一致のためには薩長を軍事的に屈服させるという別の選択肢もあった

 

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

新年度を迎え、本年もいくつかの大学に聴講に行くこととしました。そうしたなか、ある講義でとんでもなく面白い史料をもらいました。ぜひ、多くの人に紹介したいと思います。

『対日政策に関する覚書』について

それは1942(昭和17)年9月段階、ひとりの日本研究者の青年が戦争省に提出した覚書(メモランダム)です。そこには、敗戦後のアメリカの対日政策がみごとに先取りされています。

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エドウィン・O・ライシャワー(1910~1990)

提出したのはエドウィン・O・ライシャワー、当時31歳です。私が物心ついた頃の日本大使で、日本生まれ、日本育ち、妻(結婚(再婚)したのは戦後ですが・・)も日本人。日本の歴史や文化にも造詣が深く、親日派の筆頭としてあげられた人物です。つねに日本に友好的であり、戦争中も敵意を持っていなかったと主張し続けています。この史料で見る限り、そうとはいいにくいのですが・・。
ライシャワーは、日米開戦直前に、名門ハーバード大学極東言語学部の講師となります。1941年夏には一時的に国務省調査分析官に席を置き、アメリカの対日政策にもかかわりますが、秋には大学に戻ります。12月の日米開戦を受け、1942年9月以後は陸軍省で暗号解読と翻訳など情報関係の仕事を携わりました。回顧録には、この間、国務省のプロジェクトチームにもかかわったと記していますが、この時期を対日政策を研究した書物などには不思議なほど名前が出てきません。
しかし日本研究者がわずかしかおらず、日本についての知識が切望されていた時期、1941年段階で関係を持っていた国務省が、この人物を放っておくとは思えません。戦争が終わる前後には国務省チームの責任者をすることから考えて、回顧録の証言はあたっている気がします。

この史料『対日政策に関する覚書』(以下『覚書』)は、ライシャワーが陸軍省に移る1942年9月、戦争省に提出したものです。カリフォルニア大サン・ディエゴ校のタカシ・フジタニ氏がアメリカ公文書館で発見、雑誌『世界』2000年3月号で紹介と解説を行いました。(タカシ・フジタニ「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」なお史料の英文テキストは『世界』のホームページhttps://www.iwanami.co.jp/sekai/2000/03/146.htmlから、現在も見ることができます。)コーネル大学の酒井直樹氏はこの文書の重要性に着目、『希望と憲法』(以文社2008)のなかで検討、さらに日本語訳を巻末資料として掲げました。講義で渡されたのはこの資料でした。
(なお、この文書をテキスト化したサイト(「忘馬楼の『老馬新聞』」2008年5月24日http://16.huu.cc/~mamo/bd080524.htm)があったので、転載させていただいています。

ライシャワーが語る『覚書』

では、ライシャワーはこの『覚書』をどのようにかたっているのでしょうか。『ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳 (株)文藝春秋・1987)には

 日付ははっきりしないが戦争初期に書いたらしい私の覚書の写しには、戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案が書かれている。
 日系アメリカ人の部隊をつくり、彼らに忠誠心を証明する機会を与えよ、それは戦争の人種間闘争的な性格を弱め、われわれが日本国民ではなく軍部と戦っている事実を示す好機になるはずだ、という進言も残っている。

と、その存在を簡潔に記しています。またNHKで話した内容を文章化した『日本への自叙伝』(日本放送出版協会1982・以下『自叙伝』)では、戦後改革の章で内容の一部を紹介しています。そこには「先に見た『覚書』」という記述があるにもかかわらず、その記述を見つけることはできませんでした。
自らの先見性とその影響力は自慢したいものの、その内容の過激さから「親日家」という自分のイメージを守るために現物は見せたくなかったのではと、ついつい邪推したくなってしまいます。
ライシャワーは、この『覚書』を「アジアにおけるわが国の戦争努力と、特にこの地域で戦争が終結した後の政策目標に密接な関係をもつ」「些末に見えてもじつはきわめて重要な二つの点について意見を喚起したい」と書き始めます。
その一点目は「戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させる」ための手段を論じた内容であり、二点目はさきの『自伝』にあった日系アメリカ人を軍人として戦争に参加させることです。

日系アメリカ人部隊創設を提案

話の都合上、後者の方から見ていきます。
1942年のアメリカ大統領令9066号は、アメリカ西海岸などに住む日系アメリカ人に「敵性市民」として立ち退きを命じました。その結果、12万人を超える日本人に、さらに日本にルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アリゾナ州の砂漠など荒れ地に設けられた11か所の強制収容所に送られました。

アメリカ軍の監視下、強制収容所に向かう日系アメリカ人(1942年4月5日)Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

このことは当時から、アメリカの「理想」などとのかかわりで問題とされていました。なお、1988年レーガン大統領が国家として正式に謝罪を表明、補償を行います。
この日系移民の強制移住という政策にライシャワーは危機感を感じます。かれが問題視したのは、アメリカ憲法に反した人権を侵害する行為だからではありません。

日本人を祖先にもつアメリカ市民を米国籍をもたない日本人とともに西海岸から移動させることは、緊急の軍事的配慮からみて、必要な行動であったことは疑いを容れません。

このように、この行為を妥当な行為として評価、さらに、20世紀初頭から続く日系アメリカ人排斥運動を認める発言も行います。

現在に至るまで、日本人を祖先に持つアメリカ人は我々の目的にとって負債以外の何物でもありませんでした。一方ではわが国にとって人口の移動と軍事的な監視という大きな問題を課し、他方ではアジアの日本人にプロパガンダの切り札を与えてきたのです。

このように日系アメリカ人を「負債」と表現し、アメリカに負担を与える邪魔な存在として位置づけています。
ライシャワーが危機感を感じるのは、日本がアメリカのこの政策をプロパガンダに利用することでした。この戦争を人種間の戦争と主張する日本の考え方を正当化する論拠となる、だから危険だというのです。かれはこの危機感を次のように語ります。

日本は国際連合(the United Nations:注:酒井氏は連合国をこのように訳している)に対する戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしております。(中略)日本のプロパガンダはシャムや東南アジアの植民地、そして中国の一部でさえ、ある程度の成功を収めております。中国が戦争から脱落するような事態があった場合は、日本人はアジアにおける闘争を全面的な人種戦争へと変換することが可能であるかもしれません。

日本が、近代以来の欧米諸国による植民地支配という弱みをついて、白人対黄色・褐色人種という人種間戦争という枠組みに持ち込む材料となる、それが危機感の内容でした。
ライシャワーはこうしたことにならないために、日系アメリカ人という「負債」を「資産」に変える方法を提案します。

この状況を逆転させ、これらのアメリカ市民をアジアにおける思想戦の資産に変えるべきでありましょう。現時点において、今次の戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争であることを示すためには、(日系アメリカ人による) 合州国に対する誠実で熱意に満ちた支持ほど優れた証拠はありえません。

こうした意図から、ライシャワーは日系人部隊を結成することを提案します。これによって「日系アメリカ人を負債ではなく資産にする」ことができるというのです。

Congressional_Gold_Medal_Nisei_Soldiers_of_WWII
第二次世界大戦における日系二世将兵を称えた議会名誉黄金勲章(表) Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

この提案は、『覚書』から5ヶ月後、1943年2月、日系人部隊(第422歩兵連隊)結成という形で実現します。この部隊は、ヨーロッパ戦線でもっとも過酷な戦場に送り込まれ、勇敢に戦い、米軍全体を見てもとくに多くの犠牲者をだしたことでも有名な部隊です。(先日、NHKがこの部隊の過酷な戦いのようすを扱った番組(BS1スペシャル「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 英雄たちの真実 )を放送しました。)
この部隊結成と『覚書』の直接的な関連はわかりませんが、政策実施に一定の役割を果たしたのではと思います。本人としてもそうした自覚はあったようで、さきにみたように『自伝』のなかでこの部隊のことに触れ、多くの日系人がこの部隊に参加したと誇らしげに語っています。
これが二点目の内容です。

日本人に有効な「スケープゴート」は?

しかし、これ以上に重要なのが、一点目の内容です。ライシャワーが自伝でいったような「戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案」にはとどまらないインパクトをもつ提起です。
ここで論じられているのは日本の敗戦後の占領政策を見越した上での政策提言です。すこし丁寧に見ていきたいとおもいます。

ライシャワーの中心的な関心は、敗戦後の日本において「アメリカの政策に誠実に協力する」日本人の「頭数」をそろえ、アメリカ側に「転向」させ、その協力を得ることです。

戦後の日本を友好的で協力的な国家の仲間に引き戻すためには多くの日本人の協力が必要でありますが、わが国の政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数(sufficient numbers of Japanese)我々の側に転向させることは極度に困難な課題になると思われます。(中略)日本の人民の協力なしには、この地域に健全な政治的・経済的状況を作り出すことができないことは、極東を専門的に研究する者にとって、あまりにも明らかなことであります。

そしてこういった「頭数」を確保する上での、ドイツやイタリアと異なる日本の困難さを記しています。東京裁判が、ニュルンベルク裁判と違って難しかった理由をすでに予知していたかのようです。

戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させるに当たって、大きな困難の一つは、敗北の重荷を転嫁する適当な適当なスケープゴートが存在しないことであります。ドイツとイタリアでは、ナチ党とファシスト党が、さらに有り難いことにヒトラーとムッソリーニという全体主義をひとまとめに象徴してくれる人格が、最も都合のよいスケープゴートの役割を果たしてくれるでありましょう。(中略)この政権の解体と指導層の追放という行為を通じて、彼ら自身、すなわち人民ではなく、彼らの邪悪な指導者が悪かったのでそのため敗北したのだと、自分たち自身を納得できるはずであります。

ドイツなどでは敗戦の重荷を「悪かったのはナチス党やヒトラーなどの政権と指導者」に押しつけ(実際にそうした面も大きかったのですが)、「がん細胞」を切除するかのように取り除くことで国内的にも決着をつけられると考えました。

ヒトラーとムッソリーニT128
東京書籍「日本史A」P1278

しかし、「日本ではこのようにいかない、無理だろう」というのがライシャワーの見立てです。連合軍側では多くの人が天皇をヒトラーやムッソリーニと同格に考えていました。しかし、日本人の多くがそう考えていないことは、日本に生まれ育った彼にとっては明白でした。天皇にスケープゴートの役割をおしつけることは無理であり、逆効果と考えました。

日本ではこのように指導者に責務を転嫁することによって、(人民の)面子を救うことはできません。なぜなら、すべての人民が天皇には責任がないことをよく知っているからで、天皇を告発することは国旗を非難すること以上の憂さ晴らしになるとは思えないからであります。

では、ちょうどいい、敗戦の責任を押しつけうる「悪」、日本人の「憂さ晴らし」になるスケープゴートはいるのか、と問うたとき、適当な人物を見つけにくいというのが、かれの見立てでした。かれは、当時の日本の統治形態をつぎのように見抜いています。

日本では現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習としており、責任をとらせる政党は存在せず、スケープゴートの役を演じてもらえるような傑出した個人はほとんど見当たりません。偽りの邪悪な指導者の役を演じてもらえる唯一の組織は陸軍でしょうが、いまや全国民が何らかの形で陸軍と軍人崇拝の永い伝統と同化してしまっており、陸軍を責めることで日本人が憂さを晴らせるとは思えないのです。

日本には都合のよいスケープゴートがいない。「現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習」とするからだ。なかなか見事な分析です。ニュルンベルク裁判に比べて、東京裁判が難しく、そのあり方に疑問が多く出され、国民にとってもストンと落ちなかった理由もこのあたりにあるのでしょう。「軍国主義」のがん細胞は、日本という肉体の深くに根ざしており、外科手術で取り除くことは困難だったのです。ライシャワーは東京裁判での連合軍の困惑を見抜いていたかのようです。
少し読み違えがあったとすれば、敗戦後の国民は彼が考えた以上に、陸軍というか軍部に批判をもっていたようです。しかし、それはこの文書のかかれた時期が原因かもしれません。なぜなら、この文書が書かれたのは、ガダルカナル島攻防戦がもっとも激しく戦われていた時期、戦いの帰趨すらはっきりしない、ライシャワー自身が「本当に戦争自体に勝利できるか自信がなかった」と述べている時期だからです。しかし『覚書』が書かれた時期から三年弱、日本人は戦争の苦しみを味わいます。しかもそれは口には出せなかった。口に出せなかったからこそ、次々と国民に犠牲を強いてくる軍への怒りを沈殿させていったのでしょう。

アメリカにとって最良の「傀儡」は?・・

スケープゴート作戦がうまくいかない日本でどのようにして、敗戦後、「日本の人民の協力」をえるのか。「注意深く計画された戦略を通じて思想戦を勝ち取ることが我々には期待されるでしょう」と「思想戦」という用語を使い、もったいぶった言い方で論を展開します。内容は過激さを増していきます。

当然のことながら、第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させることであります。そのような集団が少数派しか代表しない場合には、我々に喜んで協力する集団は、いわば傀儡政権ということになるでしょう。
日本は何度も傀儡政府の戦略に訴えてきましたが、たいした成功を収めることはできませんでした。というのも、彼らが用いた傀儡が役不足だったからであります。

たしかに満州国の溥儀も、南京政府の汪兆銘も、中国の人々の支持を取り付けるためには役不足でした。しかし、日本には、最高の、これ以上ないという傀儡がいるとライシャワーは言います。この『覚書』ももっとも過激で、衝撃的な部分に入りましょう。

ところが、日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれております。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、中国での日本の傀儡が常に欠いていた素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っています。もちろん、私が言おうとしているのは、日本の天皇のことであります。

アメリカが日本を統治するのに最適な「傀儡」として天皇がいるとライシャワーは主張します天皇を「傀儡」として利用し、占領統治を行えばうまくいくというのです。「協力」とか「利用」といったことばでなく、「傀儡」(puppet regime)という最大限の刺激的なことばをつかっています。天皇を占領政策に利用すべきという政策のはしりであり、だからこそ、むき出しの政策意図が見える気がします。
このようにライシャワーは、きわめて冷徹に敗戦後、日本をアメリカに従属させるための方法を提案しています。かれが、よく口にする「日本の友人たち」という言葉ですが、心の中では「友人」ではなく「傀儡」と思っていたのではと邪推したくなります。
つづいて、天皇の「傀儡」としての資質について触れます。

日本の基準からいって、天皇は自由主義者であり、内心は平和主義者であると考えてもよい理由があります。天皇を国際連合(the United Nations)と協力する政策に転向させることが、彼の臣民を転向させることよりも、ずっと易しいことであるというのは、大いにありそうなことです。天皇が、おそらく天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせることができるのであります。

日米合意としての「国体護持」

ライシャワーは、みずからの体験と交友関係、さらにはこの約1ヶ月前に帰国した元駐日大使グルーらの意見も踏まえたかもしれませんが、裕仁天皇を「自由主義者」「平和主義者」と分析し、アメリカ戦略のため「傀儡」として「転向」させうる、最高・最適の人物と評価しました。「天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」という一節は、裕仁天皇と側近グループが、本土決戦を主張する軍部を押さえ込んだという敗戦に至る経過を見通していたかのようです。

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ジョセフ=グルー 戦前、十年以上にわたりアメリカの駐日大使をつとめ、日本の占領政策に大きな影響を与えた。

敗戦に際して、1945年6月の沖縄陥落以降、戦争終結をめざすようになった裕仁天皇らがもっとも重視したのは「国体護持」=天皇制の維持でした。
他方、アメリカでは国務次官となった国務省内「日本派」の代表ともいうべきグルーが「立憲君主制を含めて」という一言を連合軍の文書に組み込むいれるべく全力を尽くし、省内の「中国派」と暗闘を繰り返していました。グルーら国務省内の「日本派」はこの言葉こそ天皇グループがもっともほしがっている「国体護持」の実態だということを知っていたからです。吉田茂ら「和平派」(「傀儡」?!)と何らかの接触があったのかもしれません。
そして、「国体護持が可能である」というなんらかの見通しを得たなか「和平派」であった裕仁天皇と側近たちは行動に移しました。彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」力をフルに生かして。
そして、この実績をひっさげて、天皇はみごとに「転向」し、アメリカ占領政策の「傀儡」の役割を積極的に果たします。たぶんライシャワーやグルーが思った以上に。

「傀儡」としての天皇の役割

天皇による「玉音」放送と武装解除命令の「臣民に与える影響力」は絶大でした。
実態としての厭戦気分が満ちあふれていたこともあり極度に自尊心が敏感で、強度に民族主義的な人民」である日本臣民はみごとに「転向」しました。アメリカ軍はこれといった抵抗もなく占領を開始、軍隊の武装解除も約1ヶ月という短期間で完了しました。
天皇制、とくに裕仁天皇の存在は多くの連合国側が思いもつかないほど効果をしめし、『覚書』の見通しはおどろくべきの正しさをもって証明されました。

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1945年9月のマッカーサーとの会見以後、裕仁天皇はGHQとの関係を強化、アメリカ側とくにマッカーサーの意向を受け入れた行動をとります。マッカーサーはその華麗な「転向」ぶりに目を見張ったのでしょう。
こうして戦前の万世一系の神話の上に立っていた絶対主義天皇制は「傀儡天皇制」へと姿をかえました。
マッカーサーはこれ以降、有能な「傀儡」である裕仁天皇を最大限利用するため、強引ともいえるようなやり方で天皇制の維持を図ります。アメリカ国民や連合国の意見を無視して、天皇の戦争犯罪人としての起訴を拒みます。さらに戦争放棄・軍隊の非所有という衝撃的なまでに平和を前面に打ち出した日本国憲法の制定をすすめていることで日本の軍国主義が克服されつつあると世界にアピールします。世界が廃絶を求める天皇制を維持するためには、過激なまでの平和憲法が必要だったのです。だからこそ、極東委員会で天皇の処罰を厳しく求めるソ連やオーストラリアも、明治憲法を残したい日本政府も、憲法9条をもつ日本国憲法と象徴天皇制のセットを認めざるを得なかったのです。
他方、裕仁天皇は1946年正月の人間宣言をだし、さらに全国巡幸を積極的に行うことなどで「愛される天皇」を演出、GHQの期待どおりの「傀儡」の役割を演じます。裕仁天皇からすれば「国体護持」=天皇制存続のための必死の工作だったのでしょう。双方の利害が、憲法上の「象徴天皇制」で一致したのです。

裕仁天皇は憲法制定後もアメリカのエージェントともいえる役割を演じます。
1947年9月「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」という内容のメッセージを側近経由でGHQに伝え、日本国内の米軍基地の自由使用などの問題では、吉田首相やマッカーサーの頭越しにダレスと結んでアメリカ政府につながり、豊下楢彦氏が「二重外交」と指摘するような行動をとります。それは、米軍基地の存続に制約をつけようとする吉田や外務省の意向とも異なる、アメリカにとっては心強い動きでした。
裕仁天皇は、天皇制維持という目的から憲法の規定をも超えて「自発的」に「傀儡」の役割を果たしつづけました。

天皇の「利用価値」を高めるために・・

さて、『覚書』にもどりましょう。

もし、天皇が、彼の祖父(明治天皇のこと:訳者)のような真の指導者としての資質をもっていることにでもなれば、我々にとってはますます都合の良いことになります。たとえ、彼の半気違いの父親(大正天皇のこと:訳者)程度の能力さえないことが判明したとしても、それでも、協力と善意の象徴としての彼の価値はきわめて貴重であります。

この文章はあくまでもライシャワーの言葉です。疑問の方は、英文テキストで確認してください。大正天皇を「半気違い(his half-demented father)」と呼ぶなど、紳士的でハト派の親日家として知られるライシャワーとは思えない書きぶりです。アメリカの政策遂行上の利用価値という点から、冷酷に天皇を見ていることをよく示しています。
このように利用価値の高い天皇です。このため、天皇がヒトラーやムッソリーニと同様の「邪悪な日本の体制を象徴するもの」といったアメリカでの報道を控えて「貴重な同盟者あるいは傀儡」として天皇を日本においても、アメリカにおいても「使用可能な状態に温存する」ことが必要だと考えました。

戦後に日本人が(敗戦によって受けるであろう)精神的な傷から回復するために天皇が演じることができる役割は、現在の状況と確実に関係しております。戦争終結の後の思想戦のために、天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存するためには、現在の戦争によって汚点がつかないように、我々は彼を隔離しておかなければならないのであります。(中略)新聞やラジオで天皇を広く冒涜することは、戦後の世界において我々にとっての彼の利用可能性を容易に損なうことになりかねません。このような政策をとるかぎり、我々の道具として、天皇に協力したり、あるいは極端な場合には、天皇を受け入れたりする心の準備をアメリカの人びとから奪い取ってしまうことになるでありましょう。当然その結果として、天皇自身と天皇周辺の人びとはわが政府に協力する気持ちが弱まるでありましよう。(中略)戦後問題を考慮して、政府におかれましては、本邦の報道波及機関に対しまして、裕仁への言及をできるかぎり避けること、むしろ東条あるいは山本、さらには滑稽な神話的人物ミスター・モト──軍服姿で──を現在わが国が戦争状態にある敵国日本の人格的具現として使用するよう、ご指導されるべきかと考える次第であります。

この部分でやっと『自伝』で紹介した内容がでてきます。『回顧録』でも、このあたりの内容が紹介されています。「自分は、アメリカでの天皇批判から彼を守ろうとしたのだ」というふうにいいたいのでしょう。しかし、見ての通り有益な「傀儡」の価値を減じるから批判を控えるべきだというのです。『覚書』での天皇への目は非常に現実的かつ政治的です。
なお、この提言を考慮してかどうかはわかりませんが、国務省は日本向けの放送での「天皇批判を避け」つづけます。

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ミスター=モト ジョン・P・マーカンド原作の小説の主人公。微笑を絶やさず「アイム・ソーリー」を連発する冴えない人物。しかし物怖じしない度胸と鋭い頭脳を隠し、小柄な体の下に大男もねじ伏せる怪力と鮮やかに敵を倒す柔術の業を極めた秘密情報部員。日米関係の悪化とともに悪役として描かれるようになる。(http://www.aga-search.com/)より

しかしアメリカ国内やオーストラリアなど他の連合国の反天皇報道をおさえることは困難でした。1944年グルーが天皇を免罪するかのような内容の講演を行ったときにはアメリカ内外から激しい反発がまき起こり、グルーは一時沈黙を強いられました。国務省内部にも、天皇の責任を厳しく追及する「中国派」がおり、天皇制維持をめざすグルーら「日本派」の間で対立がつづきました。
この間、ライシャワーは陸軍で暗号解読に全力を挙げていたことになっていますが、国務省内でも何らかの影響力を持っていたことは考えうるのであり、従来、グルーの主導とされてきた政策のいくつかにはライシャワーの影響があったことも考えられます。
ちなみに、『自叙伝』で自分の同級生であり「平和を欲していたはずだ」と持ち上げている山本五十六を『覚書』では東条と並ぶ「敵国日本の人格的具現」としてマスコミの批判対象として掲げるように誘導していることも興味を引きます。
日本では、英雄視されることの多い山本五十六ですが、アメリカでは東条英機や「謎の日本人ミスター=モト」とならぶ、真珠湾に卑劣な奇襲作戦を行った「悪役」だったことがわかります。

「アメリカにとって都合のよい日本」という視点

アメリカ内外の天皇批判をやめさせ、非人道的な日系アメリカ人への迫害をなんとかやめさせようと思っていたが、普通の言い方では通用しないため、あえて政策提案者が受け入れやすい露骨な、偽悪的な書き方をした、その方が正しいのかもしれません。かりに、そうであっても、この文書は現在に至るアメリカの対日政策の基本構図をあまりにリアルに描き出してしまいました。

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裕仁天皇(昭和天皇) 日本国憲法に署名しているときの写真

この『覚書』の重要さはアメリカにとって都合のよい日本を作り出すという点に焦点をあてて論じているところです。
こうしたアメリカの世界戦略のもと、戦後日本は、アメリカの「政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数」を現在に至るまでうみだしつづけ、「日本の人民の協力」によって「この地域に健全な政治的・経済的状況」を作り出し、「友好的で協力的な国家の仲間」でありつづけています 。こうした日米関係をつくりあげる、「戦争終結の後の思想戦のため」のアメリカの「目標に最も適った傀儡」こそが天皇でした。
このようなアメリカにとって都合のよい日本は、サンフランシスコ平和条約による「独立」後もつづきます。いっそう強まったというべきかもしれません。その核心となったのが日米安保体制です。その核心ともいうべき米軍基地の自由使用、沖縄の分離と占領継続において、裕仁天皇はアメリカの利害を援護する「傀儡」としての役割をみごとに発揮しました。こうして成立した「日米安保体制」は現在の日本のあり方を大きく規定しています。
この『覚書』は、日本をアメリカに従属する「都合のよい日本」に変えていくというアメリカの『本音』を見事に描き出しました。そして「都合のよい日本」は、現在、いっそう「都合のよい」存在となっています。この「都合のよい日本」への「転向」の「てこ」として使われたのが、アメリカの「目標に最も適った傀儡」としてライシャワーらに見いだされたのが天皇制であり、裕仁天皇個人でした。

 

新たな疑惑~不幸は明治天皇一家にも

以前、「なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑」という記事を書きました。その内容は、将軍家、とくに江戸末期の将軍の子どもたちの短命は、大奥の女性たちの化粧品白粉(おしろい)にふくまれる鉛ないし水銀中毒ではないかというものでした。また、同一のことを主張するブログも紹介しました

ところが、話はこれで終わらないことに気がついたのです。発端は、牧原憲夫氏が著した「民権と憲法」(岩波新書)の記述です。その部分をよんでください。
明治天皇には「皇后には子供がなく、側室五人の間に15人の子(男5女10)が生まれたが、10人は夭折(ようせつ)し、成人した男子は典侍柳原愛子の子・明宮だけだった。」

幼いころ、巡幸にきた現皇后(当時は皇太子妃)の化粧をみた小学生連中が、あまりの分厚い白粉のため、とても「不敬な」ことをいっていました。昭和四〇年代の初めでもそんな状態でした。明治時代の宮中では、もっと大量の白粉を使っていたことは明らかでしょう。現皇后の白粉にはもちろん鉛や水銀は入っていません。しかし鉛入りの白粉が製造中止になったのは昭和初年(Wikipedia「鉛中毒」)のことです。それまでは、鉛入りの白粉を使っていたのです。そしていずれかの時期までは、宮中で使っていた白粉も、鉛や水銀を原料とするものでした。

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大正天皇(Wikipedia「大正天皇」より)

ですから、明治天皇の子どもたちも、大奥と同様に、乳首までしっかりと鉛を塗った女性の母乳を飲んでいた可能性が高いのです。

明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった」とし、さらに「大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ」と記されています。
 さらに、当時の公家・武家の華族の三歳以下の子どもの死亡原因の大部分が脳膜炎様症状であることが問題になっていて、1923年に京都帝国大学教授が「原因は慢性鉛中毒ではないか」との研究成果を発表した、実は明治末年からすでに疑いが持たれていたとも書いてありました。
明治天皇の子どもたちの死産や夭折は、鉛ないし水銀の中毒であった可能性が濃厚といわざるを得ません。

さらに大正天皇は分娩時、すでに湿疹があったという記事ものっていました

こうしたことを総合すると、大正天皇は鉛ないし水銀中毒の胎内中毒をおり、さらに母乳からさらに金属毒を摂取した。このため出産時より湿疹がでており、虚弱であり、生まれてすぐ脳膜炎様症状を発症した。なんとかこういった「病」を乗り切ったものの、後遺症や体内に蓄積した金属毒を原因とする障害で苦しみ、その特異な行動などで人びとの密かな「嘲り」(差別!)をうけ、最終的には公職をまっとうすることができず、のちの昭和天皇を摂政とし、印象の薄い人生を終えた。
このような人生であったとかんがえられないでしょうか。
気がつきませんか?
家定将軍と大正天皇の共通点
兄弟の大部分が夭折し、生き残った唯一の成人男子。虚弱で、障害をもち、短命。

しかし、他の子どもたちが金属毒に耐えきれずなくなったのに、大正天皇(もしかしたら家定も)が生き残ったのは、DNA的には長寿遺伝子をもっており、元来は強健な身体の持ち主であったのかもしれません。
大正天皇の4人の男の子たちは全員が成人し、もっとも短命であった秩父宮でも50代まで生き、最も長命の三笠宮は昨年(2016年)101歳で大往生を遂げました。
大正天皇の子どもたちは、明治天皇の子どもたちとは好対照を示しています。
宮中では、密かに不幸の原因を探っており、鉛や水銀の入った白粉を使わないようにしたのではないかとも想像されます。
彼の子どもたちの長寿はこうしたところから来ているのかもしれません。(もちろん、栄養状態もよかったのでしょうが・・)
金属中毒は、足尾鉱毒事件によってひきおこされた利根川流域の人々にたいしてだけでなく、宮中の女性のぶ厚い化粧を通して天皇家にも取り憑き、不幸をもたらしていました。
大正天皇はこうした犠牲者であったとおもわれます。
 

家茂と和宮のそれから

 家茂と和宮

日本で最も有名な政略結婚をさせられた徳川家茂と和宮の二人、それからどうなったのかという話をしたいと思います。
授業では、よくする話なんだけど、本論から離れそうなので、こっちで補足しておきます。
Kazunomiya.jpg
和宮(1846~1877)、家茂の死後「静寛院宮」と名乗った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#/media/File:Kazunomiya.jpg
和宮が野蛮人と思っていた家茂君はとってもやさしいいい人だったみたいで、この二人は将軍家でもめずらしいとってもすてきなカップルだった、という話は授業中継でもしたとおり。

でも、なぜこんな風な仲良し夫婦でいられたのかなあ。

徳川家茂(1846~66)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:Tokugawa_Iemochi.jpg
よく考えると、これまでは、たとえ夫である将軍がいい人で、子どもの誕生こそがとか、大奥のしきたりがとか、なんとかかんとかまわりが口を出して、本来の夫婦らしい関係は作りにくかったんじゃないかな。
ところが、和宮の場合は相手が悪い。天皇の妹で、鳴り物入りで嫁いで来たんだから。
これまでの大奥のしきたりでは通用しない。
将軍としても大切にしなければならない存在だったし、相手の立場が高いだけに、まわりにとやかく言われることなく、奥さんを大切にできた。
だから、普通に家茂君の優しさが発揮できたのだろう。
ある意味、奥さんの立場が高かったからこそのいい夫婦になったのかもしれないね。
でも残酷なもので、家茂君は朝廷から「京都まで来い」と何度も呼び出され、天皇のガードマン?!をやらされたり、高杉からやじられたり?!、心労がたまって、長州との戦いのため大坂城にいたときに病気で死んでしまう。21歳。いまの数え方で20歳。
ストレスからか、スイーツが大好きで、虫歯で歯がボロボロだった。 それも病気の原因につながっているらしい。
死因は脚気(かっけ)。
脚気って知ってる。お医者さんが膝のちょっと下をトンカチみ
たいなものでトントンとたたくと、自然に足がぴょこんとはねる。あれが脚気の検査。今でもやってるのかな?
明治までは、これでたくさん死んだんだ。
明治時代の日清戦争や日露戦争の兵隊さんで、病死した人のかなりが脚気だったみたい。
どうしたら直るか。
僕だって、家茂君を直してあげられる。玄米を食べればいい。
脚気はビタミンB1の不足が原因なんだから。
庶民はみんな玄米だったのに、やんごとなき将軍さんは白米ばかり食べさせられていたのが原因の一つだった。
明治の戦争の時は、かの森林太郎(鴎外)先生が、兵隊には良いものを食べさせてやりたいといって、兵士に玄米ではなく白米を食べさせつづけたのが、原因だといわれている。彼は脚気は伝染病だと信じていたからだけど、善意が裏目に出たんだね。
徳川家茂の石塔(増上寺)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:TokugawaIemochi_grave.JPG
余計な話はおいておいて、昭和33年徳川家の墓地改修のために将軍たちの墓が開けられた。そのときに和宮の墓も開けられた。
すると、人々はそのお墓の中で一枚の肖像写真を発見した。
豊かな頬をした童顔を残した若い男性のものだった。
それは家茂の写真だろうと考えられている。
しっかり見る前に風化してしまったらしいけど。
ちょっといい話だね。
注記:
和宮の墓地改葬に立ち会った鈴木尚氏は著書で次のように書いている。
「棺内には朽ちた布片のほかは服飾品としては何もなく、紙袋入りの石灰が順序よく並んでいるだけであった。唯一の副葬品として遺体の両前腕部の間に、土にまみれた1枚のガラス板が発見されたが、当初、これを重要視するもののいないまま、研究分担者が研究室に持ち帰り、整理のため電灯の光にすかして見たところ、これが湿板写真で、それには長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男子の姿が見えた。ところが翌日、研究室で覗いてみたところ、写真の膜面が消え、ただのガラス板になってしまっていた。思えば誠に残念なことであった。」
(『骨は語る徳川将軍・大名家の人々』鈴木尚(東京大学出版会)p117)
また同書におもしろい記述を見つけた。和宮の顔の骨の形は夫家茂とそっくりだったのだ。以下、引用する。
「以上のように和宮の頭骨形質は、後期将軍である家慶、家茂と性差を除けばまったく同一の典型的な貴族形質を示していることになるが、和宮は両人と血縁関係が全くないだけに、この一致は甚だ興味がある」(同書P121)
さらに「現在日本人(女性)よりも江戸時代人(女性)よりも全体として将軍家慶に近似していることは明らかである」(同P121)
家慶は家茂の伯父さんでもある。ひょっとしたら、和宮は家茂と会ったとき、その顔を見て、兄弟のような、親近感を持ったのかもしれないね。16,8,8追記
注記2:
新たな話を聞いたので付け加えておく。脚気は当時「江戸病」と呼ばれていた。その背景には、白米を好む江戸っ子気質があり、転地療法が進められたそうだ。実際には、玄米やビタミンB1を含む食事をとることによって、病気の好転につながったのであろう。
ちなみに、徳川家の家慶、家定、家茂ともに死因は脚気であり、いずれも6月から7月(現太陽暦では7~8月)に死亡している。脚気は暑い時期に悪化する、むくみが出て心臓ショックがでて死亡することが多いようだ。
ちなみに、遺体は大坂から軍艦に乗せて運んだようだけど、夏の暑い時期だったので・・・・・。考えただけで気分が悪くなってきた。
遺体は芝の増上寺に土葬された。16.12.1追記

なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑!

なぜ将軍の子どもは短命だったのか?

 ちょっと余談をします。
ちなみに将軍たちには多くの子供が生まれますが、多く成人する前になくなっています。
また成人しても家定のように障害を持つ場合が多いのでした。
11代将軍家斉は53人の子供がいたことは有名です。
でも、徳川家では、家慶のあとの後継者に苦労していますね。
たくさん子どもがいるのだから、スペアは数えきれないほどいそうだ、という疑問、湧きませんか?
実は、早死がものすごく多いのです。
たしかに、前近代において、乳幼児期の死亡率は非常に高く、用があって、先祖の戸籍をみると、明治・大正期でも、大叔父・大叔母たちは、ものすごくたくさん死んでいました。
でも、将軍家は多過ぎないかと。
そこで、調べたところ、家斉の子供で成人したのは28人でした。しかし男子で20歳をこえて生存したのは4名、現在まで男系の子孫を引き継いでいるのは1家だけです。
次の家慶にいたってはもっと厳しく、27人の子供のうち20歳以上まで生き残ったのは家定だけで、家定も身体に障害をもち、虚弱体質でした。
なぜこんな状態となったのでしょうか。テレビを見ていて、面白い説を聞きました。当時の日本では肌の白さが好まれ、高貴な人々は顔というか上半身にべったりとおしろいを塗るようになっていたそうです。その厚さも後になるほど濃くなっていました。大奥の女性はなおのことでしょう。将軍の子らに母乳を与える乳母たちもすっぴんではなかったでしょう。当時のおしろいの原料、気になりませんか?
ウィキペディアでは
白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡する場合もあった。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。」
と書かれています。
つまりおしろいに含まれていた鉛が、母乳とともに子供の体内に入り、その結果、20歳にも満たない年齢で死亡した。なんとか生き延びても障害を発症したというのです。
真偽を判断する材料はありませんが、ありそうなことだと思えます。もし、家定の遺骨などを分析してみると調べてみると、この仮説が立証できるかもしれませんね。
以上、余談でした。
とおもって、ウィキペディアのリンクをつけようと確認していたら、
こんな「どストライク」のまとめを発見してしまいました。
http://matome.naver.jp/odai/2139725068194762801
そこにはこんな本の紹介も
徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明/新潮新書)
その一節
将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬった。抱かれた乳幼児は乳房をとおして鉛入りの白粉をなめる。乳児も白粉を顔や首にべったりぬられた。鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などがおこり、脳膜の刺激症状が出ることもある。後遺症として痙性麻痺や知的障害がのこるケースもあった。鉛中毒は将軍の子女のみならず当時の大名や公家など上流階級にはよくみられた疾病だった。(p.181-182)
(「こんな本を読みました。」さんのHPの孫引きです)
 やっぱり、そうだったんですね。
生徒がよく聞いてくれたネタです。
家茂のカッケなんかとつなぐと、つかえますよ。